発病?‐初期症状‐
はっきり「膝がおかしい」と判る様になったのは、高校3年になってからだけど、
軽い症状は中学の頃から。
右膝関節の端に、時々「ツン」と攣るような痛みが走る事がありました。
しかし、その痛みは「どこが?」と聞かれると自分でも「どこだ?」と悩んで
しまうほど、場所が確定できないし、「どんな時に?」と聞かれても、特定の行動で
出るものでもなかったし、「押さえて痛い所は?」と聞かれると、それも全くなし。
なので、徐々に痛む頻度が増えてきても、成長期の一過性のものか、中学ン時の
運動部の後遺症じゃないかと、大して気にはしていませんでした。
幼い頃から、何故かどうしてか、体のある部分が一時的に痛むという事が何度か
あったので、余計にそう思っちゃったんでしょね。
事実、外科にかかっても上記のような理由と、レントゲンに何も写らない事から
自分が思ってる通りの診断しかされなかったんですよ。
でも、高3の春。膝が痛む頻度が増えて、痛みも強くなってきたので、流石に
苦になってきて、近所の整形外科へ行きました。
しかし、それでもレントゲンに何も写らないし、外傷もないし、押さえても痛みは
ないしで、全くもって痛みの正体や原因は不明。
それもその筈、当時は、腫瘍はだいぶ大きくならないと、CTやMRIですら写し
出せなかったんだよね。
ただ、その時に初めて、右膝を曲げて触診すると、膝裏に硬いものが触れる事が判明。
でもね、今となったら判る事ですが、今かかってるのも当時かかってたのも同じ
「整形外科」でも、分野が違うんだよね。
腫瘍に強い整形外科医と、骨とか筋関係に強い整形外科医が居て、後者の先生では、
なかなか「硬いもの=腫瘍」とはならないみたいね。
なので、成長期の筋肉の異常じゃないか?って事で、暫くリハビリ(赤外線をあて、
マッサージを受ける)に通う事になりました。
一応、リハビリで楽になるような気もしたし、当時、まさか腫瘍じゃないだろうと
思っていたので、暫く通院しましたが、正体は腫瘍だから良くなる訳ないっちゅー(笑)。
3ヶ月近く通っても症状は改善されないので、その病院の先生に
「一度、膝に注射してみようか?」と言われ、アタシびっくり!
アタシ即日通院拒否!!(爆)
だって、注射大大大大嫌い!!ええ、冗談じゃないです!!!!
家族に叱られようと、注射はゴメンです(笑)。
そんな訳で、しばし注射の恐怖から、どこの病院にも通わず、痛む右膝をほったらかし
にしておりました。


病気・自覚から発覚(白状)
初夏を迎える頃には右膝の状態はますます悪化してました。
膝を伸ばしていると痛む事から、膝が軽い「く」の字から伸ばせなくなってました。
自分の中では、膝の後ろにある「固いもの」が痛みの原因だという事を徐々に自覚し
始めていました。
「もう一度、あの整形外科へ通え!」と言う家族。
しかし、もう次に病院行ったら膝に注射されるのは確実。
「病院は嫌!!お注射嫌!!」と通院拒否してました。
例え右足が自転車がこげなくなっても、歩き方がおかしくなってきても、絶対に病院へ
行こうとは思いませんでした(もとより病院嫌いだったしね^^;)。
しかし、夏休み直前、そんな頑なな娘さんに天罰!?と思える出来事が発生。
寝坊で遅刻しそうだったんで、普段は左足だけでこいでた自転車を、痛いのを我慢し
右足でもこいでみたら何とかこげたので、そのまま両足で暴走してましたら(笑)、
右脚が思いきりペダルを踏み外し、その反動で「く」の字の膝が一瞬伸びたかと思ったら
途端に右足全体に酷い痺れと痛みが走り、みるみるうちに腫れあがり、全く動かせなく
なってしまったのです。
痛いわ、痺れてるわ、動かないわ、尋常でなく腫れあがった右脚にパニックですよ。
でも、このままじゃ学校にも行けないし家にも帰れないので、何とか公衆電話のある所
までは行き、家族にSOS。
そのまま、昔から家族の行きつけだった市内のT外科病院へ行ったのですが、現に腫れ
てるのに、痛みも強いのに、検査の結果、やはり原因不明。
ただ、腫れと痛みを取らねばなんないって事で、夏休みに入ると同時に入院。
3週間ほど抗生剤の点滴とマッサージを受け、症状が落ち着いた所で退院。
その頃には、右膝裏の状態はますます悪化してて、膝もさらに曲がってしまってたので
退院後は、その曲がってしまった膝を伸ばす為のリハビリに通う事になりました。
しかし、その頃には右膝裏の「固いもの」が更に大きくなってて、これは「腫瘍」だって
自分で判っていた為、どれだけリハビリに通ったって、右膝が治る訳ないのはわかってた
んですがね。
それでも「もーしーかーしたらば、腫瘍じゃなくって「膿疱」で、リハビリ通えば何かの拍子で
それが潰れて楽になるかも♪」なんて、甘い期待が心の隅っこにあったので、通ってました(笑)。
T外科病院には、週一で名古屋大学医学部附属病院から整形外科のM先生がいらしてました。
退院後は、私も毎週M先生に診ていただいてたんですが、右膝裏の「しこり」の事は、ずっと
内緒にしてました。
前の病院で「注射」と言う単語を聞いちゃってるもんだから、明かしたらどんな痛い事が
待ってるか判りませんからね(^^;)。怖いったらもー。
そんな訳で、腫瘍がある事は家族にも友達にも病院にもナイショにしたままリハビリに
通い続け3ヶ月が過ぎました。
その間にどんどん膝は悪くなり。
その間もM先生は原因が判らず悩み続け(ゴメンナサイ)。
でも、その頃になったら、もーとにかく歩き辛いし、右足全体が痛い。どうにもこうにも痛い。
終いには、昼夜問わず痛みでもんどりうつようになったので、ここが年貢の納め時!!と
出っ腹をくくり、年の瀬も迫った12月末、M先生に白状しました。
除夜の鐘と共に、この痛み(腫瘍)ともオサラバしたかったのさ・・・。
実際にヤツとオサラバできたのは翌年の2月なんで、そこからまた2ヶ月近く痛くてもんどり
うってたけどね(バチじゃ)。
「白状」されたM先生は、滅茶苦茶慌てた様子で、なんていうんでしょうね、とにかく
「ああ、何てこと!!」って感じだったように記憶してます(悪いのは私なのに・・・)。
触診の結果、やはり腫瘍だろうという事で、針生検(腫れ物の細胞を針で取り、顕微鏡で詳しく
調べる検査)をすると言われたのですが、やっぱりねー、注射嫌いはねー、怖いのですよ。
覚悟してたとは言えね。18というのにの泣いてごねて、看護婦さんに叱られましたよ(当然)
生検の結果等これからの指示は、名大の整形の腫瘍専門外来で聞くよう指示を受け、
今度は私がビックリ仰天。
大学病院ですからね!!「大学」病院!!!
自分の中ではドラマの存在でしかなかった所ですよ、奥さん!!
私の人生、急展開ですよ!!
不謹慎にも、ちょっとウキウキしちゃったわ、私(笑)。
学校も休めるし(笑)。
でも、ブツが腫瘍ってずっと自覚してただけに、どんな腫瘍なのか、どのレベルなのか、その答え
が出るのはやはり怖かったです。
※M先生には本当に悪い事をしてしまったと、今でも反省しています。
 大学病院へ入院した後も、院内で顔を合わす度「何で早く気付いてあげられなかったんだろう。
 自分が早く気付いてたらここまで酷くならずに済んだのに。」って何度も私に謝るんです。
 悪いのは、腫瘍とわかってながらずっと隠してた私です。先生、本当にごめんなさい。


告知‐ていうか事実確認(笑)‐
翌週、生検の結果を聞くべく、国立名古屋大学医学部附属病院の整形外科へ。
そこで、初代主治医(T先生)と運命的な出会い(爆)をしたアタクシ。
ここで別の先生が主治医になってたら、今の私はないと言っても過言じゃないと思ってますから。
※当時、主治医は私が行くと「ピチピチのギャルが来たv」と喜んでおりました。女子高生でしたからねぇ。でも、自分には
「それはワシが「でぶ」だからか??」と思えてたりしてな(笑)。

初めての大きな病院。そんな大きな病院の先生にかかるって事で、ド緊張しまくりです。
それに加えて、ブツを「腫瘍」って自覚してるんで、その答えがどう出るか、おっかないったら。
最悪のケースばかり考えてましたから。
しかし結果は「低悪性の軟部腫瘍」との事。主治医曰く「チンピラレベル」。
つまり、しっかり今のうちに厚生させれば害はないけど、中途半端な厚生するとヤクザ化する
可能性もあるっちゅー(爆)。
しかし、ブツの正体判ってるのに、前回のでは細胞が綺麗に見えなかったからもう一回調べたい
ってな理由で再度針生検するハメに(涙)。
後日、さらに手術で生検したので、この時のはいらんかったと思うんですがね・・・。
ああ恨み節、恨み節(笑)。
おっかなかった診察と針生検を終え、内心半泣きで帰り支度をしていた時に、主治医から質問。
「(紹介先ではなく)別の病院にかかった事ある?」と。
もしや、『ちゃんと通ってたら良かったのに』って言われる?とドキドキしながらも、正直に
「通ってましたが、膝に注射するって言われたから、怖くなって通うのやめました。」と答えたら、
「(注射されなくて)良かった。刺激で悪くなりかねないなら。」と言われ、アタクシ有頂天!!
何せ前日まで、家族から「あの病院へ通っていれば・・・(このバカ娘)。」と散々言われ続けて
いましたからね。
なぁんだ、あたくしの選択は正しかったんじゃん?おーほほほほほv
家に帰ってから、家族にデカイ面してやったぞ♪♪♪
ってか、もうそういうモンダイじゃないだろ・・・。

翌年一月の初めにうけた手術での生検結果、腫瘍は「軟部腫瘍」で確定。
この3度に渡った生検。私がT外科病院から紹介された時、腫瘍班の先生の中に「癌腫の転移」を
疑う人がいたとかで、それをはっきりさせる為だったそうです。
主治医は「俺は始めっから滑膜肉腫だって思ってた。」そうですがね(笑)。
※ちなみに、先生はあの時すでに私に滑膜肉腫って名前を告げてるって言いましたが、私ゃ絶対
 聞いてないです。本当に、マジで、余命かけても(爆)。
2月に腫瘍を取り除く手術を受ける事も決まりました。
ついにはっきりした、右膝にあるブツの正体!
そして手術!
初めての事だらけだ!!すっげーーー。(笑)
卒業試験も受けなくて済みそうだぞ♪♪♪
こういう時に、何故か不安反面ワクワクしてしまう性格のワタシ。
ま、その後はこの↑性格に随分救われるからいいんだけどさ・・・(^^;)。


右膝‐腫瘍摘出、再植皮手術‐
手術の日程が決まってからは、その日まで名大や別の病院で術前の検査をこなす日々を送って
いました。
※血管造影も初めてやりましたが、泣けました、あれ…(T_T)。
診察や検査の間は学校へ通ってましたが、入院が卒業試験前になるので、特別に試験無しで
卒業できる事が決まってたし(単位がしっかりあったから)、気持ちはすっかり病気の方へいって
いた為、その頃の学校での記憶があまりありませんわ(^^;)。
平成2年2月11日、名大病院へ入院。2月13日、手術。
当日は手術の恐怖心よりも、今まで散々自分を苦しめてくれたブツが居なくなる事のが嬉しくて、
ニコニコしながら手術室に入りました(笑)。
術後の惨劇を知る由もなく(爆)。
右膝の腫瘍は割合大きく(MRIでも腫瘍がボンレスハムのように見えてたからね)、膝裏に走る動脈と
神経をも包み込んでしまっていた為、神経は切除し、血管は左足より静脈を移植。
皮膚を右膝下より移植し、周りの筋肉は(腫瘍細胞に犯されている危険性が高い為)大幅に切除。
(なので、右膝裏は殆ど骨と皮だけって感じです)
手術は16時間位かかったらしいです。
何でもT先生が「まだ10代の女の子だから傷を綺麗に」と頑張って下さったとの事でした。
先生、ありがとう。
術後は、自分の予想以上に、驚くほど体が自由に動かない。
16時間も麻酔かかってれば当然の事なんですが、意識はっきりしないし、目も開かないし、
顔は浮腫み放題だし、脚は10倍に腫れあがってるんじゃないかと思える位重いし、痛いし、
痺れてるし、指がぎゅーっと曲げられてるような錯覚もあるしで、とにかく「何!?私どう
なってしまったの!?!?」って感じで、内心かなりパニくってました。
しかも、何処に何をどう走らせてあるのか判らないけど全身管だらけ。
改造人間になったのかと思えるほどですって。ホント。
そんな状態で、さらに私をパニックに陥らせる事が。
手術翌日(当日になるのか^^;?)にあったガーゼ交換。
どうも、うまくついていなかった皮膚移植部分を麻酔無しで剥ぎ取ったらしい(爆)。
意識がはっきりしてない(自分で何が起きたのか認識できない)時にそんな事があったので
物凄い恐怖心がついてしまって、もうその後は何をされても「怖い」と感じるように。
看護婦さんや先生がくるだけで「怖い」。
触られたら泣いて怖がる程。
そんな状態から、なんとか意識がハッキリしてきて、少しずつ動けるようになってきたら
精神的にも落ち着いてきましたが。
(この間、手術中の出血で貧血が酷かったので輸血と、右足の傷からリンパ液が流出し放題
だったので、それを補う点滴を暫く受けてました。)
しかし、ようやく手術のショックや恐怖心が癒えてきたばかりの頃に、先生達の間では
もう1回手術をやる事が決まってたりして(苦笑)。
術後すぐに皮膚を剥がした所に、もう1回植皮をしなきゃいけなかったのですね。
ようやく動けるようになったのに、なんでまたあんな怖い目に!!嫌だ、絶対嫌!!
ってな訳で、アタクシ、荒れます、荒れます。暴風雨、ハリケーンです。
高校の卒業式にも出られなかったから、余計に面白くなくて荒れちゃったんだよね。
高校自体大嫌いだったし、高校生活はイジメにもあい地獄同様でしたが、大好きな先生や友達居たから
式には出たかったし、出る気でいたのに出れなかったから・・・。
(そんな中、術前に同室だったお姉さんが式の当日、卒業祝いの花束を持って私の居る個室まで
来てくれたんですが、お姉さんも手後すぐの状態で車椅子に乗って来てくれたのに、あの頃の私は
全く余裕がなくって、ちゃんとお礼が言えなかったんだよね…。それが今でもすごく心残りです。)
しかし、どれだけ荒れようがやんなきゃなんないものはやんなきゃなんない。
皮膚のない部分が、勝手に皮膚を作ってくれる筈もありません(爆)。
3月16日に再度植皮手術。
その時の手術時間は4時間位だったかな。
しかし、これまた術後が辛くて。
皮膚がちゃんと定着するまでの間(約2週間)、ベット上で絶対安静、腕と首以外は動かせたら
ダメと聞いて、それがまた嫌で嫌で。また荒れる荒れる。
あの頃は、本当に良く荒れてみんなを困らせる問題児でした…(--;)。
ずっと、何もかもが嫌で腹立たしくて先生にも看護婦さんにもあたりちらして。
家族の言葉も、友達の言葉も、全部全部腹立たしく感じてたなぁ・・・。

※その頃出た組織検の結果。やはり「低悪性の軟部腫瘍」でした。
 そんな訳で抗癌剤治療は見合せる事になりました。
 一部から、この時に抗癌剤やってればこんなに再発・転移しなかったんじゃないかと言われ
 ましたが、私はあの時に加療がなかった事を感謝しています。
 でなきゃ、専門学校だって就職だってどうなってたか解んないし、当時の私は加療を
 受けれるだけの強さ、なかったもの。


その後‐退院〜休学〜復学〜就職‐
二週間後、ようやく車椅子の許可。
約一ヶ月半ぶりの自由o(≧▽≦*)o!!
凄い凄ーーーい嬉しくって、慣れない車椅子に乗りながら早速売店行ったっけ。
あちこちに車椅子衝突させまくりで(爆)。
その後、数日で個室から大部屋に移動。
実は、あまりの荒れっぷりに「大部屋に移さないといかん!!」と、婦長さんが判断し、
普通より早い日程で大部屋へ移動させたらしいです(^^;)。
婦長さん正解(爆)。
大部屋入った当日から、同室の方々が何かと相手になって下さるものだから、即座に
あたしゃ元気一杯(^^;)。先生、看護婦さん、ゴメンナサイ。
その後はメキメキ元気(ゲンキン?)っぷりを発揮し、入院生活を謳歌しておりました(笑)。
車椅子から松葉杖歩行が何とか可能になった時点で退院。
入院から2ヶ月ほど経った、4月の半ばだったかな。
入院自体は約2ヶ月ちょっとという、今思えば非常に短い期間だったけれど、今でもあの
入院生活が一番長く感じられます。

退院後暫くは、右足が全く使えなかったので、半年以上松葉杖で生活を送り、その後、
右足が少し使えるようになった時点で三点杖を購入。
1年後には1点杖でも歩けるようになりました。
※そういえば、この時歩く為のリハビリは一切受けてないなぁ(笑)。
体力は、二度の手術で皆無になってしまった為、進学した専門学校は入学式に出ただけで
休学する事に。
内職で小遣いと体力を少しずつ稼ぐ日々を送り(笑)、1年後になんとか復学しました。
だから、入学式2回出てるんだよ(笑)。
学校の方は、足もまだ弱い状態でラッシュ時の電車は無理なので、通学時間を調整したり、
体調すぐれない日は午後からの講義は休んだり、家に帰ってから一度身体を休めて課題に
とりかかったりと、自分の体と足と都合つけながら通っていました。
※この間に、術跡に溜まってしまった「膿」を抜いたり、植皮部分をキレイにする為の手術で2度ほど入院。
病院の方は、退院して暫らくは毎月、術後1年からは2ヶ月に1回の割合で検診に
通っていました。
(途中、主治医の「名古屋記念病院」への転勤に伴い、私も名大から転院。)
術後3年目、私は某銀行へ就職。その頃から検診は3ヶ月に1回。
多忙な職場のおかげもあり、徐々に病気の事を考える事が減り、どちらかというと右脚の
障害との付き合い方に悩む事のが増え、1年目や2年目の手術記念日と比べて感慨も思う事も
無く迎えられた3年目。
さらに日々の多忙さで思いは薄れ、気がついたら迎えてた4年目。
とりあえず気をつけなきゃいけない5年目まであと1年。
特に気になる所もないし、きっと5年目もこんな感じで迎えれるだろうな。
主治医にも、何事も無く5年目が迎えられそうだね、そしたら診察も半年に1回でいいよ・と
言われ、どんどん病院が離れてく安心と共に、少し寂しさも感じていました。