指揮者人物伝
(2004年現在)
指揮者 プロフィール 代表的な録音
アシュケナージ,ヴラディーミル
(1937.7.6−     )
ソ連
ソビエト連邦時代のゴーリキに生まれる。6歳からピアノを習い始め、1945年にモスクワ中央音楽院に入学した。1955年にモスクワ音楽院大ホールで初めてのリサイタルを開き、同年、ワルシャワのショパン国際ピアノコンクールで第2位に入賞した。
1963年からロンドンに居を移し、後に妻の祖国アイスランドに渡り国籍を取得している。現代最高のピアニストとして活動を続けながら、1970年にはアイスランド交響楽団を振って指揮者としてデビューしている。1980年初頭にはアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮してラフマニノフの交響曲全集を完成させ、81年からはフィルハーモニア管弦楽団の主席客演指揮者となった。フィルハーモニア管弦楽団とはシベリウスの交響曲全集を完成させ、このオーケストラから桂冠指揮者の称号を得ている。
89年にはベルリン放送交響楽団の音楽監督に就任。98年にはチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の主席指揮者を務めた。
2000年からはNHK交響楽団とも共演を重ね、2004年9月よりこのオーケストラの音楽監督を務めている。

マーラー
交響曲第7番「夜の歌」
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
アーノンクール,ニコラウス
(1929.12.6−    )
オーストリア
ベルリンに生まれ、オーストリアのグラーツで育つ。ウィーン国立音楽アカデミーでチェロを学び、1952年にウィーン交響楽団に入団した。翌年にはオリジナル楽器による楽団「ウィーン・コンチェントゥス・ムジスク」を組織し、57年にウィーンでデビューを果たす。その後この楽団と数々の録音を行い、70年にはオリジナル楽器だけによるバッハの「マタイ受難曲」を史上初めて録音した。73年からはザルツブルグのモーツァルテウム音楽院で教鞭もとっている。
1980年代に入ると、オリジナル古楽器から離れ、モダン・オーケストラであるアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団と演奏を行なうようになった。
その中でレパートリーを増やし、ブルックナーやドヴォルザークといったロマン派の音楽まで手がけている。91年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にも登場し、近年では2001年のウィーン・ニューイヤー・コンサートで注目を浴びた。レコーディングは古楽器演奏からモダン楽器演奏まで様々ある。
2005年、日本から京都賞が贈られ、芸術部門でオリヴィエ・メシアンやジョン・ケージに次いで音楽家による6人目の受賞となった。

ドヴォルザーク
交響曲第9番「新世界より」
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
アバド,クラウディオ
(1933.6.26−    )
イタリア
ミラノで生まれた。ヴァイオリニストで指揮者の父を持ち、兄弟はピアニストと言う音楽一家である。ヴェルディ音楽院で作曲とピアノを学び、ウィーン音楽アカデミーでスワロフスキーに指揮を学んだ。1958年にはクーセヴィッツキー指揮者コンクールで、1963年にはミトロプーロス指揮者コンクールで優勝を果たしている。その直後、65年にはザルツブルグ音楽祭でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を振ってマーラーの交響曲第2番「復活」を演奏し、絶賛された。
また67年にはスカラ座にもデビューを果たし、翌年から常任指揮者を務めている。スカラ座では77年から79年まで音楽監督も務めた。その間にも、様々なオーケストラと共演、レコーディングを重ね、ロンドン交響楽団やシカゴ交響楽団とはマーラーやストラヴィンスキー、ラヴェルといった大管弦楽曲で高い評価を得ていった。
一方、ブラームスやベートーヴェン、ブルックナーといったドイツ・オーストリア系の音楽はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と録音するなど、成功と地位をことごとく手に入れてきた。
1990年から2002年までカラヤンの後継としてベルリン・フィルの芸術監督を務め、現在はルツェルン音楽祭で世界から集めた選りすぐりのメンバーとともに演奏活動を続けている。

シェーンベルク
ワルシャワの生き残り
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
アンセルメ,エルネスト
(1883.11.11−1969.2.20)
スイス
ジュネーブに生まれ、ローザンヌ大学で数学と物理を専攻しながら、作曲をボロッホから学んだ。その後パリのソルボンヌ大学に留学しながら音楽の勉強を続けた。1905年からは同大学で教授を務めたが、指揮者になる決心をし、09年からベルリンでワインガルトナーやニキシュに助言を求めた。デビューは翌年の1910年でモントルーで活躍しながらドビュッシーやラヴェル、ストラヴィンスキーなどと親交を結んだ。
1915年にはジュネーブ交響楽団の指揮者になり、ロシア・バレエ団の主席指揮者も担っていた。ストラヴィンスキーとの関係が深まり、アンセルメは「兵士の物語」「うぐいす」「プルチネルラ」などを初演している。また同世代のファリャの「三角帽子」やプロコフィエフの「道化師」、サティの「パラード」の初演も行い、名声を上げた。
一方、1918年にはジュネーブにスイス・ロマンド管弦楽団を設立し、数多くの演奏・録音を行なった。このオーケストラとは1966年に音楽監督を辞任するまで半世紀にも及ぶ関係が続いた。イギリスのデッカとの録音は、優秀な音質で評判を呼び、オーケストラの実力以上の評価で売り上げを伸ばしていった。1969年に85歳で亡くなった。
 
チャイコフスキー・ドリーヴ
バレエ音楽ハイライト
スイス・ロマンド管弦楽団
インバル,エリアフ
(1936.2.16−    )
イスラエル
イスラエル生まれで、1948年からエルサレム音楽院でベン=ハイムに作曲を師事している。56年にイスラエル青少年交響楽団を指揮したり陸軍の交響楽団などを指揮して成功を収め、こうした活躍が認められてレナード・バーンスタインによってイスラエル・アメリカ奨学金と言うものを授与されて、オランダなどで研鑽を積んだ。60年からはパリ音楽院に、61年からはイタリアのキジアーナ音楽アカデミーでチェリビダッケに師事している。
1965年にミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮、68年にはボローニャ市立歌劇場で「エレクトラ」を指揮している。69年にはザルツブルグ音楽祭に登場し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と「新世界」を演奏して世界的な注目を浴びた。以降地道な活動を続けたインバルだが、1974年にフランクフルト放送交響楽団の主席に迎えられると、徹底したオーケストラ教育を行い、この楽団を世界的な演奏水準に持ち上げた。89年にフランクフルトを離れると、客演指揮者として世界中を飛び回り、日本でも95年から東京都交響楽団の特別客演指揮者となった。
2001年からはベルリン交響楽団の主席指揮者となっている。
インバルはテルデックやデンオンに数多くの録音を残し、ブルックナーの交響曲全集やマーラーの交響曲全集などは日本でも好調な売れ行きを得ていた。

ラヴェル
管弦楽曲集
フランス国立管弦楽団
ヴァント,ギュンター
(1912.1.17−2002.2.14)
ドイツ
ドイツのエルパーフェルトに生まれ、1934年から指揮活動を始めた。デトモルト劇場、ケルン歌劇場などの指揮者を務め、45年からケルン市の音楽監督に就任した。メシアンやツィマーマンなどの現代音楽を多く手掛け、59年には旧西ドイツの指揮者としては初めて旧ソビエトでオーケストラを指揮した。82年に北ドイツ放送交響楽団の音楽監督に就任し、BBC交響楽団の主席客演指揮者も務めた。アメリカのデビューは89年、77歳でシカゴ交響楽団を振って行なった。
ヴァントは、活動範囲をドイツ圏内に置き、レパートリーを厳選して曲を手中に収めていく指揮者であった。多くをドイツ物で占めてはいるが、それでもストラヴィンスキーやチャイコフスキーなどの色彩的な楽曲もレコーディングしている。
若い頃はとかくマイナス面が多く指摘されたヴァントではあるが、80歳も越え、他に巨匠と呼べる指揮者がいなくなった途端に、業界やメディアはこぞってヴァントを担ぎ上げた。
1980年代後半からベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が彼とのブルックナー・チクルスを始め、この歴史的な演奏はすばらしい録音で記録されている。大器晩成を絵に書いたような人だが、それは商業ベースにおいての評価であり、ヴァントの人生において、それは重要なっことではなかったはずである。

ブルックナー
交響曲第4番「ロマンティック」
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴェルザー=メスト,フランツ
(1960.8.16−    )
オーストリア
ブルックナーゆかりのリンツに生まれたオーストリアの若手指揮者。医者の家系であるが、幼い頃からヴァイオリンとピアノを習い、リンツの音楽高校に進んでいる。そのとき地元の作曲家バルドゥイン・シュルツァーと出会い、生涯の師と尊敬するようになる。恩師の勧めもあってミュンヘン音楽大学に進み、79年にはカラヤン国際指揮者コンクールに応募、最年少でファイナリストのひとりとなった。ここでカラヤンの映像作品の制作にかかわり多くの経験を積んだ。
指揮者としてはリンツでジュネス・オーケストラ振ったことが始まりとされているが、85年にはモーツァルテウム管弦楽団を指揮してザルツブルグ音楽祭にも出演した。同年、スウェーデンのノールショッピング交響楽団の主席指揮者となり本格的な演奏活動を始めることになる。
86年には代役として指揮台に立ったロンドン・フィルとの演奏会が大成功を収めイギリスでも高い人気を得ることになった。そして92年、32歳の若さで同オケの音楽監督に就任した。
 
エッシェンバッハ,クリストフ
(1940.2.20−    )
ドイツ
生後間もなく両親を失い、エッシェンバッハ家の養子となった。8歳からピアノを学びハンブルクでエリーゼ・ハンゼンに師事した。その後ケルン音楽大学に進んだが、1959年からはハンブルク音楽大学で学び直している。62年にミュンヘン国際音楽コンクールで1位なしの2位に、65年のクララ・ハスキル・コンクールに優勝してピアニストとして国際的な活動を始める。
一方指揮者としては72年にデビューを果たし、78年にはオペラも経験している。79年にはラインラント・フォルツ州フィルの主席指揮者となり、81年にチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の常任とロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の主席客演指揮者となった。
ピアニストとしての名声と指揮者としての名声がバランスよく保たれているものの、双方飛びぬけた評価を得るにいたっていないのは残念である。

ブラームス/シェーンベルグ
ピアノ五重奏曲(管弦楽版)
ヒューストン交響楽団
オーマンディ,ユージン
(1899.11.18−1985.3.12)
ハンガリー
ブタペストに生まれ4歳からヴァイオリンを学び始めた。5歳で王立音楽院で学ぶことを許され、名手フバイに師事している。14歳で卒業したのち、ヨーロッパ各地で演奏活動を行なった。そうした実績が評価され17歳で母校の教授に任命されている。
アメリカには1921年、演奏旅行の目的で渡ったが実現せず、そのままニューヨークのキャピトル劇場に入団し、コンサートマスターとして活動した。また24年には指揮者としてもデビューを果たし31年、トスカニーニの代役としてフィラデルフィア管弦楽団を指揮して成功を収めた。
この年から36年までミネアポリス交響楽団の常任を務め名声を高めると、36年フィラデルフィア管弦楽団に招かれ、その後38年から80年までの40年以上音楽監督として君臨した。その間、オペラはメトロポリタン歌劇場で「こうもり」を指揮したのみだという。
フィラデルフィア管弦楽団とのレコーディングでは、後期ロマン派以降のダイナミックなオーケストラ作品に特徴が表れていて、マーラー、シベリウス、R.シュトラウスなどに評価を得ている。また協奏曲の伴奏に定評だった。

ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第3番
ピアノ:ウラディミール・ホロヴィッツ
ニューヨーク・フィルハーモニック
ガッティ,ダニエレ
(1961.11  −    )
イタリア
ヴェルディ音楽院でヴァイオリンとピアノ、それに作曲と指揮を学んだ。1982年から指揮活動を始め、フィレンツェ5月音楽祭、ミラノ・アンジェルクムなどで注目された。89年にはアメリカ交響楽団を指揮してカーネギー・ホールにもデビューしている。
その後1992年からシノーポリの後任としてローマのサンタチェチーリア国立アカデミー管弦楽団の主席指揮者に就任。93年にロンドン交響楽団を指揮してイギリスでのデビューも果たした。その後は各地の歌劇場で活躍し、メトロポリタン歌劇場やミラノ・スカラ座にもデビューしている。
96年からロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任し、同年、マーラーの「悲劇的」を指揮してニューヨーク・フィルハーモニックと共演している。
98年からボローニャ歌劇場の音楽監督に就任し、「トゥーランドット」や「ドン・ジョヴァンニ」、ヴェルディの「レクイエム」を指揮して評価を得ている。一方、ロイヤル・フィルとはヨーロッパとアメリカのツアーを成功させている。

マーラー
交響曲第5番
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
ガーディナー,ジョン・エリオット
(1943.4.20−    )
イギリス
イングランド南部のドーセットシャー州の生まれで、幼い頃から音楽を学び15歳で合唱指揮を始めた。1961年から65年までケンブリッジのキングス・カレッジでアラビア語の古典と中世のスペイン語を学びながら、64年にはモンテヴェルディ合唱団を創設して大学の礼拝堂でデビューした。
66年から68年までパリでナディア・ブーランジェに学んだほか、アンタル・ドラティからも教えを受けた。68年には史上最年少でロンドンのブロムスに出演した。
一方68年にはオリジナル楽器によるモンテヴェルディ管弦楽団を設立してヨーロッパ各地に演奏旅行を行い注目を集めた。77年には同管弦楽団をイギリス・バロック管弦楽団と改名し活動を活発化させた。さらに1990年にはオリジナル楽器によるロマン派の作品を演奏する目的でレヴォリュショネール・エ・ロマンティーク管弦楽団を設立してベルリオーズの「幻想交響曲」やベートーヴェンの交響曲などを演奏して高い評価を得た。
このほか、94年からはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも録音を重ねている。古典楽器でのスタイルを一般化させた貢献者として、アーノンクールと人気を分け合っているといってよいだろう。

ドヴォルザーク
スラヴ舞曲集
北ドイツ放送交響楽団
カラヤン,ヘルベルト・フォン
(1908.4.5−1989.7.16)
オーストリア
モーツァルトと同じザルツブルグに生まれた。4歳でピアノをはじめ神童と謳われながらモーツァルテウム音楽院でピアノ、作曲などを学び、師であったパウムガルトナーの勧めでウィーン音楽アカデミーでアレクサンダー・ヴンデラーに師事した。1929年にザルツブルグ・モーツァルテウム管弦楽団を指揮してデビューを果たし、その成功によってウルム市立劇場の指揮者となった。35年からアーヘンの音楽総監督となり、ここでの実績が認められて37年にウィーン国立歌劇場、38年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にも招かれるなど、飛躍的な成功を収めた。更に各国のオーケストラとの共演を重ねるが、第2次大戦により活動をを中断。この時代のナチスとの関係が後々までカラヤンの世界進出を阻むこととなる。
一方ヨーロッパでは絶大な評価を得て、戦後すぐにEMIとの積極的なレコーディングを行なった。48年以降は、EMIプロデューサー、ウォルター・レッグが創設したフィルハーモニア管弦楽団を振ってレコーディングやヨーロッパツアーを行なった。
一方、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との関係は1953年に再開し、55年にはフルトヴェングラーの後任としてアメリカ演奏旅行も実現している。そして56年に同オケの芸術監督・終身指揮者に就任、加えてウィーン国立歌劇場の総監督も兼務していた。56年から60年まではザルツブルグ音楽祭の芸術監督も務めるなど、まさに「帝王カラヤン」が君臨した時代である。
カラヤンは早くから映像への傾倒が始まり、自身を美しく見せる哲学を具現化した。それが現在の美的感覚から相当乖離したものであったとしても、その実験的試みは歴史的な価値を持っている。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と残した膨大な音の記録は、クラシック音楽の名曲カタログと呼べるほど多種多様なものを揃えることとなった。

ドヴォルザーク
交響曲第9番「新世界より」
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ギーレン,ミヒャエル
(1927.7.20−    )
ドイツ
ドレスデンに生まれ、演出家の父を持つ。40年に家族とともにアルゼンチンに移り、エルヴィン・ロイターにピアノを学ぶ。49年にはテアトロ・コロンでシェーンベルクのピアノ曲全曲演奏会を開くなどの意欲的な活動をしている。一方指揮者としては51年からウィーン国立歌劇場の練習指揮者として研鑽を積んだ。60年からはストックホルム王立歌劇場の主席指揮者となり、69年からはアンドレ・クリュイタンスの後任としてベルギー国立管弦楽団の主席指揮者となった。
その後フランクフルト歌劇場、南ドイツ交響楽団、BBC交響楽団、シンシナティ交響楽団の主席指揮者や音楽監督を務めている。
古典派から近現代の音楽まで幅広いレパートリーを持ち、鋭角的な切れ込みで作品の本質を浮き彫りにしながら、論理性を前面に出した演奏が評価されている。
 
クーセヴィッツキー,セルゲイ
(1874.7.26−1951.6.4)
ロシア
モスクワの近くの町トヴェリに生まれた歴史的指揮者の一人。父親からヴァイオリンとチェロの手ほどきを受け、9歳で地元のオーケストラで演奏し、11歳で指揮も身に着けていたという才能の持ち主であった。14歳でモスクワ・フィルの付属音楽院コントラバス科に入学し、1894年からはボリショイ劇場管弦楽団に入団している。コントラバス奏者としてリサイタルを開くなど、ソリストとして注目されていた。その後ベルリンに居を移すと、ニキシュやR.シュトラウス、ワインガルトナーたちの指揮に触れることになり、ここで指揮者になることを決心することになる。
ベルリン音楽アカデミーの生徒を集めてオーケストラを組織し、ここで指揮者を務めたりしたが、1908年に、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立ちラフマニノフをソリストにしたコンサートを成功させている。
ラフマニノフの名作「ヴォカリーズ」は、クーセヴィッツキーに贈られたコントラバスの為の曲である。
活動をアメリカに移したクーセヴィッツキーは、1924年にボストン交響楽団の音楽監督に就任し、ストラヴィンスキーやヒンデミット、コープランドなどに曲を委嘱している。またラヴェルに「展覧会の絵」を編曲させたのもクーセヴィッツキーである。バルトークの「管弦楽のための協奏曲」、ブリテンの「ピーター・グライムズ」、メシアンの「トゥランガリラ交響楽団」などはクーセヴィッツキー音楽財団からの委嘱作品である。
ボストンのタングルウッド音楽祭でバーンスタインを育てたのもクーセヴィッツキーであり、演奏者にとっても作曲家にとっても良きパトロンとしてアメリカの音楽界を支えていた。
 
クナッパーツブッシュ,ハンス
(1888.3.12−1965.10.25)
ドイツ
ドイツのエルバーフェルトの生まれ。大学はミュンヘンで哲学を学び、ワーグナーに関する論文を完成させている。卒業後は音楽家への道を歩み、1909年からはバイロイトでハンス・リヒターの知遇を得て練習に立ち会うことを許されている。そして翌10年にはミュールハイム歌劇場で指揮者デビューを果たしている。
その後エルバーフェルト歌劇場、ライプツィッヒ市立劇場、フリードリヒ劇場の指揮者などを経て、22年にブルーノ・ワルターの後任としてミュンヘン国立歌劇場の指揮者に就いた。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とは29年に共演し、35年にナチスとの確執が原因でミュンヘンからウィーンへ活動を移し国立歌劇場やウィーン・フィルの定期に出演した。戦後はワーグナーの伝道師としてバイロイトのみならず欧米各国に客演していた。
熱狂的なファンを持つクナであるが、レコーディングは実況録音が主に評価されている。一期一会の触発的な演奏を好んだクナの世界観は、メディアのパッケージに収めることなど到底出来ないのであろう。

ワーグナー
管弦楽曲集
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
クーベリック,ラファエル
(1914.6.29−1996.8.11)
チェコ
父親はチェコの大ヴァイオリニスト、ヤン・クーベリックである。プラハ音楽院に学び、卒業翌年にチェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮している。1936年からはターリヒと並んでこのオーケストラの指揮者となった。39年からはブルノ歌劇場の音楽監督を務め41年からチェコ・フィルの主席指揮者に就任した。しかし、48年の共産党クーデターに反発しオケを辞任し故郷を離れた。
50年からシカゴ交響楽団の音楽監督に迎えられたが3年で辞任してしまう。54年からはロンドンで活動し、61年、オイゲン・ヨッフムの後任としてバイエルン放送交響楽団の主席指揮者に就任した。このオーケストラとは79年まで良好な関係を続けた。
84年に一度引退を表明し、86年には事故により重傷を負ったが、90年に復活のコンサートを42年ぶりの故郷となるチェコで行なった。ここで演奏したスメタナの「わが祖国」はクーベリックの定番で、故郷を捨てた者の故郷を思う熱い思いが込められている。
日本にも91年にこの曲をチェコ・フィルと演奏し絶賛された。
 
クライバー,エーリヒ
(1890.8.5−1956.1.27)
オーストリア
ウィーンに生まれ、幼い頃にプラハに移住した。プラハ音楽院でピアノ、打楽器、指揮を学び、プラハ大学で哲学も学んだ。1911年、プラハ劇場で合唱指揮者として活動を始め、翌年、ダルムシュタット劇場の指揮者に採用された。着実に実績を上げたエーリヒは、23年にベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任した。25年にはベルクの歌劇「ヴォツェク」を初演している。
しかし、35年にナチスと衝突しドイツを去ることになると、38年にはブエノスアイレスのコロン劇場を始め、南米各地で活動した。戦後はヨーロッパに戻ってベルリン国立歌劇場にも復帰した。56年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とアメリカ演奏旅行を予定していたが、その直後に急死した。
 
クライバー,カルロス
(1930.7.3−2004.7.13)
ドイツ
当時父のエーリヒ・クライバーが音楽監督を務めていたベルリンで生まれた。父親が演奏旅行でブエノスアイレスのコロン劇場で客演中に第2次世界大戦が勃発し帰国できなくなり、カルロスは母とともに1940年にアルゼンチンに渡った。このとき、名前をカールからカルロスに変えている。
父親はカルロスの音楽への傾倒を認めず、チューリッヒのスイス連邦工科大学に進学させた。しかしカルロスは20歳ごろから指揮の個人レッスンを受けるようになり、ミュンヘンのゲルトナープラッツ劇場で練習指揮者として研鑽を積んだ。しかし父親からの反対を意識したカルロスは、1954年のポツダム州立劇場でのデビューは偽名を使って行なったといわれている。
その後も各地で経験を積み、父の死後1960年に「椿姫」を振って本格的にデビューした。
それからの活躍は劇的なものといってよく、1965年にシュトゥットガルトで「ばらの騎士」、66年に「ヴォツェック」を振って大成功を収め、67年にウィーン芸術週間でウィーン交響楽団を振って「大地の歌」を演奏、68年にもミュンヘンで「ばらの騎士」を振って大成功を収めた。その後はミュンヘンを中心としてスカラ座やウィーン国立歌劇場、ロイヤル・オペラなど世界中の主要なオーケストラと共演している。
この頃から少ないながらも録音を重ね、オペラや交響曲に名演を残した。
74年にはバイロイト音楽祭で「トリスタンとイゾルデ」を振ってデビューしている。
年齢とともに人気と実力を高めていったクライバーだが、プロモーターを泣かせる気まぐれな面も否定できず、90年代も後半になるとほとんどステージに上がることは無くなっていた。

シューベルト
交響曲第8番「未完成」
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
クラウス,クレメンス
(1893.3.31−1954.5.16)
オーストリア
ウィーンに生まれた名指揮者で、伯爵の称号を持つ父親と女優で歌手であったクレメンティーネを両親に持つ。ウィーン少年合唱団員として活躍した後、ウィーン音楽院に進んだ。1912年からはブルノで合唱指揮者として活躍した。アルトゥーロ・ニキシュから大きな影響を受け、22年からはウィーン国立歌劇場の指揮者になっている。また24年から29年にはフランクフルト・アム・マインで活躍、26年には始まって間もないザルツブルク音楽祭でR.シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」を指揮し、以後、シュトラウスの演奏に評価を高めていった。29年にウィーン国立歌劇場の総監督となり、35年にはベルリン国立歌劇場、37年にはミュンヘンのバイエルン・オペラの監督にも就任している。またアメリカでも活躍し、29年にはニューヨーク・フィルハーモニックやフィラデルフィア管弦楽団も指揮している。
一方、41年にはヨハン・シュトラウス親子の作品による新年の演奏会を始めていて、これが後のウィーン・ニューイヤー・コンサートに発展した。
戦後は一時指揮を禁じられていたが、47年にはアン・デア・ウィーン劇場に復帰してオペラを指揮し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との録音も進んでいた。

R.シュトラウス
管弦楽曲集
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
クリヴィヌ,エマニュエル
(1947.   −    )
フランス
父はロシア人、母はポーランド人でフランスの血は全く入っていないが、フランスを代表する中堅の指揮者として評価されている。
グルノーブルに生まれ16歳でパリ音楽院を主席で卒業し、76年にパリのフランス放送管弦楽団の主席指揮者に就任した。87年には国立リヨン管弦楽団の音楽監督に就任した。
元はヴァイオリニストとして活躍していて、シェリングヤメニューインなどに師事している。しかし1965年にカール・ベームに出会うと指揮者の道に転身した。
フランスでの活躍も進んだが、一方ではドイツ音楽の演奏で高い評価を得ていた。録音もモーツァルトのセレナードを始めブラームスの交響曲全集などを行なっている。

モーツァルト
序曲集
シンフォニア・ヴァルソヴィア
クリュイタンス,アンドレ
(1905.3.26−1967.6.3)
ベルギー
ベルギーのアントワープに生まれ、9歳で王立音楽院に学び、王立劇場の指揮者であった父からも学んでいる。卒業後は王立劇場の合唱指揮者となり、27年にビゼーの「真珠採り」で評価された。32年にはトゥールーズ歌劇場の音楽監督、35年にリヨン歌劇場の音楽監督に就任した。
43年からはパリ音楽院管弦楽団とフランス国立放送管弦楽団の指揮者となり、44年にはパリ・オペラ座にも登場して注目を集めた。49年にシャルル・ミュンシュの後任としてパリ音楽院管弦楽団の常任指揮者となると、62歳でなくなるまで、この地位にいた。
一方、バイロイト音楽祭にフランス人指揮者として初めて登場し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やニューヨーク・フィルハーモニック、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などとも共演している。
 
クレンペラー,オットー
(1885.5.14−1973.7.6)
ドイツ
16歳でフランクフルト高等音楽院に入学し、ベルリンのシュテルン音楽院ではピアノと作曲を学んだ。1906年に指揮者としてデビューし、翌年22歳のときに、マーラーの勧めでプラハのドイツ歌劇場の指揮者に就任した。それ以後、ハンブルク市立劇場、ケルン歌劇場を経て、27年にクロール・オペラの指揮者となり、ヒンデミットヤヤナーチェク、ストラヴィンスキーの新作を取り上げ評価を高めた。しかし、33年、ナチスのユダヤ人迫害にあってスイスに経由してアメリカに渡った。戦後はヨーロッパに戻り54年からはフィルハーモニア管弦楽団の常任として生涯を捧げた。
クレンペラーは、脳腫瘍、骨折、大火傷などの不幸を被ったが、体の衰えに対し音楽は深みを増した巨大なものへと変わって行った。また性格は相当悪く人の悪口も憚らなかったと言われている。

マーラー
交響曲第2番「復活」
フィルハーモニア管弦楽団
クーン,グスタフ
(1945.8.28−    )
オーストリア
オーストリア出身の中堅を代表する存在である。ザルツブルク近郊のトゥルナッハの生まれで、5歳からヴァイオリンを、7歳からピアノを始めた。モーツァルテウム音楽院に進んだ後、ウィーン音楽アカデミーに学んだ。カラヤンにも指導を受けながら、ウィーン大学で哲学や心理学を専攻し研鑽を重ねた。69年にザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団を指揮してデビューし、同じ年、フランス国立放送主催の指揮者コンクールで優勝した。
70年にはトルコのイスタンブール歌劇場で「フィデリオ」を指揮し、75年からはドイツのドルトムント市立歌劇場で活躍した。そして77年にウィーン歌劇場で「エレクトラ」を振ってデビューした。そして80年にグラインドボーン音楽祭にデビューした後、81年にコヴェントガーデン、84年にミラノ・スカラ座に登場している。
歌劇場での実績を重ねているクーンだが、ステージ・オーケストラの指揮者としても活躍を続けていて、数少ないオーストリア人指揮者として期待を集めている。
 
ゲルギエフ,ヴァレリー
(1953.5.2−    )
ロシア
コーカサス地方の北オセアニア共和国の首都ウラジカフスカで生まれた。この地でピアノと指揮を学んだ後、レニングラード音楽院でイリア・ムーシンに師事して、在学中に全ソビエト指揮者コンクールで優勝した。また1977年にはカラヤン指揮者コンクールで1位なしの2位となって名前が知られるようになった。78年にキーロフ・オペラの指揮者となり、82年からはアルメニア国立交響楽団の主席指揮者も兼務するようになった。
またロシアにとどまらずドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団やバーミンガム市立交響楽団、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団など、ヨーロッパ各地のオーケストラに客演している。87年にはロシア国立交響楽団とフランス公演を行ない成功を収め、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期に登場して評価を高めた。翌88年にはロンドン交響楽団を指揮してロンドンにもデビューを果たした。そして同年、ユーリ・テミルカーノフの後任として若干35歳でキーロフ・オペラ(マリインスキー劇場)の芸術監督に就任した。90年代にはロイヤル・オペラ・ハウスに客演を重ね、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮台にも立っている。97年にザルツブルグ音楽祭に登場すると、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との共演・録音を重ねるようになった。日本へも頻繁に訪れていて、間違いなく現在最も人気のある指揮者といえる。

チャイコフスキー
交響曲第5番
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ケルテス,イシュトヴァン
(1929.8.28−1973.4.16)
ハンガリー
ブタペストに生まれ、1948年にリスト音楽院に入学して指揮を学んだ。ここではヴァイオリンと作曲も学び、53年にブタペスト近郊のジェール歌劇場の指揮者となって活動を始める。55年にはブタペスト国立歌劇場の副指揮者に就任したが、ハンガリー動乱の勃発により亡命し、ローマの聖チェチーリア音楽院で研鑽を重ねた。
ケルテスは、ニキシュ、ライナー、フリッチャイ、オーマンディ、ショルティといったハンガリー輩出の指揮者の後継者でもあった。60年代初頭から、イギリスのデッカレーベルによって録音も活発に行なうようになり、64年にはヴォルフガング・サヴァリッシュの後任としてケルン市立歌劇場の総監督に招かれている。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との録音も高い評価を受けていて、ドヴォルザークの「新世界」に始まった録音は、シューベルトの交響曲全集、ブラームスの交響曲全集へと発展していく。若くして成功を得たケルテスだったが、73年4月、ティルアヴィヴで海水浴中に高波に呑まれて水死している。43歳であった。

ドヴォルザーク
交響曲第9番「新世界より」
ロンドン交響楽団
ケンペ,ルドルフ
(1910.6.14−1976.5.12)
ドイツ
ドレスデン郊外のニーダーボイリッツに生まれ、幼少の頃からピアノとヴァイオリンを学んだ。14歳になるとドレスデン国立管弦楽学校に入りオーボエを学んだ。卒業後はドルムント歌劇場の主席オーボエ奏者を務め、後にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の主席を1936年まで務めた。指揮者としての活動はこの頃から平行して行なわれ、42年にケムニッツの歌劇場の指揮者に、48年にはワイマール国立歌劇場、51年にはドレスデン国立歌劇場の音楽監督に就任した。52年からはミュンヘン国立歌劇場の音楽監督に就き、同時にバイロイト音楽祭やザルツブルグ音楽祭に登場した。1970年代に録音したR.シュトラウスの管弦楽曲集などは、ケンペのベスト盤であり、シュトラウスの正統派スタイルとしても高い評価を得ている。誰に対しても気さくに振舞ったといわれるケンペは、世界的に評価を得るまでに長い時間を要した。そのため、65歳という若さで死去したことは、多くのファンに惜しまれることになった。  
コシュラー,ズデニェク
(1928.3.25−1995.7.2)
チェコ
プラハに生まれたコシュラーは、幼い頃は父親から音楽の手ほどきを受け、プラハ音楽アカデミーで作曲、指揮、ピアノを学んだ。指揮者としては合唱団の練習指揮者として活動をはじめ、1948年にプラハ国立劇場の指揮者となった。正式なデビューは1951年で、プラハ交響楽団を指揮して行なった。56年にはブザンソン指揮者コンクールで、63年にはミトロプーロス・コンクールで優勝し、レナード・バーンスタインの助手なども務めた。66年からはベルリン・コーミッシュ・オーパーの音楽監督を務めて活躍した。同時に、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン国立歌劇場にも登場し、世界的な評価を高めて行った。
76年からはチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者となり、78年からは東京都交響楽団の主席指揮者となって度々日本を訪れた。その後、80年にプラハ国立歌劇場の音楽監督に就任し円熟期を迎えたが、67歳で急逝してしまう。
 
コンヴィチュニー,フランツ
(1901.8.14−1962.7.28)
ドイツ
チェコのモラヴィア地方に生まれた。ブルノのドイツ音楽協会学校に進学した後、1923年にドイツのライプツィヒ音楽院に進んだ。在学中からライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団でヴァイオリン奏者を務めた。卒業後はフィッツナー弦楽四重奏団でヴィオラを担当し、フォルクス音楽院でヴァイオリンを教えていた。27年にはシュトゥットガルト国立歌劇場の練習指揮者となり、その3年後に正指揮者となって本格的な指揮活動をスタートさせた。
1933年にフライブルク歌劇場音楽監督、38年にフレンクフルト、45年にハノーヴァーで音楽監督を務め、49年からライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者となり、62年に急逝するまで務めた。
その間にもドレスデン国立歌劇場、ベルリン国立歌劇場の音楽監督も兼務していた。日本には61年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と来日している。
ドイツの伝統を守る正統派の巨匠として、ベートーヴェン、ブルックナー、ワーグナー、ブラームスなどで高い評価を得ていた。
 
キリル,コンドラシン
(1914.3.6−1981.3.7)
ロシア
1932年にモスクワ音楽院に入学してボリス・ハイキンに師事し、在学中にネメロヴィッチ・ダンチェンコ劇場の副指揮者に採用された。36年の卒業と同時にレニングラードのマールイ劇場の指揮者に就任した。その後43年にボリショイ劇場の指揮者となったが、56年からは歌劇場を離れてコンサート指揮者となった。58年のチャイコフスキーコンクールで本選指揮者を務め、この年ピアノ部門で優勝したクライバーンの凱旋演奏のためにアメリカに招かれた。この辺りからコンドラシンの名が世界的に知られるようになり、60年にモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任した。モスクワ・フィルを世界的な演奏水準に育てたという功績を残し75年に退任した。この間、世界初となるショスタコーヴィッチの交響曲全集を録音し、世界中で高い評価を得た。
その後、79年に突如オランダに亡命し、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とレコーディングを行なった。日本でも80年にNHK交響楽団と共演し、プロコフィエフの交響曲第5番を指揮している。81年にバイエルン放送交響楽団の主席指揮者に就任する予定だたが、アムステルダムで心臓発作のために急逝した。

チャイコフスキー
ピアノ協奏曲(クライバーン)
RCA交響楽団
サヴァリッシュ,ヴィルフガング
(1923.8.26−    )
ドイツ
5歳からピアノを学び、1942年に従軍によって捕虜生活を送っている。後46年にミュンヘン音楽大学に進み研鑽を重ねた。47年にアウグスブルク市立劇場で「ヘンゼルとグレーテル」を指揮してデビューした。49年には、ジュネーヴ国際コンクールのデュオ部門に出場し、1位なしの2位となった。その後はピアノ伴奏者としての名声を高め、ハンス・ホッターやエリーザベト・シュヴァルツコップ、ディートリヒ・フィッシャー=デュースカウなどと共演している。
53年にアーヘンの音楽総監督となり、オペラとコンサートの両面で本格的な指揮活動を始める。54年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団などを指揮している。また55年のフルトヴェングラー追悼コンサートでベルリン・フィルを指揮した。57年にはバイロイト音楽祭に、最年少の34歳の若さで「トリスタンとイゾルデ」を振ってデビューした。この成功により、ドイツ期待の星として62年まで続けて登壇することとなった。
この間にも、58年に「プラハの春」音楽祭でチェコ・フィルハーモニー管弦楽団を、「ウィーン音楽週間」でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、1960年にはウィーン交響楽団の主席指揮者に就いている。
その後は1971年にバイエルン州立歌劇場の音楽監督に就任し、以後音楽総監督となって92年まで在任した。ワーグナーの作品を核にしてドイツ・オペラの発展に貢献した。また93年からはアメリカに渡り、リッカルド・ムーティの後任としてフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任している。
日本には1964年に初来日し、NHK交響楽団を指揮した。同オケでは67年に名誉指揮者となり、94年に桂冠名誉指揮者の称号が贈られている。

ブルックナー
交響曲第5番
バイエルン国立管弦楽団
サラステ,ユッカ=ペッカ
(1956.4.22−    )
フィンランド
ヘルシンキの生まれで、シベリウス音楽アカデミーでヴァイオリンと指揮を学んだ。79年に最優秀の成績で卒業すると、すぐにヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビューした。83年にはオッコ・カムとともにヘルシンキ・フィルのアメリカ演奏旅行の指揮者を務めた。
85年にはフィンランド放送交響楽団の首席客演指揮者となり、87年からは首席指揮者となっている。このほか、スコットランド室内管弦楽団の首席指揮者に迎えられたり、バーミンガム市立交響楽団やバイエルン放送交響楽団、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団などヨーロッパ各地で活躍した。
日本には87年に来日してNHK交響楽団や東京フィルハーモニー交響楽団を指揮したほか、89年と93年にはフィンランド放送交響楽団を率いて来日している。
2歳年下の同郷のサロネンと共に、フィンランドを代表する指揮者として評価されている。
 
サロネン,エサ=ペッカ
(1958.6.30−    )
フィンランド
生地ヘルシンキのシベリウス音楽院でホルンを学び、作曲と指揮も学んだ。77年に卒業してからはホルン奏者として活動を始めたが、79年にイタリアでカスティリオーニに作曲を師事し、作曲活動も開始した。指揮者としても同年にフィンランド放送交響楽団を指揮してデビューした。その後は北欧諸国で指揮活動を展開し、81年には23歳でエディンバラ音楽祭に招かれて評価を高めた。83年からはユッカ=ペッカ・サラステとともに室内管弦楽団「アヴェンティ」を創設、コンサートマスターはサカリ・オラモを擁していた。また同年、マイケル・ティルソン・トーマスの代役としてフィルハーモニア管弦楽団でマーラーの交響曲第3番を指揮し、センセーショナルな成功を収めた。その後、このオーケストラの首席指揮者となり、イギリスでの活動を本格化させた。85年にスウェーデン放送交響楽団の首席となり、92年にロスアンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督になった。ロス・フィルとは、その後良好な関係を継続させ、録音も多数残している。
日本には88年にNHK交響楽団と共演し、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」やマーラーの交響曲第5番などを指揮している。

シベリウス
クレルボ交響曲
ロスアンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団
ザンデリング,クルト
(1912.9.19−    )
ドイツ
   
シノーポリ,ジュゼッペ
(1946.11.2−2001.4.20)
イタリア
 
シャイー,リッカルド
(1953.2.20−    )
イタリア
 
シュタイン,ホルスト
(1928.5.2−    )
ドイツ
   
シュミット=イッセルシュテット,ハンス
(1900.5.5−1973.5.28)
ドイツ
   
ジュリーニ,カルロ・マリア
(1914.5.9−    )
イタリア
 
シューリヒト,カール
(1880.7.3−1967.1.7)
ドイツ
   
ジョルダン,アルミン
(1932.4.9−    )
スイス
   
ショルティ,ゲオルグ
(1912.10.21−1997.9.5)
ハンガリー
 
マーラー
交響曲第8番「千人」
シカゴ交響楽団
スィートナー,オトマール
(1922.5.16−    )
オーストリア
 
ドヴォルザーク
交響曲第6番
ドレスデン・シュターツカペレ
スヴェトラーノフ,エフゲニー
(1928.9.6−2002・5・3)
ロシア
 
チャイコフスキー
交響曲第2番「小ロシア」
ロシア国立管弦楽団
バレンボイム,ダニエル
(1942.11.15−    )
アルゼンチン
 
バーンスタイン,レナード
(1918.8.25−1990.10.14)
アメリカ
指揮者としてだけでなく、作曲家、ピアニストとしても一級の仕事をした20世紀を代表するアーティストである。アメリカのマサチューセッツ州に生まれ、ハーバード大学を卒業後、カーティス音楽院でフリッツ・ライナーに指揮を学んだ。その後、セルゲイ・クーセヴィッツキーやミトロプーロスの知遇を得て、指揮者としての歩み始めた。当初はピアニストを目指し、作曲家としても10代から作品を発表していたが、いずれも大きな成功を収めるにはいたらず、やがて指揮者として生きていく決心をする。1942年には交響曲第1番「エレミア」を発表しているが、指揮者としてのデビューは1943年にブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニックでセンセーショナルに飾った。45年から48年までニューヨーク・シティ交響楽団の音楽監督を務め、53年にスカラ座にデビューした。57年にはミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」がブロードウェイで歴史的なヒットを飛ばし、バーンスタインの名前が、ジャンルを越えて多くの人に知られることとなった。そして翌年1958年には待望のニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就任する。在任中のおよそ10年間でおびただしい数の演奏会とレコーディングを行い、青少年向けのテレビコンサートも人気を呼んだ。
また1970年代以降は活動をヨーロッパに移し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を中心に、バイエルン放送交響楽団やアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、それにイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団などと円熟の演奏を繰り広げた。特にマーラーにいたっては、自らをマーラーと重ね合わせ、その音楽の伝道師として世界中で評価されている。

チャイコフスキー
交響曲第4番
ニューヨーク・フィルハーモニック
ビエロフラーヴェク,イルジー
(1946.2.24−    )
チェコ
   
ビシュコフ,セミヨン
(1952.11.30−    )
ロシア
   
ビーチャム,トーマス
(1879.4.29−1961.3.8)
イギリス
 
フェドセーエフ,ヴラディーミル
(1932.8.5−    )
ロシア
 

参考文献:指揮者のすべて   音楽之友社    ほか