二本木町 分町の歴史        (注)本表は安城市教育委員会発行「安城の地名」による。


町名

よみかた

歴 史

地名の変遷(数字は年)

二本木町

にほんぎちょう

野田山の一部。この地(双樹寺の北側)に、長い松の木が2本ありこの松にちなんで二本木と呼ぶようになったという。

二本木という字は江戸時代からあり、野田村に属していた。明治になってもこれがひきつがれた。

明治初年、重原藩士が13戸帰農し、開墾を始める。1880年(明治135月、明治用水中井筋が開削されるにおよんで、各地より長根・二本木・坪田・切替へ、約780戸入植し、開墾をすすめる。1889年(明治22)野田村に属し、1906年(明治39)には碧海郡依佐美村大字野田字二本木になる。1949年(昭和24)には二本木自治会を発足させ、1951年(昭和2621日に大字二本木となった。

1955年(昭和3041日、安城市へ編入合併し、1956年(昭和3141日、二本木町と町名変更する。


・参河国碧海郡井網郷(平安時代)

・参河国碧海郡重原荘(平安・鎌倉・室町時代)

<藩主の変遷>

刈谷藩  ~1702

幕領17021710

刈谷藩17101792

福島藩17921869

重原藩18691871

・重原県1871(明治48月:廃藩置県

・額田県187111月)

・愛知県187211月)

・愛知県碧海郡野田村(1889

・愛知県碧海郡依佐美村大字野田字二本木(1906

・愛知県碧海郡依佐美村大字二本木(1951

・愛知県安城市大字二本木(1955

・愛知県安城市二本木町(1956

美園町

みそのちょう

1966年(昭和41)東刈谷駅が開設され1970年(昭和451月より、駅より東にかけて二本木土地区画整理事業が行われた。1975年(昭和501225日に完了したため、施行区域内のうち東海道本線の北を美園町と名づけた。

緑町

みどりちょう

1975年(昭和501225日、二本木土地区画整理事業完了後、東海道本線の南を緑町と名づけた。

二本木新町

にほんぎしんまち

1985年(昭和60122日、二本木北部土地区画整理事業の完了にともない二本木町のうち、東海道新幹線より北を二本木新町と名づける。

三河安城本町

みかわあんじょうほんまち

2006年(平成18106日、新幹線駅周辺土地区画整理事業により二本木町から分町され三河安城本町と名づけた。

三河安城町

みかわあんじょうちょう

2006年(平成18106日、新幹線駅周辺土地区画整理事業により二本木新町から分町され、三河安城町と名づけた。

 

二本木の語源 由来


 

緑町2丁目2−7
雙樹寺(そうじゅじ)境内「仏足跡碑」裏面
(左図)

「・・・・当庵の北、往時長松二樹有り、故に
入 此地を称して二本木と云う・・・・・」
 明治36年冬

これが二本木の語源といわれている。
雙樹寺全景 
本堂内部
 
雙樹寺仏足碑
 

二本木町の字  地名

     (注)本表は安城市教育委員会発行「安城の地名」他による。字の変遷詳細は原書参照。字の所属は多く含む町に表した。   現在の地図と対比

地名の由来・意味

二本木町

荒田(あらた)

開墾地、新しい田の意。荒れた土地も年月を経れば肥えてくるとされ、新しく開墾した田の地域ということでこの名がつけられた。

伊場湫(いばくて)

長根より一段と下がった低湿地で葦や茅・竹等が多く自生していたと言われることから伊場(矢場)で用いる弓矢の材料が多く取れた場所ということから名づけられた。

クテとは水気の多いヨシなどの生える湿地帯のことで台地上に多い。この地方では沖積低地には少なく、洪積台地上の凹地を言うことが多い。

切替(きりかえ)

野田山の一部。キリは開墾地のことを言い、切り変わった土地の意。切替畑の略で、雑木や柴草を焼き払った跡へ麦や粟・稗等の雑穀の種を蒔き、34年で地目が消耗すると別の場所に切替えて、同じ農法を繰り返していた所ということでこの名がつけられた。

1881年(明治145月、明治用水中井筋が開削されたことにより、この地に1882年(明治1512月、愛知郡より4戸移住。一時、四軒屋と呼ぶ。その後、1902年(明治352月までに15戸に増え、開墾を進めた。

二本木(にほんぎ)

野田山の一部。この地(双樹寺の北側)に、長い杉の木が2本ありこの杉にちなんで二本木と呼ぶようになったという。

南舞々山(みなみまいまいやま)

この山に、野鳥(ごいさぎ、からすなど)がたくさん寄ってきて住みついていたので、鳥の飛ぶようすをみて舞々山と名づけたという。

東切替(ひがしきりかえ)

「切替」が後に、東側を東切替、西側を西切替の二つに分けられた。

西切替(にしきりかえ)

「切替」が後に、東側を東切替、西側を西切替の二つに分けられた。

美園町

坪田(つぼた)

この名は条里制に関連したものの場合があるが、現地では不明。坪は庭、淵、穴、くぼみをいうこともある。周囲が囲まれた一段と低い所の「つぼんだ地形」の所に小さく集まった田という意味でよばれた。区画整理前は淵・くぼみのある地形であった。

南坪田(みなみつぼた)

坪田の南に位置することからこの名となった。

薮田(やぶた)

竹や雑木などが自生していた所。

東菰神(ひがしこもがみ)

吹戸川沿いに位置し、川岸にはイネ科の多年草の真菰が多く自生していたことに由来している。当時は、これを刈り取って、葉は織って「むしろ」として用い、果実と若菜は食用としたので、この地を神としてあがめ菰神と名付けたという。菰神の東でありこの名となった。

時ケ堀(ときがほり)

この地には堀のような池があり、おおくの野鳥が来て鳴いていたことからこの名が付いたと言われている。幕末には、ここに福島藩の武家屋敷があった。

吹戸(ふきど)

この地の開析谷を流れる川を吹戸川という。

緑町

中根(なかね)

「根」は、もともと山や台地のふもとをいう語だが、この地方では細長い、あるいは半島状の大地をいうばあいがある。

姥湫(うばくて)

この地域一帯は一段下がっていて、一面湿地帯であったと言われることから、名付けられた。(姥雪:すっかり雪におおわれたの意味)

鉄砲湫(てっぽうくて)

クテとは水気の多いヨシなどの生える湿地帯のことで、この地方で洪積台地上の凹地を言うことが多い。大雨の鉄砲水から由来すると考えられる。

二本木新町

菅口(すがくち)

菅(すが):草の名。笠(かさ)・蓑(みの)、また、縄などの材料とする。口:出入り口。 茅の群生地(菰神)の入口に当たることから、この名がついた。

落合(おちあい)

一般に川の合流点、二つの川が落ちあう所をいう。吹戸川と篠目から流れてきているみぞ川の合流点に当り、名づけられた。

養下(ようげ)

吹戸川と広湫にはさまれた一帯で、農業用の肥料に適した養分を含んだ下草が多く取れたので、この名がつけられた。

井杭山(いぐいやま)

一帯は小松が茂った小丘つづきの台地上の土地であり水の不便なところであった。そのため井戸が多く掘られた。吹戸川とみぞ川の合流点をせき止めて水をためるために杭を多く打ちこんだ。井戸や、杭が多い所だという意味でつけられた地名であるといわれている。

明専(みょうせん)

細長い高台で、「あげち」と呼んでいた。明専寺の名が地名として残ったともいわれる。

廣湫(ひろくて)

養下と明専に挟まれたこの地帯は、水草等多く生えた低湿地帯であったため、この地域一帯を広湫と名づけた。近くに吾妻池があった。

三河安城本町

二ツ池(ふたついけ)

この地区は、東長根の東南、神楽山の西に接しているところで、開墾前には二つの池があって、田畑に灌漑した。

長根(ながね)

根は土地の高所を指していう言葉で、土手や堤が長く続いているという意味から長根とつけられた。

三河安城町

神楽山(かぐらやま)

山林を開墾した際、神社に酒を供え、神楽を奏した場所からつけられた地名。1860年代岡崎藩領上野諸郷の村々(現豊田市、旧碧海郡上郷村)の伊与田与八郎らが排水路開削を計画して、幕府役人を案内して検分したとき、これに反対する刈谷、福島両藩の村民と衝突したのがこの地点。世に「神楽山騒動」という。

東長根(ひがしながね)

昔、山林を開墾したときに東に高い丘があった。野田の方角から見て、東の方向に長く続いた土手堤であったので、この名がついた。一帯には草木が多く繁っていた。

 



                                                  上に示す絵図は知立市西中町の善敬寺に伝わるもので、「板倉家御歴代田々記附絵図より模写」とある。二本木・中根山が旧二本木町にあたる。