そろばん

                                   editor 沙耶香

第1話 生い立ち

 上州の空っ風が吹き荒れていた明治二十六年、師走の八日に私は生まれた。
干支は巳である。巳年生まれはお金に縁があるという。この話はたしかのようだ。
ただ、私の場合、皮肉な事にお金はお金でも借金を背負って人生を出発する事になった。
まさに赤字の赤子であった。

 私が産声をあげた時、私の家は水呑み百姓同然のところまで落ちぶれていたのである。
つかった産湯はとても冷たかったに違いない。しかし、もともとの百姓ではなかった。

家系をたどってみると先祖はれっきとした武士であった。七日市にあって上州を治める
加賀前田家の分家に代々仕えていたが、何代目かの時、武士を嫌って百姓になったのだという。
その後、百姓とはいえ苗字・帯刀を許されていたところからみて、まずまちがいはあるまい。
暮し向きも相当なものだったようだ。

 十一代目にあたる祖父、兵衛は横浜の生糸商原合名とも取り引きをもち、生糸相場もやっていた。
ところが、明治十七年に埼玉県秩父郡で発生した例の秩父事件が群馬にも飛び火し、
農民の襲撃を受けた。五つほどあった土蔵はすっかりカラになり、門も焼かれてしまったという。

私の記憶ではたしか土蔵が二つ残っていた。この事件をキッカケに家運が傾いたのである。
その上、兵衛の長男武平を始め、二男、三男、つまり私の伯父達は血筋を受けて才気にあふれ、
生糸相場をはったり、あれこれ事業に手を出しては失敗した。
五人兄弟の中で、四番目の宇太郎が家を継ぐことになったのは一番おとなしかったからである。
それが、山崎家の十二代目、私の父であった。

 田地、田畑は借金の抵当に入り、利息に追われることになった。当時は低利で融資してくれる
ような金融機関もなく、借金の相手は御多聞に洩れず高利貸であったからである。
その人は群馬一の高利貸といわれた森平友次であった。

今もなお覚えているのは、崩れかけた土蔵が二つ、そして祖父、兵衛の「考え五両、働き一両。
種ニよ、しっかりやってくれ。お前以外に、この家をたて直すものはいないんだよ」という繰り言だった。
はっきりと意味はつかめないながら、幼な心にも何か通ずるところがあったにちがいない。


第2話 貧乏暮らし

 考えてみると、私の相場好きは、まぎれも無く、祖父からうけついだものである。
隔世遺伝とも言えるだろう。といっても、百姓のままでいたら一生相場の味を知ることなく
終わってしまったかもしれない。
だが、運命は私を百姓から相場の世界へと導いてくれたのである。
きっかけは借金と農村不況であった。

 私の生まれ故郷は群馬県北甘楽郡岩平村大字坂口(現在の多野郡吉井町)である。
今をときめく福田赳夫、中曽根康弘両先生の選挙区でもある。
坂口という名が示すとおり、ちょうど山の中腹のようなところで、
どこの家の入口も坂を上がるか、下がるといった場所だ。

 昔から私の家は本家、本家といわれていたが、一方の坂をのぼりつめた奥にあった。
百姓といっても、田んぼは少なく、畠と半々ぐらいで,水稲,陸稲、それに芋や大根などの
野菜の栽培が主で、あとは山仕事が百姓の仕事だった。そして収入の大半は養蚕であった。
同じ農村でも決して豊かなところとは言えなかった。
そうした中で,私はただただ働くほかはなかったのである。たまたま身体が大きかった
こともあって、野良仕事はそう辛くも感じなかったが、なにせ十か十一かの遊び盛りの時である。
逃げ出したくなることも再三あった。

 十二、三の頃は大人に混じって道普請にも出た。しかし、働けど、働けどである。
道普請に行ったとて、大の男で一日四十銭という相場の頃だから、
借金を背負ってどうにもなるものではない。
いつしか、何とかしなくては、ガンバラなくっちゃとの強い気持ちが子供の胸に
大きく育ちはじめていった。

 そして高等小学校を卒業するや、東京へ出る事になったのである。私の学校時代は
小学校から高等小学校までの八年間しかない。通ったのは岩平村小学校、
思い出と言えば、火事になって一時,お寺で授業を受けたことぐらいである。
ケンカ好きで成績は決してよい方ではなかった。ろくろく出席する事も出来なかったし、
無理もない。たまたま,卒業した年、明治四十年は前年が米が不作であったのにくわえ、
日露戦争後の恐慌にぶつかり、ひどい状態だった。ランプのホヤ掃除をしながら、
灯油も十分に買えぬ生活にくやし涙がこぼれた。


第3話 上京 

明治四十一年十一月二十八日、私は郷里をはなれ東京へ出た。この年,
日露戦争後戦勝に酔い,人心が遊惰に流れるのをいましめる「戊辰の詔書」が下された。
満十五歳にあと十日という時である。フトコロには八十六銭しかなかった。
この内から汽車賃を五十銭ほど払ったので,残りは文なし同様である。
いささか無謀のようだが,実はあてがあった。

 私の父の従兄にあたる人が深川で回米問屋を営んでいたからで、
その山崎繁次郎さんを頼ることになった。
当時の回米問屋といえば大したものだったが、山崎繁次郎さんはわずか十二歳の時に上京、
回米問屋渋沢商店に入り、のち倉庫業もやってから,独立して回米問屋を開いた人である。

明治三十年に渋沢家が倉庫部を設立する際に渋沢家,渋沢商店とともに
自分の倉庫を現物出資している。渋沢倉庫の母体である。
責任者は渋沢栄一さんの息子篤二さんだった。そんなわけで渋沢家とは近い関係にあり,
また,龍門社を通じ浅野総一郎、大倉喜八郎、清水釘吉などといった財界の巨人達に
接する機会もあったようだ。大変な成功者である。

 時事新報で出した第一回の全国金満家調べによると山繁さんは、
明治末期に五十万円という財産家であった。
当時,島津,細川,相良,鍋島といった元大名からの小作米の売りさばきを引きうけたり、
山形県酒田の大地主、本間の米も扱っていたのだから羽振りの良さは言うまでもない。
その大店、山繁商店の小僧に住みこんだのである。これが実社会に出た第一歩だった。
右も左も良く分からない小僧の初日,義太夫の催しがあった。

主人はご恩返しの意味もあって、義太夫の好きな渋沢篤二さんを招いたものだった。
渋沢篤二さんは大変な粋人であり、また、写真など新しいものにこっていた。そこで、
たまたまお寿司が振る舞われた。大変な御馳走である。しかし、にぎりが食べられなかった。
私の育った群馬は海のない県で、めったになまの魚、それもまぐろの刺身など
口に入るわけもなく,いくらすすめられても無理だった。
魚といえば、自分で獲ったうなぎか、どじょうである。
私のうなぎ好きは知っている人も多いが、実は年季が入ったものである。
それはさておき、その晩からいつでものり巻ばかり食べたおかげで「のり巻小僧」のあだ名が
ついてしまった。いくらなんでも馬鹿にされた気がして、ほんとうにくやしかった。


第4話 小僧の才覚

 翌日からは無我夢中であった。生活も,仕事もすべて新しく、一から十まで先輩に
教えられながらのことである。掃除から,使い走り、そして俵かつぎに倉庫番という、
言ってみれば深川の小僧としてお定まりのコースを歩むことになった。
初任給は八十銭であった。主人の遠い親戚とはいいながら、とくに周囲の人が特別扱いに
してくれるわけもない。また、新米はイジメられるものと相場がきまっていた。

 しかし、毎日の生活は結構楽しかった。世間知らずの田舎者だ。とにかく、朝昼晩三食とも、
真白なお米の御飯が腹一杯食べられるだけでも嬉しかった。
ほかの小僧さん達はおかずがどうのこうのといちいち文句をつけていたが、
私にとっては問題ではなかった。それに、着るものはお仕着せで何の心配もいらない。
あとは、一日も早く、仕事を覚えなくてはと、身を粉にして働いた。普通にやっていたのでは、
とうてい借金に苦しむわが家を立て直すわけにはいかなかったからだった。

 幸いに、私は身体が大きいし、人一倍健康に恵まれていた。力仕事ならお手のものである。
深川から伝馬船で仙台掘とか、越前掘に入ってくる米を陸揚げして、倉庫に入れる俵かつぎ、
そして荷車引きなどに精を出した。おかげで、努力を認められ、二年目の年の暮れには、
お仕着せを二着分もらうことが出来た。ほんとうに嬉しかった。
お仕着せというのはお盆の薮入りの時には木綿の一重の着物に帯、足袋、ふんどし、
それにめくらじまの前垂れ、暮れにはこの他にメリヤスのシャツ、もも引がついていた。
着るものすべて一揃いであった。

 倉庫番をしていると、そこらじゅうに米がこぼれている。運ぶ途中、出来の悪い俵から
こぼれ落ちるのである。少しばかりではない。敷物をひいたようにである。
あまりにももったいないと思った。そこで、主人の許しをもらい、ニワトリを飼うことにした。
二十羽や三十羽飼った所でどうせ捨てられる米の廃物利用だから誰も文句を言うものもない。
その上、卵も生んでくれたので一石二鳥だった。

ついでに、ねずみも獲った。毎晩倉の中にネズミ獲りを仕掛けておくと面白いようにとれた。
俵はやぶられるし、大事な米を食い荒らされるのではかなわない。
立派に保管するのが倉庫番の役目である以上、当然のことであった。
たまたま、明治二十八、九年にペストが大流行して以来、交番にネズミを持っていくと
一匹に付き二銭で買い上げてくれた。卵一個一銭、ネズミ一匹二銭、この代金を貯金した。

もっとも、金もうけのためにはじめたわけではなく、まして、相場を張るもとでを
作ろうというのでやったことでもない。第一、そんな大金が出来るわけがないし、
たとえ相場をやろうとしても、注文をうけてくれる店もなかった。
ただ、もったいないの気持ちからやったことにすぎない。


第5話 終生の師に会う

 俵かつぎは俵かつぎ、倉庫番は倉庫番として全力を尽くした。翌年には「サシ米」といって、
見本の米をお得意先に持って回る仕事もさせてもらえるようになった。
勤めはじめてから一年ほどたってからのことである。
当時は、今のように社員教育などしてくれはしない。一つ、一つ自分の体験を通じて
学びとってゆく他はなかった。それは山繁商店にかぎらず世間一般にごく普通の事だった。
しかし、一所懸命やればそれだけ進歩も早かった。

 たしか、二年目をすぎて、満十六歳の秋だった。主人のお供をして、米の主産地、東北の地主さん回りをした。
いわば、工場見学のようなものであった。仙台から青森、弘前、秋田を経て、酒田、鶴岡を回った。
その頃は、鉄道がなかったので、主人は人力車、私は借りた自転車を使っての旅行である。
酒田から鶴岡にかけては、約八里、三十二キロの道のり、自転車といっても空気の入った
タイヤがついているわけでなく、乗っているうちに、ズボンの尻が抜けた。

 ここは庄内平野、例の庄内米で有名な米の産地だ。
主人は私に、「ただ、ぼんやり通りすぎてはいけない。よく、田んぼをみなさい」と教えてくれた。
一目で作柄の出来、不出来を見きわめられるようになれというのである。
まず、脚で歩いて、自分の目で確かめる。これがその後あらゆる相場を張ってみて、
いかに大切なことであるかをつくづく知ったのであった。

 私がよく夏休みで田舎から帰ってきた社員をつかまえては「米の出来ぐあいはどうだったかね」
と聞いたのは、こんなところに根ざしているのである。
この頃になると、次第に、深川でも出入りする店や、小僧仲間の中で何人か知り合いも出来た。
そして、終生忘れる事の出来ない人に巡り合ったのである。一人は筒井商店の新倉多次郎さん、
もう一人は梅原商店の加藤兵八さん(後の梅原米穀社長)であった。
新倉さんは白米問屋といって玄米を仕入れ、これを精白して小売店に卸す仕事をやっていたが、
精白技術を改良し、成功した人であった。産地によってちがう米の品質を研究、
それぞれに合った精白を施して、上等精米を作り出したのである。実に研究熱心で、
とくに米の品質について造詣が深かった。わずか二十二歳の時に独立した立志伝中の人である。

 私が米の勉強をしたがって、ちょいちょい店を訪ねたせいもあったろう。
新倉さんのところでは「種どん、種どん」といって可愛がってくれた。
この新倉さんは得意の精白技術により、それまで原料米にしかならなかった朝鮮米を
食用にする新しい道を拓いた人でもあった。私が後年、朝鮮米の取り扱いで成功したのも、
ここに芽生えていた。その上に、米の相場では見通しのたて方から、
「サヤトリ」といった専門的なことまでの手ほどきもうけた。新倉さんは、私にとり、
回米問屋の店員として、また、米相場の道で修行するうえでの恩師だったのである。

加藤兵八さんは回米問屋でも当時、一、二を争う梅原商店の番頭さんだった。
どういうわけか、私のことを心底から気に入ってくれた。なれそめはたしか取引所の中であった。
親しくなるにつれて、色々と面倒をみてくれた。私がはじめて相場に手を出した時に、
注文をうけてくれたのも加藤さんだった。大体、小僧の分際で、自分の店で米相場を張るなど
許されもしなかった。といって、証拠金が十分にあるわけでもなし、よその店で
やるわけにもいかない。当時は証拠金なしで相場を張ることも出来たがそれは大手の相場師、
地方の米問屋さんに限られていた。私にはそれだけの信用もまだなかったのである。
だが、加藤さんは黙って私の注文をうけてくれた。

 かくて、六十年にも及ぶ加藤さんとの商売を通じた、また個人的な交際がはじまったのであった。
まさに男と男、裸のつきあいである。ある時は、ともに死のうと話し合ったこともあった。
それは、独立した後の話に出てくる。


第6話 相場に踏み出す

 このようにして相場の道に踏み出したのだが、結果の方は大したことはなかった。ガバッと
もうけることもあったが、とられることもしょっちゅうで、よくて差し引きトントンというところであった。
大体、主人の眼にかくれて、コソコソやっていたせいかもしれない。と同時に、
相場師や大もうけした人の話、またあっという間に大損して
一家離散の悲劇など聞くにつれ、相場のおそろしさを感じた。

 その中には、明治時代、米相場での大成金といわれた神吉源之助の話があった。
晩年、病の床にあって、「今日ではもう百枚の米も張れぬようになってしまった。
実は俺が思惑でもうけた金は九十七万円、そこでとめておくべきところ、欲が出た。
あと三万円もうけて百万円にしたら一切手を引こうと思った。その三万円をもうけるために、
目先、売出動したのが運のわかれ目、思わず深入りしてしまった」と嘆いたという。
勧業債券八十円をもとでに米相場で成功し、ついに百万円近くの財産を築いた人の言葉であった。
明治末期の百万円といえば、今の金にすれば何十億円、あるいはそれ以上のものだろう。
三万円だって大変なものにちがいないが、何も百万円にする必要はなかった。

 人間の欲望には限りがない。それが、おとし穴である。相場を当てた人の話はいくらでも聞いた。数限りない。
にもかかわらず、最後までうまく行った人の話は少なかった。むしろ稀でさえある。
この事を痛感したのは、ずっとあとになってからであった。何べんも相場に失敗し、
何べんも追いつめられ、にがい、苦しい思いをしてからであった。

 はじめのころは、自分だけは何とかうまくやってみせることが出来るとの意気ごみが、
もしかしたら、ダメかもしれない、という不安を追い払っていたのである。
やってみなければ、結果はわからない。
私のように無学のものは、何事も自分で経験しないうちは納得出来っこない。


第7話 修行時代

 この間にも、郷里の山崎家の借金をなんとかせねばならない、との考えは、
一日も頭はなれたことはなかった。しかし、日一日と利息はかさむ、小僧の給金では
どうにもならない。借金の金額が四千二百円という大きなものだったからである。

 ある日、主人山繁さんの兄に当る和田喜太郎さんの口利きもあって、
当時碓井製糸所を設立し、代議士もやったことのある有力者萩原鐐太郎さんが
保証人になってくれたので、主人山崎繁次郎さんに借金を高利貸から
肩代わりしてもらうことになった。これには、落ちぶれたとはいえ、
山崎家の過去における信用が大きな力になったことは言うまでもない。

 これで、とにかく積み重なる利息からは解放された。しかし、借金の元金を返すには実に、
十数年もかかったのである。
小僧の私のためにそんな大きな借金を肩代わりしてくれた主人や萩原さんの
御好意には感激した。これまで以上に、毎日毎日の仕事に精を出した。
御好意に応えなければあいすまないと思った。

その頃の深川と言えば実に活気あふれた町であった。永代橋を渡って深川に入ると、
回米問屋をはじめ、雑穀、肥料の問屋が集まり、少し離れては木場を控えている。
富岡八幡宮、門前仲町辺りは賑やかなもので羽織芸者として知られる辰巳芸者が、
そして清算市場がある蛎殻町は人形町が隣り合わせで、
芳町芸者がそれぞれ「ケン」を競っていた。

 回米問屋は社会の評価も高く、収入も多かったので旦那方は大いにもてた。
そんなわけで小僧の中には主人にかくれて遊びをする人も結構多かった。
その服装は唐桟(木綿の平織りだが通人の好み)の着物に角帯をしめ、ハンチング、白足袋、
雪駄ばきだった。雪駄は底が革張りの草履で裏金が打ってあり、チャラチャラ音をさせるのが
イキといわれた。俺もたまには、と思ったことも一度や二度ではない。
しかし、横目で見ながら歯を食いしばってがんばったのである。
米問屋に飛びこんだからには、いずれ自分でも一軒の店をもたなければ、と心ひそかに
きめていたからがまんも出来たのだと思う。

 ただ、主人山繁さんは私にとって実にきびしい人であった。自分としては精一杯、
いや人並み以上に努力していたつもりだったが、ほんのちょっとした失敗も見逃さず、
ビシビシと叱りつける。忙しいなどというのは言訳にもならなかった。
 小僧から中僧になっても一向に変わらなかった。しかも、店の中、人前だろうと何だろうと、
かまわずに怒られるのだから、たまらない。がんばって仕事を余計にやればやるほど、
しまいには、他人のやった分まで、怒られるようなことになった。

 そこで、心ならずも、つい主人をうらんだりしてしまった。しかし、ウチの中ではそうだったが、
外では「うちの種ニは将来きっと大したものになる」とほめて歩いていたという事をあとで聞いた。
事実、あちこち得意先など、私を連れて回ってくれたのもそのせいだろう。
でも、その時は気がつかなかった。
それにしても、ただ身体を使って働くだけではたかがしれてる。
祖父、兵衛の「考え五両、働き一両」である。頭を使わねばダメだ。
だが、一方ではなんとなくうまく行けそうな気もしていた。

 そう、奉公に出てきてから間もなくのことだった。
たまたま主人の所に出入りしていた占いの先生、鈴木章文さんに人相と姓名判断を
してもらうことになった。すると、先生はじっと私の顔をみながら
「お前はきっと出世するぞ。相当の金持ちになれるかも知れないな。
十万円は間違いないだろう」と言われる。
頭にかっと血がのぼるような気がした。月給わずか一円五十銭の小僧が、
十万円もの金持ちになれるというのだ。嬉しくなって、一ぺんに気も大きくなり、
思わず「十万円出来たら先生に半分あげます」と言ってしまった。そばで聞いていた仲間達はどっと笑った。
でも、もしこれが本当なら、片時も頭から離れない例の借金も、綺麗さっぱり返すことが出来るのだ。

 私自身、「占い」を信ずる方でもなかったが、目ハナがつくのは、果たしていつのことやら、
手さぐりのような毎日を送っていた私にとって、一筋の光明をえた気がしたのである。
これが縁になり、先生にツゲで出来た開運の実印を作って頂いたが、
それは後年私が独立してからであった。

何はともあれ、この時の章文先生の言葉は私の心の支えになり、辛い時、苦しい時に
いつも私を励まし、助けてくれた。言葉は大きな力である。もしこの時、将来見込みなし、
などと言われていたら、どんなことになっていただろう。
もう一つ、ずっとあとからのことになるが、私にとって忘れられない言葉になったのは

成名毎在窮苦日
敗事多因得意時

の対句であった。出所は福沢諭吉先生とのことだが、
これを渋沢栄一翁が書かれたものであった。額皿である。
私はこれを大事に、大事にして、戦後、昭和二十六年穀物商品取引所が再開されたおり、
理事長室に飾っておいた。これは今もなお残っているはずだ。
成功のタネは必ず苦しい時に芽生え、失敗するのは有頂天になっている時に
原因が生じている、という。まさに、相場の極意である。
勿論、問題は実践にとり入れるか、入れないかにあることは言うまでもないが、
私のような無学のものにとって、終生、大きなよりどころになったのであった。


第8話 甲種合格

 話は戻る。二十歳になった時、徴兵検査をうけるため、故郷へ帰った。大正三年の夏、
ちょうど、第一次世界大戦がはじまった頃である。当時は日本が参戦している、
していないにかかわらず、男子たるもの、必ず徴兵検査をうけ、甲種合格のものは
軍隊生活を送ることになっていた。兵役義務である。
私にとって、上京してからはじめての帰郷であった。六年ぶりのふるさとの姿はなつかしく、
胸にジーンとくるものがあった。

 それまでだって、薮入りや正月には休みをもらえたし、帰ってこようと思えば、帰れた。
しかし、一人前の商人になるまではと心に決めていた手前、そうしなかった。
父も、母も元気だった。だが、相変わらずの生活の困窮ぶりをみては何ともやり切れなかった。
私が奉公に出て三年ほどたった頃、祖父が主人のところへ
「種ニはもう三年も勤めたのだから……」と言って金を借りに来たことがあり、
想像はしていたものの、目のあたりにみると、もうしばらくの辛抱です、
と口には出さなかったが思わず心の中で叫んでいた。

 さて、富岡小学校で徴兵検査をうけると、甲種合格で、砲兵の印を押された。
合格でも甲、第一乙、第二乙とあり、甲種というのは少なかった。大威張りである。
普通ならお祝いしてもらうところでもあったが、貧乏ゆえに何もしてもらえなかった。
「祝入営」ののぼりもなく、近衛連隊へと入った。もっとも世間では甲種合格だと
入営させられるので、嫌がる風潮もあった。

 翌日、中隊長のあいさつで「ことしはじめて一人で入営したものがある」と言われた。
その頃、砲兵の在営期間は三年間であった。私のようなものにとってはどうにも長すぎる。
お国のためとはいいながら、この間は稼ぎに精をだすわけにはいかないからだ。
ただ、実家の困窮がひどいものは二年間という特典があった。それと、衛生兵にかぎり
二年間の特例が認められていた。

たとえ一年でも短くしたい。模範兵になるべし。それでも不十分と思ったので、第一期検閲後、
衛生兵への転換制度があるのを幸い、衛生兵を志願することにした。
この第一期検閲で、私は野砲の照準手として中隊一番の成績をあげることが出来た。
これで、精勤賞を貰い、念願の衛生兵になれた。やれやれである。

 この時、役に立ったのは商売で日頃鍛えていたコツだった。暗算と記憶力である。
深川の正米市場で売りさばきの役をしていたが、山繁商店は一、二を争う委託米の取り扱い、
多い日には一日に一万三千俵から一万五千俵も売ったが、それをいちいち帳面につけないでも、
頭の中に入れていた。記憶力は強く、人一倍自信があった。
と同時に計算暗算も早かった。そうでなければ、とうてい毎日の仕事はつとまらなかったのである。
とくに、サヤトリなどはそうだった。この日頃の訓練がものを言った。
中隊長が砲の照準を、右へいくらとか、左へいくらとか指示するのを、素早く計算し、
ピタピタと正確にあわせたのである。
衛生兵になってからは、外出日を利用して、米相場を張った。例によって梅原商店の
加藤さんの所へ注文を出した。

 この時は、ほっとした。相場から離れているのがほんとにつらかったのである。
しかし、結果はとんと思わしくなかった。時にはもうけも出たが、ならしてみると、
損にならない程度である。考えてみれば、相場はそう甘いものではない。
頭の中だけで、かりにやってみるのと、実際にやるのでは大ちがいだった。
加藤さんは黙って私の相場をみていただけで、何も言わなかった。


第9話 山繁さんの死

 「……明けりゃ、除隊も近くなる」。待ちに待った除隊の日が来た。私は真っすぐ山繁の店に戻った。
しかし、翌年、大正六年の一月十三日、主人の初代山崎繁次郎さんが亡くなられた。
主人はずいぶん、きびしかった。どうしてこんなにいじめられるのだろうと思ったことも
一度や二度ではなかったが、商売の方法はもとより、なかでも商道徳、人の道について
教えられるところも大きかった。きびしい仕込みは、実は愛のムチでもあった。
その御恩返しも出来ないうちに主人が亡くなられてしまった。一時は拍子抜けというか、
何かボンヤリしてしまった。「おい、種ニ。何をやってるんだ」という声も聞かれず、
寂しささえ感じたのである。主人の霊は徳川家歴代の霊廟のある上野寛永寺に葬られた。
お墓の脇には御影石の一対の燈篭がある。後日、仲間とともにご冥福を祈り、寄進したものである。

 そのあと、山繁さんのご子息、篤太郎さんが二代目山崎繁次郎さんとして
すぐに店を継がれた。たまたま支配人だった山田恭平さんが独立されたので、
私は市場部長の役目を言いつけられ、全国から送られてくる委託米の売りさばきの
さい配をふるうようになった。二十四歳の時であった。
その年の秋、九月三十日のこと、大嵐がやってきた。風速は四十メートルをこえ、
そのうえ激しい雨も伴っていた暴風雨である。その頃は現在のようにレーダーなどの設備もないし、
予報も十分なものではなかったからやむをえないが、やや油断していた。

 ところが、あっという間に堀から水が上がり,倉庫に浸水してしまった。
明け方がちょうど満潮時にあたり、南の風が吹いたので、高波が起きたのである。
被害は深川一帯から日本橋、京橋にも及んだ。その晩、深川の倉庫に泊まっていたものが、
ハッと気がつくと、畳の上まで水がきていたという状態だった。まさに”寝耳に水”である。
あらかじめ、万一に備えて土のうを積み、入口のところは目ばりをしておけば、
こんなことにならずにすんだのにと思ったが,仕方がない。

倉庫には,高く積んで十二俵、棟の低い倉でも十俵は積んであったが、
下から三俵のところまでは濡れてしまった。九月末といえば、新米の出回る直前、
端境期にあたり、東京には普通なら百三十万俵はあるところ、幸いにも約半分の六十五万俵
くらいしかなかった。しかし、その内、三分の一に当たる二十万俵以上のものがダメになった。
今のお金にすれば実に二十億円の損害である。

 一たん、水に濡れた米はそのままにしておくと腐ってしまう。一部濡れたものはその分を除いて、
俵をつくり直す。また、濡れ米は味噌用に近県向けに送って処分するなど、
翌日から跡始末に大わらわである。だが、とても処分しきれない。
そこで、米俵を水の中に漬けることにした。こうすると、不思議と米は腐らないのである。
さて、倉庫のあたりにはハシケの通る堀がいくつもあるが、ここへ沈めるわけにもゆかず、
結局、深川の木場にある貯木池を借りることにした。

とりあえずはこれでよいが、そのままいつまでも放っておけぬ。何とか、この米を利用しなくてはと
あれこれ考えた末、順次、水から引き上げ、真水で洗い直し、塩気を抜き、蒸気で蒸した上、
天日で乾かした。手数はかかったが、うまいぐあいに、大阪など各地のオコシや、醸造用の原料に
どんどん売れた。ただし、全部売り切るには何と三年もかかった。”窮すれば通ず”の
見本みたいなものだった。もちろん、ソロバンからいうと、割に合わなかったが、
出来るだけのことをしたかったのである。


第10話 米騒動

 高波に見舞われた翌年のこと、大正七年の八月に米騒動が起きた。言ってみれば、
米よこせ運動みたいなものだった。しかし、それは運動というような生やさしいものではなかった。
一道、三府、三八県、三六市、一二九町、一四五村、東京も含め全国にまたがる大騒動、
戒厳令が布かれ、しまいには軍隊がくり出して鎮圧にあたるという大事件であった。
事件についての新聞記事も差し止めになったほどである。

 ことの発端は富山県中新川郡西水橋町の漁民の妻女が県外に移出する米の積み込みを
拒否しておこった騒動だった。それというのも、この住民の大部分が樺太への出稼ぎをやっていたが、
その年は不漁で、生活が極度に困窮したため、米屋や米を大量に保有している人のところへ
押しかけ、米を安く売ってくれるよう嘆願したのがことのおこりであった。
たまたま、第一次世界大戦のブームから、物価はどんどん上がる一方だったが、

 なかでも米は前年が不作、そして、この年も作柄不良ときたので、急騰した。
大正三年から五年にかけ、第二次大隈内閣の頃は米が一番安かった時で、一升十五銭ぐらいだった。
ところが、六年には二十銭に、そして、七年に入ると、三十銭から五十銭へと
はね上がったのある。わずか二年ほどの間に三倍の値上がりだ。
これではさわぐのも無理はなかった。大地主は売り惜しみ、投機がこれに輪をかけたのである。
東京でも人夫、車夫、沖仲仕などの労務者や職人などが中心になって、米の小売屋を襲撃した。
さらに、深川の倉庫が焼き払われるとか、蛎殻町の取引所も危ないとか、色々な噂が乱れ飛んだ。

 ちょうど私は痔の手術で築地の林病院に入院していた。米よこせデモ隊の投石で、
病院の窓ガラスも破られた。こうなっては、とても寝ているどころではない。
内臓が悪いのではないから、といっても痔の手術のあとの痛さは経験者のみ知る痛さ、
それをこらえ、こらえ、店に戻った。
政府の打つ手はことごとく失敗し、寺内内閣はついに引責辞職に追いこまれてしまった。
一ヶ月ほどたって、やっと騒動もおさまってきた。ところが、東京では米不足である。

 需要がふえているのに、不作に加えて売り惜しみから供給が追いつかずだ。
農林省は何とか事態を打開するために、私ども山繁商店など、七つの大手回米問屋を指定して、
各地から米の緊急集荷を命じた。各店ではそれぞれ割り当てられた地域の米を集めにかかった。
山繁商店の割当は石川、茨城の両県だった。米の主産地というと、
当時は新潟、福岡、兵庫、愛知、秋田、千葉、山形、茨城、岡山などであった。
しかし、自分の県内で消費する分もあり、実際に他県へも売ることの出来るところとなると、
東北、北陸地方が中心であった。新潟、山形、秋田、富山、宮城、滋賀の各県が上位を占めていた。

 私は皆と二手に分かれて、現地へ飛んだ。もちろん、米はある。それに政府の意向による
買い付けである。当然、集まるはずだったが、実際にはそうはいかなかった。
各地とも、まだ米騒動の余熱が残っている。県民の空気からいって、
他府県への米の積み出しには、県当局もおいそれと首をタテにふるわけにはいかない。
それこそ、連日走り回り、それぞれの筋にお願いした。おしまいには、頼みます、拝みます、である。
こうなれば、損得づくの話ではなくなる。やっとのことで割当分の手当てに成功した。
みすみすもうかるのがわかっており、国策に協力とはいえ、誰だって、米を出したがらないので、
本当に苦労した。

 貧乏人の足元を見すかし、生命の糧で大きくもうける。水呑み百姓の育ちでお米の有難味を
身にしみて感じている私には、何ともわり切れない話だった。根本は米が足りないところにある。
この頃、朝鮮米も年に千四百万石はとれるようになり、台湾米とともに輸入もふえてきていた。
だが、内地米がふえればそれにこしたことはない。

私の主人、山繁さんはもともと米の増産と産米の改良に熱心な人だった。
ところが、肝心の出身地群馬県では、県産の標準米の査定会を行うことさえ、
実現していなかったのである。主人は「産米の改良をすすめれば、食味もよく、
収穫量も大いにふえる」と機会あるごとに県当局を説得していた。
しかし、県会議員達には「上州はおかいこさんの国だ。繭づくりには金をかけてもよい。
米なんか、他の県から買って食えばいいじゃないか」との意見が強く、
標準米査定会の議案もなかなか通らなかったのである。

 しかし、前年の米騒動がきっかけになり、大正八年にやっと、県議会を通過し、米の査定所が出来た。
当時、深川正米市場での標準米は埼玉県中米、一般に武蔵中米と呼ばれる米だった。
埼玉県粕壁の晩生中米五十俵を見本に採集し、取引所理事検査員と深川、
神田川両問屋組合から選ばれた各三名の委員が立ち会いの上、三十俵を選び出した。
この標準米をモノサシに、宮城米、常陸米、肥前米などそれぞれ格差をつけた。
これで、値段に差がつく。各産地では、またそれぞれに品評会をやっては何等米かを決めた。

 その頃のやり方は今のように科学的な検査ではない。永年の経験からえられた
査定委員のカンによるものだった。
見本の米を掌にのせ、色と光沢を見る。そしてぐっと握ってみる。それだけである。
色と光沢、つまり色沢(いろつや)をみると、よい米はあめ色というか、小判のような色をしている。
熟した時期、乾燥のぐあい、肥料や灌漑の状況などがちょうどよい場合にだけ、
玄米は小判色に輝くのである。そして、握ると、弾力がある。
これでまちがいなかった。のち、米の研究家田所哲太郎博士の本に書かれたのをみても、
「年に数百万石の正米を取扱う米商人は何等科学的智識なきに拘らず
無数の銘柄品種の中より美味米と称して高値に取引しつつある実情之なり
而して其選別は大体に於いて誤りなきが如し」だったのである。

 もちろん、このためには我々もず随分勉強した。しょっちゅう、各地の米を手にとっては
その特徴を覚えた。はじめの頃はどれも同じようで、ぜんぜん見分けはつかない。
それに、自然のものだから、その年、その年により出来、不出来があり、見分けるのは
簡単ではなかった。品種を、そして産地を、さらに品質をと順々に自らの眼を掌で覚えた。
よい米は値段も高い。査定会が出来たことで、産米の改良が促進されるのは当然の成り行きである。
そういうわけで、主人山繁さんは非常に喜んだ。

この時、私は県議会で米の講義をやった。何をどうしゃべったのか、
今はすっかり忘れてしまったが、一生けんめいに準備したことだけは覚えている。
二十三歳だった。無学の上に、若僧である。それが、新聞記事に出た。
父宇太郎は飛び上がらんばかりに喜んでくれた。
私としてもこれで、いよいよ親孝行も出来るような自信が湧いたのであった。
新聞に載ることは社会が私を認めてくれた証拠である。多くの人の眼にふれる。
その読者の中には、萩原鐐太郎の子、均平の娘「ふう」だったのである。


第11話 結婚

 私と妻との最初の出合いは麹町下二番町の邸に萩原鐐太郎さんがいつ上京されるかを聞きに行った時だった。
というのは、かつて、高利貸から主人山繁さんに肩代わりしてもらった借金を返済するに当たり、
同時に担保に入っていた坂口の田畑を戻してもらおうとした。この口聞きを萩原鐐太郎さんに
お願いしていたからである。先代の山繁さんはすでに亡くなられていたので、
二代目山繁さんと交渉して頂いたが、なかなかうまく行かなかった。何しろ、四千二百円の元金だけを返済、
利息分は計算に入れてない話だから、借りた方にしても虫がよすぎる。土台、無理な話でもあった。

 邸を訪れると、両親の均平夫妻は群馬に引っこまれ、
妻は三輪田高女に通うので婆やさんと二人で住んでいた。初対面である。
口をきいたわけではないが、その姿、態度をみると、上品で、実にきれいだし、
テキパキとした振る舞いに、威勢のよい女学生だなあ、とも思った。一目ぼれだ。
しかし、私のような小僧の相手になるようなお嬢さんではなかった。

大体、家柄がちがう。萩原家は先祖をたどると三百七十年前にさかのぼることが出来る。
武田の残党が群馬の東上、磯部で郷士となったものと言われ、代々名主をやってきた。
鐐太郎は十三歳の時に名主の跡目を継ぎ、明治二年に十三ヶ村の長となる。
そして、三十一年には衆議院議員、代議士に当選した。
のち、製糸業に専念し、製糸の改良、品質の均一化に努力、碓氷社という一種の産業組合を設立し、
アメリカ向け生糸輸出で成功をおさめた。その子、つまり娘の父親、均平は専修大学を出て
日本興業銀行に勤めていた。母親のしげはクリスチャン、十六歳で姉とともに群馬の山奥からわざわざ
神戸の神戸女学院に入り、外人の教育を受け第三回卒業生という人であった。

そういう家庭の娘である。
私から、ぜひヨメさんに、なんていうことは、とても口に出せるものではなかった。まさしく、高嶺の花だった。
事実、私の父が磯部に行った時に、聞いたところでは、親戚筋の帝大出の人とか、
先代の山繁さんが自分の息子の嫁に欲しいとか、立派な花婿候補者がわんさといたようだった。

 しかし、私は何とかこの娘と結婚したいと思った。新聞に出たあと、標準米の査定に北海道、
石川、茨城などへ出張していたが、そのついでに磯部の実家へ寄ってみた。大正八年の秋だった。
そこで、結婚話が出た。私としても、大正七、八年と米も株式も相場にうまく当たり、
三万円ほどフトコロにしていたので、その点では自信もあったからである。

娘の母は前に言ったように、非常にハイカラな人で、考え方も進んでおり、結婚は本人の意思が
一番大切だとの意見をもっていた。今でこそ、ごく当たり前のことだが、当時としてはまったく珍しい。
そして、以前に引越しの手伝いに行った時、「この小僧はみどころがある」と私のことを記憶にとどめていてくれた。
こんどは「引越しの時とは、まるでちがうじゃないの」と言って、娘と引き合わせてくれたのである。

二人ははじめて言葉をかわした。
ちょうど、庭にあった柿の木から五つ、六つ実をもぎ、皮をむいてすすめてくれた。
「結婚してもいい。ただ、あなたはお米屋さんだけど、いつまでも、そのままではいやだ」と
ハッキリ条件をつけられたのには驚いた。変動の激しい、きびしい商売で毎日鍛えられ、
少しばかりのことでは驚かない私だったが、若い娘にズバリやられたのである。

もっとも米屋そのものが悪いのではなく、一生下積みでは困るというわけだ。
実に気に入った。私も男だ、必ず店をもつ、お前には絶対心配させるようなことはしないと言い切った。
婚約成立である。この時の私の嬉しさは何ともたとえようの無いものだった。

 あくる、年大正九年の二月十六日、結婚式をあげることになった。媒妁人は先代山繁さんの実の弟さん、
和田喜太郎さんにお願いした。仕事第一で、突進してきた私もその準備には力を入れた。
そして、いよいよ式まであと三日に迫った時、突然、事件がもち上がった。
前年の秋、農商務省の官吏が殺人事件をおこしたことから、外米の輸入にからむ汚職事件が表沙汰になり、
調査がすすめられていたが、そのトバッチリをうけた私はブタ箱にほうりこまれてしまったのである。
まったく身に覚えがないこととはいえ、これにはまいった。新聞にはデカデカと書かれるし、
結婚式をひかえて、気が気ではない。

せっかくの話にケチがついた。「この際、婚約を解消すべし」との反対論が、
萩原家の親戚の間で、もち上がった。無理もない。もともと、私との結婚話には、
「小僧上がりの男に萩原家の娘をやるなんて……」という意見も強かったぐらいである。
しかし、そうした中で、花嫁になる娘、本人だけは私を信じてくれていた。
この事件がかの有名な「鈴弁殺し」である。

農商務省の米穀担当技官に山田憲という新潟生まれの若い官吏がいた。
彼は外米の輸入商として当時最も大きな仕手の一人だった鈴木弁蔵から金を借り、米相場を張っていたのである。
農商務省がきめる外米の輸入量いかんで、米相場は動く。これを利用してもうけた。
鈴弁の方は鈴弁の方で、自分の扱う外米の輸入について、いろいろ便宜をはかってもらっていた。

 こうなると、二人の仲は切るに切れない腐れ縁である。
ある時、鈴弁が貸した金を返してくれるように言ったところ、山田は返さなかった。
何回も催促したが、一向にらちがあかない。そこで「返済しないと、上役に言うぞ」と脅かした。
いかにも、ありそうな話、当然の成り行きである。
山田はこの言葉を聞くやカッとなり、鈴弁をなぐり殺してしまった。しかも、死体を大型のトランクに詰めて、
実家の新潟に帰る途中、信濃川の鉄橋から川へと投げこんだのである。

この頃は物価がどんどん上がり、騒がしい世の中でもあった。
「もり」「かけ」が七銭から一銭刻みに三回も値上げされ、十銭になった。
八幡製鉄所では賃上げ要求でストライキが行なわれ、地方では小作人の争議も多発した。
この時の八幡製鉄所の争議は「溶鉱炉の火は消えたり」の名文句を生んだ。

米価も値上がりの一途であった。外米の輸入をめぐり、御多聞にもれずいろいろ不正も多かった。
そこでこの鈴弁殺しの事件をキッカケに、当局は米穀商について徹底的な取調べをはじめた。
山繁商店としては内地米の取り扱いが主であったから、外米輸入にはほとんど関係がない。
だのに、警視庁に呼び出されたのである。

 この時の捜査を指揮したのが、のち読売新聞の社主となった正力松太郎さんだった。
直接取り調べられたのではなかったが、そのきびしさは音に聞こえていた。
本来、警視庁の召還により出頭するのは、店の代表者である主人のはずだった。
しかし、主人、二代目山繁さんは先代とちがって、ほとんど店に顔を出さず、
商売のことは私ども使用人任せであったから、たとえ出頭したところで説明出来ない。
そこで、身代わりというのはおかしいが、私が事情を詳しく説明するべく、出ていったのである。

ところがブタ箱に入れられた。これが、新聞に載ったわけだ。
あとで検事局へ呼ばれた際、「政府の指定商としての利益は店と主人のもの、
責任者の主人が出てくるのが当然」と検事に言われた。いずれにせよ、兵隊での経験によって、
以前よりも度胸もついていたこともあり、何とか大役をつとめおおせた。

悪いことはしていないので当たり前とはいいながら、やっとのことで、婚礼の前日に無罪放免となった。
何はともあれ、結婚式をあげるとこにこぎつけた。場所は芝の紅葉館である。
芝の紅葉館は当時、政界などの有名人がよく集まるところで、私のようなものにとっては
いささか贅沢だった。しかし、人間にとって一世一代の晴れの式である。

 何かやる時は一流の場所で、というのが私の信条であった。そして理想でもあった。
それに、大正七年、八年の相場でもうけていたからこの時ばかりは気ばった。
日頃はケチ種と仲間の間で言われるほど、勘定には細かく、
節約第一に、金をためてきた私だが、それも時と場合による。

挙式や披露宴の準備はあらかた私一人で手配してあった。そして、当日のことである。
「花婿はどこにいるのかね」「いま玄関で下足番していましたよ」ということになった。
言ってみれば受付兼下足番である。披露にお招きしたお客さんの顔ぶれは、
私が一番よく知っていたためである。大体、結婚式の当日になれば、
花婿はヒマで気楽なものと相場がきまっているが、私の時は大違いであった。

 晴れて思いどおりの花嫁と一緒になった。
当時のことゆえ、新婚旅行もしないでいきなり新婚生活がはじまった。
牛込若松町で、二階を借りた。部屋は六畳と三畳の二つ、家賃は一月二十五円であった。
月給五十円だったから、半分が家賃に消えてしまう。おまけに女中さんも一人やとったので、
月給だけではとうていやっていけなかった。私としては随分無理をしたのだが、
そこは、貯金がものをいってくれた。蓄積の強味である。

 ところが、式をあげて、ちょうど一ヶ月、大正九年の三月十五日、突如、相場は大暴落した。
米も、株もである。三年つづきの大相場の終幕だった。
好況の背景になっていた欧州大戦は前年の六月に終局をつげ、講和条約も結ばれていたので、
おそかれ早かれ、来るべき反動であった。生糸、綿糸の市場も暴落し、混乱に落ちた。
そして、四月七日には増田ビルブローカーが破綻、兜町は立会中止となった。戦後の恐慌である。
この時、日本銀行は一億二千万円の救済金を出したほどである。

米相場の動きをみると、正米市場で三月に入って一石五十五円二十銭と未曾有の新高値がついていた。
この記録は深川の正米市場が閉鎖されるまでついに破られることはなかった。
それが、一転するや、流れは変わり、年末には何と、二十五円スレスレというところまで
叩きこまれてしまったのである。

 株も同じこと、新東は三月はじめから一ヶ月のちには半値になり、ついに解け合いせざるをえなかった。
この時、売り方として、大成功をおさめられたのが望月軍四郎さんだった。
ところが、私は貯金もすっかりはたいて、スッテンテン、新婚早々のふわふわ気分は一ぺんに飛んでしまった。
妻には言いにくいので黙っていたが、追い証取りに追いかけられて、逃げ回る始末、帰りは毎晩おそくなり、
随分心配をかけたのを覚えている。賞与まで前借りして、食事はみそと佃煮でしのいだ。
こんな時に長男雄司が生まれた。大正九年の十一月のことだった。
良いこと、悪いことが一緒になって押しかけた年であった。悲喜こもごも、とはこんな状態をいうのであろう。
てんやわんやを地で行ったのである。


第12話 石井定七に売り向かう

 だが、相場では翌年には見事に仇をとることが出来た。
それは、大相場師石井定七の買い占めに売り向かった相場での勝利である。
石井定七は滋賀県の人で、材木商から出発、まず材木の買い占めに成功、折からの欧州戦争、
第一次世界大戦を背景に米相場でも買い占めに乗り出して次々に当たりをとった。
とくに、大正六年には大阪堂島の米市場で連合軍を結成、大きく儲けた上、
綿糸から銅山にまで手を伸ばし、連戦連勝、”横掘将軍”のあだ名をたてまつられていた。
彼の邸が大阪、横堀にあったからである。

 大正九年に末には経済恐慌と六千三百万石という大豊作によって、売り叩かれた米相場も
ようやく戻りをみせていた。しかし、六月頃までは大したことはなかった。植え付けは順調だったし、
天候にも恵まれていた。ところが、土用に入ってから八月一ぱい雨ばかりである。米作にとって、
土用は一番大切な時期だ。この間に三日照れば平年作はまず何とか出来るといわれるぐらいだ。
それが全然ダメなのである。大凶作になるかも知れない。

 石井定七は再び好機到来とばかりに、大阪、堂島の十四の機関店を通じ、買い占めに入った。
七月である。春には二十六、七円だったのに、ぐんぐん値を上げて、秋には四十円台に乗せた。
堂島、蛎殻町の両清算市場で買いまくった。その量は堂島で五十万石、東京で三十万石、
合計八十万石にも達したと言われた。
そして、十一月限の納会には、五十万石をこえる実米を受けた。一石当たり四十五円余り、
その受け代金は実に二千三百万円にもなった。現在の金に直せば二百億円にもなろうか。途方もない話だった。

 この時、現物を扱う回米問屋筋は全国の産地から米を手当てしては売り向かった。米の出来は悪かった。
買い方の見通しどおり、大正十年の収穫量は五千五百万石と、前年に比べ八百万石も少なかった。
ところが、売りものは、どこからともなく集まった。例年、東京市場ではみたこともない、
岡山、広島米までも姿をみせた。端境期だろうとおかまいなしに、現物を手当てすることが出来た。
というのは、米相場が高くなると、農家は自家用米まで市場に売りに出してくるためだ。

実際の収入が増えるのだから当然でもあった。前の年に、値下がりのため取りあえずしまっておいたものもある。
そんなわけで、春には十五、六万石しか深川在庫がなかったのに、端境期の頂点である十月には
四十万石以上もの米が集まるという異常現象をみせた。渡し米には十分すぎる量である。
売り方の回米問屋筋は清算市場で売りつないであった分を現渡しした。
それも十分にサヤをとった上でのことである。
蛎殻町の相場が買い占め人気で深川正米市場の相場を上回っていたからだ。

 思惑による相場で儲けたのではない。山繁商店本来の委託米売りさばき、サヤトリによる儲けであった。
しかし、量が大きかったので、その儲けは大変なものになった。
その上、石井定七は買い占めた米を自分ではどうにも処分出来ない。結局、その売りさばきの役目は
我々のところに回ってきた。自分達が一たん売った米をもう一度売ることになった。往復の商売である。
こんなうまい話はない。店は創業以来の景気、勤めてから最高の賞与をもらった。

一度はスッテンテンになった私も、一息ついた。この賞与をもとでにして、
こんどは着実に儲けることを心がけた。経験を生かさねばならない。
一つには「凶作に買いなし」、そして「豊作に売りなし」の諺を目の前にみたことである。
そして、もう一つは思惑で儲けるのは大きい。しかし、一つ間違えればとんでもない損をかぶる事である。
およそ、相場に勝った人の話はよく聞くが、最後まで見事に、勝ちをおさめたという話はむしろ、稀でさえあった。

 このことを痛感したのは、ずっとあとになってである。何べんも相場に失敗し、
何べんも追いつめられ、にがい、苦しい思いをしてからであった。
なお、石井定七はこの時の買い占め代金を借金で賄ったので「借金王」とも呼ばれるようになった。
ところで、その借金をするのに担保を二重に使って実にあざやかに銀行を利用した。そういう意味では、
稀にみる大相場師であると同時に、計数に明るい人であった。この点大いに学ぶべきだった。

だが、その人をしても買い占めがいかにむずかしいものか、
買い一本ヤリで貫きとおすことが、いかに危険の多いものかをみせた、大ドラマであった。
自らが、その中に飛びこみ体を張って得た教訓ほど尊いものはない。体得というのは良い言葉である。


第13話 関東大震災

 大正十二年の九月一日、あの関東大震災が発生した。ちょうどお昼時、足のウラから突き上げるような、
激しい揺れが起こった。グラグラッときた。思わず表へ飛び出すと、道には地われが入り、
近所の文庫蔵(家財道具を入れる蔵)は鉢巻部分が落ちていた。そのうち、屋根瓦は落ちてくる、
壁も崩れ落ちてくる。「これは危ない」と思った。やや、揺れがおさまったところで、
通いの店員をそれぞれの自宅に帰した。私も自分の家が心配になり、取りあえず自転車に乗って、
様子を確かめに帰った。途中、地われをよけながら走ったが時々やってくる余震のために
自転車がバタリ倒れるという有様だった。心は急ぐが、ままならぬ。

そのころ、私は渋谷羽沢町に移っていたので、うちに辿りつくまで随分時間がかかった。
着いてみると、幸いに家はつぶれていなかったし、家族も全員無事であった。
妻や子供の元気な顔をみてひとまずほっとした。
たまたま八月六日に長女の繁子が生まれたばかりで、お宮参りというときにあたり、
田舎から両方の母親が孫の顔をみるために泊りこみで来ていた。

 こんな時にはほんとに心強い。家内の母、しげは実にしっかりした人で、やっと帰ってきた私に
「とにかくあなたにはお店が大事でしょう。万一お店が焼けたりしたらどうします。
このうちは私たちが守りますから、すぐお店に戻りなさい」と言われた。
そこで、私は再びもときた道を店へとって返した。このころには、いろんな噂が飛び、
朝鮮人が暴動を起こし、あちこちを襲撃しているといったようなことが、まことしやかに伝わってきた。

さて、ようやく深川まで戻ってくると、永代橋のたもとあたりから火の手が上がっていた。
ここには、荷馬車の馬方達を相手にする「丸三」といううどん屋があった。
あたりをみると火はそこかしこから出はじめている。町の人達は荷車に家財道具をつんで、
思い思いの方向に逃げ出しかけていた。蜂の巣をつついたような騒ぎであった。
もうだめだ。店も焼けると思った私は、とっさの判断で蔵から米を三俵かつぎ出し、
店のすぐ前の掘にとまっていた伝馬船に積みこんだ。通りは荷車や人の波で一杯になっていて、
とても逃げられそうもないから船で避難する他にはない。

 金庫から、小切手や現金で三万円ほど入っていた手提げ金庫を持ち出し、
住みこみの店員三人と一緒に、店の焼けるのを見定めてから逃げようとした。
ところが、意外に火の回りは早く、煙にまかれてしまった。いけない、このままでは命も危なくなる。
うまいぐあい仙台掘に顔みしりのハシケをみつけたので、とりあえずそのハシケに手提げ金庫を預けた。
身軽になりやっとのことで、自分の店の船をみつけて飛び乗り、月島まで逃げ出した。
ところが、ここにも火の粉がふってきて、船が燃えだす始末である。船べりはやけどするほどに熱い。
川の水を船や体にかけてがんばった。そばのハシケに乗っていた人の中には、水に入ったきり、
浮き上がってこない人もあった。文字通りの生地獄であった。

 仲間の中には、東京湾汽船の船にのり、品川沖まで避難した人もあった。
また歩いて逃げる途中で橋の真中まできて、立往生、どういうわけかたまたま手に持っていたヤカンを
自分の六尺褌につるし、川の水をくんでは頭からかぶって熱気をしのいで助かった人もあったという。
無我夢中の一夜がすぎた。

夜が明けた。火はどうやらおさまっていた。とはいっても、惨憺たる状態である。
陸へ上がってみた。まだ、地震の方は時々余震がやってくる。大きくはないが、気味の悪いことこの上ない。
今さら店へもとってみても、何も残っているはずがないと思ったが、とにかく行ってみることにした。
焼けた永代橋を電車の線路に四つんばいになって渡り、やっと新川へとたどりついた。
道の途中には焼けこげになった死体がころがり、こわれた荷車や燃え残りの道具などが散乱し、
足のふみ場もないほどだった。

 崩れ落ちた倉の中をのぞくと、折り重なって人が死んでいる。火を避けて入り込んだ者だろう。
電気はもちろん、水道も、ガスも、なにもない。新聞も、電話もみんなダメ。
食べるものも、寝るところも、全てなし。
静まろうとして、静まらぬ余震、くらやみの中で、二晩、三晩とすごした。
僅かに残った品物の奪い合いなどみにくい場面も珍しくなかった。噂は噂を生む。不安と恐怖の連日だった。

 ところで、混乱のさ中に仙台掘のハシケに預けた金庫を探さねばならぬ。
ひとつひとつハシケを調べて回った。ムッとくる異様な臭いの中を必死に探した。
やっとのこと、半分沈みかけたハシケが見つかった。乗っていた婆さんはもはや虫の息になっていた。
手提げ金庫が無事残っていてくれたのでほんとに助かった。銀行には預金もあったが、
すぐおろすことは出来なかったのである。震災後九十日間の支払停止、
モラトリアムが布告されたからである。こんな時は食べものと現金がなくては身動きならない。
店の者にもとりあえず震災手当てを出すことが出来た。

 とにかく、手提げ金庫をかついで渋谷のうちへと戻った。実をいうと中身が心配だったのである。
おそるおそる開けると、お札も、小切手も泥水でぐしゃぐしゃになっていた。
一枚一枚丹念にとり出して勘定してみると、すっかりそのまま入っていた。やれやれである。
これを乾かそうとしたが、真っ昼間、人に見えるようなところへ出すわけにはいかない。
とくに、朝鮮人騒ぎのさ中である。やむをえないので、夜はふとんの下へ敷いて寝た。
私にしてみれば店第一に、命懸けでやったことだった。ところが、後で、あいつはどさくさにまぎれ、
ついでに自分のフトコロをこやしたんではないか、などど、あらぬ疑いをかけられたりした。
甚だ心外だった。しかし、みんな神経が異常になっていた時でもあり、無理からぬところもあった。

 さて、それから三日ほどすぎ、世情も落ちつきかけたので、主人のところへ報告をするために出かけた。
主人は小田原の別荘にいた。まだ、鉄道はとまったままなので、自転車に乗ってである。
被害の状況は東京ばかりか、横浜もひどい。そして、小田原に着いてみると、主人の別荘はメチャメチャだった。
主人は無事だったものの、妹さんと親類のおばあさんが建物の下じきになって、
圧死するという不幸に見舞われていた。そのお二人の亡骸はとりあえず庭先に埋めてあった。
火葬場も使えなくなっていたのである。夕方だったが、掘り出して、あらためて火葬にした。
おんぼうまでやるとは悲しかった。衛生兵の時に、戦死者の焼き方を教わっていたのが役に立った。

それにしても、この地震の前日、八月三十一日に、私は二人の母親をつれて箱根めぐりをした帰り道に、
この主人の別荘に立ち寄った時のことを思い出し、ぞっとした。
その時、主人に泊って行くようにしきりとすすめられた。しかし、私は翌一日が九月の発会日、
先限は新甫の相場がたつ日でもあるので、折角のもてなしをお断りし、母親達と一緒に東京へ帰ったのであった。
それが、結果としてはよかったわけである。そのことをここへ来てはじめて知った。
運が良かったのである。親孝行と仕事への責任感が、運をつかんでいてくれたのかも知れない。


第14話 独立 山崎商店の旗上げ

 関東大震災の打撃は大きかった。東京は焼野原、我々の所も、倉庫に入っていた大事な米は
すっかり焼けてしまった。無一文になった。もちろん、保険は十分にかけてあったけれども、
普通の火事ならともかく、相手が地震ではどうしようもない。ただの一円も保険金はもらえなかった。
しかし、さすが、東京海上ではいち早く、保険金の一割ほどの額を見舞金として払ってくれた。
しばらくたってから、ほかの保険会社も政府の助成金をうけて大体保険金の一割を支払ったが、
東京海上の場合は、とにかく自らの力でやったのだから大したものである。
のちになって、私が東京海上の株が好きで、大株主になったのも、
実を言えば、このときのことが深く印象に残っていたからでもある。

 さて、どうしようか。店には借金だけが残った。債権、債務の差し引きは受取勘定の方が
はるかに大きかったのだが、取引相手が死んだり、行方不明になったりで、実際に取立てできた分は
一割ぐらい、銀行からの借金だけが残ってしまったのである。
この借金を返すにはこのあと五、六年かかっている。
そんなわけで、震災をキッカケに廃業してしまった店もかなりの数にのぼった。
私の主人、二代目山崎繁次郎さんもすっかり気落ちされて、店をもとのように再建しよう、
との意欲もわいてこない様子であった。その後、ほどなく廃業されたのである。損をされたといっても、
残りの財産は公債に回しても利息だけで十分に生活していかれるだけのものはあった。
 
 私は年も若かった。三十にやっと手が届くところである。たとえ、どんな借金があっても、身体は無事だし、
腕と信用は残った。よし、新規まき直しだ。独立する決意が固まった。
翌大正十三年の七月三日に、資本金三万円で、回米問屋の店を開いた。
この時、新倉多次郎さんも一部出資した上に、いろいろ応援して下さった。
銀行に当座預金の口座を開くについても保証人になってもらったのである。店の場所は正米の取引所がある
深川佐賀町である。日本橋からだと永代橋を渡り、三本目の道を左に入って、
郵便局の前を少し行った先の左手、路地を入ったところ。佐賀湯という銭湯のそばである。
このお風呂屋さんは、今もなお同じ場所に残っている。

 いずれ独立して店をもつ、というのが私の小僧時代からの願いであった。
それにしてもいきなり問屋ではなく、小売の米屋からはじめるのが順序である。
しかし、震災という突発的な事件で、一段階飛びこえることになった。
それに日頃から家内に「私はただのお米屋さんに嫁に来たのではないんですからね」と
尻を叩かれていたせいもあったのである。

 問屋といっても店の構えは小さなものだった。借地十二坪に、間口二間半、奥行五間、
二階建の延二十坪ばかりの家を千五百円で建てた。店舗兼住宅である。
そこへ主となった私と家内と長女繁子の三人に、女中一人、さらに店のもの五人と合わせて九人が
一つ屋根の下で仕事と生活をはじめた。
狭いが、賑やかな毎日である。自分の店では商いは思うにまかせないので、
深川の正米市場と蛎殻町の清算取引市場を活用することで何とか問屋としてやっていけると考えた。

この独立した時、集まったのは渡辺義男、印藤金之助、時沢郁哉、それに黒沢筆冶という人達であった。
印藤さんは十年ほどたってから、独立した。蛎殻町で私の店と隣り合わせで仲良く商売したのである。
この時つけた屋号は「ヤマ」サ(ヤマガスリ)であった。どこの店も屋号をもっている。
新倉多次郎さんのお店は「ヤマ」大、加藤兵八さんのところは「マル」梅、木村徳兵衛さんは「マル」キ、
司茂綱男さんは「マル」金、平原重吉さんが「カネ」△、ずっとのちに大和証券と一緒になった
渡辺信平さんのところが「カネ」サといったぐあいだった。そして、私の主人、山繁商店の屋号は「ヤマ」キである。
さて、自分の店にはどんな屋号をつけたらよいか、あれこれ考えてみたものの
うまい案がなかなか出てこない。結局、思いついたのが、主人山繁さんの屋号「ヤマ」キにあやかり、
キの字を横にして、サの字にした「ヤマ」サであった。
これなら山崎にも通じるし、ちょうどよい。この「ヤマ」サの屋号は昭和四十年に、
山崎証券の社名を山種証券に変更し、「ヤマ」種にするまで、ざっと四十年の間つづいた。

 さて、狭いながらも、店を構えたということで、ひとつ、床の間に絵でもかけようと思った。
実は先代の山繁さんは絵が好きで、中でも、古画を蒐集されていた。
小僧時代の私は蔵からの出し入れやら虫干しのときにはきまって、手伝いをさせられた。
得意の米俵の扱いとはいささか勝手がちがい、非常に神経を使うのでくたびれた。
でもいつしか、なるほど絵もいいもんだなあと思うようになった。そして、自分も一枚でよいから絵を買いたいと
かねがね思っていたのである。門前の小僧習わぬ経を読むで、その下地は出来ていた。

ある日、主人のところへ出入りしていた画商を案内人にして入札に出かけた。
そして、酒井抱一えがくところの掛軸を一幅買いこんだ。
何となく嬉しい。俺もこんな身分になれたか、日夜、床の間にかかった絵を眺めては悦に入っていた。
ところが、これが後になんと偽物と分かった。まさに、一生の不覚、一杯くわされたのである。
これにはまいった。かんかんになって怒ってみたが、あとの祭である。そして考えた。
私はもともと、芸術を理解するだけの素養もなく勉強する時間ももたなかった。

 米なら年季が入っているが、絵は素人だ。どだい、いきなり自分の目でみきわめるのには無理がある、
以来、きっぱりと古画はあきらめた。
そして、現代の作家のかいたもの、主に新画を買うことにした。
いずれにせよ、勉強は必要なので、あちこちの展覧会に顔を出した。三越デパートの美術部にもよく通った。
ここで、桜井猶司さんと知り合ったのである。桜井さんはのちに画商として独立され、
かの有名な”兼素洞”をつくられた人であった。私の美術顧問よろしく、
手ほどきをうけながら、ボツボツ買いこんでいった。

といっても、すでに一流大家の作品は値が高くて手が出せない。
そこで、徳岡神泉、菊池契月その他十人の先生方の絵を一幅百五十円ずつで揮ごうしてもらったのを覚えている。
これがのちの”山種美術館”のタネになったのであった。
当初、絵を眺めて、毎日激しい相場の中で疲れきった気持ちを休めたい、と思っていたのだが、
一方では投資という面も考えた。株と同じで、将来大いに伸びそうな成長株ともいうべき掘り出しの絵を買った。


第15話 古米活用で大当たり

 さて、山崎種二商店の看板をかかげたものの、山繁商店時代とは勝手がちがう。世間の信用である。
山繁の時、支配人として、かなり名前を知られるようになっていたが、
実際に独立して商売をはじめてみると、自分で思っていた程ではなかった。
以前は、電話一本で全国各地から大量の米が送られてきた。それも、別に荷為替なしであった。
産地の米問屋、多くはたくさんの小作人をかかえた大地主だったが、山繁を信用していたから、
どんどん米がやってきたのである。これなら手元に一銭の金がなくても、
一たん売りさばいて回収した代金で払えばよい。実に楽だ。

 ところが、独立したばかりの私にはそれだけの信用も、また裏付けとなる実績もない。
今までのような大きな商売をやっていくには独立のために用意した資本金三万円では
とうてい間に合いっこなかった。何としても資金が欲しい。
こんな時、救いの神が現れた。新倉多次郎さんの紹介もあったおかげで、
第百銀行の本庄支店長安藤昇さんが、「よし、何とか面倒をみてやろう」と援助の手をさしのべて
下さったのである。第百銀行は川崎系で、のちに川ア信託から日本信託へと変身していったが、
以後ずっとお世話になることになった。これで、一応資金のほうは心配なくなった。

 しかし、これだけではまだまだである。全国の取引所の間で自由にサヤトリしたり、
各産地の米を大量に取引するには、名前も、信用も行きわたっていない。
こんな状態を見て、先輩の梅原商店の加藤さんが心配して、とりあえずは梅原の名前を使いなさい、
とまで言ってくれた。梅原商店は神奈川県、秦野の豪農、梅原保さんのお店で、
明治十九年から回米問屋としてつづいていた老舗であった。
先代、梅原修平さんは多額納税の貴族院議員で、大変な名望家でもあった。
山繁の店より十年も古く、その信用は絶大であったから、百万の味方をえたような気がした。
後はこうした暖かい御厚意にむくいるために、商売に励むのみである。

 ところが、商売は甘くなかった。開店して翌年、大正十四年には大損を出してしまった。
実米の売りさばきから清算取り引きの売りつなぎと、売りから入るのを得意にしていた私の前に
大きな上げ相場が立ちはだかった。大正十二年から十三年は二年続きの不作、相場もジリジリ上がり、
十四年には石当たり四十円台に乗せて、米騒動以来の高値を呼んだのである。
相場に破れた私は故郷群馬の高崎に飛び、井上保三郎さん(井上工業の創設者)に泣きついた。
私の叔母の嫁ぎ先で縁つづきのせいもあり、乱暴な話だが、
いきなり「何も言わず、私のこの身体を担保に金を貸して下さい」と頼んだ。
井上さんはしばらく腕組みしながら考えていたが、「五千円なら何とかしてやってもよい」と答えた。
五千円では損のアナ埋めをするには、問題にならない金額である。第一、カケ出しとはいいながら、
前途あると自負する自分をたった五千円にしかみてくれなかったことが残念だった。

 といって、当座をどうするか。茂木銀行へも行ってみたがダメだった。
かねて、山繁時代から取り引きのあった高崎の中村重蔵さんが大変に心配して、
安中の米屋で米庄(こめしょう)と呼ばれ、当時名望のあった柳沢庄平さんに紹介して下さった。
やっと、いい線が出た。切り抜けられた、と思ったとたん、ほっーとして思わずそこに坐りこんでしまったのである。
さて、何とか挽回しなければならぬ。毎日、毎日、作戦を考え悩んだ。そんな時ふと、
大阪に十万俵近い売れ残りの古米があるとの話を耳にはさんだ。

 これは何とかいけるかもしれない。この古米が使いものになれば、相場は下がる。
そこで、大阪に出向いた。買いに来たのが売り方の私とわかってしまってはまずい。
わざわざ、目立たぬよう安宿に泊り、名前も金子と変えた。そして、小幡というブローカーに頼んで
古米の入っている堂島の倉庫を全部調べることにした。ところが、すでになんべんもサシ
(俵にさし込んで中身をとり出し、検査するための道具)を入れてあり、虫がついていて、
みそか、しょう油の原料にしか使えない状態という。やっぱりダメか。一たんはそう思った。
でも、大阪くんだりまでやってきたのにと、念のため今一度、倉の奥のほうまで調べてもらったところ、
大丈夫使えそうなことがわかった。しめた、これならいける。来た甲斐があった。
早速、その十万俵近くを買いこんだ。今ならば十億円をこえる量である。

 さて、この米を大阪から東京へ送るのが、これまた一仕事である。ダメな分をとり除き、指定列車に積みこんだ。
大阪の梅田駅と東京の汐留駅の間を二往復して、無事運びきった。この間、つきっきりであった。
この数年来、米の作柄はあまり良くなく、買い方有利の相場がつづいていた。
それに、端境期であったから、東京の買占め派はすっかり安心しきっていた。
そこへ、十万俵の米が突如として現れた。相場は一転して大暴落となった。もちろん、私は蛎殻町の清算市場で
あらかじめ売り建てしてあった。古米活用作戦は見事に当たった。
そして、生まれてはじめて三十万円という大金を手にしたのである。

 しかし、私が大阪で古米を手当てしている頃、留守は大変だった。売り玉はかつがれ、
追い証に困っていたのである。留守を預かった時沢君はかけずり回った。
結局、梅原の加藤兵八さんのところに飛びこみ、この急場をしのいでくれていた。
それで、やっと間に合い、もうけをフトコロにすることが出来た。
この時から、誰いうともなく私のことを山種と呼ぶようになった。仕手の一人として、認められたのである。
ふり返って見ると、倉庫を念入りに調べたのが大成功のカギとなったわけだが、
これも小僧時代の苦しいが、有難い倉庫番の体験によるものだった。


第16話 買い占め派との対決

 昭和三年、「カネ」三 高垣甚之助による買い占めがあった。それは大きな思惑だった。
高垣は蛎殻町の清算市場で買って、買って、また買った。
その買いっぷりの良さから、彼一人の思惑ではなく、
その背後には久原房之助がいるのだろうとか、いや伊東ハンニだろうとかいろいろ取沙汰された。
でも、買いの本尊が誰なのかはさっぱりわからなかった。
これに対して、私をはじめ深川の回米問屋筋はいっせいに売り向かったのである。
この年は政府の第一回の収穫予想が不作を伝えていたところから、
相場は夏場をさかいにぐんぐんと値を上げていった。

 売り方は大きくかつがれたわけだが、一向に心配はない。産地で現物を手当てしては、
サヤをとって売りつないでいたからである。しかし、全部が全部つなぎではなかった。思惑分も入っていた。
そして、新米がようやく出回りかける十月初めには、一石あたり三十八円三十九銭という高値をつけた。
だが、これを天井にして相場は急反落した。流れは変わった。好機到来である。
戻り高値をつけ終わったところを見極めた上で、どっと売りを浴びせた。先限は完全に底抜けとなった。

 相場には完全に勝った。しかし、困ったことが起きたのである。高垣の買いは実に二十五万石、
ざっと六十三万俵にものぼった。受け渡しの段になったところで、現物は産地からどんどん届いてくる。
量が多いから検査には手間どるで品物が痛みはじめたのである。
しかし、この方は代米を手当てすることで、何とか切り抜けられるメドがついた。

 ところが、肝心の買い方、高垣には金の手当てがついていなかった。相場は暴落、
今さら二十五万石もの実米を引き取ってみても、売りさばくには大損をださねばならない。
そんな人間に誰も金を出すはずはなかろう。受け代金がないのである。
といってこのままでは受け渡しは不能なり、売り方もお手上げになる。
現物を売った人も、相場に勝った人も金がとれない。これにはまいった。

この時、梅原の加藤兵八さんが乗り出し、危機を救ってくれたのである。受け渡しを無事すますため、
取引先の銀行を説きふせて、買い方に四百万円という大金を融通してやった。
たとえ、決済不能で総解け合いになり、受け代金として金を使わずにすんだ場合でも、
利息だけは必ず払うとの条件だったという。加藤兵八さんにとっては、一生をかけた
大きな事件であったように思う。私は加藤さんを一層尊敬し、ますます好きになったのである。
ここで、私は店を合名会社組織にした。

 大阪の古米を活用して成功したあと、加えて高垣甚之助の買い占めにも売り勝って
完全に私は波に乗った。しかし、例年東京か、大阪のいずれかで開かれる「甲和会」に出席すると、
まだまだ上席に座るにはほど遠かった。
この甲和会というのは、一年に一回全国各地の米相場の大手が集まる親睦会であったが、
その席には新潟の松本利作、幸田慶三郎、清水久吉、大塚佐吉、坂田の菅沢久五郎、荒木幸吉、
東京の萩原長吉、木村徳兵衛、平原重吉、その他田辺卯助、田辺米吉、
名古屋の田中貞二などといったそうそうたる人達がキラ星の如く居流れていた。
私にとっては「何分ともよろしくお願いいたします」と杯を頂いて歩く席でもあった。
まだ三十五、六という年頃から言っても当然であったろう。だが、同時に、こうした方々と
お近づきになれたことは、のちに、有形、無形のプラスとなって現われた。
目には見えないが測りしれないほどの大きな財産になったのであった。

 昭和七年には”黒頭巾の買い占め”があった。買いの本尊がはっきりわからなかったので
蛎殻町では黒頭巾と呼んだ。でも、日にちがたつにつれだんだん正体が浮かび上がってきて、
どうやら、怪物伊藤ハンニらしいことがたしかめられた。
伊藤ハンニとは本名を松尾正直といい、当時年の頃は三十前後ながら、
しょちゅう大きな相場をはっていた。そのうしろには満州国建国の立役者といわれた
板垣征四郎がついており、日本で買った米を満州に運んで売りさばいているとのうわさもあった。
前年の昭和六年九月、柳条溝で満鉄の線路が爆破され、満州事変が勃発した翌日、
伊藤ハンニが軍へ五万円もの寄付をしていたことなどから考えると、どうやらほんとうのようにも思えた。
いずれにしても、時の政治家、軍人、そして官吏との結びつきを巧みに利用していたにはちがいない。

 この時、伊藤ハンニは自分の手口を相手に読まれないよう、蛎殻町の仲買店三十軒のうち、
七軒ほどの店を通して買い注文を出した。狙いはよかったのだが、少し分散しすぎたきらいがあり、
かえって正体を見抜かれてしまったのである。
相手がどこの誰かがはっきりわかれば、仕手戦では半分買ったも同然だ。
深川の回米問屋筋は断乎売り向かい、ついに勝ちを納めた。
相場は戦である。「はかりごとは密なるをもってよしとなす」。
静かに、静かに、目立たぬように相場を張るのが、最上の策と言うべきだろう。
派手な動きをみせてしまえば、相手も新しい手を打ってくるし、
途中で引くに引けなくなって深みにはまることも多い。

 大体、私がきまったように売り方に回るには、三つほど理由があった。
一つには、回米問屋の小僧時代から、もっぱら米の売りさばきをやっていたので、売りに慣れていたし、
一種の習慣となっていたこと。二つには、買い占めが嫌いだった。
国民にとって、日常なくてはならむ主食の米を買い占め、値段をつり上げてもうけるなんて、
とうてい我慢がならなかった。第一、そんなに高い値段につり上げられた米を一体誰が食べるんだ。
どうしても、買い占めでもうける気にはならなかった。
そして、三つには、一石四十円前後で売っておいて、二十円で買い戻したとする。
当時の日本は農業中心の経済であり、米が下がれば物価も値下がりしているので、
金の値打ちがそれだけ上がることになる。逆に、買いで同じ二十円幅を利食っても
物価が上がっていれば、金の値打ちはその分だけ目減りしてしまう。
正米市場で育った私にとっては、実米の売りつなぎは、もっとも得意とするところ、
売りからの方が入りやすかったのである。


第17話 山種の基盤を築く

 私の商売の基本は正米の取り引きを大きな柱に、定期取り引きでのサヤトリという固いソロバンにあった。
それは相場師として、派手に、大きく儲けるのとはちがい、わずかな委託手数料、
そして、細かい日歩計算による地味な儲けである。
この方法は絶対確実で、損を出すことは滅多にない。しかし、大きな利益をうるにはどうしても大きな資金が要る。
大量に米を動かすには手金だけでは、たかが知れている。何とか、銀行から少しでも多くの資金を引き出したい。
それには、銀行に信用を積む以外になしだ。私は、まず預金をした。毎月、毎月、儲けを積むように、
銀行の決算期末や年末には出来るだけ預金をふやした。もっとも、利息は年に三分程度のことだから、
利殖という点ではとても話にならない。しかし、これを貫いた。目的は別にある。

大体、相場をはる人達は、大きく儲けるかわり、大損もする。「株だけは孫子の代までやらせない」とか、
中外商業新報(いまの日本経済新聞)をとっているだけで、何かと噂される時代だ。
浮き沈みの激しさは想像をこえるものがあった。これでは、おかたい銀行が金を貸すはずもなかった。
いずれにしても、一文無しでは一円も借りられない。千円預金があれば千円貸してくれる。
たとえ、わずかずつでも、預金を積んでいけば、意志の強さ、実行力という点で、信用もついてくる。
そして、「借金したら期日にはいかなることが起こっても、キチンと返す」ことである。
先代の山繁さんに教えて頂いた商道徳の一つだった。
聞いてみれば、ごくごく常識的な話であるが、要は実行、実績である。
こうして、次第に取引銀行もふえていった。

 まさに、信用こそ基本である。深川の取引所には”信為万事本”の大きな額がかかっていた。
これこそ、今日の私を築いたタネだったのである。のちに、川合玉堂先生にお願いして、
同じ言葉を書いて頂き、額装し社内にかかげておいた。昭和八年は千万トンをこえる大豊作となった。
もちろん、史上最高の出来で戦前ではついにこの数字を上回ることはなかった。
米価の方は昭和に入ってから下がりっぱなし、農村不況は深刻になる一方であった。
政府もこうした状態に頭を痛め、米国統制法を立法化するとともに、米価の値下がりを防ぐため、
買い上げにふみ切った。その時、責任者になったのが、農林省の米穀部長荷見安さんだった。
われわれ主だった回米問屋が呼ばれ、協力を要請された。

 さて、買い上げるのはよいが、容れものはどうするのか。私は農林省に対し、
「喜んで、出来るかぎり協力いたしますが、倉庫の手当て方を......」とお願いした。
ところが、「それは、お前達米を売るものが考えなさい」というそっけない返事である。
そこで、私はピンときた。倉庫を確保しておきさえすれば、大儲け出来る。
米を買うのはあと回し、とにかく、倉庫を借りるのが先決だ。
例によって、例の如く、梅原の加藤さんに相談をもちかけた。私の資金と信用では限りがあり、
少しばかり手当てしたのでは、せっかく掴んだチャンスも十分に利用し切れないからである。
晩メシを食べながら加藤さんを口説き落とした。

翌日より、現金や公債を積んで、東京にある倉庫で空いているところを片っぱしから押さえた。
アイデアを提供した上で協力者になってもらったわけだが、大成功をおさめた。
新米がとれると、一ヶ月足らずのうちに、産地からぞくぞく米が東京に入ってきた。
秋葉原や、隅田の駅は米の山となった。東京ばかりでなく、大阪、神戸、横浜などの倉庫も
米で満杯状態である。この米を政府へ売り渡した。
当時、東京で消費される米は年間一千万俵ほどであったが、この年に政府の買い上げた全国の米は
実に二千万俵にも達した。そのうち、約一割に当たる二百万俵を私が取り扱ったのである。
その利益は莫大なものだった。

同時に山崎種二商店は回米問屋としての基盤を確立した。
加藤さんとのコンビを組んでこその成果であり、多くの回米問屋仲間の中には倉庫がなくて、
みすみすこの機会を見送らざるをえないところもあったのである。
やがて借り倉庫精神は辰巳倉庫設立への基本構想ともなっていく。

 私が取り扱った米は、もちろん内地米が中心ではあったが、朝鮮米や台湾米も積極的に買い入れた。
その当時、内地米のとれ高六千万石前後に対し、
朝鮮米は五〜六百万石、台湾米二百三十〜二百四十万石が輸入されていた。
外米といえば、今も昔も変わらず、まずい米として誰も相手にしない有様だった。
たしかに、はじめて輸入された頃は、小石や砂などが沢山まじっていて、
人間の口にのぼるしろものではなかった。しかし、大正末期には、品種の改良も施され、
また精白の技術もすすんできたので、問題はなくなっていた。安くて、しかも品質がよく、
食味も内地米に劣らぬものが出来た。大体、内地米と同じ種もみを使ったのだから、当たり前でもあった。

その上、台湾では一年に回とれる二期作、一期作の分はちょうど内地で端境期に入ろうとする夏場に輸入される。
ここに眼をつけた。大いに台湾米を宣伝しながら、普及につとめた。
その甲斐あって、次第に評判もよくなり、取扱高もどんどんふえていった。金貸しであり、
米相場もやっていた馬越文次郎さんなど私のところから大いに朝鮮米を買ってくれた。

 実を言うと、外米に眼をつけるには、それなりの下地があった。山繁時代の先生、新倉多次郎さんが、
朝鮮米について造詣が深く、懇切に教えて頂いていたからであった。
その時は、小僧だし、どうすることも出来なかったが、二十年をへて、その教えを生かすことになった。
この昭和八年は政府買い上げ米と外米とを合わせ、五百万俵近い商売をやり、
その儲けも、ざっと百万円をこえた。私の米屋としての最盛期である。
しかし、その後も毎年、取扱高は三百万俵前後と、昭和十四年に米穀商品取引所が閉鎖されるまで、
業界第一位の座を占めることが出来た。
もはや、米相場であてるというより、手数料だけでも、十分やっていけるようになれた。もう安心だ。
ちょうど四十そこそこ、男として働きざかりを迎えたころである。


第18話 兜町進出 株の世界へ

 だがその頃、蛎殻町の清算市場では、どうも山種のやつは面白くないという空気も生まれていた。
サヤトリといっても、思惑分もあるし、常に大きく売り玉を仕掛けていたので、
清算市場だけで相場を張る人にとってはやりにくいのも事実だった。
とくに、米相場の大手、三橋升三、田辺卯助、平原重吉、榊忠治といった人達は心よく思っていないらしい。
私としても、そう反感をもたれたのでは、やりにくくなる。困ったなあ、と思っていた。

すると、前々から懇意にしていた滝田栄三郎商店の中島為吉さんが、
相手の人達をよく知っているというので、橋渡しをしてもらった。これで大いに助かった。
中島さんとは関東大震災のあと、加藤兵八さん、それに故人となられた加藤文之丞さん、
重野冶右衛門さんと一緒にメシを食ったり、相場の話をたたかわしたりの仲だった。
よく、柳橋の”生稲”や、やげん堀の鳥料理屋”末善”など利用したものだ。
のちに、中島さんには関係会社金山証券を預かってもらうことになった。永いつきあいである。

 ここで、私は株の方にも進出することにした。それだけの余力も出来たからにはちがいないが、
政府買い上げがはじまり、米の仕事はふえたものの、次第に統制の方向に動き出したからである。
軍国主義のにおいが強くなってくる。この分では主食の米が民間の手で自由に売買出来るのも、
そう永くはあるまいと感じた。

この点については、時沢郁哉君が早くから「株にも出るべし」との意見をもっていた。
彼はふだんからつきあいもなかなか広かったし、農林省のお役人とも近づきがあった。
米が将来どうなるかといったことについて、いろいろ情報をえていたようだった。
これまでも米相場だけやっていたわけではなかった。生糸から棉花、綿糸などの商品はもちろんのこと、
株にも手を出していた。根が好きだから、手をこまねいているようなことは出来なかったのである。
だが、株は本腰を入れたものでなく、一投資家として、ボツボツというところだった。
注文は、いち早く株の仲買人にもなっていた山吉、鈴木由郎さんのお店に出していた。

 当時の株式市場は今とはちがい、清算取り引き中心の投機色の強いものであった。
三ヶ月先までの先物取り引きを扱う長期清算取り引きと一ヶ月以内に決裁する短期清算取り引き、
それに実物取り引きと三種類の取り引きがあったが、取り引きの内容をみると、
実物はせいぜい七〜八%、残り九十%以上が長・短二つの清算取り引きだったのである。
米と株、取り組む相手はちがうといっても、売買の仕法は蛎殻町と同じだ。

その点は手なれたもの、ウデ試しの方も調子がいい。
その上、都合のよいことには、米相場の大手は株式相場の上でもまた大手であった。
米のお得意さんは、そっくり株の方のお得意さんにもなる。
顔見知りだし、これまでの取り引きからみても信用は十分である。電話一本で注文がとれる。
話は決まった。すぐさま商売開始である。

責任者にはこの案の提唱者でもある時沢君になってもらうことにした。
翌日からその準備である。当時の監督官庁、商工省に再三再四通い、
先輩の山文や山吉などの店に行っては教えを乞うて一生懸命に書類づくりをやってくれた。
その甲斐あって、わずか一ヶ月ほどのうちに許可が下りた。
こんなに早くなるとは思ってもいなかったので、実はおどろいた。

 蛎殻町の店の一部を仕切って、株の仲買いの仕事がスタートした。
商売は最初考えていたより、はるかによく出来た。幸先よしである。
ところが、自分の玉だけでなく、お客さんの玉を扱ってみると、なかなか大変だった。
何しろ急にはじまったこと。正規の帳簿はもちろん、伝票一つにしろ、ぜんぜん揃っていない。
とりあえず、よその店からもらってきて、間に合わせるような始末だった。
不慣れな上に、人手が少ないことも手伝って、毎晩十二時ごろまでやらないと仕事が片づかない。
残業の連続、店のものも、住みこみにしても、きつかったようだ。

当時の店員といえば、米と株を全部入れても四十人足らずにすぎなかった。
深川の正米取り引きの責任者には小黒喜一、蛎殻町の清算取り引きでは米が早貸栄次郎、
綿糸が山崎孝志、そして株式は総支配人として時沢郁哉、それに佐護直司、上西康之といった人達が、
それぞれの部署を守ってくれていた。早貸君はのちに山崎証券の常務取締役に、
時沢君は辰巳倉庫の専務取締役に、上西君は独立して、日栄証券社長になる。
小黒君、早貸君は惜しいことにすでに故人となられた。

 早貸君は富山の出身で、根っからの市場人だった。扇子商店というところから私の店へ来たが、
当初は蛎殻町の市場で手を振ってもらった。名前が珍しいし、その男前と気っぷの良さでは
同業者仲間で知らない人はないくらいであった。だが、私にとっては外向きというより、むしろ内向き、
かけがえのない忠実な女房役でもあった。大体、私の若い頃は先代山繁さんばりに、
店員にはきびしく、年中がみがみ雷を落とし、やたらにお前なんかやめてしまえ、と叱り飛ばしていた。

そうはいっても、ほんとにやめて行かれたのでは大変だ。そんな時に間に入り、私の言いすぎを諌め、
また店員をなだめてくれていた。とにかく、力まかせ、強引に押しまくっていたから、しょっちゅうのこと、
そのたびに、早貸君は店のため第一に一人で思い悩み、ずい分苦労していたように思う。
それをよいことに、面倒くさいあと始末は何でも彼に押しつけてしまった。
時沢君と早貸君は私の言わば両腕だったのである。

 少し仕事の方がひまになると、新しく入った店員達を集めて、その日の人気株の高値、安値、
終値を質問したり、ソロバン競争をやっては、訓練もしてくれた。今で言う、社員教育である。
成績優秀者には、下着の上下などを賞品にしたように覚えている。
こうした人達、柱となって、いよいよ兜町で山崎商店の棟上げの日を迎えたのである。
いくらか余裕が出てきたのも、この頃だった。少なくとも、それまではまったく、ぎりぎりの毎日を送りつづけ、
周囲のことまで気が回らなかったというのがほうとうかもしれない。
だが、気になっていたことがあった。それは鏑川の橋をかけるという女房との約束である。

 鏑川といえば、まず最初に思い出すのが、徴兵検査の時だった。この時、大雨のあとで、
川止めにあった。徴兵検査の日は迫るし、いらいらしてしまった。
その後、婚約がきまって、二人で私の坂口の家に行った時のことである。橋がないので、
馬で川を渡らなければならなかった。弟の篤二が馬を引いて川岸まで迎えに来ていた。
妻の手をとって乗せてあげたが、「私は馬に乗るのは嫌いです。こんな川、馬で渡らないですむように
橋をかけて下さいね」と言われたのである。「ああ、きっと橋をかけるよ」と約束してあった。
そこで、鏑川に星川橋をかけた。つづいて塩畑堂橋もかけた。この道は県道にしてもらった。
時の内務大臣であった安達謙蔵さんにお骨折りを願い、塩畑堂橋には開橋記念の碑をかいていだだいた。

 見方によると、同じ寄付ならもっと派手なやり方もあった。
しかし、橋だの、道などの地味なものに寄付をしたのにはそれなりの理由もあった。
というのは、この頃、高崎の白衣観音を作られた井上保三郎さんに「世のためにお金を使う時には
道を作るような隠れた仕事が一番良い」と言われていたのである。
もっとも、この意見を聞いた時には「なんだ馬鹿らしい}と聞き流してしまっていたのだが、思い直した。
 ところが、この橋が十年もたったのちに大きな役に立った。太平洋戦争の時、
家財を坂口の実家へ疎開するときである。荷物を満載したトラックが楽々と通れた。
もちろん、そんなことになろうとは、当時は考えてもみないことであった。


第19話 本社ビル建築

 私としては、昭和に入ってからというもの断然ツキ出した。世の中は不景気時代の到来で、
私とは逆になっていた。昭和二年には金融恐慌が襲い、鈴木商店は破産する、銀行はバタバタと倒れる、
というわけで大騒ぎ。やっと、よくなったかと思ったら、
昭和五年に例の金解禁による大不況がやってきた。「円切り上げ」である。
この年、米は一千万トンをこえる史上最高の大豊作。米価はたちまち大暴落して、
石当たりわずか十四円という安値に落ちこんでしまった。大正のはじめ頃の値段だ。つい、二〜三年前までは
石当たり三十円から三十五円ぐらいしていたから、半値以下、一俵になおせばざっと六円である。
おまけに、生糸も世界大不況のおかげで、明治二十九年以来の安値に暴落した。
当時の日本では何といってもまだ農業の地位が大きく、輸出の大宗は生糸であった。
農村恐慌で娘は身売りに出され、都会でも失業者が町にあふれ、人間まで安売りされる有様だった。
"大学は出たけれど"の時代である。

 株式市場をのぞくと、人気株の代表、新東(東京株式取引所新株式)が百円の大台を切っていた。
新東の百円割れというのは二十五円払い込みになってからは、明治の末期はいざ知らず、他に例がない。
鐘紡は十五年ぶりの安値、日本郵船が五十円を大幅に割って二十円台に、王子紙、日魯、
浅野セメント(日本セメントの前身)、日本産業(日立の前身)などいずれも上場以来の安値、
日本鋼管などは、何と五円台になってしまっていた。
この頃、金解禁の政策はあやまりであると、強行に主張していたのが、今なお活躍されておられる
高橋亀吉先生や石橋湛山氏であった。

 理論はよくわからないが、たしかに、こんなベラボウな状態がそう長つづきするはずはない。私もそう感じていた。
中でも、高橋先生の意見には注意を払った。というのは、当時、兜町で相場師として誰一人知らぬ人はいない
当たり屋、林荘冶さん(丸荘証券の創立者)の知恵袋といわれていたからである。
関東大震災の直後、一体どうなるんだと皆がさわいでいる時、高橋先生は林さんに復興景気が起こると指摘され、
東京電灯売りの鐘紡買いの作戦をさずけられた。

林さんは兜町は立会停止中だったので、東京電灯の株券を袋につめて大阪に行き、
これを全部売って、鐘紡に乗りかえた。これが図に当たり、一挙に大金を手中にすることになった。
そういう話が語りつがれていたのである。
私は今でも高橋先生とはおつきあいを頂いている。戦後、私どもで講演会を催すたびごとに、
講師として、御出馬をお願いしてきた。

 とにかく、先生と兜町のわれわれとは長い間の、そして切っても切れぬ縁とも言えよう。
この時、高橋先生は金輸出再禁止、国内景気刺激策の即時採用を唱えておられた。
こう何でもかでも安いのだから、どれでも買っておけば、いずれ値上がりするにちがいあるまい。
米相場でいう「豊作に売りなし」ではないが、買う他なしである。
大いなる悲観は大いなる楽観に通ずとも言う。

家内は「とにかく、早く土地を買っておいた方がよい」との意見であった。私も、店は手ぜまでもあるし、
また、おとくい先の中には、最初、馬越文次郎さんなど「こんな小っぽけな店に、注文して大丈夫か」と
なかなか信用してくれなかったこともあったぐらいなので、麹町三番町と兜町に、それぞれ土地を買った。
麹町は自分の住宅のため、兜町は株屋としての店を出すためである。

 ついでに、株を買ってみた。土地を買う以上、いずれ、その上に建物をのせるわけだ。
今日でいう目的預金よろしく住宅資金をひねり出すための投資である。まことに常識的だったが、
建築資材を作っている会社の株、つまりセメントでは浅野セメント、材木の秋田木材、鋼材の日本鋼管、
それに日本産業と東京電灯の株を仕込んだ。これが、大当たりだった。

 金解禁が断行されたあと「金」はどんどん国外に流れて出て行く、国内では緊縮政策への不満がつのって、
浜口首相が右翼の暴漢に狙撃されるなど、次第に不穏な空気が強まった。
翌六年の秋に満州事変が勃発するなどゴタゴタつづき、そして年末になって、犬養新内閣の成立と同時に、
金輸出再禁止となった。株式市場は一斉に大暴騰である。以後、昭和九年まで、大勢上昇となる。
ただの五円の日本鋼管が昭和七年には二十五円台、十五円の日本産業が四十円台、
二十円の浅野セメントが五十円台にはね上がり、昭和九年になると、
日本鋼管は実に百五十円という高値を呼んだ。もちろん、最安値で買って最高値で売るなどという
”神業”をやってのけたわけではないが、もうけは大きかった。

「売りの山種」が「買いの山種」でもうけることになった。
予想外のもうけが出てきたので、この際思い切って、店も、住まいも一ぺんに建てることにした。
私は大正十三年に独立した時、大体、十年一区切りの計画をたてていた。
十年間はどんなことがあっても同じ体制で行くつもりだった。というのは、店や、住まいを大きくすると、
つまり世帯を拡げてしまえば、そうでなくてもかさむ経費は輪をかけてふくらんでしまう。
いくら余計にもうけても、経費に食われて、残らなくなる。
十年間我慢するというのが、私なりの”生活の知恵”であった。

 しかし、今回にかぎり、予定より早目になった。やるときまれば、気がせく。
兜町の店はせいぜい四〜五万円でも建てられるところだったが、だんだん慾が出てきて、
あれこれ注文をつけた結果、工費は十八万円にもなった。
少しでも良いものを作ろうと、あちこち建物を見て歩くうちに、そうなってしまったのである。

その頃、際立った建物といえば、尾張町の交差点、銀座四丁目の服部時計店だった。今の和光そのものである。
あの外側に使われている赤味の入った花崗岩、そして内側の壁に張りつめられた
淡いクリーム色の大理石、どれもが、私の好みにピッタリである。
私は石が好きだ。その色、つや、年を重ねるにつれ磨きがかかる。
壁、床、カウンター、そして役員室につけたマントルピースも、大理石で飾った。
昭和十年、当時にしては珍しい五階建て、花崗岩、大理石をふんだんに使い、
東京でも二番目の自動式エレベーターを備えたビルが完成した。
この建物は現在の本社ビルに発展するまで、三十年間、山崎証券の本社となったのである。

 一方、麹町の方は総ヒノキ造りの純和風にした。たまたま、営業担当として、
腕をふるっていた上西康之君は奈良吉野の出身で、材木商の経験者であったから、
普請奉行になってもらった。材木を十分に吟味した上で、庭木の方まで気を使ってくれた。
こちらの方は工費五万四千円。”三番町御殿”とまでいわれたほどの豪しゃな住まいが出来上がった。
満四十歳の時である。

大きく儲けたとはいいながら、いささか、調子に乗りすぎた感もあった。
年齢から考えると、得意なっても無理もなかったかもしれない。何しろ、新聞にも顔写真入りで、
私の意見がのるようになっていたからだ。つい、四〜五年前のこと、群馬県の人から手紙とともに
古い新聞の切り抜きが送られてきた。それは昭和十年の元旦付の中外商業新報であった。
そこには、米穀界の本年の見通しということで、田中貞二(米相場の大手)、
松村金兵衛(神田川正米市場幹事長)、杉 田栄蔵(東米正米部委員長)といった有力者達にまじり、
いっぱしの意見を述べている。年齢は私が一番若かった。

 私と新聞、とくに記者の皆さんとのつきあいは長い。というのも、私には新聞が先生であり、
その記事を書いている記者さんの話からうるところが大きかったからである。
”売りの山種”として、知られるようになってからは、私の意見を聞きたいというので、
店の方にちょいちょい見えるようになった。読売、都、報知、中外新報などの方だった。
しかし、そんな時、私はもっぱら聞き役に回りがちだった。
それは、自分の相場の狙いを探られては困るといった面もあったが、
それよりも、新聞によって作られていく社会のいろいろな意見や見方を知ることが出来たからである。

 その上、ニュースをどう解釈したらよいか、どう判断すべきか、という点で大いに教えてもらった。
私にとって耳学問は実に有難い。だが当時新聞記者さんには酒豪と呼ばれるような人が多かった。
私は酒はちょこでほんの二〜三杯、どちらかといえば下戸、とてもおつきあい出来ず、
閉口したことをよく覚えている。夜の部はもっぱら時沢君に頼んだ。
何はともあれ、第一線から引退したあと、今日に至るも、日本経済新聞の正月三日の株式相場見通しには
毎年登場させて頂いているようなわけである。


第20話 二・二六で当てる

 店も住居も立派に出来た。そこで、新東へ売りつないだ。もし、ここで一転、不景気になれば、
早まって高いものを作ったことになるからだ。新東は株式市場の指標株である。
景気が悪くなれば、いち早く値下がりする。つなぎ売りしておけばその利益で、
高い買いものをしていても、その埋め合わせも出来る。
もちろん、それだけの理由ではない。実際に、新東も、その親である東株の実株ももっていた。
たしか、その頃新東を一千四百株、東株が四千百株ほどあった。
その他、紡績や鉄鋼株など雑株の手持ちも結構多かった。

 保険つなぎが必要である。ただつなぐ場合、もっとも採算的に割高な人気株につなぐのが効率的だ。
それが新東であった。
さて、実際の相場の方はいぜん力強い上昇ぶりをみせていた。そして、この年の十月、
イタリアとエチオピアが戦争状態に入ったのをキッカケに相場は一段高となった。
「戦争は買い」というわけである。しかし、私にはどうも理解しがたかった。
日本から遠くはなれたアフリカで起きた植民地をめぐる戦争である。

とくに、日本の経済にプラスをもたらすはずもないのに、市場はこれを材料にはやしたてている。
諸株一斉高だ。私は新東と新鐘(鐘淵紡績新株式、二十五円払い込み)を中心に売りはじめた。
手持ちの雑株、そして新築のビルと自宅という資産の保険つなぎとして売りつないだのである。
新東は百三十円前後から、ぐんぐん上げて、翌十一年にかけ百七十〜百八十円、
新鐘の方も百十円あたりから百十円台へと次第に騰勢を強めていった。

 こちらの見通しからすれば、とっくに天井を打って反落してよいところだ。
ところが、相場の方はおかまいなしにずんずん上がる。こうなってくると、自分の資金にも限度がある。
必ず反落まちがいなしとの信念をもっていても、無限に売り上がるわけにはいかないし、
追い証はかかてくるで、さすがの私も窮地に追いこまれた。

売りの山種である。こんな場面は一度や二度ではあるまいし、馴れているから大したこともないだろう、
と思う人があるかも知れない。どうして、どうして、何べん経験しても、こんな時の気分は決していいものじゃない。
ジリジリ、イライラする。不安感におそわれることもある。血の小便が出る。
ことのはじまりが、店から住まいまで、大金をつぎこんで作ったことにある。
やはり、分をすぎてしまったのでは……と思ったりした。
だが、悔やんでみても、今さらどうにもなるわけではない。

営業の責任者であった上西康之君とともに浜町の料理屋”菊水”へ出かけた。
メシを食べながら、あれこれ打開策を相談しようというのである。
といって、ここまで来ては、もはや良い思案が浮かぶはずもなかった。
結論は「撤退するほかに道なし」であった。「もともと裸ではじまったのだから、あらためて、出直せばいい」
というきれいサッパリしたものである。一種のあきらめも手伝っていた。

 二月二十四日のことであった。翌二十五日には売り玉の買い戻しにかかった。
その晩、新潟の米相場の大手であり、おなじみの、幸田慶三郎さんが、東京に出てきて私の家に泊っていた。
あくれば二十六日、早朝から雪がちらついていた。
この年は雪が多かった。二月はじめに、五十年ぶりという豪雪がふり、二十三日にも、再び大雪に見舞われた。
余談はさておき、この日の未明、二・二六事件が発生した。いち早く、七時にはニュースが入ってきた。
前夜からのお客、幸田さんは新潟に定時電話(地方電話は申し込み制で、前日に予約しておくことが多かった)を
申しこんでいた。当時の新潟取引所は東京より立会開始が十分ほど早かった。
まだ、二・二六事件の大変事の詳細は伝わっていなかった。気配がたった。それっとばかりに売った。
前日に買い戻した分はもちろんのこと、あらためて売りまくった。
情勢は一変したのである。もはや、何も心配はいらない。

 そうしておいて、兜町の店へと出かけたのである。どんなぐあいになっているのか、偵察の意味もあった。
三番町の自宅を出て、竹橋へと抜ける道を自動車で行くと、左手に連隊があるところで、
停止を命ぜられた。あたりはものものしい。将校二人が乗せろという。断るわけにはいかない。
そこで、言われるとおり、赤坂の連隊まで連れていった。そのあと、三宅坂を下って、
宮城のお堀端にまでくると、銃が林立し、機関銃も据えられている。
これは大変なことになったと思いながら日比谷を回って兜町についた。

青年将校を中心とする反乱軍によるクーデターである。五・一五事件以上のただならぬ気配。
株式取引所はとりあえず立会の開始を午後一時まで延ばした。
だが、騒ぎは大きくなるばかり。とうとう立会休止ときまった。店には早くから店員がやってきていたが、
一体どうなることか、とても仕事どころではない。こんなことはそう何べんも起きることではないので、
勉強の意味もあって、交替で店員を現場近くまで見にやったりした。

 三日ほどで反乱軍は鎮圧された。しかし、取り引きはいぜん再開できなかった。
三月三日になり、取引員の臨時総会が開かれた。とにかく商いも多く、
建て玉の多い短期の新東、新鐘、日本産業、東京電灯の四銘柄については
建て玉の半数を強制解け合いすることにきまった。解け合い値段は新東は百五十五円、
新鐘百五十三円、日本産業七十三円五十銭、東京電灯六十二円五十銭だった。
この値段は売り方としてはいささか不満だったが、きまったものは仕方がない。

 三月十日になって、ようやく市場は再開された。まず新東だが寄付から売り物殺到で
気配はどんどん切り下げられて行く。しかし、なかなか寄り付かない。売り一色である。
私はここで、買い物を入れた。一たん、寄り付かなくては話にならない。やっと、百四十六円にはじまった。
やや落ちついて、六円十銭まで戻った。買い戻しやら、値ぼれの買いも入ったからだ。
そこへ、あらためて、売りを浴びせた。これであっさり百四十円台を割りこんだ。
この日は怒号うずまく中での大商い、午前中だけで百万株をこえる新記録となった。
とても整理がつかないので、午後の立会は休止せざるをえなかった。

 新内閣の馬場蔵相は高橋是清前蔵相の財政政策を修正、
増税と経済の統制を強化するとの声明を発表した。
このおかげで相場は立ち直るどころか、連日坂をころげるように下げていった。
三月の下旬になり、ようやく底を入れたが、新東は百二十円スレスレまで売りこまれた。
この間に、すべての売り玉を手仕舞いするとともに買い越しに転じた。
恐慌相場ではとかく下げすぎが起こるものである。
そのあと、思ったとおり相場は戻った。急落後の反騰、定石どおりの動きをみせた。
ここで、買いこした分を利食った。徹底した戦いであった。
なだれを打って敗走する敵をハサミ打ちするようなことになった。
買いで負けると、すっかり弱気になり、戻るのを待ち切れずに売って出て、損を重ねるというのは、
昔からもよくみられる例であった。

 この当時の相場は、”売り”か”買い”か、引き分けなしの真剣勝負であった。
相手を倒さねば自分が血を流すことになる。
それは、あまりにも凄惨な世界であった。とても耐え切れぬような緊張の毎日でもあった。
まさに、シマと呼ばれ、相場師の戦場にふさわしい別世界であることを今さらのように感じたのである。
もし、自分が敗れていたらと思うとなおさらであった。この時の利益は五百万円にも達した。

勝てば勝ったで、やっかむ人も多く、ねたみ、そねみはつきものだった。
表面上、私がすんなりと勝ち戦をおさめたとみた人達の間からは
「山種は二・二六事件を起こした反乱軍と一脈通じている」とのうわさが飛んだ。
あわや負け戦になりかけるところまで追い込まれ、国家的突発事件で救われた私にしてみれば、
根も葉もないこと、実に苦々しい話である。

 ところが、それから間もなくのこと、ある日憲兵が二人やってきた。
腕には白地に赤で憲兵と書いた腕章をまき、腰には拳銃を帯びている。
「憲兵隊まで来い」という。理由などきこうものなら、どやされそうな勢いだし、そのまま連行された。
自分としては、まったくやましいところはない。だが、どうなるのか、一抹の不安もあった。
憲兵隊長の前に立った時には緊張して思わず手を握りしめていた。体がふるえた。
すると、机の上にどさっと手紙をおき、「これは投書だ。君は反乱軍と関係があるんだろう。
投書によると、久原房之助に融資していたというではないか。
久原は反乱軍の関係者をかくまっておる。一体どうなんだ」ときめつけられた。

そこで、私は久原さんとのそもそもの関係を説明した。これより二年ほど前、昭和九年の夏、
久原さんの振り出した手形が回り回って私のところへきた。久原さんは久原鉱業をおこし、
日立の基礎を作られた方、その名はつとに知られており、安心して受けとったところ、
この手形は期日が来たのに落ちなかった。

 ちょうど夏のこと、千葉県の飯岡に避暑に行っていた。そこへ、久原さんがわざわざ訪ねてこられた。
そして、手形の延期の言いわけをされたのである。当時の金で三十万円という大金で、
今の金にすれば億をこえる。だが、私はあえて承知した。
久原さんとはそれ以来のつきあい、つながりであった。まったくの商取り引きである。それ以外何の関係もなかった。

また、売り玉は昨日、今日に建てたものではなく、一年以上も前からとった作戦にもとづいたものだった。
そのことを一生懸命こまごまと手をとるように説明した。久原さんとの関係は一応わかってもらえたが、
相場の方は専門的なことでもあるし、なんとも納得出来ない様子、
その晩は憲兵隊に泊めおかれた。大丈夫との自信はあったものの、神経はたかぶりよくねむれなかった。
翌日、とにかく帰してくれたが、帳簿の取り調べがはじまった。
店の売買は記帳と取引所の日記帳を一週間がかりで照合した結果、疑いはすっかりはれた。


第21話 筆禍事件

 二・二六事件でもうけたあと、つい調子に乗って失敗をやらかしてしまった。二・二六事件の直後、
夏場のことである。ようやくごたごたもかたづいて、相場も落ちつき、戻ったところだった。
大体、兜町というところは上げ賛成で、人気に走りすぎるきらいがある。額面は五十円だが
十三円五十銭払い込みの新東が百五十円前後、払い込みの十倍以上していた。高すぎる。
ぜんぜん採算のとれぬ株だ。まったくの人気だけで動いている。
私のソロバンからみるといつも危い株だと思っていた。だから何かきっかけがあると暴落してしまう。
ちょうど二・二六事件で自信をもっただけに、自分のところで発行していたレポートに
”新東百円詣り”という題をつけて、新東の株価は百円がいいところだ、と書いたのである。
そして、同時に自分でも売って出た。これがまた、相場が一たん反騰したあとで、
タイミングがよく見事図に当たった。

 そこまではよかった。だが、あとがよくない。一ヶ月ほど営業停止になってしまった。
今のようにきびしい証券取引法があったわけでもない。相場観について何を言おうと自由な時代である。
法にふれることもしてないし、監督官庁からお叱りをうけたのでもなかった。
一口で言うと、業界からしめ出しをくったのである。村八分にされたのであった。

 もともと私は蛎殻町、米屋から兜町に進出した、いわば”場ちがい筋”であった。
それが兜町の御神体ともいうべき新東、それも大事なメシの種であった新東を売り叩き、
もうけたのだから総スカンにされたのも無理はなかった。なにしろ、新東、東株の二銘柄の商いが
全取り引きの二割をこえる年もあったのである。
蛎殻町から兜町に出てから、わずか一年、短期の清算取り引きでは山文についで二番、
長期でもベストテンに入った。そして、二・二六事件のあとでは、長・短ともに業界で二番に上がっていた。
すでに常日頃、場ちがい筋のくせに生意気だと憎まれていたのである。
こうなってはやむをえぬ。兜町の長老をはじめ主な方の自宅を一軒一軒回って歩き、お詫びした。
話は簡単ではなかった。

 店の者が行くと、玄関払い、ケンもホロロの扱いだという。そんな時、支配人の時沢君が
「もはや委員長(一般取引員組合、今の証券業協会)にぶつかって、頼む以外にないでしょう」
と出かけて行った。常務取締役の肩書きながら年はまだ三十二歳、
丸坊主であったから、先方も最初は若僧が……と思ったらしいが、店全体を思うその熱意に動かされたようで、
急遽、解決のはこびとなった。

 この時の委員長は山二の片岡辰次郎さんであった。
片岡さんは「相場は相場、山種は堂々ともうけたのだから、それはそれでいいだろう。
だがなあ、ここに池があって鯉が百匹いたとする。そして釣っている人は八十人としよう。
その中の一人が腕がいいんで五十匹も、六十匹も釣り上げちゃった。あとはどうなるんだい。
獲物なしの人が多勢出てきちゃうじゃないか。皆は一体どんな気持ちになるだろうか。そこを考えなさいよ。
これからもあることだからね……」と言ったという。この話は身にしみた。
同じ蛎殻町出身の鈴木由郎さんのとりなしも頂いたおかげもあって、やっと何とか許してもらえた。
私のような文才のないものがおこした、あとにも先にも、一回かぎりの”筆禍事件”だった。
もっとも、文章そのものは野田経済所長に書いてもらったものだったが……。

 しかし、時を同じくして、東京朝日新聞が取引所改組の報を出し、新東、東株などの人気株が暴落、
立会停止となる事件がおきた。これには、私もおどろかされた。結局は誤報だったが、
政策当局の底流に取引所改組の考えが生まれつつあったのは事実だったようだ。
戦争の気分はますます強まり、”非常時”という言葉がひんぱんに使われはじめたのもこの頃からである。
この頃、勉強のために、経済関係の評論家の先生方においで頂き、話を聞いたりした。
私は実戦派であり、もっぱら経験をもとに相場を張ってきた。商売は先代山繁さんに叩きこまれたやり方を柱に、
自分なりの工夫をとり入れたものである。それで、十分に成功をおさめてきた。別に問題はなかった。
しかし、時代は動く。これまで農業中心だった日本経済は、軽工業から重工業の発展期に入り、
工業国家としての地盤を固めて、造船や機械、自動車、航空機などの産業がどんどん伸びはじめていた。

 勉強は絶対に必要である。だが、本を読むのは大変だ。人の話なら解りやすい。
たまたま経済関係の雑誌をやっているダイヤモンド社の石山賢吉さんとも知りあうことが出来た。
景気の見通しはもちろんのこと、会社の業績をどうみるかなど、
工場見学にも一緒につれて行ってもらい、急所を教えてもらった。
米相場を張る上では田んぼをみたり、天気予報を研究したりする。株の相場を張る上では
会社を研究するのを欠かすことは出来ない。そういう意味で実に助かった。
石山先生とはその後ずっとおつきあいを頂いた。太平洋戦争がはじまる前の昭和十四年頃には
石油が統制になるというので、石山先生を顧問に、三和石油という石油の採掘会社を一緒にやったこともあった。

 石山先生のお話の中で、とくに印象に残っているのは、托鉢する禅僧の話だった。
禅僧はお布施を集めて歩くとき「お椀の中に落とされた一厘銭のチャリーンというひびきに、
何とも言えぬ楽しさを感ずるのだそうだ」というのである。
これは私のお金は楽しみながら貯めるものとの考えに一脈通じていたからだ。
昔から店のものには”蓄積第一”と口がすっぱくなるように言ってきた。ところがまじめに金を貯めるのは
大変な苦痛だと誰も彼もが言う。もちろん、それなりにがまんとか、強い意思が必要なのは当たり前だ。
しかし、それをすぎればあとはぐっと楽になるのを知らないだけである。
胸つき八丁をすぎれば貯蓄マラソンも勝利者になれること間違いない。


第22話 日活株大仕手戦

 日本活動写真(日活)の株式買い占めをめぐる戦いも印象に残る事件だった。
私がこれに一枚加わることになったのは、堀久作さんと知りあったのがキッカケである。それも、
麹町三番町に住まいを建て、引越したところ、たまたま堀さんの邸も近くにあり、近所のよしみで懇意になった。
堀さんは日活に入り専務になったが、このころ日活は業績不振で無配、内容も悪化していた。
昭和十年の秋だったと思う。当然のようにうわさは次第にひろがり、株は売り叩かれた。株価は三十円台から
二十円台へと下げて行った。こうなると、長期清算取り引きの先限は先安を見こんでの売りが重なり、
一段と下げるというぐあいで、さすがの堀さんも困った。日活は危ないらしい、といった話がささやかれる。
このままでは、立ち直れるものまでダメになってしまう。まず、株式市場から手をつけねばならないというので、
堀さんは私に話をもちかけてきた。

 「日活の株を買ってもらいたい。値下がりのひどい先限を買っておいて、これが決裁月に回ってきたら
現物を引きとる。もし、それまでのところで株価が上がって利食い出来るようなら、
売ってその利益を半々にしよう」というのである。私にしてみればうまい話だ。注文はもらえるし、
手数料を頂戴した上に、場合によれば差益も入る。
問題は秘密を守ることと、受け代金さえもらえばよいわけだ。値を上げて買う必要はなく、
狙いは株を沢山集めることにある。

 日活の当時の資本金は八百万円、発行株数は十六万株だった。静かに、しかも根強く買いつづけた。
二年がかりで、六万株ほど買った。しかし、この間に日活の業績は一向に芳しくなく、
十五万円の借金のカタに上野、両国などの映画館を競売される寸前までに追いこまれるという苦しさだった。
この時は米相場の大手、田中貞二の肩代わりでやっと切り抜けた。
こんな状態だから売りものはいくらでも出てくる。堀さんの資金も不足してきた。そこで、のりかけた話でもあり、
私は金融面も引きうけることにした。私の資金を出すとともに、千葉銀行にも、うけもってもらった。
そこで、買い付けの状況を報告するため、千葉銀行へ一日おきに通うことになった。
堀さんの乗用車クライスラーに乗りこんで、千葉街道を往復したのである。
これをきっかけに千葉銀行頭取の古荘さんとも近づきになれた。

 ところが、一応株集めのメドがついたころに、松竹の大谷竹次郎さんからも「日活の株を買って欲しい」との
注文をうけた。実に妙なことになった。当の会社側と乗っ取り側との両方から注文をもらったのである。
私としてはどちらの味方になろうというのでもない。着実に注文さえ執行すればよいわけだ。
何も断る理由はないと思ったので堀さんには一言も言わずに大谷さんの話を承諾した。
たしか、昭和十三年のことだった。

 堀さんはこのころ、東宝の小林一三さんからも株集めの資金を借りていた。日活を守るため、
東宝を背景に松竹と争ったのである。堀さんとしては「大谷さんだけには日活を渡さない」といって、
兜町だけではなく、大阪の北浜、名古屋の伊勢町でも買って買って買いまくった。
これに売り向かったのが各地の地場筋だった。取引所をとりまく投機家の一群である。
誰が買い本尊なのか、そしてそのバックは誰なのかは一向にわからない。それに、日活では一時、
当局に帳簿を押収されたことから決算発表さえも行われなかったので、
業績の悪さについて、疑惑に疑惑を呼んでいた。売りたくなるのも当然であった。
株価の方はいつも間にか、百円台へ、そして百二十円まではね上がった。
買いはじめた頃は十四円にすぎなかったのである。売り方はまったくの窮地に立った。
買い方は株集めである。利食いの売りも出てこない。踏もうとしても売りものなしだ。

 堀さんが買い集めた株数は最終的に八万株をこえ、筆頭株主の地位におさまっていた。
売り方はついに解け合いを申し入れた。しかし、堀さんはガンとして応じなかった。
所要で大阪へ行ったところ自動車に硫酸をぶっかけるぞと、おどされたこともあったという。
結局、兜町以外の各地で買った分については解け合いをしたものの、東京、兜町で取り引きされた方は
何としても株を引き取るといって頑張った。「外国へ行くと、日本からの通信を日本電報といわず、
”東京”電報というと聞いている。その日本を代表する東京、兜町が売買を成立させておいて、
株がありませんとは何ごとか。あげくの果てに解け合いにしてくれないと、
日活の将来のためにならないと言うに至っては許せない」とタンカを切ったそうである。

 堀さんは大勝利をおさめた。ところがこれをきっかけに日活の株式は上場廃止となってしまった。
なお、日本活動写真が松竹大谷さんと東宝小林さんの支配下を脱却し、日活として名実ともに独立したのは、
太平洋戦争をへて、昭和二十二年のことになる。
それはとにかくこの時の相場では、堀さんの他に丸荘の林さんが買い大手として儲けた。
林さんは関東大震災あとの復興景気に乗って大当たりし、一挙にのしてきた人である。
私も株集めの両者から注文をもらったおかげで、手数料は頂くし、相乗りしたのでその儲けもあり、
結局三十万円ほどがフトコロに入った。

 のちに、堀さんは私が敵方である大谷さんの注文をもたっていたことを知り、
「君は一体どちらの味方なんだ」となじった。私は「相手がどなたであろうと、
注文をもらえば商売させて頂きます。それが、ブローカーです」と答えた。
ここで、ケンカになっても不思議はないが、そこは堀さんである。
「いろいろやっかいになった」とお礼さえ言われた。
出来そうで出来ない話である。私はあらためて、大した人だと感じた。

 忘れもしない昭和十四年の十月十四日、ついに病気にやられた。生まれてはじめて、
病気らしい病気にかかり、神田の神尾病院に入院したのである。猛烈に耳の奥が痛い。
寝床の横を人が歩いてもとび上がるほどの痛さだった。先生の診断は結局、中耳炎という話だったが、
最初の頃病名もハッキリしなかった。夜になり、家内もウチに帰り、
となりの部屋につきそいで泊っていた店員も寝てしまうと、あれこれ悪いことばかりを次から次へと想像した。
さびしさと痛みが交互に私をおそった。

 痛みもやや和らいできた頃、ある夜、ふとガンではないかと思った。
まさか、いや、ひょっとしたらそうかもしれない。一刻ほど頭の中がゴチャゴチャした。
翌日から、イライラが激しくなり、つきそいのものを新聞が届いていないとか、
戸の開け閉めひとつにも叱りとばした。
そのうち、親友の加藤兵八さんが見舞いにやってきた。面会謝絶だったがぜひあいたいからと
院長に頼んだのである。あとで聞いたのだが、危ないかもしれないというので
院長がとくに面会を許してくれたものだった。

 思わず涙が溢れた。最悪のことも考え、加藤さんには仕事のことから、こみいった個人的なことまで、
いろいろとお願いした。無口な加藤さんはいちいちうなずきながら「何も心配しないで、
とにかく一日も早く元気になって下さいよ」と言って帰っていった。何となくほっとした。気持ちも落ちついた。
家内にも一応、万が一の場合財産のことをどうするかと、それとなく遠回しに話すと
「私には子供達の教育費の分だけ残して下さい。あとは仕事のために会社に……」と答えた。
この時ほど家内が心強く思えたことはなかった。
私ももはや数え年で四十六歳、あるいは寿命がきたのかとも感じた。

 たまたまこの年の春、米穀配給統制法が成立し、十月には深川の正米市場も蛎殻町の清算市場も
閉鎖されてしまった。戦争は拡大の一途を辿り、いよいよキナくさくなっていた。
まだ、兜町が残っているとはいえ、私の生命とも言うべき米の仕事がなくなった今、
年貢のおさめ時かもしれない。
力のあるかぎり、馬車馬のように走りつづけてきた私、相場の上では勝つために徹底的に闘ってきた私、
その結果残されたものは何なのだろう。
追いつめられた病いの床で、これまでの人生をあらためてふり返ってみた。
あまりにも、あまりにも突き進みすぎたのではなかろうか。相場の相手方も、
そして私の身の回りの人もまきこんで……。

 幸いに病は癒えた。これをさかいに、私の持ち前だった冷酷なまでのきびしさも、
いつしか和らいでいった。年中ピリピリしていた周囲の人、とくに店のもの達は、ほっとしたという。
病気という先生に教えられたことが多かった。


第23話 忍び寄る戦争の影

 相場では「戦争は買い」というのが定説みたいになっていたが、大東亜戦争、いや太平洋戦争の時ばかりは
大違いだった。日本全体が元も子もなくしてしまう結果になった。買いも売りもない。
これより前、昭和十二年に日支事変が勃発した際にも相場は暴落し、一時は半恐慌のような状態が出た。
そこで、大日本証券投資会社や生保証券といった買い支え機関が出て、やっと株価が落ちついた、
という先例もある。元来、自らが戦争に参加、勝つことに全力を注ぐとなれば、
あらゆるものは犠牲にされるのだから、相場どころではない。

 それでも南京が陥落した時には、提灯行列までくり出してのお祭りさわぎ、相場も沸いた。
これを世間では興亜相場と呼んだ。とはいえ、これも一刻のこと、再び買い支えのために日本証券投資、
さらに日本協同証券がどうしても登場せざるをえなくなった。その上、「株価統制令」なる法律も出来て、
相場は何と統制下で動くことになってしまった。そして、太平洋戦争がはじまるや、さらに統制の色はこくなり
自由主義経済なればこその株価が上下ともに抑えられる有様。
もはや、相場もおしまいである。新聞やラジオで流れるニュースはどれもこれも大きな戦果、
わが方の損害軽微なりといった景気のよいものだったが、実際の戦況は日本にとって次第に不利になっていった。
実態をうらづけるかのように、市場では売りものがちになるばかりであった。
よく相場が先見性を発揮するというが、きびしい言論統制のもと、恐ろしいものである。

 そして、昭和十八年の三月、短期清算取り引きで新東の取り引きが停止された。新東は戦前の代表的指標株、
人気株中の人気株であった。兜町の灯が消えた。急騰、急落するたびに勝利と敗北の人生模様を描き出した、
そのあまりにも華やかな、波乱にみちた新東の姿はついに二度とみられなくなってしまったのである。
そして、この年の夏には、明治十一年六月以来、六十五年にわたる歴史をもった東京株式取引所は解散し、
日本証券取引所となった。短期取り引きは全面的に廃止、長期取り引きは清算取り引きとして残された。
この清算取り引きも戦後、取引所再開の時GHQによって否定され、
以後何回となく業者からの要求があったにもかかわらず、復活するにいたらずに終わった。
この結果、戦前、一夜成金、一夜乞食とまでいわれた投機色の強い兜町(しま)の性格は変わった。

 それはともかく、株式市場ではとめどなく流れ出てくる売りものを、戦時金融公庫がさらいはじめた。
銘柄別に買い注文をはわしてどんどん買った。開店休業状態の業者はこの買い注文をもらい、
一息ついていたのである。
一人また一人、兜町から若い人達が戦争に出ていく。私はもうお役に立つ年齢でもない。
さりとて、何も出来ないと言ってすましている気にもなれなかった。
相場の上ではそれこそ血を流す戦いを何度となくくり返してきたが、もはや敵、味方なしである。
出征されて行く方、一人一人に心ばかりの餞別を差し上げることにした。
たしか金額は十円ほどだったと思うが、数は多くかなりの金額になった。しかし最後までつづけた。

 商売の方は米はもちろんのこと、株の方も先細りでサッパリである。
戦争のあともそうだったが、本職以外にあれこれ手を出してみた。
そのうちの一つに、タクシー会社があった。当時うちの営業担当の責任者だった上西康之君
(現日栄証券会長)と相談して、東京自動車の株を買い集め、自動車も集めた。
しかし、運転手は戦争にとられていなくなるし、ガソリンも配給ではままならず、
結局、波多野元治さんに譲ってしまった。これが、今の国際自動車の前身である。
ちょうど、上西君が体を悪くして、仙台に転地療養に行っていたので黙って売ったが、
あとでもったいないとむくれられたのを覚えている。

 それと、軍からの意向もあって、海南拓殖と東亜飛行機という会社も手がけた。
海南拓殖は占領した海南島を軍の食料補給基地にしようと、開拓事業をやるために作ったものだった。
これには家内の長兄、萩原弥六さんに責任者になってもらい、九万町歩ほどの土地を開発、米づくりをやった。
この時、私は行かなかったが、時沢郁哉、山崎孝志の両君は海南島に何べんも出かけてくれた。
東亜飛行機の方はもともと清水建設がやっていたものを引きうけたもの。立川で飛行機の尾翼作りをした。
とにかく、学徒動員による工員さんを七百名ほど預かり、見よう見まねで、
一生懸命国策に協力したのである。機体修理も引き受けた。
こんなわけで、私は満員電車で午前中は東亜飛行機に午後からは兜町で仕事をするようなことになった。

 この頃になるといよいよ、私も区切りをつけなくてはと思い、相場の方は売るものは売り、手仕舞いする、
また店のものには一応退職金を払った。たしか、二度に分けて出征していたものにも全員払ったように思う。
そして、銀行から借りていた金もすべて返済した。
もはや、明日はどうなるかわからぬ時である。きちんとしておくにこしたことはない。
連日連夜、東京はB29の空襲を受けるようになった。もはやウチがやられるのも時間の問題であった。

 そして昭和二十年の三月十日の午前二時ごろ焼夷弾の雨が降ってきた。一発、二発、つづいて火を吹いた。
もうダメである。だが、息子の富治も、誠三も防空壕から出て、池の水を一生けんめいに家へかけている。
もう無駄だ、隣からも火が移ってきた。やめろというのになかなか聞きいれない。
私は冷蔵庫の中に入っていた食べものを全部持ち出し、たいてあった御飯をもって、防空壕にもぐりこんだ。
火勢がつのってくる。煙もひどい。やっとのことで息子達は防空壕へ戻ってきた。
ああ、焼けちゃう、焼けちゃう、靖国神社に逃げよう、危い、と息子達はさわぐ。
しかし、私はいつしか関東大震災のことを考えていた。防空壕の中でじっとがまんして、
火のおさまるのを待つのが第一である。

 ふと辺りを見回したところ緒方運転手の姿がみえない。きっと恐怖感におそわれて逃げ出したに違いなかった。
これはいかん、と思ったが、どうしようもない。煙にまかれなければいいと念じた。
後日、無事に戻ってきたが、あの時社長のいうとおりにすればよかったと述懐して言った。
「どうして、あんな時に落ちついていられたんですか」と。「それは関東大震災の経験だよ」と答えた。
体験の強味である。身体にしみこんだ経験である。


第24話 焼け跡からの出発

 昭和二十年の八月、とうとう日本は戦争に敗けた。やっぱりダメだったか。日本人としてさすがに
くやし涙がこぼれた。もちろん、戦局が日ましに不利となり、降伏する日も近い、といった情報は
かなり前から聞こえてきてはいたし、ある程度覚悟もしていた。
その時は空襲で麹町三番町の家は焼かれてしまったので、代々木上原にあった女婿
今井善衛の家にころがりこんでいた。今の自宅のすぐ隣である。

 何しろ、家は焼け、その上群馬に疎開させるために一時、中野にある社員のところに
集めていた荷物まで四月十三日の空襲で焼失してしまい、きれいさっぱり身がるだった。
もっとも、ここまでの状態なら、関東大震災の時と同じである。命さえあればあとは何とか出来る。
焼け跡に立った時、ふと思った。土地を買っておいたらよいのではないか、と。

みんな東京から逃げ出してしまい、土地の売り物はたくさんあった。大体、誰もが虚脱状態で、
将来のことなど考えてもいなかった。しかし、いずれ東京には人が帰ってくるはずである。
ところが、こんどは日本全体がどうなるか分からない。外国から占領軍がやってくるのだ。
日本にとっては開闢以来のこと、誰に聞いてもハッキリしたことが掴めなかった。
こうなれば、ジッと事の成り行きをみている他はない。

 さて、そうはいっても食べていかなくてはならないわけだ。株の取り引きは完全に止まっているし、
従業員はほとんど兵隊にとられ年寄りばかり二、三人しか残っていなかった。メシのタネもない。
だが、人間よくしたもので、いざとなれば、知恵もうまれてくる。とりあえず、ヤミ屋がはじまった。
当時、隠退蔵物資と呼ばれた配給ルートに乗らない衣料品や食料品の売買である。
まことに、聞こえの悪い話だが、次第に社員も戦地から復員してくるし、とにかく背にハラは代えられず、
はじめたのである。幸い本社ビルは焼け残ったので、この地下室を使って、取り引きをした。

これで、利ザヤを稼ぎ、何とか食いつないだ。本社ビルの空いている部屋も貸した。
店子の中にはのちに大蔵大臣となられた向井忠晴さんもおられた。その時向井さんが使われた椅子が
つい最近まで残っていたことを覚えている。それから、宝くじやスピードくじの販売もやった。
街角でオバさんが売っているアレである。店先にはスピードくじの賞品が積んであるという有様。
もちろん、その手数料などはたかが知れたものだった。しかし、何でもいいからもうけになるものなら
何でもやったのである。そのうち、ボツボツ株の売買がはじまった。

 といっても、市場が開かれているのではないから、それぞれ業者の店頭での取り引きである。
結構、売り手も買い手もあった。だが、気配は区々で、値開きも大きかったから、サヤトリも出来た。
私は荒廃しきった、そして、食べ物さえ十分でない混乱した中で、株の取り引きがはじまったのをみて、
資本主義経済という体制のもとでいかに株式売買が必要不可欠のものかを思い知らされたのである。
こうして、次第に店頭取り引きが大きくなり、集団売買と呼ばれる市場へと発展していった。
市場といっても肝心の取引所の建物はアメリカ占領軍によって占拠されていたので使えない。
やむをえず、日証館の中に仮の取引所が出来上がった。正規の取引所ではないから、
いわばヤミ取引所である。しかし、狙いは公正な値段で取り引きを行ない、決裁もきちんとしようと
いうところにあった。形はヤミでも、内容は違う。経済界が混乱し、あらゆる商品にヤミ値がついていた時代に、
株だけは一本値の正しい取り引きが行われるようになったことは特筆してよいだろう。

 ところで、終戦の翌年、預金封鎖、新円の切りかえが行われた。
同時に、財産税もとられた。何しろ、丸焼けになり、裸同然になってしまったあとのことだから、
財産というほどのものも残っていなかった。しかし、手持ちの株もあり、絵も疎開してあったので、
やっぱりかなりの税金を納めなければならなかった。現金はなかった。そこで、やむをえなかったが、
横山大観や橋本雅邦の絵なども相当手放した。あとになって買い戻したものもあったが、
何としても手放すには惜しい気がした。
もっとも、財産が十万円以上の人はみんな財産税をとられるというきびしいものだったから、あきらめた。

 それはさておき、証券界の首脳部の人達が一せいに警視庁にひっぱられ、
牢屋にぶち込まれる事件がおきた。私の店でも経理担当の責任者をはじめ、
四人ほどつれていかれてしまった。それは、こんなわけだった。銀行預金はすべて封鎖されてしまい、
自由に引き出して使うことが出来なくなっていたが、財産税を支払う以外に、株を買う場合にかぎっては、
いくらでも引き出せたのである。その上、一たん封鎖預金で買った株を売ると、
新円にかえることが出来た。ただし、新円で売る場合には、ざっと二割引きの相場であった。

つまり、株の相場は新旧二本立てとなっていた。それにしても、うまい抜け道である。
ほとんど使えない封鎖預金が生きるわけだから、預金の沢山あった人にはこたえられない話だった。
二割引ぐらい何でもない。世は猛烈なインフレ時代、新円さえあれば、金もうけの口はいくらでもあったからである。
封鎖される前に、こまめに封鎖の対象にならない小額のオサツやコインをかき集め、
うまく逃れた人もいたことにはいたが、この方法では限度があった。
とても、大きな額は集まらない。当然のことながら、株の売買に人気が集中した。
この場合、証券会社の買付報告書さえあればいとも簡単に銀行や郵便局で封鎖預金が下ろせた。
そこで、証券会社がほんとうに株を買う人でなく、単に封鎖預金を新円にかえようとする人のために、
カラの報告書を乱発したのではないか、との疑いがかかったのである。
勅令違反ということで兜町に警察の手が入った。

野村證券の瀬川さん、沢村さん、増田さんをはじめ証券界の首脳部が次々に呼びつけられ、
拘留されてしまった。さあ大変だ。業界をあげて釈放に努力した。
たしかに一部で違反に近いような事が行われていた。しかし、それはほんの少しのことで、
大部分は正常な取り引きであった。結局、長い人で二十日前後とめられたが、
全員無罪放免となって落着した。戦後の混乱期に生まれた、とんだ一幕であった。

 新円切りかえにからんでこんな事件までおきていたのに多くの一般の人達はどうしたらよいか分からず、
困っていた。封鎖されてしまった預金をうまく活用するすべを知らなかったからである。
まして、画家の先生方はそうだった。元来、経済的なことには関心をもたない人が多かった。
たまたま、大観先生のお宅に伺うと、奥さんにどうしたものかと相談をもちかけられた。
主人は、おれは絵だけ書いていればいいんだと言っているだけです、というわけだ。

そこで、私は封鎖預金で株式を買うようにおすすめした。ただし、相場を張ってもらうのとはちがう。
多少なりとも、株式投資に経験のある方ならいざ知らず、およそ経済界には縁のないような方に、
株をすすめ、万が一にも損をかけるようなことがあってはならないからだ。ご本人にも納得して頂ける、
しかも、うまくもうかりそうなものを選ばなければならない。大観先生は人も知るお酒好き、
”酔心”とはいかないが、その代わりにショウチュウの宝酒造を、奥様はお勝手を預かっておられるから
野田醤油(キッコーマン)を、そして生活用品を扱う三越、この三つを選びだしてみた。
奥さんは何でもおまかせしますとのこと、早速買っておいた。買ってから一年ほどすると、
倍以上、二年たつと三銘柄とも四倍から五倍にも値上がりしていた。
その利益で、先生は上野池之端に新しく家を建てられた。これには、先生もずいぶん喜ばれた。

 大観先生と私の間は、単に画家と美術愛好家のそれをこえていたように思う。
先生はあるとき私にズバリこう言われた。「金もうけされるのも結構だが、このへんでひとつ
世の中のためになるようなこともやっておいたらどうですか」と。
この言葉がのち山種美術館を作る動機になったのである。

 話を株式市場へ戻そう。集団売買が次第に盛況をみせるようになった頃、株式の入札がはじまった。
戦後、GHQの方針によって解体された財閥の持株や財産税で物納された株式は一たん凍結されていた。
それが入札形式で放出されたのである。財閥に集中していた株を広く一般の人に
分散するというのが狙いであった。証券民主化運動の一環でもあった。
CILC、SCLCなどと呼ばれた凍結株処理機関を通じ、財閥系中心の有力会社の株式が
次から次へと公開入札に付されていった。そのトップを切ったのは東宝と私鉄三社であった。
二十二年の秋のことである。これは商売になる。集団売買でたっている気配をみて、
ソロバンをはじき、応札した。うまく安価で落とせば、サヤをとって売れる。
入札代金さえ豊富にあれば文句なしにもうかる。もちろん、売れ残ってしまってはまずい。

ところが、うまいぐあいに、買い手はあった。地方の財産家などを中心に結構お金をもっている人が
いたのである。それに各財閥では解体されたとはいえ、そのまま株式が散ってしまっては
えらいことだと考え、何とか食いとめるべく手を回していた。
これなら落札した株を売りさばくのはいとも簡単だ。そこで積極的に入札した。
なかでも泉不動産(現住友不動産)の時は全量落とした。何しろ発行株の八割に及ぶ。
あたふたと泉不動産の責任者がかけこんできた。名刺をみると、総務部次長田中ナニガシとある。
用件を聞いてみると、私の方で落札した株を何とか譲ってほしいというのである。
住友銀行からも堀田さん、百瀬さんを通じ重ねて熱心な依頼があった。こちらにしてみれば、
ソロバンになればよいわけだから、結局お譲りすることにした。この時の総務部次長が、
有名な小説家、源氏鶏太その人だった。これに似た例は、住友不動産以外にもずい分あった。


第25話 旭硝子事件顛末記

 終戦から数えて四年、ようやくのことで証券取引所が再開された。一日でも早く、と願い、
待ちに待った日である。GHQの将軍をはじめ池田大蔵大臣や一万田日銀総裁を迎え、
開所式が行われた。立会場一杯に鳴りひびく手じめの音を久しぶりに聞いた。
硝子ばりの大天井を見あげながら涙のこぼれるほど嬉しかった。

 今日から、天下晴れて自由な相場をこなすことが出来るのだ。ところが、すべりだしはよかったが
長つづきせず、株価は次第に冴えない動きになっていった。戦後の悪性インフレを退治してしまおうという
狙いで採られた超均衡財政、例のドッジ・ラインのおかげで猛烈なデフレの嵐が吹きまくったからである。
その上、為替でそれまでの複数レートが一ドル三百六十円の単一為替レートになった。

今から考えてみると戦後の「円切り上げ」第一号であった。これではたまったものではない。
やっとのことで立ち上がりかけたばかりの産業界はがっくりきた。それに、株式市場そのものにも問題があった。 
というのは、戦前に株式市場の商いで圧倒的な地位を占めていた長期、短期の清算取り引きが
なくなってしまったからである。何しろ、全体の商いの八割から九割近くにも達していた清算取り引きが
廃止されたままだった。証券取引所が再開されるにあたっては、ほとんどの証券業者は
当然に清算取り引きが戦前同様行われるものとばかり思っていた。 
ところが、それはアメリカ占領軍司令部、GHQの認めるところとはならなかった。
もう、今の人達には説明しても納得してもらえまいが、当時、GHQは想像も出来ないほどの権力をもっていた。
敗戦国の悲哀である。くやしいが、結局アメリカの証券取引法とやらに則って、
「売買仕法三原則」なるもののもとに出発せざるをえなかった。

 三原則というのは、時間優先、取引所集中、そして先物取り引きつまり清算取り引きの禁止であった。
やむをえぬこととは言いながら、これでは勝手がちがう。取引所は再会されても、実際の商いの方は
調子もなかなか出なかった。現在のような信用取引制度が出来たのは、昭和二十六年である。 
さて、そんな中で、集中排除法にもとづく企業再建計画により、次々に新しい会社が生まれた。
増資もじゃんじゃん行われていた。景気が悪く、業績の下り坂のところに、株があふれ出てくるのだから、
たまらなかった。その年の末には、早くも株価対策を必要とするような状態にまで追い込まれてしまったのである。
商いもぐっと細った。 こういう相場では買い方に勝ち目は薄く、売り方に歩があるのはいうまでもない。
そして、戦前、よくなれていた清算取り引きによく似た権利株の売買に、
皆が走ることになったのも、無理もない話だった。

 そんな動きの中で、とくに人気を呼んだのが、旭硝子、新光レイヨン、日本化成であり、
その他三菱地所の第二会社である陽和不動産、関東不動産、それに新設の日活国際会館などであった。 
売り叩き大流行のまっただ中で、旭硝子が強力に買い上げられたことから、
予想もしない大仕手戦が展開されたのである。世に言う旭硝子事件だ。それは証券取引所が再開されて一年、
昭和二十五年の四月に起こった。 最後はどうにもならなくなって、解け合いという異常な方法により
やっと収拾されたのだが、その結果、東京証券業協会の全理事が責任をとって辞任する事態を
招くに至ってしまった。それで、旭硝子事件と呼ばれたのである。

 解け合いなんて、そうしょっちゅう起きるものではない。この時のように強制総解け合いなどというのは、
二・二六事件の時でもなかったし、昔も昔、大正十二年の関東大震災以来のものだった。
これは私が参加した仕手戦の中でも大きなものの一つであった。もちろん、この時も売りに回った。
そして、売り方の総大将と目されていたのであった。解け合いの時の決裁値段が非常に高く、
売り方に不利だったことから、こんどこそ、山種のやつも大損を出したらしいと言われた。 
中には屋台骨も揺らいだといったうわささえあったが、私には私なりのソロバンがあり、
世上取沙汰されたほどの大損をしたわけではなかった。しかし新取引所のスタートからわずか一年にして
早々と相場に負けたのはいかにも悔しかった。 

 さて、本題に入る前に、若干その当時の状況を説明しておかねばなるまい。
というのも現在の取り引きとは大分おもむきがちがうからである。仕手戦の対象となった株は、
実は未発行の権利株であった。旭硝子の新株券が出てくるまでの取り引きである。
当時は発行日決裁取り引きの制度も出来ていなかった。わずかな保証金を積むだけで売買が行なわれていた。
さて、二月二十日現在の旧三菱化成の株主に旭硝子一・九株、新光レイヨン〇・九株、
日本化成一・九株が割り当てられることが発表された。決裁は四月末である。
この間は証拠金にあたる受渡保証金さえ積めば自由に取り引きが出来る。待ってましたである。 
買い方は最初山一証券、あとで玉塚、日興証券が加わり、ほぼ大手証券筋、
売り方は大阪の北浜あたりを筆頭に中小証券連合軍だった。買い方はどっしりと腰が据わったものであった。

 いくら売っても連日のようにどんどん買い上がる。はじめの頃は、それほど力があるようにも思えなかったが、
毎日毎日の買いっぷりから、次第に不気味なものを感ずるようになった。
どうも、値段が欲しいというのではなく、株が欲しいらしい。
売り方にとっては砂漠に水をまいているみたいなものになってきた。買い方はふつうの大手とはちがう。
用意された資金はどうみても巨額なものになるからである。うわさは乱れ飛んだ。
何しろ、現金を積んで株をどんどん引き取っていくという。

後日、この時の買い方の黒幕はどうやら三菱銀行を中心とする三菱グループだった、というのが定説である。 
財閥解体はやむをえないとしても、株式が離散し、第三国人の手に渡ってしまうのを恐れ、
ひそかに手を回したものと言われている。第三国人説など今考えればややこっけいにも思えようが、
戦後の混乱期、そういううわさが兜町を中心として一般に流れていたのである。 
真相は未だに謎につつまれており分からない。しかし、当たらずと言えども遠からずというところだろう。

 さて、株価はどんどん尻上がりに値をとばしていった。二百円台から三百円台へ、そして四百円台へと
次々に大台がわりを演じた。この間、私は売りつづけた。ちょうちんもついた。
しかし、私はただ単にカラ売りをしたわけではない。権利株三銘柄の合計値段が親株旧三菱化成の値段を
はるかに上回っていた。権利株はわずかの保証金で買えるので割高に買われたのである。
そこで、私は親株を買い、権利株を売る、いわゆるサヤトリからはじめたのであった。
しかも、東京と大阪、名古屋、新潟など全国市場の間でかなり値が開くことも多かった。
現在のように通信が便利でなかったのと、大阪、名古屋など各市場自体の商いが
きわめて活発であったからである。これまた、すかさずサヤを取った。
例えば、大阪で親株を買って、東京で権利株を売るのである。こうしたサヤトリは確実にもうけられる。
いくら権利株が値上がりしたところで、ちゃんと親株が手当てしてあるのだから何の心配もいらなかったのである。

 しかし、思惑でカラ売りした分もあった。決裁の日が近づくにつれ株価が激しく動き、
波乱の様相をみせてきた。四月十一日のことだった。
突如、乱手がふられ、四百十七円から三百五十円まで急落した。これで先が見えたと思った。
追撃売りをかける絶好の機会である。しかし、翌日には急反騰、四百五十二円まで買われるという大波乱となった。
私としても、一部買い戻しに出ざるをえなかったほどである。
そして、ついに新規売買を規制する緊急措置が発動されたのである。
山一の大神一さんを中心とする買い方のあまりにも強引な買いの前に、売り方は動揺した。
一斉に踏み上げ場面となり、五百三十一円という高値がついてしまった。大阪はついに売買停止である。

 もはや売り方は買い戻しも出来ない状態となっていた。カラ売りに対して現物買いでは、どうにもならない。
つい最近おきた中山製鋼所買い占め事件みたいなものだ。そして、混乱した事態を救うため、
売り、買い双方代表をたてて交渉することになった。この時の代表が買い方は山一の小池厚之助さん、
玉塚栄次郎さん、売り方は大阪の高橋要さん、そして私の二人ずつだった。
もみにもんだが、四月十八日、とうとう全国市場一本値段の五百十円で決裁するということで落着した。
GHQをはじめ、解け合いには反対だったが、他に方法もなかった。
純粋にカラ売りしていた人の損害は莫大なものにのぼった。

 百五十万株という当時としては大取り組みになっていたから、証券業者の中にも参ってしまったところもあり、
実際にきれいに片づくまで、かなり長い間ごたごたがつづいた。売り方は完全な総敗北であった。
二百円台ではじまった相場が五百十円での決裁である。当然だった。
しかし、親株と新株とでサヤトリしていた分は問題がない。それに、東京と地方市場との間で
サヤトリしていた分についても、全国一本値段での解け合いだったから被害は出なかった。
実は、交渉の時に売り方が全国一本値段を強く主張した理由はここにあった。
しかし、結局、私にとっては負け戦に終わった。思惑分のカラ売りで損を出さざるをえなかったのである。


第26話 山種米穀を設立

 そう、それは昭和二十五年、戦後の混乱期を通りすぎようとする頃だった。街ではまだ軍隊の雑のうや
軍靴が結構ハバをきかしていたが、そろそろ敗戦のみじめさもうすれようとしていた。
お米の配給制度がとけて、民間に移管されるらしいとのニュースを聞いた。当時お米は、
GHQの管轄下にあり、食糧公団を通じて集荷、配給されていた。それが、民間の手に
委ねられるとなれば、問屋、卸しも必要になるし、昔なつかしいお米屋さんも復活するわけだ。

 いよいよ出番である。私は早速、準備にとりかかることにした。
何はともあれ、その年、昭和二十五年の暮れもおしつまった十二月の二十六日、
資本金一千万円の”山種”米穀株式会社を設立した。
うわさによれば、卸商としては、小売のお米屋さんを百二十軒獲得すれば、認可されるらしいとの話だった。
翌日から、獲得運動を開始すべく、動くことにした。

 お米が統制になってから、戦争をはさんで十年以上の年月がたっていた。配給所はあっても、
お米屋さんはない。しかし、昔お米屋さんだった人達は沢山いる。公団に勤めている人も多い。
もちろん、回米問屋時代のお得意先である。その古い名簿をひとつひとつひっくり返し、記憶を呼びおこし、
細谷君や早貸君、菅原君をはじめ幹部と一緒に手分けして、回ることにした。

 再びお米屋さんをやろうという気持ちをもっている人、そして、”山種”の顧客になってもらえそうな人、
とくに、各地区の有力者から訪問をはじめた。私も、世田谷、東調布、玉川、本所などを中心に、
都内の全域を歩いた。有難いことに、みんな私を覚えていてくれて、暖かく迎えてもらった。
行く先き先きで懐古談に花が咲いた。

 本所の片山松五郎さんをはじめ、東調布の池田宗三さん、玉川の木村照さんなど
肩入れしれくれることになった。
まず、第一回の登録、つまり民営のお米屋さんをやろうとする人の申告は、翌二十六年の一月十四日に
締め切られた。その数はざっと四千八百軒だった。この申告前までにやってきたことは
言わば事前運動である。これからが本格的な運動になる。この四千八百軒のお米屋さんのうち
取り引きしてもらうお店を何軒獲得出来るか、勝負である。

 これが第二次の登録である。第一次登録から一ヶ月後、二月十四日がその締め切り日と決まった。
連日、連夜、第一次登録をすませたお米屋さんの家へ足を運んだ。おりから真冬のさ中、
なかなかにきつかった。ある夜、大雪となり、私は早目に引きあげたが、細谷君は電車がとまってしまい、
品川で一夜を明かしてしまうというようなこともあった。

 いよいよ最終日第二次登録の日をむかえた。まず、菅原君に様子を見に行ってもらったところ、
百軒あるなしという。少なくとも百五十軒はとれるとの見込みをたてていたのに、これはあぶない。
そこで、もう一度念のため、あらためて、早貸君に調べてもらった。すると、百軒どころか、
三百五十軒ほどものお米屋さんが、”山種”との取引先になってくれていた。予想の倍以上であった。
あまりに登録の数が多いので、役所の係が山種の分は一部別扱いで取り外してあったのを
菅原君は知らなかったにすぎない。嬉しかった。

 いよいよお米の卸しが出来る。昔どおりに産地からの集荷までは許されないが、あとは同じである。
商売がはじまった。昭和二十七年の四月一日、待ちに待った日であった。すでに、各地からの米が
手元に集まって来ていた。玄米をこの手に握りしめた時、あのなつかしい回米問屋時代の感じが
よみがえった。思わず嬉しさがこみ上げ、しばらくは笑いがとまらなかった。
お米、お米。それは私にとって、切っても切れないものだ。

 しばらくして麦、粉、そしてメン類も統制をはずされることになった。政府保有の押麦、小麦粉、メン類が
一せいに払い下げられる。このチャンスは逃せない。早速にソロバンをはじいた。出来るだけ安く、
しかも大量に落札するのが狙いである。何べんも、何べんも、コスト計算をした。その売りさばき方もたしかめた。
農林省から店にきてもらった富沢君には頑張ってもらった。全国にわたり各地の食糧事務所で
入札したのだから、その準備も大変だった。そして、山陰の鳥取までも走ってもらったのである。

 これは大成功だった。もっとも、落札することだけに力を入れて、そのあと引き取る資金の方は
細谷君にまかせっぱなしにしておいた。たしか、代金は総額で一億三千万円ほどであったが、
そのころのことだ。決して小さなお金ではない。相当に苦労したように思う。
私は往々にして、先へ先へと走る。店のもの達はいつもわずかな日限のうちに間に合わせる仕事を
おしつけられた。それは私にも分かっていた。
だが、”そこを何とかするのがクロウトだろう”と言い捨て、強引に突っ走った。そういう毎日だったのである。

 さて、話は戻って大量に落札した押麦、小麦粉をどうしたかだが、
これは山種米穀のお得意のお米屋さんへ回した。当時はまだ食糧は十分とはいえない状態だった。
押麦にしても、小麦粉にしても、買い手はいくらでもあった。
お米屋さんにすれば商品は多いほどよい。この他、昭和二十七年には「文化メン」を売り出した。
故郷の群馬県安中で作り出された乾メンで、従来のものとちがうのは三〜四本の筋が入っている点だった。
この筋があるために、ゆでる時間はずっと短くすんだ。この文化メンは大好評、
お米屋さんから山種系以外の店には売らないでくれとまで言われた。値段は一束二十五円、
当時としては破格の値をつけたにもかかわらず、飛ぶような売れ行きだった。
山種米穀の米取扱高は年間百三十万俵、東京の五十五万人分を受けもち、基盤は確立した。
しかし、お米の商売には季節性がある。そこで一年を通じて安定した仕事をやっていくように考えた。

 春をすぎた頃に菜種を買い集めて製油会社に、初夏には麦を集荷、製麦、製粉、そしてビール会社に、
そのあと甘薯を手がけ、添加用アルコールを作る醸造会社に、そして終わりは米という商売である。
その他、飼料用の雑穀など出来るかぎり手を拡げるようにした。
そんなわけで、昭和産業、三楽オーシャン、宝酒造、サントリーといった一流会社ともつながりを
もつことになった。のちに、昭和産業の役員の末席に名をつらねることになったのも、
また、息子の富治に三楽鈴木三千代社長のところから嫁を迎えたのも、食糧品に縁があったからであろう。


第27話 動乱ブームを背景に

 朝鮮動乱ブームを背景にして展開した大相場、それは私にとって、忘れようとて忘れられない相場の
一つである。昭和二十五年の半ばにはじまり、二十八年の二月まで、実に二年半をこえる息の長い、
しかも五倍に近い大幅な値上がりをみせた空前とも言える上げ相場であった。
しかし、ソ連の巨星スターリンの死をキッカケについに崩壊した。
あまりにも劇的な終幕であった。今もなお、相場が急落するたびに人々の口にのぼるスターリン暴落である。
それは、戦前、昭和十一年の二・二六事件当時を思い起こさせる経験でもあったのである。

 昭和二十四年五月に証券取引所が再開されてからはじめて訪れた好況、
それが朝鮮動乱ブームであった。ちょうど、旭硝子事件が解け合いにより、ようやく片づいてから、
わずか二ヶ月ほどたってのことである。昭和二十五年の六月、突如として、北緯三十八度線において
北朝鮮と南の韓国との間で衝突が起こり、アメリカ軍の介入によって戦火はどんどん拡大していった。
それまで、ドッジ旋風とまで呼ばれた強烈な引き締めで、くたくたになっていた日本経済は
すっかり息を吹き返した。朝鮮動乱はまさに神風であった。”特需”のおかげである。
特需と並んで”金へん”という言葉がもてはやされたのもこの頃のことであった。

 兜町では”戦争は買い”である。取引所再開以来下げつづけ、一時は閑古鳥もなくようだった相場も、
一挙に反騰に転じた。以後、上げっぱなしとなったのである。
とにかく、その前年末に株式市場は半恐慌状態となり、SCLC(証券処理調整協会)による株式売り出しの
一時注中止をはじめ、金融機関、生保の買出動、法人や証券会社による工作買い、
さらには日証金、大証金の設立など次々に手が打たれたのに、とんとききめがないような有様だった。
あきらかに売りこみすぎである。

 買い気に火がついた。売りこみの反動も手伝って、
一たん燃え上がった買い気は消えようとして消えずいつ衰えるともみえない。
しかし、翌二十六年七月には朝鮮戦争休戦会談がはじまった。まず、繊維市況が暴落した。
輸出は不振となり、景気は下降に入った。だが、株価はおかまいなしに上がる。
完全な”不景気の株高現象”を呈するに至った。
二十七年に入って、間もなく二月に綿紡は四割という大幅な操短を実施することになった。
翌三月にはゴムも三割操短に入った。不況は次第に拡大し、深まっていった。
だが、株価の勢いはおさまらない。それどころか、上げ足は早まる一方である。
こんな状態が長つづきするはずはない。私の経験では、商品市況の方が株の相場より動きが早いからである。
相場は熱気を帯び、あきらかに人気化しはじめた。利回りはぐんぐん下がり、
二十七年のはじめに一四〜一五%だったものが、夏をすぎるころには九%を切って
債権の利回りをも下回るようになった。異常である。もはや正気の沙汰ではないような動きになってきた。

 こういう時には保険つなぎをするにかぎる。私は、まず東京海上を手はじめに、平和不動産や
陽和不動産、開東不動産(現三菱地所)など、連日人気を呼んでいる株から、カラ売りをかけた。
二十七年の秋のことであった。ちょうど、東京海上が六百円台に乗せたところ、
陽和、開東不動産が千円を突破したあたりである。私のやり方はフシフシと思われるところで
売り上がっていくのだが、連日のように新値を更新するのだから、売り方にとって事態はだんだん
容易ならぬ方へと進んで行った。九月に六百円台の東京海上は、翌十月には八百円に接近し、
年末になるとついに千円の大台を突破して、千百四十五円という高値をつけた。
年がかわって早々、ようやく騰勢は鈍ってきたが、千二百円にあと一息までに迫った。
カラ売りをはじめて四ヶ月、株価の方は二倍になっていた。

 もともと、冷静な方だが、あまりの相場の強さにともすれば動揺しそうになった。
だが、利回り二%を切った繊維、損保、不動産株などをみると、いくら無償抱き合わせの
二倍、三倍増資を計算にいれたところで、いささか気ちがいじみた相場である。
昭和飛行機の九千八百円、常磐砿の二千八百円、川崎航空の八百円、陽和、開東不動産の
二千円という値段が今から二十年前についたのである。
そして、東京食品、星製薬、野崎産業、富士自動車といった小型株が乱舞するに至った。

 株と名がつけば何でも買っておけである。連日の大商いで、二十七年の年末には水曜日午後の立会を
休むようになっていたが、二十八年になって、立会時間の短縮も行われた。コンピュータもなく、
人手だけではさばききれなくなったのである。この時”暁に祈る”兜町と呼ばれた。徹夜つづきだったからである。
大天井近し、との確信を強めた。もう一日、もう一日とがんばった。
ついに、その日がやってきた。三月五日、スターリン重体との報が入った。
その何日か前から波乱をみせていた相場は一気に崩れた。再軍備ムードは吹き飛び、
投機の中に酔いしれていた株式市場は冷水を浴びせられ、眼をさました。二千円に接近した東京海上も、
高値からわずか三ヶ月後には五百円台をも割りこんでしまったのである。

 商品相場の動きは早く、正しかった。株式市場は蛎殻町(商品相場)から流れこんだ投機資金、
戦後再びスタートした投資信託の買い、たまたま相次ぐ大幅無償を抱き合わせた増資を材料によって
華やかな踊りがくりひろげられたいたので大きな景気の流れが変わったのに気がつかなかった。
舞台の幕はとっくにおりていたのである。
このあと始末は結構大変だった。私はカラ売りしていたのを買い戻したが、東京海上は逆に買いこして、
第二位の大株主になった。私としては、東京海上に見切りをつけるということでカラ売りしたのではない。
あくまで、行きすぎた人気、その人気分を売ったのであった。
「売りの山種」として、大きくカラ売りしたのは、これが最後になった。
いよいよ「買いの山種」として日本経済と産業の成長、されには証券業者としての使命感を
認識していくことの重要さに頭の切り替えが必要になってきたのである。


第28話 小豆事件

 戦後、相場に負けたのは旭硝子事件ともう一つ、株ではなく小豆があった。
悪いことは重なるもので旭硝子事件とほぼ時を同じくして起こった。この時もしまいは混乱し、
解け合いによる解決となったが、私がちょうど穀物取引所の理事長の職にあったことから、
事態はきわめて面倒なものになってしまった。右翼の大物として人も知る児玉誉士夫氏が登場し、
買い方に肩を入れるにいたって、まさに異常な局面がくりひろげられたのである。
私は例によって売り方に回っていた。とどのつまり、私が理事長のイスを降りることで
やっと幕がおろされたのである。世間では山種のヤツもこんどはまいったろうなどと噂していた。
また、小説などの材料にもされたりした。野間宏先生の「さいころの空」にも出てくる。
いい酒の肴になってしまった。 私にとっては苦々しい思い出である。

 だが、お話しないわけにもゆくまい。その時はこんなぐあいだったのである。
戦後、小豆の取り引きが出来るようになったのは、株式におくれること三年半、昭和二十七年十月に
東京穀物商品取引所が開設されてからである。この取引所は戦前米穀商品取引所のあった場所、
蛎殻町に作られた。そして、将来、いずれお米の取り引きも行なわれるであろうことを考えた上のことである。
さて、私は手初めに買いから入った。当時、小豆の値段は一俵(六十キロ)当たり五千円割れの
安値をつけていたからである。いくら豊作とはいいながら、経験からみて小豆が米より安いのはおかしい。
翌二十八年に入ると、ボツボツだが、相場は予想したとおり上がりはじめた。まず買いで成功である。
しかし、下げすぎの水準訂正だから、儲けの方はそれほど大きくはなかった。

 ところが、秋口に近くなると相場は急奔騰の気配が濃くなった。
というのは、この年、二十八年は小豆の作柄がひどく悪かった。収穫予想が出るたびに下がり、
最終的にはわずか六十四万俵弱となってしまった。前の年が百十万俵だったから、四割以上もの減収だ。
年が変わるや、相場は日一日と上げ足を早め、しかも、今日はストップ高翌日はストップ安といった
波乱商状をみせながら、五月には九千円の大台に今一息のところまで迫った。ここで私のハラには、
例によって売りの虫が動きはじめた。こんなに高くなった小豆を一体誰が食べるのか。
羊かん屋さんだって、そうそう小豆ばかり使い切れない。手芒(つるなしいんげん)などを沢山まぜなければ
とても商売にはなるまい。自然に、需要も落ちてくる。それが理というもの、値下がりするのも時間の問題である。
だが、前年の大凶作、そして、まだ何とも分からぬが今年も不作になるのではないか、
といった見込みがでてきたため、売り方はすっかり動揺、一せいに買いに転じた。
市場は混乱し、とうとう解け合いに持ちこまれるという異常事態になってしまった。

 戦後、取引所が出来てはじめてのことである。この解け合いのあと、さすがに相場も騰勢一服、
これでおさまるかと思われた。だが、嵐の前の静けさ、この解け合いは次に訪れる大波乱の
兆候でもあったのである。 私の心は売りときまっていた。静かに、静かに、売りを開始した。
解け合いのあとは、十月限以降、十一月、十二月の三ヶ月しか相場は建てないことになっていた。
だがいったんおさまった相場の火は再び燃えあがり、秋には実に一万円台という前代未聞の
高値を呼んだのである。私の見込みでは大凶作が二年つづくとは思っていなかった。

それが、見事はずれた。 とんでもないことになってきた。これでは尋常の話ではおさまらない。
売り方としてはとにかく、現物の小豆を出来るだけ手当てし、現物を渡すより他に手はない。
買い戻しに出れば火に油を注ぐようなものである。年の暮れになって、うちの西本春次君に急拠、
産地の北海道にとんでもらった。やっと大晦日に西本君は帰ってきた。農家との話し合いは難航、
こちらの目当てとする三等品もたった千俵、二等品が三千俵という有様である。しかし、相場は急落した。
どこからもれたのか、売りの山種が現物手当てに成功とのニュースが伝わったためだ。
といっても、実際に、手当てできたのはわずか、焼け石に水である。 

 二年続きの凶作、相場暴騰の最中に内地産を集めようというのがどだい無理な話であった。
あとは、輸入物を手当てする以外にない。この方は何とか手をつくした結果、
一千トン、ざっと一万六千俵ばかり話がまとまった。現物を渡すメドはついた。相場は暴落した。やれやれである。
これで狂い相場もおさまったものと思った。ところがである。そうは問屋がおろさなかった。

ツナギを外し、現物を渡すところで、さ細なミスがあったころから、
なんと右翼の大立者児玉誉士夫氏が登場した。想像もしてない事態である。
これまで、相場が異常に急騰をつづける途中で、過当投機をおさえるために、証拠金を大幅に引き上げたり、
その他、あらゆる措置をとってきた。取引所の理事長としては、至極当然のことをしたまでであったが、
私が売り方で、それら一連の措置が買い方に不利であり、小さな業者をいじめるためだったろう、
との言いがかりである。 売り方惨敗である。現物渡しにより相場を冷やそうとする作戦が
九分九厘まで成功していたのに、失敗した。私は売り方の大手、損も損、億をこえる大損となった。

 会社では周囲のものがひどく神経を使っている。大体、私は相場に勝っても、負けても
表情を出す方ではないし、説明もしないのだが、この時ばかりは不機嫌になっていたのだろう。
息子の富治がおそるおそる「どうなんですか」と聞くから、「お前は何も心配するな」と答えたが、
会社に入って二年目、くわしい話を知らされていなかったものの息子なりにかなり分かっていたようだ。
「そんな強がりを言っていいんですか」という顔をしていたからである。 
たまたま、理事長としての任期も来たのでその職を木谷久一(全糧商事社長)さんに譲った。

 このあと、さしもの大波乱相場も下げに転じた。実を言えば、この流れに乗って、あらためて売りをかけ、
損をいく分かとり戻した。私としては相場の見通しで負けたわけではない。見通しはたしかだった。
だのに敗れた。あらためて、自分の見通しを実践し、儲けをとった。このことを知っている人は少ない。
あまりにも、事件が大きく、後日のことはほとんど目立たなかったからである。
それはそれとして後味はいかにもよくなかった。


第29話 買いで凱歌

 株式市場では朝鮮動乱ブームが去ったあと、昭和二十八年後半から二十九年にかけて、
再びデフレ風が吹きまくることになった。株価は低迷し、出来高も大幅に減ってしまった。
とくに、軍需景気で買いあおられた金ヘン株、機械、鉄鋼、非鉄金属、そして造船株などは
人気の反動で文字通りペシャンコに叩かれた。その代表ともいえるアーム(日本製鋼所)は
二十八年の二月に三百十円の高値をつけ、一年でざっと三倍以上の値上がりをみせたものが、
わずか三ヶ月後には百円を割ってしまう有様だった。
これだけみても、当時株価がいかに荒っぽい動きをしたかよく分かる。
そして、あとはすっきりしない相場がだらだらとつづいていた。

 出来高が一日五百万株をこえると拍手がわくという活気薄の状態だった。
そんな中で、私は造船株を買いはじめた。いかにも、株価が安すぎたからである。
無配の浦賀船渠(ドック)や日立造船がただの三十円前後、
一割二分から一割六分の配当をしていた石川島、三菱造船、三井造船でさえ
六十円がらみのところで低迷していた。いくらなんでもひどい。叩き売りもいいところである。
これでは会社の財務内容からみても安すぎると思った。

 たまたま、娘の嫁ぎ先きが、造船会社に関係していたので、ちょっと様子を聞いてみた。
すると、来年になれば業績も回復するだろうという。例の輸出船ブームのはしりで、
世界各国から注文がどんどん入ってきていたのである。
早速、当時調査を担当していた社員に調べさせるとまさしくそのとおりだった。
日本は四面海に囲まれた海運国である。造船は絶対になくてはならぬ事業だ。歴史をふり返っても、
優秀な技術をもっていることはハッキリしている。
輸出がききはじめた。なのに、株価は投げ売りに近い相場である。
自信をもって拾えるだけ拾った。指し値をあげずに、辛抱づよく買いつづけた。
社員の中には、こんなボロ株を大量に買いこんで、一体どうする気なんだろうと思ったものさえいたようだ。
何しろ株券が金庫のスミに山づみの状態だったのである。

 だが、結果は見事に的中した。一年後、三十年には軒並み百円台を突破することになった。
倍以上の値上がりをみせたのである。
この時には、社員にも株を買うことを大いにすすめた。ボーナスをふやしてから使うように指導したのである。
ちょうど、戦後はじめて訪れた金融相場がスタートを切って、金融機関も株を買いはじめていたからである。
相場を張るのではなく、堅実投資である。私が造船株でもうけたのも、借金して買った分もあったが、
あくまで投資であった。

 実はこの頃を境に、私自身大きな相場を張ることもなくなった。とくに、売りの山種と呼ばれた
得意の大量カラ売りはやらなかった。大体、カラ売りの本来の狙いである保険つなぎを
大きくしなければならないような浮沈の激しい経済ではなくなったためでもある。
昭和三十年は「もはや戦後ではない」と呼ばれた年であった。
そして、このあと神武景気を背景にした大型上昇相場が展開したのである。


第30話 兜町は宝の山

「兜町は宝の山」と打ち出したのは、昭和三十二年六月のことだった。神武景気のあとである。
神武天皇以来の好況というので名づけられた神武景気ではあったが、
国際収支の赤字には勝てなかった。手持ちの外貨は十三億ドルあったものが、あっという間に半分になり、
五億ドル台も割りこんでしまったのである。例によって、公定歩合が二度にわたって引き上げられ、
金融引き締めの急ブレーキがかかった。相場は暴落した。そして、単純平均百円ワレが実現したのである。

 この単純平均百円ワレというのは、滅多に出ることではないし、またそう長くは続かない。
調べてみると、昭和二十八年からの五年間で、二十九年に三十三日、三十年に六十八日と
総立会日数の七%にすぎない。しかも、主要な会社百六十社余りについて、純資産を計算したところ、
額面の四倍をこえていることが分かった。ざっと、二百円以上である。
別に、すぐ解散して財産を処分するわけではないが、二百円以上の値打ちがある株が、
百円を切っているのはいかにも安い。安値でゴロゴロしている優良株は、
私の目には、金とも、ダイヤモンドともみえたのである。

 そこで、今こそ株は買い時なり、と大いに宣伝しようと思いたった。ふと、思いついたのが、川柳である。
これなら、やわらかいし、投資かにもすんなり受け入れられるのではないか。それに第一おぼえやすい。
早速、その道の第一人者であった川上三太郎先生においでをこうた。先生には選者になって頂き、
とりあえず社員とともにいろいろ案をひねってみたのだが、なかなかうまいのが出てこない。
私が口火を切って「兜町は宝の山」というのはどうか、と言ったら、皆はそれじゃあんまり古くさいと笑った。
ところが、川上先生は一言「これが良い」と賛成して下さったので、一ぺんにきまってしまった。

 反響は意外に大きかった。中には、「宝の山」どころか、「瓦の山}ではないか、などと早速まぜっかえす人もいた。
何しろ、外貨底つきで、国際通貨基金や輸出入銀行から借金をして切り抜けようという状態だったのだから、
悲観ムードがあふれていたし、無理もなかった。この時の川柳には”いらっしゃい 宝の山が 招く夏”、
”奥さまの 宝の山は 兜町”というのから、”幽霊の 出そうな時に 株を買い”などといったものまであった。
こうした川柳を使って新聞広告をどしどしやったのである。

 そして、七月十九日には思い切って”日米経済講演会”と題して、当時まだ茅場町にあった日経ビルの
日経ホールで講演会を催した。
数百万円を使った大広告は大きな話題になったのであるが、大蔵省からお目玉をくったのにはまいった。
専務の富治が呼び出されて「宝か瓦か、玉か石か分からないのに、宝の山と断定しては誇大広告だ」と、
ついに一札とられてしまった。商人と役人のちがいである。
この時の講師は、経済評論家の高橋亀吉先生、当時自由民主党副幹事長だった福田赳夫代議士、
そしてかくいう私の三人であった。

 まず、高橋先生が日本経済に自信を持てと悲観ムードを追い払い、
福田副幹事長は日本経済が立派だから国際通貨基金も、輸出入銀行も三億ドルにのぼる金を
貸してくれたのだと強調された。私は「宝の山」の由来を解説した。
当日、会場は大入り満員札止めとなってしまった。定員の三倍の人が押しかけたのである。
私は浜松から、あるいは静岡からやって来たんだ。何としても中へ入れろ、いや入れぬのさわぎである。
係りのものに聞くと、日経ホールでは消防法の関係があり、しかも消防署が目の前にあるので、
とてもこれ以上はダメだという。それではしようがない。結局、後日講演の要旨をお送りするということで、
丁寧にわけを話してお引とり願う一幕があってようやく落ちついた。


第31話 強盗に押し入られる

 それは昭和三十三年の十月も末のこと、二十三日の夜中、それこそ丑満時に強盗に入られた。
大概のことなら物に動ぜぬ私ではあったが、このときばかりはおどろいた。ちょうど雨がしとしと降っていた。
この日は日曜日、普段なら週末は金曜日から来宮の別荘へ行っているところだったが、
ゴルフの約束があったので、たまたま自宅にいた。その寝こみを襲われたのである。
「おい、起きろ」の声に眼をさますと、枕元にピストルと短刀をもった男達が三人立っていた。
顔は白い布で覆面をしている。家内も起きた。

 「騒がず金を出せ」。もうどうにもならない。「あれば出すが、手もとにない」と答えたものの、
とにかく隣の部屋にあった背広に二万円ほど入っていたので、これを手渡した。
「こんなでかい家で、これぱっかりという話があるか」とそばにあった電気ヒーターのコードで
後ろ手をしばられてしまった。
そして、一番若そうな男だけが残り、他の二人が家内を短刀でおどかしながら、
部屋の外に出て行った。あとで聞いてみると、家内を案内役として一階から二階と家内の部屋を調べて回ったという。
蔵の中の絵画には手をつけられなかったが、「つまんないものが沢山あるな」とけなしていたそうだ。
猫にコバンならぬ「強盗に美術品」というところか。

 この時、家内は実に落ちついていた。それにひきかえ、私はひどく緊張していたようで、
声も上ずって、かすれがちだった。この頃、ピストル強盗がはやっていた。
とにかく、傷つけられては大変だ。それが気がかりであった。
「おとうさんは歯がかちかちなっていましたよ」とあとで家内にさんざんひやかされた。
そのうち、やっと気持ちも落ちつき、見張りの男にいろいろ話しが出来るようになった。
時間のたつのがおそい。やっと、家内が戻ってきた。この間に、私の家に寝泊りしていた若い社員二人が、
すきをみて二階から屋根づたいに逃げ出し、交番へ走った。 これに気づいた三人組は慌てて退散した。

結局、盗られたのは現金で二十万円ちょっと、その他、トランジスタラジオと腕時計であった。
女中達もふとんむしにされ、隣家に通ずるベルも押せない有様、もちろん電話線は切られていた。
翌朝、新聞記者の方々がわっとばかりにみえた。私は誰一人ケガもなく無事だったし、
内聞にしたいと思っていたが、そうもいかなかった。

 家内は、テキパキと家の者を指揮しながら、来客に応対している。
女性はいざとなると強いものだということに二度おどろかされた。
日曜日、各新聞の夕刊の社会面トップにピストル強盗”山崎証券社長宅襲う”との大見出しつきで記事が出た。
ちょうど、山崎証券では「山種オープン」募集中であった。
全国に、一大宣伝をして頂いたかっこうになってしまった。はじめて投信に進出、
積極的に宣伝しなければならぬ時で、これ以上はない実にうまいタイミングだったのである。
もし、これだけの効果を狙うとすれば、広告費の五百万円ぐらいはかかったろう。

そのせいもあってか、山種オープンは予想以上に売れた。
まさに「禍を転じて福となす」である。しかも、山種オープン設定記念の集まりの日に、
盗まれたものが、全部戻ってきた。犯人は大阪で逮捕されたのだが、
「品物が戻るなんて珍しい」と警察の方があきれていた。ヤマタネ悪運強し、ということかもしれない。


 その後、株式市場は年末までパッとしなかったものの、次第に反騰の足固めをしていた。
年がかわり三十三年からは、完全に上昇に転じ、大相場がくりひろげられた。戦後において、もっとも息が長い、
しかも値上がり幅の大きかった大型相場、岩戸相場へとつながったのである。
生涯のうちでも、これほど印象に残った講演会は他になかったように思う。「買いの山種」に変身したのである。


第32話 投信に踏み切る

 投資信託に踏み切るについては、いろいろと紆余曲折があった。
すでに、前の年、野村、山一、日興の各大証券がそろってオープン型投信に進出、非常な人気を呼んでいた。
これまでの長い相場体験から考えてみても、人様のお金を沢山お預りしてうまく運用するのには
大きな危険が伴う。大変な仕事である。
相場の波を乗り切るのはむずかしい。たとえ一年ぐらいうまくいっても、
これを長期間つづけるとなると容易ならざる話だ。上げ相場の時はよいが、さて、下げに入ったらどうだろう。
得意のカラ売りを使ってのつなぎも出来ないのである。
私の親しい友人の中には「投資信託なんてとんでもない。輝かしい”山種”の信用にキズがつくぞ」
などという人もいた。まかりまちがえば、そうなる恐れは十分にある。はじめはどうにも気がすすまなかった。

 ところが、息子の富治は「これからは大衆投資家の時代です。直接株式投資をやらせるよりも、
われわれ専門家の手によって、少しでも上手に運用して喜んでもらうべきじゃないんですか、
会社も全国的に支店がもてる……」と毎日のように口説かれた。
たしかに、時代の流れはそうだ。沢山の資金を集め、分散投資するのだから、危険も小さくなる。それも理屈だ。
それは分かるんだが、実際にはそう甘くないとみていたのである。
しかし、息子の熱の入れように、私も重い腰を上げることにした。

 さて、私のあだ名「ヤマタネ」をつけた「山種オープン」の募集をはじめてみると、人気は上々。
締切日には当初予定の十億円に対し、二十三億円ものカネが集まった。
この頃はまだ一万円札も出ていなかった。千円札の山である。次から次へと段ボール箱が一杯につまった。
当日、銀行さんに出張して頂かねば処理出来ないほどの大盛況となった。
ヤマタネなら預けましょうという方も多く、実に嬉しかった。
山種の信用がいかに大きいかを知らされるとともに、その責任の重大さを痛感した。

 やるからには、これまでに積み上げてきたすべての力を注ぎこむべしである。
自分で相場を張るのとは、いささかおもむきがちがう。何はともあれ頑張った。幸いに努力した甲斐あって、
良い時には一口当たり半年で百五十円とか百六十円もの分配金を出すことも出来た。
そして、一番集まった時、昭和三十三年には残存元本も実に百億円をこえ百五億円に達したのであった。

 当時、投信の運用競争は想像をこえるものがあった。他社と同じ株を買っていったのでは、
後から出発した私の方は不利である。そこで、独自の銘柄を見つけなくてはならない。
大証券とはちがって、資金の量が小さいから運用する銘柄も大型株ではまずい。
そのへんなかなかの苦心が必要だった。はじめに十五銘柄を組み入れたが、その中には日清紡、昭和産業、
辰巳倉庫、播磨造船、浦賀船渠など、よそとはぐっと毛色のちがったものが入った。
何しろ、大手筋は強力な営業体を動員しながら、組み入れ銘柄を買い上げることで、
投信の基準価格を持ち上げていた。それに対抗するためである。
正直言って、この競争は本当にきつかった。もはやそこには私の儲けは頭の片隅の方に追いやられていた。


第33話 証券恐慌

 そんなことはまさか……というようなことが起こった。
昭和四十年の五月の末、山一証券が、そして、大井証券が破綻を来したのである。
山一証券といえば四大証券の雄、歴史もあり兜町の名門の証券会社である。
私のような経験の長い者でも業界でこんな大きな事件は覚えがなかった。
戦前でこそ、オヤジが相場に失敗して株屋がつぶれたなどというのは珍しくもなかったし、
戦後でも戦前水準に復帰する昭和三十年以前では、一つ大きな相場が終わると小さな地方の証券会社が
姿を消すこともままあった。だが、こんどは話しがちがう。これはえらいことになるぞ、と直感した。

 大体、証券界としては、それまでに証券市場のテコ入れのため、あらゆる手を打ってあったつもりだった。
これより二年前、昭和三十八年には銀行の力を借りて日本共同証券が発足し、
崩れる株価をダウ千二百円のところで買い支えた。初めはうまく行った。
千二百円以下には下がりっこないというので、安心感も生まれ、売り物も一時はひっこんだからである。
ところが、景気の方はよくなるどころか、悪くなる一方。興銀から証券界にこられた日興の湊さんが
構造不況論を唱えられ、余剰機械の政府買い上げ案などが大いにぶたれていた。
こうなると、先の見通しはマックラ。買い支えてくれるうちに売っておけ、とばかりに売り物が出てきた。
こうなると、防ぎきれるはずもない。流れは変わった。何とかしなければいかん。
私はもちろんのこと、業界の誰もが思った。

 そこで、年がかわると早々に日本証券保有組合を設立した。株式の凍結機関である。
戦前でも、何回となくこうした機関が作られたものだし、この時は私としても業界の長老ということで、
当然の話しながら、精一杯動き回った。何しろ、投資信託や証券業者の持株を直接引き取ろうというのだから、
業界の中の利害もさまざま、その調整には骨が折れた。しかし、何とかまとまり、とにかくすべり出したのである。
私の見たところ、当時の株式相場は米相場時代の「余りものに値なし」に近い状態だった。
すでに、”単純平均百円割れ”である。自分では、二月頃からボツボツ買いはじめた。
そこへ戦後、最大といわれる山特鋼の倒産が飛びだした。しかし、そのこと自体それほど驚きもしなかった。
かつてない大不況とか、余った機械を政府が買い上げろという議論が毎日のように討わされていた頃である。
採算を無視して売られれば、いつかは必ず見直される。これが相場の鉄則だ。私は株を買いつづけた。
私のソロバンにも、十分採算があるからだ。

 実を言うと、三月頃になるとどうも山一証券が大変苦しいらしいとの話は聞いていた。
だが、絶対に乗りきらなくてはならないということで、皆が努力していたし、何とか乗り切れるとみていたのであった。
それがはしなくも、表面化した。最後の線が崩れた。もはや山一証券、大井証券だけのことではない。
証券会社、いや証券市場そのものに対する不信である。こうなれば、株価は採算も何もあったものではない。
自分のところは岩戸相場のあと、翌年の昭和三十七年から不採算店舗は閉めて、
経費は大幅に削減し、人員も縮小するなど、いち早く撤退作戦をとっていたので、
どうにかしのげるのではないかとの自信はもっていた。

 その頃のことである。「山種とのあろううものが一体これは何だ。若僧の名前で紙切れ一枚よこし、
おれのところの新聞をたった二部に削るなんて……」と業界新聞社の社長さんにどなりこまれたことがあった。
証券界も苦しいが、業界紙も苦しい。係の課長が思い切って削ったのを直談判されたのだが、
それほど徹底した経費切りつめだった。
それにしても、もう証券業界自身の力の及ぶところでない。
たまたま私が時の蔵相福田赳夫氏と姻戚関係にあることから、政府に思い切った処置を頼むより他なし、
その橋渡し役を依頼された。しかし、ただ何とかしてくれというのではいたし方ない。
そこで、長年じっこんの間柄にあった経済評論家高橋亀吉先生にお話して、この際もっとも効果のある
カンフル注射のような景気対策を政府にとってもらうよう、まず福田蔵相を口説いてもらうことにした。
高橋先生は例の情熱的な論調で再三、再四、くり返し、公債発行による景気回復策の採用を説いて下さった。

 あとから考えてみれば、当然採用されてしかるべき政策であったが、
され戦後はじめてのこと、政府としても非常な勇気が必要だったように思う。
それを踏み切らせたのには高橋先生のお力によるところ大であったように思っている。
待望の国債発行による景気対策がようやく七月末に打ち出された。しめた、と思った。
しかし、世上では、こんな程度で立ち直れるはずがない、といった議論が圧倒的だった。
あまりに長い間の不況の中で、暗い面ばかりみなれていると、急に明るい光がさしこんでも、直ちに信じられず、
またすぐ消えてしまうのではないか、といった疑惑を感ずるのはやむをえない。
でも私は昭和の初め、金輸出再禁止の時のことを思い出していた。

 それに、株価そのものがひどすぎた。二百円以上の株はわずか十五を数えるだけで、
逆に額面ワレはぞろぞろである。
ソニーでさえ二百五十一円と五分利回りになっていた。単純平均は実に八十五円という記録的な安値だ。
「宝の山」の時の単純平均百円ワレから二割も下である。利回りは六%に近く、しかも、信用取り引きでは
カラ売りが九千五百万株もの空前の水準に達していた。悲観の極にあった。
大いなる悲観は大いなる楽観に通ずである。

 ただ、私には財政投融資を中心にした四千億円の政府支出の増加が、
三倍の一兆二千億円もの効果を出すという仕組みが簡単にはのみ込めなかった。
そこで、調査部のものに説明させると、現代の経済理論から正しいという。それにもまして、
政府の積極政策発表の翌日、証券界代表の一人として、赤坂の料亭玉林荘に招かれ、
佐藤首相からじかに話を聞いたので、これは大丈夫との確信をもった。
そこで、私の店では全社員を激励し、積極買いの旗をあげた。信用取り引きの買いについては枠を撤廃、
無制限にした。大いに買いまくれである。そして、次のような手紙を投資家の皆さんに送ったのである。


 謹啓 残暑きびしい折から益々御元気に御活躍のこととお慶び申し上げます。
さて、長い間低迷不振を続けて参りました株式相場も政府の積極政策転換をキッカケに一挙に反騰し、
あの大天井より四年目にして大底を形成、一大転換を致しました。
こうした環境からみますと株式直接投資への絶好の機会と思います。

一、政府は積極財政政策に転換し公債発行にふみ切ったのであります。(中略)
  まさにダウ平均千百五十円以下は不況ムードによる再三無視(一流株六分利回り)の
  売りこみすぎであったと言えます。

二、低金利が浸透してきました。債権類の売れ行きはすさまじいものがあり、品不足状態にさえなっております。
  ……各金融機関はいち早く有利な株式に注目、……安定株を狙って利回り採算買に出る一方、
  百五十万株以上のカラ売り銘柄を目標に大証券が買出動しております。

三、市場内部要因として借株残が一億株に達しております。それだけに如何に不況ムードの売り人気が強いかを
  如実に示しておりますので、これが三分の一に減少する迄は相場も上昇するでしょう。

四、政策の転換と同時に鉄鋼、繊維など重要商品の市況が急反発しました。

五、この九月期には減配、或いは無配の企業は一応出尽くしとなり、
  来年三月期には配当も安定することになりましょう。……買い安心ムードが一般に拡がるまでに
  買出動すべきと考えます。何といっても株式投資には時期を選ぶことこそもっとも肝要であります。

ここは充分に御検討頂き、ぜひとも株式の直接投資に再び出動されるようお考え頂きたく存じます。
先は近況御報告旁々お願い申し上げます。 敬具

                 昭和四十年八月 山種証券株式会社取締役社長 山崎種二


 どうも、カラ売りが三分の一になるまで、とか、一般に買い安心ムードが拡がるまでは買いだ、など、
いささか表現がきつすぎた。証券会社の代表者でもあり、大蔵省やその他から、御注意もうけたが、
私はまちがったことを言っているのではないし、第一、このくらい言わなければ株を買おうという気に
ならないほどの沈滞ぶりだったのである。

 相場は大底のダウ千二十円から千五百八十八円まで、七月を出発点に翌年四月まで一気に突っ走った。
途中、千二百五十円のところで一服したが、この間多くの理論家達の間には、株価は行きすぎとの批判が
うずまいていた。景気の実体は不況の底をはっているのに、株価は現実からかけはなれた動きを
しているというのである。しかし、こんなことで止まるはずはない。三十五億株にものぼる株式が
共同証券と証券保有組合の二つの凍結機関に吸い上げられてしまったあとで、大した売り物などないからである。
私は、調査マンにこういったことを覚えている。「お前、今こそ株も買うべし、酒も買うべし」と。
こんな時にはキャバレーに行っても、同じ一万円札がモノを言う。
好況で浮かれている時の何倍かの値打ちがあるというわけだ。

 そうは言っても、翌年になって、五割近く値上がりしたところからは利食い売りに転じた。
顧客にも利食いをすすめ、三月末には信用取り引きの買いに枠をはめて従来の水準の半分にした。
もはや、顧客も勢いに乗っており、第一線のセールスマンは困ったようだった。しかし、材料を先き食いし、
買い切った相場は反落に転じた。大成功だった。
これが、私が現役で最後の大相場になったのである。

 私も七十をこえ、そろそろ隠退すべき時期にきたと、かねがね思っていた。それにたまたま会社に来ていて
仕事中に胆石で寝こんでしまった。命に別条はないが、余りの痛さに社長室で三日も泊りこむことになった。
何ともダラシがない。けれどもどうにもならぬ。ここで私も考えた。もう、このような証券恐慌は当分こないだろう。
いや、もうあるまい。それに、息子も四十台に入ったし……。また、一方で本社社屋の改築にとりかかっていた。


第34話 本社ビル完成

 私がいよいよ最後の大仕事にとりかかったのは、昭和三十八年のはじめの頃だった。
本社ビルの改造、新築である。ざっと計算してみて十二億円はかかる。
このビルの中には事務所だけでなく美術館も設けようというのである。
これまで長い間、何回となく夢にまでみた計画だった。

 さて、とりあえず、執務中の旧本社ビルよりどこかへ移転しなくてはならない。
幸いに、蛎殻町に七十坪ばかりの土地があった。ここは、東京穀物商品取引所、
戦前は米穀商品取引所の直向かいに当たり、甘酒横丁とよばれる通りに通じる道一本へだてた角地である。
私がかつて、回米問屋時代に清算取り引きのために店を出したところだ。
そして、株屋に進出した時の店にもなった、思い出も深い土地なのである。

 ここへ、約一年がかりで、地上七階、地下二階の小型のビルを作った(現在の山種米穀本社ビル)。
柄は小さいが、外部の柱には花崗岩をはったり、
役員室の壁にはチーク材のねり付を使うなど、かなり贅沢なものになった。
ひとつには、次の大物を作るためのテストでもあった。いろいろな材料を実際に使ってみれば感じをつかめるし、
また部屋の使い勝手もはっきりする。その上、費用もおおよそ見当がつく。
というわけで、まずテストを終えて本番に移った。設計は日建設計に、建築は清水建設にお願いすることにして、
設計の段階から首を突っ込んだ。まず、手はじめに日頃、私が目にとめていたビルをどんどん回って歩いた。
ビルの形や使ってある材料で特色あるところ、それに、同業の証券会社などである。

 大体、私の建築好きは、社員も分かってはいたようだが、今日はどこか、明日はどこかと催促するので、
建築の係になっていたうちの社員も、また設計をうけもった日建設計の担当の方も、音を上げたようだった。
何も、そんなにまでしなくても、写真や材料見本でわかるじゃないか、というわけだ。
しかし、これは株を買う上での会社調査と同じこと、実際にその会社の経営者にあって自分の眼で、
耳でたしかめてみなければ正しいことはつかめない。

 旧本社ビルを建てた時も、同じように見学して歩き、
服部時計店(現和光)のビルでみた大理石を使ったことがある。
こんどは長期信用銀行の本店を参考にした。黒いミカゲの柱とステンレス、どっしりとしたあの感じが欲しかった。
美術館も、京橋のブリヂストン、大手町のサントリーから世田谷の五島美術館まで足をのばした。
実際に行ってみると、なるほどよく出来ていると感心させられる所も多く、色々な意味で得る所は大きかった。
そして美術館については、東宮御所を作られた谷口吉郎先生に、
茶室は裏千家の千宗室先生に、それぞれお願いした。
何としても最高のものを作りたかったからである。

 ところで旧本社ビルを解体中のことだった。非常に手間どっていたので、現場監督の人に聞いてみると、
鉄筋が沢山入っていて、簡単にはこわれないのだという。地下室部分は煉瓦で二重に壁がつくられ、
水のもれるのを完全に防いであるのを目のあたりにみて、
三十年も前に精魂こめて作ってくれた清水建設の誠意をあらためて見直した。
当時の現場監督は城戸さんで、のちに副社長にまで出世された方である。
私が建築を清水建設に特命でお願いした眼に狂いはなかったと思った。
そして、着工してから二年で自慢のビルが兜町の玄関に完成した。

 ちょうどこのビルの建築契約を結んだ時は世の中はオリンピック後の不況のさ中、
鋼材、棒鋼はトン当たり三万円スレスレ、セメントも安値、建設会社は仕事探しに一生懸命の時であった。
それだけに、費用も節約出来たし、また念の入った建築も出来た。好況の時にはそうはいかない。
証券恐慌にもぶつかった。そこで「さすが山種」とも言われた。だが、大事なお金の力をフルに発揮させ、
お金をうまく使うには不況の時に限る。「不景気に建築を」というのが私の六十年の仕事を通じて
身につけたものだった。汗水たらし、積み上げてきたお金の大事な使い方でもある。
お金を使う時と使い方が問題である。

 ビルが完成した時、例の公債発行政策で景気は不況から脱却していた。期せずしてちょうど、昭和のはじめに、
旧本社ビルを建築した時とほぼ同じようなぐあいとなったのである。
私にとって生涯最良の日ともいうべき日が訪れた。新しく完成したばかりの本社ビルでその披露の宴が催された。
昭和四十一年の七月七日のことである。

 この夜、山種関係の内輪の人達、証券、米穀、倉庫各社の役職員はもちろん、お米屋さんまで集まり
いやがうえにも、熱気の盛り上がる席上で、私は山種証券社長のイスを次男の富治に、
そして、辰巳倉庫の社長を三男誠三に、それぞれ譲ることを発表し、あわせて今後の御支援を皆さんにお願いした。
湧き上がる拍手の中で、二組の息子達夫婦が頭を下げる姿をみているうち、さすがの私も涙があふれてきた。
ああ、せめてこの時まで家内が生きていてくれていたら、どんなにか喜んでくれただろうに、と思うと、尚更であった。

 私が兜町のこの地に出てきてから、実に三十年余りの歳月が流れていた。このビルを建てた土地にしても、
最初は旧本社ビル用にわずか百坪足らずにすぎなかった。それが、兜町の表玄関にもあたる角地のほぼ一区画分、
三百七坪にもなっていた。裏の土地を買い、またしばらくして、一軒おいて隣が手に入るというぐあいに、
その時は高いと思っても「隣地は倍買い」の信念で買い足してきたものである。
何も、大きな相場をあてて、ごっそりともうけ、その金で一ぺんに買いとったわけではなかった。
私が信条としてきた「積み上げ方式」実践の結果であった。普通の人が貯金を積んでいくのと少しも変わりはない。
だから、土地だけでもここまでくるのに、三十年以上もかかったのである。

 しかし、この日の朝、新本社ビル竣工の式にテープを切った時、もろもろの苦労は消え、すべては喜びに変わった。
つづいて、高松宮、同妃殿下をお迎えして、山種美術館開館のテープを切って頂いた時にはもう、
嬉しさがこみ上げてくるのを抑えきれなかった。
そして、息子達に社長を譲った時、正直ほっとした。
まだ、代表権のある会長になるとはいっても、私の気持ちとしては引退である。
この機会に出来るだけ第一線から、また公職からも退くことにしたのである。
戦前、そして、戦後も引きつづいて勤めていた証券取引所の理事の職も辞した。
業界の方から「まだまだ、いいじゃないか」と引きとめて下さる声もあったが、
自分としては潮時だと感じていたので、そのまま引かせて頂いた。
証券と倉庫は息子達に、そして米穀はすでに長年一緒に仕事をしてきた細谷慶助君に預けた。
残るは、山種美術館館長と富士見学園理事長としての仕事だけである。

 しかし、相場は残っている。仕事から退くといっても、株式も、小豆も、糸も、
好きな相場を張ろうと思えば張ることが出来る。私から相場をとってしまった時、何が残るだろうか。


第35話 ムダ嫌い

 私が、テレビドラマの主人公になった。たしか、昭和四十二年の四月のことだった。
その題名はなんと「偉大なるけちんぼ」であった。これには恐れいった。たしかに、”ケチ種”とも呼ばれた私である。
けちんぼでもよいが、”偉大なる”とつけられたので、どんなものが出来上がるのか気になり、
わざわざNHKの代々木の放送センターにリハーサルを見せてもらいに行った。
はじめてみるテレビドラマのリハーサルの情景だった。主人公である私、捨吉を演ずるのは青島幸男さん、
いや、青島先生、主人山繁さんにあたる山岡繁造は花柳喜章さん、実話にはないが、
ドラマの上で私を拾いあげてくれたケチな金持、吉田善之助に柳永二郎さん、その娘、のちに捨吉が結婚する相手、
百合が野川由美子さん、という配役だった。群馬県坂口の実家での生活、少年時代ちょうど、
東京へ出ようと決心するところがその夜のシーンであった。

 スタジオには深川、回米問屋の店先、そして、各地産米の品評会などの舞台が出来ていた。
それをみて回っているうちに、いつか昔を想い出していた。
小僧時代には一にも、二にも節約で押し通した。借金を背負っていたので、やむをえなかったのだが、
仲間うちでは、いつしかケチ呼ばわりされていた。支配人になり、さらに自分で店をかまえるようになっても、
節約第一の考えを貫いた。店員の間では、何もそんなにまでしなくてもいいじゃないかと、思われていたのは、
自分でも、よく知っていたのである。
しかし、決して世間からつまはじきされるような、いわゆるリンショクとはちがうと思っていたし、
今もなお、確信しているからそのままで通している。
「金は使い方が一番大事というケチ哲学」を表現しようというのが、演出家の狙いだと聞き、
ケチンボがいわゆるリンショクとはちがうと分かってほっとした。

 私が奉公した山繁商店では天引預金をやっていた。そう多くもない給料の中から天引きされるので、
みんなぶうぶう言っていた。ボーナスもただの紙切れだった。一、賞与 千円也、山崎繁次郎 印であった。
自分のふところには一銭も入ってこない。何かお祝いとか、病気になったとか、特別な理由がないかぎり
出してもらえないのである。いわば強制貯蓄だった。苦しいのは苦しい。
しかし、そのおかげで、小僧にしてはとても出来そうもないようなお金がいつの間にか出来ていった。

結婚した時、そして独立の時には非常に役立った。そこで、私も店のものには天引預金をやらせたのである。
よく、私に金儲けの秘訣を聞きたいという人がある。
そういう時には「あなたの職業は何ですか。サラリーマンでしたらとにかく、使わないことですよ」と答える。
すると、「何だ、そんなことか。言われなくたってわかっているよ」という顔をされる。
サラリーマンにとってそれ以外にないのである。まことに平凡だが、いくら考えたって、
無から有を生ずるようなうまい話はない。

 だが、店のもの達やそばにいる人の眼にはケチなやつという面が強くうつったにちがいない。
そう、米から株式に進出した時だった。帳簿類を買わず、とりあえず市販のノートですませた。
一つには、このままうまくゆくか、もうかってゆくのかはっきりしないのに、はじめから立派なかまえを整え、
大きな費用をかけるのは危険だと考えたためであった。
ある時、大学出の社員がこんなことを言った。「階段を上がるとき、足元が暗いのでスイッチを入れながら昇った。
すると、下の方から消しながら上がってくる奴がいる。誰かと思って、立ち止まり、
見ていたら社長のシラガ頭がみえてきた」と言ったことがある。たしかにケチが身についているのかも知れない。

 昭和のはじめ、千葉の飯岡に別荘を買った頃のこと、出かける時はいつも背中に一袋背負っていった。
中身はお米である。回米問屋では見本にとるサシ米だけでも、自分の家の分はもちろんのこと、
店のもの全部が腹一杯食べても余るぐらいだった。その米を利用したのである。
私はムダが嫌いだったにすぎぬ。一人がムダをするのは小さいが、十人、二十人集まると大きくなる。
ある大企業では四月頃になるとノートや鉛筆が大量に使われる。その会社は七万人、
一人百円ムダにすれば七百万円という大金が飛んでしまうわけだ。
たかがノート一冊ぐらいという気のゆるみがこわい。自分の世帯を例にとっても、
だまっていれば費用はどんどんふくらむ。気をつけていてさえもふくらむものはふくらむ。
上が上なら、下も下、となりがちだ。それで私はつねに気を引きしめていたのである。

 そう、昭和三十年頃だった。漫画家の近藤日出造さんと対談した時のことである。たまたま、タバコの話が出た。
私は「先生。ひとつ、六年間ほど禁煙して、その代金を貯金してみませんか」と言った。というのは、
日頃こんな計算をしていたからである。一日にピース一箱吸うとして、一年間の代金は
一万四千六百円(当時一箱四十円)になる。これを年一割はもうかるとして株式で運用したとすれば
六年目の終わりになると元金は実に十一万千六百四十九円になっている。
つまり、七年目には、禁煙をといても利息でプカプカ吸える勘定だ。しかも、元金は減らない。
「どういうわけですか」と近藤さんが聞くので「これこれの計算で、ただでタバコが吸えますよ」と説明した。
すると、先生は「なるほど。でも、私はそんなにまでして、タダで吸おうとは思いませんよ」と逆襲された。

私はタバコは嫌いである。だから、利息でタバコを吸うという計算が出来た。
人間である以上、おいしいものを食べたい、きれいなもので飾りたいのは当然だし、
そういう時にはソロバン抜きであるのが、本当だろう。
ただ、私はお金を貯めるには、それだけの努力、忍耐が必要で、楽をしていたのでは貯められないし、
お金をもつことによってえられる利益をうけられないということを言いたかった。

 山種証券の社是五訓には、蓄積精神の昂揚につとめ、人格の完成をはかる、という一節がある。
社員の中には、ただ守銭奴みたいに金さえためれば、人格者になれるのか、などとまぜかえす者もいる。
それは、誤解である。貯めた金額の問題ではない。着実に、一歩一歩積み上げていく、その意志の強さ、
その結果、出来上がる貯金、そこには人並みならぬ努力が必要だ。自分でやってみて、
いかにきついかが身にしみている。それだけに、大いに評価したいのである。
上げ下げの激しい、一日のうちにがらりと変わってしまう相場の世界、そういう世界の人間にとって、
一般社会から、とくに銀行筋に信用をうるのは簡単でなかった。
そこであみ出したいわば生活の知恵みたいなものが蓄積だった。これだけは何としても、
自分の身の回りにいるものにわかってもらいたい、それ以外になにもない。この私がよい見本であり、
ケチ種でも一向にさしつかえなしである。
テレビドラマからはじまって、大分横道にそれてしまったが、以上がケチ種の由来である


第36話 別荘地分譲

 蓄積にもその仕方はいろいろある。とくに、お金を貯めただけではそれだけのこと、
うまく運用しないとせっかく貯めてもふやすのはむずかしい。
私は運もよかった。商売にお金をつぎこんで成功した他、絵でも大きくふやした。その一例が速水御舟の絵だった。
昭和十年頃にはまだ三流株とみられていた御舟の色紙を五十円で買ったのである。これは今では
時価五百万円以上にもなった。値上がり率十万倍である。速水御舟は人格高潔、その作品の数も少なく、
若くしてこの世を逝ったために、稀少価値も加わり、思いもかけぬ高値を呼ぶことになったのである。
絵の値打ちは作者である画家の人柄に負うところ大だ。私はつとめて、画家にお目にかかり、
おつきあいを頂きながらその作品を買っていった。

 絵の他にもう一つ、財産をふやすことになったのが土地であった。手はじめは別荘地だった。
来宮の山林を買ったのは昭和九年だった。たまたま、熱海の十国峠の近くに十一町歩ほどの土地があるので
買わないか、との話を持ちこんできてくれた人があった。そこで、十万円という言い値を値切って買うことにした。
温泉がついていなかったからである。しかし、すぐ下の来宮神社あたりではお湯が出ていた。
そこから、三百尺高いところである。きっと掘れば出るにちがいないと考え、掘ってみた。
半年ほどかかったが、うまいぐあいにお湯が出た。

 さて、十一町歩、三万三千坪全部を自分一人では使い切れない。そこで分譲することにして、東宝の小林一三さん、
昭和電工の森矗昶さん、日本鋼管の白石元冶郎さん、斎藤鉄管の斎藤長八郎さん、
以上四人の方にも加わって頂いた。
各人千坪を自分のものにとって、残りを分譲、売り出したのだが、皆さんそれぞれ立派な方々だったので、
東株理事長の長崎英造さんをはじめ、多くの方が喜んで買って下さった。
分譲が成功したおかげで、自分のところの分は原価がただ同様になった。

 それは、さておき、ここに別荘を建て、嶽心荘という名前をつけた。名づけ親は横山大観先生で、
ついでに揮毫をお願いし、その額を門に掲げた。
私はこの別荘が大好きだった。四季にかかわりなく、週末にはきまって東京をはなれてやってきた。
庭を見ると、大刈込みの向う真正面に、初島が海に浮かんでいる。松の声を聞きながら風呂に入っていると、
一週間の疲れを洗い流すことが出来た。
何よりも、異常なばかりの緊張感から解き放されるのが、ほんとに嬉しかったのである。
とくに晩年ではあったが、父宇太郎に楽しんでもらうことが出来たのは、
とかく仕事の忙しさにまぎれ親孝行というほどのこともしてなかった私にとって、幸せだったと思っている。

 そして、今、私は住まいをこの地に移している。空気はいいし、魚もうまい。
庭には黒松、赤松、孟宗竹、そして梅がある。松竹梅、このうち松と竹はもともと生えていたのだが、
梅はあとから植えたものである。一株一円均一の梅の苗木だった。はじめは一尺かそこらの若木も十数年をへて、
立派に育ったところで、一株二千円で売れた。ちょうど熱海の旅館に建築ブームがおきたからである。
それはかつて林学の権威本多静六博士にお聞きした「空いている土地に苗木を植えておけば、
いつか思わぬときに利益をうる」との話どおりだった。

 なお、この別荘は私ばかりでなく、店のものの新婚旅行にも大いに利用してもらった。
妻や友達や親せきのもの達と一緒に喜んで使っていた。妻は人一倍気を使う性質だったので、
ここだと何の気がねなしにゆっくり休むことが出来たからだろう。


第37話 妻のこと

 その妻、ふうが忽然とこの世を去って、もう、十年の歳月が流れる。これといって病気をしたことのない妻だった。
それが、珍しく風邪がもとでふせってしまった。大事をとって、東大病院上田内科へ入った。ずい分良くなり、
明日は退院という日の夜だった。病状が急変した。そして、あっという間に不帰の人になってしまったのである。
泣けた、泣いた。涙がとまらなかった。
そして、次から次へと、妻の想い出が走馬灯のごとく、私の脳裏に浮かんでは消えていった。

 婚約時代の事だった。坂口の家へ行く時、鏑川を渡った。その時、橋がなく馬で川を渡った。
弟の篤二が馬を引いて川岸まで迎えにきていてくれた。妻の手をとり馬に乗せたのだが、
「私は馬は嫌いです。馬でなく、渡れるように橋をかけて下さい」とこともなげに言った。
のちに、星川橋を寄附したのも妻との約束を果たしたものだった。
大体、妻は乗り物に弱かった。船はもちろん、汽車も、自動車も、ダメだった。だが、つとめてがまんしていた。
子供達の教育については大筋は私がきめたが、あとはすべて妻の領分だった。
子供を家庭教師の所へ連れて行く時など、いつも気分が悪くなり途中で車からおりて、吐きながらも頑張り通した。
自分を抑え、常に夫の私から子供達、そして店のもの達のことを優先させて、考えていた。

 話はちょっと前に戻るが、一度大喧嘩したことがある。それは、長男を疫痢で亡くした時のことだった。
長男は結婚後一年そこそこにして生まれた。二人して、日毎の成長を喜びあっていた。
妻は長男を抱いて電車に乗ると、見知らぬ人が可愛い子だとほめてくれたなどと喜んでいたのに、
突如として、その子が世を去った。

お互いに責任のなすり合いみたいになり、二人とも口をきかなくなってしまった。
ある日、妻が家を出たきり夜になっても帰ってこない。大さわぎになった。
店のものも一緒に手わけして探したのだが、見つからなかった。
ようやく夜も白々の明け方、四時頃になって見つけた。小田急の線路ばたで死んでしまおうかと思い、
ぼんやりしていたというのだった。しかし、実家にとんで帰るようなことはしなかった。
その点、女は結婚した以上、帰るところはないのだ、という考えに徹していたのであったろう。
既に心底から私の一生の妻になりきってくれていた。

 独立した頃、とくに大正十四年に相場で敗れ、スッテンテンになった時、妻は私に何ひとつ聞かなかったが、
苦境を察していた。ただ、黙々と家庭を守り、店を守った。
私は安心して仕事に注力、思う存分走り回っていた。だが、勢いにまかせ、店のものを怒鳴りつけ、叱咤した。
考えてみると、ずい分乱暴だったように思う。
それだけに、店のもの達の中には、そのたびごとに、今度こそ辞めようと思った人も多かったはずである。
そんな時、とりなし方を頼まれては、いろいろ助言したり、私に対しては行きすぎをたしなめたりした。
住みこみの店員達の洗濯までも引きうけていたので、しつけにやかましかったが皆にしたわれていた。
ある意味では、私は妻に甘えていたのである。

 私は世間で”ケチ種”とまで言われていたが、妻はまったく逆の評価をうけていた。どんどん金を使ったからである。
もの分かりがよすぎるぐらいだった。たとえば、人に仕事を頼んだりすると、パッパッと思い切りよくお礼を出していた。
その中の一つ、戦争中だが、写真屋さんに家族の写真を撮ってもらった。写真代は十円だった。
お煙草代として渡したのが五円だった。もらった方がおどろいたらしい。
もう一つある年末、大掃除を手伝ってくれた店のものに電蓄をあげたという話もあった。

しかし、一方で、自分の身の回りのことになると、つつましかった。家の中でムダな電灯は消して歩き、
自分を飾るものといえば、私が婚約時代に買った指輪一つだった。決してねだろうとしなかった。
妻が三輪田高女に通っていた頃、化粧品会社がよく宣伝品を門前で生徒にくばっていた。
生徒達は上流家庭の人が多く、見栄も手伝って手を出す人は少なかった。
しかし、妻は使えるものだからといって、もらっておいたという。
まさに、人のために尽くす、内助に生きた女であった。
今日私のあるのは妻のおかげによるところ大であった。その妻を失い、日をへるにしたがって、
なぜ、私をおいて早々と逝ってしまったのかと、くやまれてならない。


第38話 サヤトリ

 私の夢は、はじめはほんとに小さいものだった。何とか郷里の借金を返すことだけが願いであった。
それが、どんどん大きくなっていったのである。考えてみると、手はじめの相場でうまくいかなかったのが
よかったのかもしれない。この時の様子は梅原の加藤さんとの出合いの時に書いておいた。
いかに相場がむずかしいものか、そして失敗した時のおそろしさを心底、身にしみて感じ、肝に命じたためでもあろう。
以後、「儲けた金には損がついて回る。貯めた金には信用がつく」との信念を貫きとおした。

 一夜成金、一夜乞食と言われた相場の世界、それは戦後、とくに現在の株式相場における相場とは
いささかおもむきがちがう。米の清算取り引き、蛎殻町界わいでは合百(ごうひゃく)と呼ばれる一種のあてっこや、
薄張り(規定の証拠金よりずっと少ないお金で相場を張ること)が横行していた。クロウト筋は呑み屋として、
小口の投機好きなお客に向かった。それで、商売はうまくいっていた。つまり、一回や二回は負けても、
ちょっと長い間、相場をやっていると結局お客が失敗するからである。
まさに勝つか負けるか、妥協のない勝負の世界だった。

 小僧時代、深川の方に蛎殻町の気配をもったセールスマンがちょいちょいやってきた。
小僧はともかく、中僧の中には相場をはる人も結構多かった。損した話は滅多に聞かなかったが、
どうやら足を出すのが通例のようだった。うまい話はないものである。
そうした環境にあって、私は立派な先生方に恵まれた。第一が、私の主人、先代の山崎繁次郎さんだった。
山繁さんについては前に述べたが、ここであらためて考え直してみると、私の商売は大体において、
この成功者の守った道を踏襲したものであった。自分のすぐそばに、生きた立派な見本があったからである。

 山繁さんの店では回米問屋といっても、自分の店では買い持ちをせず、
すべて産地からの委託米の売りさばきに徹していた。手数料は小さい。相場の儲けは大きい。
だが、相場は張らなかった。今でいうならば、ディーラーはやらずブローカーであった。それは相場で儲けると
相場で損することをよく知っており、思惑的な商売をさけたためではないかと思う。
私もこのブローカー中心の行き方にした。相場を張ったといっても、それはディーラーとして手持ちした実米を
清算市場に売りつないだのである。保険つなぎだった。収入の基礎はブローカーによる手数料にあり、
それだけで十分に食べていかれるようにしてあった。

 その上で儲けた分を積み上げていった。毎年、年末には棚上げ貯金をした。この資金は主としてサヤトリに使った。
当限を買って、先限を売るというやり方だ。サヤトリというと馬鹿にする人もあった。
でも、日歩十銭以上、時には三十銭にも回すことも出来た。年に三割から十割の儲けである。
銀行から資金を借りても、日歩七銭なら十分に引き合った。
これは大きい。危険の大きい相場を張るより、結果は確実なうえに、大きく儲けられる。
私にしてみれば、なぜ皆が利用しないのか不思議だった。

 もちろん、サヤトリといっても、比較的単純な当限、先限のサヤトリ、実米と清算市場の先物のサヤトリから、
さらには多角的な、複雑なものもある。例えば棉花を買って、綿糸、綿布を売る、手芒を買って、小豆を売る、
小豆を買って、砂糖を売る、米を買って、新東株を売るというようなぐあいである。
それは、常に採算からみて、割安なものを買い、割高なものを売ったのである。
実際に世の中ではそういう動きが必ず出てくるものだ。小豆が高騰すれば、お菓子屋さんでは使い切れなくなり、
代わりに手芒(つるなし隠元)を沢山使用するようになる。小豆の実需は落ち、手芒の需要が伸びる。
当然、小豆の相場と手芒の相場の動きは逆になり、このサヤトリは成功するわけだ。
採算を買い、人気を売る。採算は実、人気は花である。

 採算に乗る、乗らないのモノサシは各人各様かもしれないが、私は私なりのものをもっており、
それでやって大勢はまちがいなかった。
小豆相場でいえば、小豆の値段は大体、米より高い、というのが経験的にわかっている。
そこで、小豆がこの水準を割り込んできたら徐々に、静かに買い下がる。底値百日、天井三日のたとえどおり、
買ったらすぐ上がるというものではないから、辛抱がいる。ある意味儲けは、この辛抱に払われるものかもしれない。
いつしか相場が回復し、割高になったところで売りはじめる。
買いの逆で、扇型に、どんどん玉数をふやしながら売り上がる。前もって仕込んでおいた実物を見合いにした売りである。
そして、各業者から出てくる買いの手口を調べる。人気化する動きを読むわけである。
小口の買いが次第にふえてくる。そこで、こんどはカラを売りはじめる。静かに、売り上がる。
そのうち、小口のカラ売りがふみに入る。そこへ、売りをぶつけていく。
大体、大きく売るためには相場が上げているうちでなければ出来ない。売りには買いと同じく辛抱も必要だが、
強い信念がなければ成功しない。ある日、何かのキッカケで反発する。
その反発ぶりをみて、二番天井とみきわめれば、追撃売りに入る。ここからの儲けが大きくなる。

 ふつう、売り建てがあって、相場が下げに入れば、それまでの売り玉の儲けで満足してしまう人も多い。
しかし、それは序の口、追撃売りの方がむしろ大きくなることもある。相場の流れは変わってしまっているのだから、
安全だし、しかも相場は下へ行きすぎるのも常である。
儲ける時には、よくハラ八分目とか、頭と尻尾は人にやれ、という戒めがある。が、チャンスは徹底的に生かすべきだ。
いささか執念ぶかいところは巳年生まれのもつ性格かもしれない。

ただし、相場に外れた時は早く降りるのがコツである。「離(はなれ)」である。
よく、株で損をすると、この株にやられたんだから、同じ株でとり戻そうとする人がいる。
あるいは、株の損は株の儲けで埋めようとする人も多い。
しかし、それは失敗しやすい。損の上ぬりである。一つには、心理的に負けてしまっているため、
冷静な判断が出来なくなっているためだ。意地では成功するはずがない。
私は必ずしもこだわらない。損は「とりあえず取引所に預けたんだ」と考える。積んでおけばいつか下ろすことになる。
つまり、勉強代と考えるのだ。 とりあえず休む。

 実を言えば、このコツは軍隊時代に得たものである。
行軍する時、休みもなしに強行軍すれば、兵はバタバタ倒れる。
たとえ、五分、十分といえども、小休止をとりさえすれば、そんなことはおこらない。「買う」「売る」「休む」である。
アメリカのウォール街でも同じことが格言として言われているという。
「休む」、この時が肝心である。熱くなっている頭を冷やすのである。
そして、相場を張る時に、サヤトリを多角的にやるように、金儲けも多角的にやればよい。例えば株式で損をしても、
小豆、生糸、人絹など他の相場でもうかっていれば、それでよい。いや、なにも相場にかぎることはない。
土地、あるいは絵画、骨董、財産がふえていればそれでもよい。
一つの勝負に熱をあげるあまり、肝心な儲けをおろそかにしてしまうのは困る。
要はゆとりをもって、眼をひろく、頭はやわらかに、というのが、一番大事な心得のように思う。
まして、昨今のように、国際化が進み、日本の株だけでなく、ニューヨークだろうが、ロンドンだろうが、
世界中どこでも好きな株が買えるようになっているだけに、尚更である。


第39話 “流れを知る”ことがコツ

 よく、株価の見通しが百発百中なら大きな財産を作れると思う人が多い。
たしかに、ひとつ、ひとつの株について、上げ、下げをピタリと当てられれば、そうなるようにも思える。
しかし、それは錬金術に似て至難のワザである。この私はもちろんのこと、
古今東西を通じ、そういう人はまずいないだろう。
そして、株価の見通しがうまい人必ずしも、儲け大ならずである。ここが、相場のむずかしさであり、面白さでもある。
株価予測の名人はえてして、見通しが当たることに無常の喜びを感じ、例えば、十銘柄について七つとか、
八つとか的中したということだけで満足してしまう傾向があるのではないだろうか。

 しかし、財産を増やすとなると、ややおもむきがちがってくる。どれだけ儲かるかである。
その場合、数多く銘柄を当てるより、一つでもよいから資金を効率的に運用することだ。
見方によっては、あまり多くの銘柄を売り買いすると、自然に注意が行き届かなくなり危険も大きくなり勝ちだ。
十銘柄に投資して、九銘柄が成功、あるいは十回やって、九回うまくいったとしても、
たった一銘柄、たった一回の失敗により、全部の儲けを飛ばしてしまい、逆に足を出すなんていうことも少なくない。

 まして、五十、百などと数多く投資する場合になれば大変だ。分散すれば危険も少なくなるという見方も
あるようだが、そうはいかない。そのよい例が、日本の投資信託ではあるまいか。いろいろ事情もあろう。
しかし、三十ぐらいの銘柄にしぼって運用している外国の日本株専門投資信託が
比べものにならぬ成績をあげているのをみれば、何となく、わかるではないか。
いくらすぐれた専門家が数多く集まり、コンピューターを駆使したところで、やはり限界があるように思う。
九回の成功を一回の失敗が帳消しにしてしまう、これこそが相場実戦の真の姿であろう。
とどのつまり、相場で成功する初歩的な、そしてもっとも確実なコツは、相場の大きな流れを知ることにある。
それが、勝機をつかむことである。

 下げから上げに変わる。その時機に買って出れば、あるいは逆に上げから下げに変わった時、
すかさず売って出れば、どんな未熟な人であろうと、資金が少なかろうと、多少銘柄の選択をあやまったとしても、
儲けの大小は別にして、必ず成功するといってまちがいない。
最近の例では、昭和四十年がそうだった。利回り五分、二百五十円スレスレまで売りこまれたソニーを買っておけば、
今や五千円をこえ、その間に二割の無償を二回、二割五分の無償を一回もらっているので、実に三九倍にもなった。
ソニーでなくても、鉄鋼株だってもうかった。あの当時の単純平均が八十五円、今は二百円台を突破している。
昭和四十六年秋のポンド・ショックの時も、そして近くは、四十六年暮の円切り上げの時も、そうである。
流れが下向きから上向きに変わったのである。それをつかめば、文句なしだ。

 ところが、相場が上昇しつづけてくると、買いたくなるのが人情だが、買いは次第にむずかしくなる。
それは、誰が考えても、値上がりするのが当然な銘柄から先に値上がりしてしまうからである。
資産内容、収益力、成長性、そして利回りにも乗るようなものである。いきおい、利回りには乗らないが、
近く増資がある、あるいは利益が大幅に伸びるからとか、新製品、新技術の開発に成功したとか、
さらには大きな仕手が手を伸ばしているといったような理屈をつけて不確定な期待感に頼るようになる。
欠点はあるが、よい点もあるという考え方だ。
そこへ人気が加わってくる。株価は派手に動き出す。ついついそこへ乗る。
危険がどんどん増していることには気がつかない。
ここまでくると、いかにすばらしい相場の名手であろうと、はずれる可能性が高まるのは至極当たり前である。
ほんとうは次の機会をじっと待つべきなのである。

 しかし、人間は弱い。危ないと思いつつ、引きずられる。このへんで、戦線を縮小しようとしながら
出来なくなってしまう。この見切りが、相場に勝つか、負けるかの分かれ目である。
先日も、うちの調査の若い人が私に聞いた。
「世の中で、あの相場で儲けた、この銘柄で大儲けしたとの話はよく聞きます。
でも、財をなし、最後までうまくいった話はあまりありませんが、それはどうしてですか」と。
私は「人間の欲には際限がないからだよ」と答えておいた。
彼は、何かわかったようなわからないような顔をしていた。
このことは古いようだが”利食い千人力”の一言にも、示されている。
あとから考えてみれば、なぜあそこでとめておかなかったかと思うが、
その場になるとつい落ちこむ落とし穴だ。
そして、何べんくり返しても、また誘いこまれてしまう。人間の弱さという他はない。


第40話 相場の道に六十五年

 いつのことだったか、奥村綱雄さん(野村証券相談役)にお会いした時に、野村徳七さんの話をうかがった。
野村さんは売りはやらず、買い一方であったという。それも生半可のものではなかったようだ。
あの昭和はじめの金解禁後、底なし沼の相場に買い向かったのだから大変なことである。
次から次へと追い証に迫られながら三年にわたり買いつづけられた。
それは相場を張るというものをはるかにこえた、執念に近いものだったろう。
その心は「国運を買う」ところにあったという。しかも、金解禁が、経済に、そして相場に、どんな影響を与えるか、
百も承知の上でのことだったと聞き、その偉さには頭が下がった。

 私とはまったく違った相場師である。いや、それは相場師をこえたものであろう。
信念を貫き通すのは容易なことではない。流れにさからうとなれば尋常のものではない。
私は信念の裏づけをソロバンに求めた。ソロバンには大小があり、
国家のソロバンから、かけ出しのサラリーマンのソロバンまでいろいろある。
野村徳七さんの話を伺った時、同じソロバンにも、人間の心がまえにも、
大きなちがいのあることを、あらためて感じた。

 それはそれとして、人それぞれにかなったソロバンがある。数々の相場で、幾千回、幾万回とはじいた、
てなれた五つ玉のソロバンに、何とも言えない愛着を覚える。私にとって、かけがいのないものの一つである。
私が相場の道に入って、はや六十五年の歳月が流れた。今は来宮で療養の毎日である。
時折、波乱にみちた過ぎし日の懐しい想い出にふけりながらも、もう相場は張らない。
株にも小豆にも手を出したくない。体に自身がなくなったからである。

それでも、時折見舞に来てくれる息子二人にいつも話していることはソロバンを忘れるな、ということである。
私が死んでも、ヤマタネのソロバンだけは生かして欲しい。


第41話 あとがき

 今の私は病床に親しんでから既に六年も来の宮の山荘で毎日を過ごしている。
それこそ身心とも枯れ切って欲得は更々なくなってしまった。
昔の私の元気な壮年時代の知人がたまに訪れてはくださるが、余り人にも会いたくない、話もしたくない、
ましてや金儲けの話などトンとしない病人の私を見て、どうもみんな驚いて帰るようである。
息子二人から、「お父さん、とにかく米寿まであと三年は頑張ってくださいよ」といつも激励されるのが
嬉しいような、苦しいような今日の心境であるとは誠に情けない次第ではある。

 しかし、せめて私として、世の中への義務だけは果たしておかなければならないと思っていたところ、
証券調査センターと日本経済新聞社のおすすめがあって、「私の履歴書」に修正を加えて、
いわばヤマタネ一代記の形となったのが、ささやかながらこの「そろばん」である。
ところで、最近いちばん嬉しかったことは、慈恵医大病院に入院中に勲二等の勲章をいただけるという
ありがたいお話が届いたことである。昭和四十九年五月八日、私は車椅子に乗って宮中に伺い、
親しく天皇陛下のお姿とお言葉に接し、もうこれで思い残すことがない、身に言い聞かせることはないと思った。
惜しいことには、隣に妻がいなかったことである。車椅子のままで起立もできず、
わがまま放題で勲章をいただけたということは、本当に感泣の極みであった。

米屋の小僧時代から馳け足で七十年、これから「米の年」までは昔話を折々思い出しながら、
山荘の松藾に耳を傾け、自然と語り続けていきたい。

山崎種二

(完)