「障害を持つ子の親にしてしまった」

 

 私が障害者手帳を取得したのは高校3年の時(だったと思う)。就職に手帳を使おうと思ったのだ(この時点で弱いんだろうね)

 本当は就職とかしたい訳じゃなかったんだ。でも、とても勉強を続けていくだけの精神力が無かった。今思うとわかるんだけど、小6の時「増殖性硝子体網膜症」を併発していたみたい。

 勿論眼科はいつも通院しています。でも私の通院していた所では発見できなかった。実は「先天性白内障」の手術を生後半年くらいでしたんだけど、当時の技術じゃすべての「白内障」の部分を摘出できなかったんだよ。
 その影響で私の眼底はなかなか見えない。そして網膜症も発見できず。

 ずっと我慢していました。病院にも行ってるし、当時の私では他のテダテが思い浮かばなかった。ただただ苦痛の毎日。

 朝目覚めると毎日見え方が違う。

 空が赤く見えたり緑に見えたり、物がゆがんで見えたり視野が狭くなったり。
 親には目の事については一切の相談をする気はなかった。親が私をどう見ているかを子供なりに理解していたから、これ以上は目の事でイヤな思いをしたくなかったし、させたくもなかった。

 でも、こういう生活が6年も7年も続くと、さすがにこたえた。寝てしまうと、起きた時に世界が変わってしまうので、長時間睡眠すらとることもできず、布団からじゅうたんへと寝床まで変わってしまった (笑) いや 笑っている場合ではなかった。こまめに起きて世界を安定させたかったんです。だから布団だとつい寝てしまう。コタツやじゅうたんだと寝心地悪いから途中で目覚めるからね。

 今までいろんな事を無理矢理ポジティブに考えてきた私だったけど、「限界」を感じてしまった。

 そして、就職を決める歳まで生きてしまった。でも、もうすべてがどうでもいいって感じでした。はっきり言って疲れてた。勉強どころじゃなかった。朝食のみそ汁のナベにかかっているおたまの柄がどこにあるかの方がよっぽど重要だった (笑) あの当時はそれが見えなかったんですよ

 もう黒板の字もほとんど見えなくなっていたので、進学なんて選択肢は全然なかった。残った「就職」という選択肢を選んだ。

 そして、私は手帳を使って就職した。精神的にゆとりがあったらきっと自力で就職してやろうと思ったかも。でも、おたまの柄すら見えない私にそんな自信はなかった。

 でもね。

 障害者手帳を取るということは、「障害者」になると言う事。

 当たり前の事なんだけどね。

  でも、やっぱり嫌だったなぁ。取得してからブルーになってしまった。両親も「障害を持つ子の親」となってしまうわけだし。眼鏡すら見られたくない父は、今度は私自体を隠すつもりか? (笑)

 このブルーな日は、私にとっての「ターニングポイント」である事は間違いないです。

 そして、ブルーな私を見て、母がそっと一言・・・・


  「普通じゃないんだから」

 
  まさに 「トドメ」でした。
  これまで「普通」であろうと努力してきたつもりだったけど。全てを否定された気がしました。

 それから私は、「障害者として生きていくんだなぁ」 と決意のようなものを感じた。

 そして、就職して半年後。
 やっぱり親には相談などせず、病院を違う所に変えました。これは正解で網膜症を発見できて、すぐに緊急オペ。視力も随分と回復しました。

 何年ぶりだろう・・ 安心して寝たの (笑)

 目が覚めても見え方が同じなんだよ。こんな幸せな事はないよね。みそ汁のおたまだってちゃんとわかったし (笑)

 でも、結局私は両親を 「障害を持つ子の親」 にしてしまった。

 精神力ないなぁ 私・・・・・ もっと強い心だったら・・・・