高浜の歴史と産業

 高浜の名は、衣浦湾岸に高い崖を持っていることに由来する。

●衣ケ浦(ころもがうら)湾のめぐみ
 近世の高浜・吉浜・高取の三か村が、1906(明治39)年5月に合併して高浜町となった。これが現在の市域である。
 市域の西側は衣ケ浦湾に面し、碧海台地上に集落を形成した地域であるが、湾岸には近世以後に造成された海面干拓地が広がっているっ一方、市域の南面は、数条の浸食作用による開析谷が伸び台地の先端部に位置している。
 高低差が大きく、海岸に面し、ほとんどが台地である地域のため、農民にとっては用水の確保が深刻な問題であった。このため高浜村の春日神社は雨乞の神として知られ、雨乞神事がたびたび行われたと伝える。明治10年代に入って、明治用水が開削され、しだいに台地に水田が開けたが、近世には港町として衣ケ浦湾のめぐみに頼るところが大きかった。
 吉浜の正林寺貝塚は縄文時代晩期以来の遺跡で、この地での先人の生活がしのばれる。同貝塚は三河湾岸の縄文時代末ごろを知るうえで重要であり、また、挟溢な湾奥の台地先端部での生活は、水田農業に頼れず、近世には港町として形成された地域である。
 真宗の三河三か寺の一つに、高取の専修坊があり、衣ケ浦湾沿いの浜三か寺の筆頭に数えられている。同寺の星川法沢は大浜騒動の中心人物である。

●村の統治と村役人たち
 近世初期には、高浜・吉浜は刈谷藩水野氏領であったが、高取は永井直勝の所領で、まもなく大河内松平氏領となった。
 その後三か村のほとんどが1711(正徳元)年ごろには刈谷藩領となり、下って寛政期(1789〜1801)には幕府領となった時期があったが、おおむね、高浜・吉浜の二か村は刈谷藩領と幕府領の繰返しで、刈谷藩領の時に明治維新を迎えた。
高浜の石川理平は刈谷藩土井城主時代の用達を務めた。
一方、高取は元禄期(1688〜1704)に二分され、大河内松平氏領、のちの大多喜藩領で維新を迎え、ほかは刈谷藩領や幕府領となり、刈谷藩領の時に明治を迎えた。
 高浜村には古河公方足利成氏の家臣であった一六家と称するものがあり、古河没落後この地へ移り住んだと伝えている。
一六家は石原・山本・石川・都築・神谷らである。
 江戸期の神社の棟札に記録された庄屋名を中心に、社寺に伝わる当時の有力者を地区別・年代順にまとめ現在の状況と対比すると、姓氏の地域性とその広がりをうかがい知ることができる。
 高浜村の庄屋杉浦半十郎が、1651・1652(慶安4・5)年、1661(万治4)年、1662・1670(寛文2・10)年、1681(延宝9)年、1699・1701(元禄12・14)年、1705年(宝永2)年などの記録に見え、石川長右衝門・神谷次右衛門は1651・1652(慶安4・5)年、1662(寛文二)年の記録に見える。
 また、神谷長右衛門は1670(寛文10)年と1837・1840(天保8.11)年の文書にも庄屋として署名している。17世紀の神社の棟札などに見られる庄屋名は、神谷次右衛門・小嶋権兵衛・石川増右衛門・石川善兵衛・石川茂兵衛・神谷忠兵衛・岩月彦三郎らである。
 この年代では酒造家石原茂兵衛、村三役人として神谷伊右衛門、三浦孫七郎らの署名も文書によって知られる。
18世紀には、岩月伊左衛門・岩月彦一郎・岩月彦三郎・杉浦彦助・神谷喜三郎・石原喜兵衛・石川察右衛門・田嶋五良兵衛・田嶋孫平・神谷元次郎らが知られる。
 また、大工棟梁神谷三郎平、願主として杉浦彦五郎・神谷庄右衛門、酒造家として田鴫五郎兵衛・石原善兵衛・石原茂兵衛・石川文吉らがいた。
 19世紀の庄屋は、石川勝左衝門・井上次郎左衝門・山本清右衛門・石川理平らが文書に見られ、刈谷藩用達石川理平、弓術家田嶋美幾蔵、大工棟梁藤木善太郎・古久江常吉、百姓代山本友吉、総代若衆頭として、神谷芳左衛門・浅井縫右衛門・都築安太郎・永井広吉・浅井三代蔵・都築米三郎・神谷徳四郎・神谷庄八郎・神谷友吉、江戸末期高浜下手の富豪家として山脇玄輔・神谷儀八・神谷伊兵衝・神谷安兵衛・神谷久八らの名が見られる。
 吉浜村には、1675(延宝3)年の神社修復の棟札に造営者として、1659(万治2)年吉見書左衛門・吉見太郎左衝門とある。また、射放弓とか、お弓の神事に関連した1659(万治2)年の古文書や奉納物に吉見喜左衛門の名がある。
 1706(宝永3)年の棟札には神主山田弥左衛門、庄屋内藤小三郎、組頭内藤忠兵衛、氏子総代内藤七郎兵衛が記され、1710(宝永7)年の棟札には願主として杉浦吉左衛門、1732(享保17)年の棟札には神主杉浦権兵衛、願主杉浦伊三郎と記されている。杉浦権兵衛は1810(文化7)年にも神主とある。
 吉見林助は一七六二(宝暦三)年の棟札に庄屋とあり、1776(安永5)年の古文書には庄屋吉見林助、信徒総代神谷多兵衛・野々山竹吉・中川利助・杉浦岩七の連署が見られる。
 高取村では1759(宝暦9)年の棟札に大工棟梁平山源助、庄屋兵藤浅右衛門・神谷弥五兵衛、組頭兵藤清蔵・深谷七右衛門・杉浦源三郎、七人衆として川角九郎右衛門・兵藤善磨・川角与右衛門・原田七郎左衛門・川角源右衛門・川角新左衛門・川角吉兵衛らがいる。
 兵藤勘兵衛は神社建立の願人として1657(明暦3)年・1699(元禄12)年の棟札にあり、1845(弘化2)年の棟札には隅田因助・佐藤良助らが記されている。
 高取の黄檗宗清涼院のあたりは築山御殿(屋敷)とか高木屋跡といわれ、江戸時代の豪家兵藤惣左衛門の屋敷跡と伝えられる。
 これら江戸時代の姓氏との関連で、現在の市域内の姓氏をみると高浜市域で最も世帯数の多い姓は神谷で、次は杉浦である。石川・鈴木・加藤・内藤・都築も多い。
 うち、神谷・杉浦は絶対数では高浜に多いが、双方とも全域に分布し、割合からみれば神谷は吉浜、杉浦は高取に目立って多い。
 石川は高浜、加藤・内藤・都築は吉浜に多く、鈴木は高浜・吉浜に多い。
 また市域に比較的多い姓で地区別の分布をみると、高浜は山本・岩月・伊藤・森、吉浜は野々山・中川・竹内、高取は深谷・川角・酒井などに地域姓がうかがえる。
 さらに、市域固有の姓ではないが地区性が顕著なものとしては、高浜の野口・福井・間瀬・角谷、吉浜の古橋・毛受、高取の平山・大岡などが挙げられる。

●文芸の開花と学問のひろがり
 江戸中期に俳諧の宗匠として桃花亭於高こと石原善兵衛は博学多才で、俳諧のみでなく和歌もよくしたと伝える。俳人として尾三遠はいうにおよばず、駿河・京坂にも知られた宗匠であったといわれ、その影響かその後も優れた宗匠に恵まれて、高浜近在では今も俳譜が盛んである。
 桃花亭以後の宗匠については、井上弥来(夜来)、一?舎湖雪、一?舎帰楽・一舎?鴨橋・湖月亭知奈美らが知られている。
 湖雪は本名神谷友三郎。帰楽は湖雪の長男で、鴨橋は帰楽の長男。湖月亭知奈美は本名神谷由兵衛、湖雪の三男である。湖月亭没後の高浜の狂俳は中川平三・石川又兵衛・兵藤音次郎・鈴木十太郎・深谷和吉・石川松四郎・深谷晴治・岩月要次郎・野々山竹青・杉浦留五郎・神谷兼四郎・鈴木権三郎・都築竹松・加藤一二三・石川力松・森浅次郎・森七之助・神谷時太郎・神谷薫一・深谷末吉によって受け継がれた。
一方、文化年間(一八〇四〜一八)には医家筒井玄東の次男道翁が長崎に遊学、その子道甫もまた長崎で西洋医学を学んでいる。道翁は南蛮医学栗崎流の学系を継ぐ山脇道祐に学んだ。明治に入ってからは、石川康雄が近代的な診療所を開設し、話題となった。
 また、江戸中期ごろには寺子屋もしくは私塾を始める者があった。
高浜村では、明倫堂教授新見涛園の甥で漢学者の新美季貞をはじめ杉浦定四郎・杉浦好三郎・岩月平八・山本安次郎・岩井俊篤ら、吉浜村では正林寺住職牧慶随・同牧慶順、神谷多兵衛・加藤佐七、高取村では薬師堂の万山見外・同梅堂、神谷喜代助ら、市域で25名の師匠名が挙げられている。

●盛んな祭りと菊人形
 港町の祭りは威勢がよく、また浜辺の村人は祭礼行事を大切にした例が多い。高浜のえんちょこ獅子・銭太鼓・御馬塔(おまんとう)、吉浜の射放弓・細工人形・祭り花火などはその例である。
 えんちょこ獅子や銭太鼓は雨乞祭と深いかかわりをもって継承されたようで、古くは雨乞祭やお礼祭の行事であったと伝えられる。
 高浜の春日神社は雨乞の神として広く知られ、刈谷藩主の要請によって雨乞が行われることもあった。藩主の発願による雨乞を刈谷雨乞と称したとい。
 えんちょこ獅子の「えんちょこ」については不明であるが、えんちょげ・へんてこ・へなちょこ、あるいは拍子語が語源であるかも知れない。
 えんちょこ獅子は一九六五年、県無形民俗文化財に指定された。少女の一団が輪になって、笛や太鼓の嘲子に合わせて銭太鼓踊りを舞い、その中で青年が二人舞の獅子舞を演ずる。古色な神楽の一種で、一説に起源は元禄年間(1688〜1704)と伝える。明治になって衰微したえんちょこ獅子の伝承に努めた人として、野口定吉の名が知られる。
 高浜の春日神社と八剣社では祭礼の催事として御馬塔が奉納される。
吉浜・高取の鎮守の祭りでも伝統行事として行われている。かつては西三河各地や尾張でも村祭りの行事として行われたが、高浜の春日神社を中心とする行事が最も盛大であり、格式をつけて行われている。御馬塔は、駆け馬・ずり馬とも呼ばれる。春日神社の御馬塔は、都築岩松の記録によると文化初年以前から奉納されていた。
 行事は神馬を中心にして行われ、村内を行列する朝の出と夕方の引けの行事と、駆け馬の行事とがある。
 駆け馬は、馬場と称して円形の木柵を設け、その中で馬を走らせ、若者が疾走する馬の口綱をとってともに走り回るのである。輓馬・農耕馬の普及とともに生まれた行事であろう。
 吉浜の細工人形作りは、一九六四年に県の無形民俗文化財に指定された。この細工人形の発祥はさだかでないが、伝説によると300余年前、柳池院の前身とされる光明寺の再建を祝って村人が細工人形を飾って仏の供養をしたと伝える。
 のちに、天台宗柳池院と浄土宗鎮西派宝満寺の御開帳の際の催し物として発展した。前者を大日さん、後者をお薬師さんと称し、潅仏会に花の塔とともに行われる。
 吉浜の細工人形は天然資源・動植物など、身近な資材を用い、工夫をこらして人形を作るもので、主に歌舞伎の名場面などを題材とする。
 細工人形の制作技術は趣味の域を超え、人形師が誕生した。彼らは各地へ出かけて細工人形を飾るようになった。これがいわゆる菊人形師で、関東・関西・中国・四国から九州・北海道まで出稼ぎするようになった。
 全国各地へ出かけて細工人形を製作した菊人形師は、加藤佐七・村瀬惣次郎・村瀬包作・神谷直次郎・野々山吉三郎・加藤嘉之助・加藤房吉・野々山弥作・野々山光五郎・神谷長松・神谷安松・神谷徳吉・神谷三重松・杉浦秀吉・神谷菊五郎・鈴木増市・神谷定吉・中川政義・杉浦勘作・加藤五七吉・加藤西次郎・杉浦富一・村瀬只一ら60余名に達する。
 吉浜村では明治の初めに趣味で祭り花火を作る者たちがあった。のちに、一二流・朝日流・稲留流・大和流の四流派となり、それぞれ花火製造工場を設けて競って研究・製造し、祭礼や祝事などに販路を求めていた。
 大正期には四流派がまとまり工場も一か所にし、それぞれの秘術を生かした花火の製造を始めた。その結果、注文が増加し経営は安定したかにみられたが、その後工場内で爆発事故が繰り返され、犠牲者も度重なり、昭和10年代には終わりをつげたが、末期には競技会で優秀な成績をおさめ、得意とする段物では各方面から美しさをたたえられた。
 その基礎を固めた人々は、内藤槙五郎・毛受忠治・内藤新六・村瀬豊七・村瀬浅太郎・内藤房七・竹内安蔵・神谷幾太郎・神谷巳之助・神谷新六・杉浦秀吉・神谷平松・神谷春吉・神谷助一・古橋千代一らの名が拳げられている。

●三州瓦・土器と養鶏
 屋根瓦やくど・土鍋・土釜・焙烙(ほうろく)・土鉢などと呼ばれる日用土器の生産は、高浜を中心とする周辺地域の伝統産業である。
 なかでも高浜の瓦・土器生産は、衣ケ浦湾に面して海運の至便なこと、背後に碧海台地が広がり胎土が無尽蔵であることから江戸期から盛んであった。
 高浜村での瓦の生産は、1723(享保8)年の「高浜村瓦屋甚六」の刻銘が最も古い。また、それぞれの家伝によって届け出た資料から推察すると、1754(宝暦4)年に田嶋喜八が創業し、1759(宝暦9)年に神谷喜三郎、1764(明和元)年には神谷儀八が創業した。
 いずれも農業の副業であった。また江戸期の瓦屋として、神谷弥左衛門・岡田勘三郎・都築常蔵・杉浦梅次郎・神谷広吉・都築勘次郎・石川元右衛門・神谷仁左衛門・山本吉兵衝・森太吉・福井八蔵・神谷安兵衛らの名が見られる。
 瓦生産の生命である窯の改良では、石原熊治郎の石炭煉瓦窯の研究が知られる。 また鬼板師と呼ばれる鬼瓦の製造業者では、観音寺境内から衣浦大橋を見下ろす衣浦観音立像を、・浅井長之助が鬼板師の技術を生かして制作した。
 土器の生産は、「正保元年文左衛門、「天和二年吉左衛門と刻銘のある二点が現存し、いずれも高浜村産と伝えている。
 家伝から創業期をみると、1724(享保9)年が最古で、瓦屋同様農業の副業であった。江戸期の土器生産者は杉浦姓が最多で15軒、続いて神谷11、石川7、山本6、磯貝・岩月・柴田が各4、鈴木3、中津・加藤・篠田各2、椙浦・横井・藤浦・堀田・森・岡田・日高各1で合計121軒に及んだ。
 中でも神谷市太郎は種々の土器の考案、釉薬の研究で知られ、杉浦忠八は東京の今戸焼の窯場で釉薬研究をしている。神谷源之助は三河土管の元祖として知られる。
 ひよこと卵の生産地として全国に知られる吉浜の養鶏は、明治初年、加藤佐一郎(嘉之助)の養鶏研究によってめばえた。
 その遺志は長男弥七に受け継がれ、加藤系と称する多産鶏を作り出すなど品種改良にも成功した。大正初年、加藤弥七は種用鶏舎を建築し、孵化器を設置して蛇抜人工孵化場を創立した。
 このころ吉浜に鶏舎が新築されて屋内飼育による養鶏が始まった。その後、昭和初年には鶏を夜間も活動させて産卵を促進させる点灯養鶏が始められた。
 そして古橋甚之助・中川三吾・杉浦浩平・三神純男・鈴木利吉・内藤正治らが相次いで孵化場を創設した。
そして内藤良平・内藤博司・古橋留一ら初生雛の鑑別師も誕生した。鈴木利吉は大型養鶏を始めたことで知られ、現在も大鶏舎の名が伝えられている。