西郷隆盛の遺児−台湾に?

 明治維新の立役者、西郷隆盛が若き日、台湾に暮らし、一児をもうけた。150年も前のそんな話が台湾の一部の人の間に残っていた。
 血筋は孫の代で途絶えていたが、日本と台湾の「近さ」を思い起こさせる歴史ロマンである。

幕末に密命偵察説
 「このへんですよ。住んでいた場所は…」台湾宜蘭県蘇澳鎮の廖大慶さん(51)が指すのは、蘇澳鎮南方漢の港の漁会(漁業組合)から少し入った路地「漁港路41号」のビル。
 文史工作著(日本で言えば郷土史家)の廖さんは、一冊の書物から西郷の台湾の足跡を調べ、西郷の故地を断定した。
 その書物は「西郷南洲翁、基隆、蘇澳を偵察し、『寛永4年南方澳に子孫残せし物語』」。台湾大学図書館の特別室に一冊残っていた。台湾が日本統治時代の昭和10(1935)年、基隆市で発行。著者は入江晩風。

 著者の詳細ば不明だが当時、基隆風土記などの著書も残している。
 「物語」によると、西郷隆盛は幕末嘉永4(1851)年春、禁猟の山に入り、山火事を起こす。死罪に相当するが、南方進出をもくろむ藩主、島津斉彬の知遇を得ていたことから、流罪の名目で台湾偵察の密命を受ける。
 時に隆盛24歳。台湾北部の基隆から烏石港を経て、清朝軍の監視の目が届きにくい南方澳に上陸した。

 当時の南方澳は「魚貝を漁る一寒漁村、浜辺に沿ふて萱の状屋が僅かに123戸」 (同書)。西郷は琉球人と称して竹林の一軒家に入る。小屋には漁業を営む老人と2人の娘。
 3人は熟蕃と呼ばれる開化した原住民で、西郷はその家の世話になり、姉娘ローモーと懇ろになる。半年後、西郷は突然、家を出て、琉球諸島を回り、その年の暮れ、鹿児島に戻る。そのころ、南方澳のローモーは男児を出産する。
 子は劉と名乗り結婚後、一子、呉亀力をもうける。日本は台湾領有後、大正時代、南方澳に港を建設、一帯の住民は移転。呉も花蓮港(現花蓮市)に移住し結婚したが子宝に恵まれなかった。
 
 入江は「物語」について、西郷隆盛の子息で明治30年に宜蘭支庁郡守(知事)に就任した西郷菊次郎関係者の証言から「誠心誠意を尽くして探明した」と記し、呉の写真も掲載している。
 地元は半信半疑だが、西郷隆盛の台湾遺児説に西郷南洲顕彰館(鹿児島市)の山田尚二館長は「そんな話は信じません」と一蹴。西郷菊次郎の孫で隆盛のひ孫になる陶芸家の西郷隆文さん(56)じも疑問視するが「そんな話を聞いたことはあります」と半信半疑だ。

 確かに顕彰飴の西郷年表には台湾行の記述はないが、台湾行を完全否定はできない。嘉永3年は「このころ伊藤茂右衛門に陽明学を、無参禅師に禅学を学ぶ」とあり、嘉永5年は「伊集院兼寛の姉と結婚」などの記述がある。だが、嘉永4年は空白で、なんの記述もないのである。
 台北生まれ、蘇澳育ちの研究者、竹中信子さん(73)も「そういうこともあったでしょう」と遺児説に肯定的。
 その著「植民地台湾の日本女性生活史」でも「物語」で菊次郎が郡守時代に隆盛の遺児に会ったことを菊次郎夫人から聞いたと話している夫人の親友桜川似智は「うそをつく女性ではない」と証言を信じる。
子孫探しの記録
 「物語」には種本がある。台湾日日新報が大正13(1924)年掲載した記事「南海秘史、蘇澳に於ける南州翁の事蹟」のタイトルで、当時の藤崎済之助宜蘭都守が新聞記者に語る形式で5月8日から8回連載された。
 この中で藤崎は菊次郎の給仕だった台湾人を捜し出し、菊次郎が南方澳の原住民と何度かひそかに会い、それが「菊次郎の兄に当たる人」との証言を得ている。

 藤崎が遺児探しをした発端は、後に初代台湾総督になった樺山資紀の明治6(1873)年9月16日の日誌。樺山が蘇澳方面を視察した際に「此処に日本人種ありと、因って探索せしも不明瞭なり」と、日本人の子孫探しをしたことが記されている。
 藤崎はこれを元に調べその子孫が西郷の遺児だと突き止め
た。樺山、藤崎、入江と明治、大正、昭和の3代にわたる調査結果が「西郷遺児」というわけで信びょう性はかなり高い。

 そこで、花蓮市の戸政(戸籍)事務所を訪ねた。事務所の責任者に頼んで日本時代の地番、北浜12戸を探してもらうと、果たしてコンピューターには「呉亀力」の名が出現したのである。確かに呉亀力はいた。
 ところで西郷には寅太郎という長男があり、奄美大島流罪中に生まれた菊次郎は寅太郎より年上だが二男としたという。
 この不思議さ。今も消えない「西郷遺児物語」には、台湾人の日本に寄せる熱い思いを感じさせることだけは確かだ。