大通院縁起
慈覚大師の創建と伝える。当時は七堂伽藍を完備した天台寺院で、荘厳を極めたという。
清和天皇の時代、勅願所となり八幡宮(または瀬門神社ともいう)の神宮寺であった。天文
年間浄土宗に改宗した。
東条吉良氏の宿老富永家代々の帰依が厚く、永禄四年東条城攻めの際、徳川の兵火に
かかって全焼した。富永家代々の墓所であった。
史跡 富永伴五郎の墓
富永伴五郎は、室城主(西尾市室町)で、富永家は東条吉良氏の譜代の重臣であった。
永禄四年(1561)九月東条城主吉良義昭と松平元康(後の徳川家康)が、当寺の前方
(大通院)藤波畷に戦い、富永伴五郎は一族郎党とともに奮戦し討死にする。二十五歳
であった。
この戦いで、約三百年にわたる東条城の歴史は終わり、東条吉良氏は滅亡した。当寺
五貫了空上人が引導焼香して葬る。
伴五郎討死にの場所は、当寺(大通院)東南約三百米にあり、現在「伴五郎地蔵」または
「畑中地蔵」と呼ばれ、信仰されている。
吉良町教育委員会
史跡 伴五郎地蔵(畑中地蔵)
永禄四年(1561)九月、松平元康(後の徳川家康)は、東条城攻略のため、小牧砦に陣を
するめ、十三日を期して総攻撃をかけた。
小牧本陣(南方約五百米)からは、本多広孝、酒井正親らが出陣し、東条城からは城主
吉良 重臣室城(西尾市室町)城主富永伴五郎らが手兵を率いて迎え撃ち、ここ藤波畷に
おいて遭遇戦となった。深田の中の細い縄手道で討ちつ討たれつ、無勢の吉良方が不利
となり、善戦及ばず、富永勢は全滅、伴五郎もこの地で討死にした。時に二十五歳という。
勇将を失って城は陥ち、名門東条吉良氏三百有余年の支配は終わる。これを藤波畷の
合戦という。後年享保二年(1717)土民憐れんで、伴五郎討死の場に地蔵尊を祀り、台座
にいわれを刻んだ。 いわく ・・・・・旧跡荒廃彫刻地蔵菩薩・・・・・。
時は流れてすでに四百余年、富永一族の霊は寺嶋の大通院(このちより西方約三百米)に
眠る。
吉良町教育委員会