2007.02 FrontPage



< D51 777 >





「刈谷市交通児童遊園」(愛知)にて


「でごいち」の愛称で呼ばれるD51型蒸気機関車は、
昭和11年(1936)から終戦(1945)ごろまでの不安定な時代に、
1000輌を超える数が生産された。
国産蒸気機関車の中で最多生産機だっただけあって、現在も全国各地に数多く静態保存されている。

そんな中の一両が、隣町刈谷市の遊園地にも保存されていた。
ある日その車両を見たとき、エンブレムがなんとゾロ目の「ラッキーセブン」であることに気づいた。
この車両の来歴を見ると、
太平洋戦争さなかの昭和17(1942)年9月に製造された。
翌月から多治見、米原、名古屋、中津川といった中部地方の各機関区において約30年にわたって活躍し、
昭和47(1972)年9月に現役を退いた。
本来D51型機関車は貨物用だが、この「777」は山間地で客車も牽引していたようだ。


中央本線日出塩付近を行くD51777
( 「D51木曽路を走る」二村博文、信濃毎日新聞社、2007 から)

それにしても、「よくぞまあ、このラッキーセブンがご近所に!」と、
発見時、なにか愛おしい感慨が私を襲った。

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ところで、
この機体が静置されている「刈谷市交通児童遊園」は、
東海道線刈谷駅の南口から東へ4、5百m離れたところにある。
そして、そこから目と鼻の先で、
50年ほど前に痛ましい鉄道事故のあったことを思い出した。

D51とは何の関係もない話だが、、、

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昭和31(1956)年6月25日の未明のことだ。
筝曲の大家・宮城道雄(1894-1956)が、大阪公演に向かうために乗っていた夜行列車から転落し、
その生涯を閉じることになったのがこの付近だった。

 
「楽聖宮城道雄先生供養塔」
(愛知県刈谷市神田町)
  転落事故現場付近。上は名鉄三河線ガード

目が不自由だった宮城道雄は、乗っていた列車が東海道線刈谷駅にさしかかろうとするころ、
このガード付近で不運にも何らかの原因で列車から転落した。
まもなく現場で駅員に保護されたころ、宮城は重傷ながら意識ははっきりしていたそうだ。
しかし運び込まれた病院(現刈谷総合病院)において、治療の甲斐なく、とうとう夜明けと共に息を引きとったという。


西三河のこの付近の東海道線は約10km(安城−刈谷)区間に渡って一直線だが、
あの時代、機関車に引かれて走る客車は、直線路であろうともよく揺れた。
特に昇降口のある車両前後部の横揺れは激しかったが、
その昇降口にはロックなど無い、というノーテンキな時代だった。

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筆者の勝手な想像だが、、、
「D51 777」のエンブレムを見たとき、かつての痛ましい鉄道事故に思いを馳せ、
鉄道の安全を願う祈りが託されているような気がした。

2007.2.8-4.17