< 八卦堂開帳 >


水戸市ではこの年(2009)開藩400年の記念イベントが盛んだという。
その一環として、ン十年ぶりに弘道館の八卦堂が特別公開されると聞いたので駆けつけた。

藩校水戸弘道館は天保12(1841)年に、水戸藩主徳川斉昭によって創建された。
その建学の趣意を石に刻んだ「弘道館記」碑を納めたのが、碑閣「八卦堂」だ。
こちらも参照

水戸弘道館「八卦堂」開帳(2009.11.22)

八卦堂は戦災(水戸空襲 1945.8.2未明)によって炎上焼滅したが、
納められた石碑本体は、焼夷弾で満身創痍となりながらも、辛うじて立ち残っていたという。
現在の八卦堂は戦後まもなく再建された。

だが、石碑を実際に目の当りにすると、その傷みは想像以上の過酷さだった。
しかし、特に損傷の酷いのは背面で、碑文を刻んだ正面はかなりの部分が残った。
不幸中の幸いというべきだろう。

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弘道館記碑の上部には、下の拓本のように「弘道館記」の篆額があり、その左右に龍が配されている。


「弘道館記拓本(1/2縮小版)」(北澤祥雲堂 筆者所蔵)
(明治頃の水戸拓と思われる)

石碑のこの龍の損傷がどの程度の傷みなのか気になっていたのだが、
残念ながら左右とも、足や胴の一部を残すのみで、大部分が欠け落ちてしまっていた。

その龍は初め、南画家立原杏所が描いたのだが、
石碑の彫刻が完成したころ、碑文の一部を修正する必要が生じた。
しかし生憎そのころ杏所は世を去ってしまったので、龍の絵は新ためて萩谷遷喬が描き、
碑文とともに全面が彫り直されることになったという。
つまり、現在残る「弘道館記碑」の碑面はバージョンUということになるらしい。

さて、萩谷遷喬が描いたとされる龍が、下の写真だ。
焼夷弾に狙い撃ちされたかのように、龍の頭部が左右とも消滅しているのは残念である。


弘道館記碑の上部右側の龍 (2009.11.22)

ところで、辛うじて一部残った龍の彫刻を見て、あることに気づいた。
拙宅の縮尺拓本の龍はもとより、弘道館・正庁の間の龍も、石碑の龍とは明らかに異なるのだ。


拙宅の龍
  
弘道館正庁の間の掛軸

萩谷遷喬が龍のデザインを命じられたとき、立原杏所と同じ龍を描くはずはあるまい。
石碑上の龍が萩谷遷喬の作ならば、拓本の龍が修正前の立原杏所の作なのだろうか。
しかし、もしそうなら、石碑上に残らなかった杏所の龍が、なぜ拓本に残せたというのか・・・?
拓本の碑文自体はいずれも修正後の文である。
と、こう考えるとこれは不思議な話で、なにやら謎めいてくる。


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<参考文献>
「水戸の心」関弧圓(川又書店 1997)
「譯註・弘道館記述義」菊池謙二郎(川又書店 1919)
「水戸空襲戦災誌」(水戸市役所 1981)
「八卦堂特別公開・配布資料」(弘道館事務所 2009)


2009.12.5-