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< 入院日記 >
(2009.3.16-28)

私(61)は腰痛持ちである。
正式病名は「腰部脊柱管狭窄症」というもの。
腰椎内の後側を縦に通る神経が、周辺組織の変形によって圧迫を受けることから生じる症状で、、
数分の直立姿勢や歩行によって、腰痛や足の痺れが始まり、短距離でも歩行困難になることがある。
このために、一度手術を受けたのだが、また悪くなってしまった。

(背面) 堆骨の後ろ側を上から
下に走る束が神経。
上の方2ケ所が圧迫で
細り、黒く見える。


(左側面)
一回目の手術後
(造影剤により神経の束が椎骨の後ろ側に見えている。下方は改善したが上方の2ケ所が問題)

この病気、命にかかわるものではないが、生活上は大いに支障がある。
本屋での立ち読みや、通勤電車での立ちんぼうが甚だ辛い。
数百m歩くと足の痺れが始まり腰の強い痛みに変わると、足を前に出すのが辛くなって立止ってしまう。
(間歇性跛行という。跛(は)=ちんば、びっこ)
しかし、通常外見は病人らしく見えない(見せない)し、悲壮感もなく、
まったく同情されないところが、ちょっと侘しい。

しかし、こんな私の症状を周辺知人に話すと、意外に同様の症状を持つ人が多いので、これにまた驚く。

2009年の3月、とうとう二度目の腰椎手術を受けるため、再入院することになった。
東京の息子には、「命に別状ないから来なくてよろしい」と告げた。

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第1日(入院日)

とうとう入院日がきた。順調なら2週間程度で退院できるという。
着替えの下着を数セットと、歯ブラシやらコップやらをバッグに詰め込んで、午前、病院に入った。
待合まで迎えにきてくれた看護婦さんに案内されて個室に入る。
一昨年の入院経験から慣れたもので、
病院の寝巻きに着替えると、たちまちベッド上の人になった。
これから2週間、ここが生活の場となるのだ。



今後の入院生活について説明を受けた後、少し落ち着くと、うろうろと院内偵察を開始する。
ティッシュや湯のみなど小物雑貨を病院の売店で買う。

部屋に戻ると昼食がきた。最初の病院食だ。
量は少なめだが、そこそこおいしかったのでホッとする。完食。

・・・・

午後、担当の先生から手術の説明を受ける。
手術内容は、腰のところを背面から縦に20cmほど切り開いて、
5つある腰椎の下3つとその下の仙骨とを、金具で一体化固定するというものらしい。


(赤ペンでマークされた上3つが腰椎、下が仙骨)

上のX線写真は、骨盤とその上付近を正面から見た通常X線撮影のもの。
私は寝たまま真っ直ぐキオツケ姿勢のつもりなのだが腰椎が右へ湾曲している。
先生が、
「ここをジャッキアップして広げて、ボルトをねじ込んで固定して、、、」
と流ちょうに説明してくれる。
なにやら「耐震補強工事」のような話に、少々腰が引ける。
主治医先生の他、副担当の先生数名のチームで“工事”にかかるという。
もう俎板の鯉だ、今更後には引けない。
「よろしくお願いします」と、手術同意書にサインする。

・・・・

今夜から晩酌はできない。
病室は夜9時消灯。手元照明で、10時ごろまでTVを見る。
なかなか眠れない。看護婦さんが夜回りにきたので、眠剤をもらって飲んだ。


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第2日(手術前日)

今日はいくつかの検査以外、することがない。
ときどき看護婦さんが検温、検圧で来ることと、3度のめしタイムぐらいだ。
持参した文庫本を開く。
開くと、昨夜の寝不足があるので、明るいうちからうとうとしたりする。
昼夜逆転だ。

ウーロン茶、ヤクルト、せんべい、アンパン、週刊誌。
こんなものを売店や自販機で調達して過ごす。
病院食は量が少なめなので、寝たきり病人にちゃんと仕上がるまでは腹が減るのだ。

夕食後、あまり暇なので、
看護婦さんから与えられたオモチャ「トリフロー」なるものをやってみる。
空気の通路が縦に3本並んでいて、それぞれに玉が入っている。
左から、600cc/sec、900cc/sec、1200cc/secと書いてある。
青いホースのついている左下は、実は3本通路の上側につながっている。
そこで、ホースをくわえてゆっくり息を吐き、次にエイッと一気に息を吸い込む。
すると、
←左の状態から右のように→
玉が上に吸い上げられる。

これは呼吸力を鍛える
ツールらしい。
KENDALL TRIFLO II
と書いてあった。
つまり、上記の数字は、それぞれの玉を持ち上げる、空気流量なのだと思う。
と言うことは、3つとも玉が上がった私の瞬時吸引量は、計2.7リットル/毎秒を越えたわけだ。
エヘン、と自慢するようなものかどうかわからないが、
一人で繰り返しやっていると、なんとなく空しくなってくる。
看護婦さんが来たら目の前でやって見せて、ガッツポーズでもしてやろうと思ったが、
この日はもう消灯までだれも来なかった。

この日は夕食後すぐ下剤を飲まされた。夜9時以降は水分の摂取も禁じられる。
明日の手術に備えて、ここから絶飲食だ。
今夜も眠りにくい。でも時計は12時をだいぶ回っていたので、眠剤を飲むのはやめた。
真夜中に下痢便が出る。


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第3日(手術日)

いよいよ今日は手術日だ。
朝から看護婦さんがあれこれの準備に世話を焼いてくれる。
7時過ぎに入浴。8時前には手術着に着替える。
この手術着、頭からかぶるだけなのだが、あちこちマジックテープだらけだ。
興味半分で2,3箇所はがしてみたら、たちまち形が崩れてしまった。
元の形がわからなくなって、復元するのに苦労した。
マジックテープは全身麻酔中に脱着しやすくする工夫だろうか。
足には弾性ストッキングなるもの
(指先が開いたギュウギュウの
ロングソックス)を穿く。
それは手術中、全身麻酔での
長時間の不動中に、
エコノミック症候群にかかる
リスクを避けるのだそうだ。
8時過ぎから点滴開始。
このあたりからいよいよ
身の動きに制限がかかる。

時計は8時28分を指していた。
9時過ぎ。看護婦さんが数人束でバタバタ入ってきた。いよいよ手術室へ移動するようだ。
「塚原さん、大丈夫ですか〜?」
と看護婦さん。
「大丈夫も何も、今は全〜ん然問題ないです。手術室ぐらい自分で歩いて行けますよ」
と言ったら、私たちが運ぶのでそのまま寝ていてちょうだい、とのこと。
ストレッチャーに移るのかと思ったら、
点滴中のこのベッドのロックをガチャガチャと外し、そのまま移動を開始。
天井を見上げたまま、今廊下に出たな、エレベータの前に来たな、乗った、一階降りて廊下に出た、等々、
ガタンゴトンと移動の状況を感じながら、いよいよ手術室に入ったと認識する。
「大丈夫ですか〜?」と、また看護婦さんの声。
手術前とあってやや緊張ぎみの表情かも知れないが、まったく問題なしだってばさ。

やがて心電図用?の電極を付けられ、腕には血圧用のバンドを巻かれ、
指先には脈拍用?のクリップをはさまれる。
点滴の管に加えて、あれこれの管やら電線やら紐だらけになり、
いよいよ重病人の風格十分になったような気がする。
主治医M先生や副担当の先生、看護婦さん達の話し合う声が聞こえる。

「じゃ、塚原さん始めますね」
と主治医先生の声。まもなく麻酔のマスクをつけられる。。。
だったかどうか、実はこの辺りになると記憶は曖昧で、全身麻酔のために、いつともなしに意識が消えた。

・・・・

(無意識の中で手術、・・・そして終了)

・・・・

夕刻(メモでは17:30ころ)、朦朧としつつ意識が戻ってきた。
「ああ、手術終わったんだな、、、」
と思う。自室ではなく回復室という部屋にいるらしい。
腰から胸にかけて、まるで鎧のような硬質のコルセットが付けられており、
横向きになっていた。

と、そのとき急に腰に痛みがきた。
そしてその痛みは急速にずんずん増加して激痛になる。
「ウッ、痛ツデデデデ・・・・」
そのときベッド近くに副担当の先生がいるらしいことは気配でわかっていた。
「せ、先生、痛い痛い!」「何とかして。物凄く痛いーぃ!」「助けてくれー、早く、早くぅ!」
まるで腰を断ち切られたかと思うような強い痛みに、恥も外聞もなく、まるで「命乞い」状態だった。
「ちょっと待ってください、点滴を倍速にしてますからね・・・」
T先生らしい声がした。
早く楽にしてほしい。「痛デデデデ・・・・」と地獄の苦しみに喘いでいるうちに、徐々に痛みは和らいできた。
(そのまままた寝てしまったのか、起きていたのか、よく覚えていない)

痛みが和らいで落ち着いたら、のどの渇きに気づいた。
水を下さいといったら、ダメという。
脱水状態になっているらしいとのことだが、
麻酔明けは飲み込み動作がうまくできず、肺に回ってしまうことがあるらしい。
試しに唾を飲み込んでみた。全然問題ないのにー。
この日も終日絶飲食だった。

◇◇◇

しかし、あの激痛は一体何だったのか。
普段周辺の人には、「腰痛で死んだ人はいないからねー」などと、うそぶいていたが、
あのときは、「腰痛で死んだ世界初の症例になるかも」、などバカバカしいことまで一瞬思った。
少し後になってから、
正岡子規は脊椎カリエスで痛みに耐え苦しみながら、わずか35で世を去っていたことを思い出す。


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第4日(術後1日)

目が覚めた。
でも、まだ自室には戻ってはなく、昨日のまま「回復室」のようだ。
窓はないが、朝だろうと感じる。
コルセットのおかげか点滴の効果かわからないが、そ〜っとゆっくり動くなら、若干寝姿を「自力」で変えられる。
でも寝返りは無理だし、まして上体を起こすなどは厳禁だ。

・・・・

朝食がきた。
一昨日の夕食から数えると、なんと38時間ぶりになる
おにぎりと漬物、味噌汁などだった。
おにぎりは、起伏できない患者に対するお定まりメニューなのだろう。
妙にベタベタするおにぎりだったが、ま、いっか。
昨日はほとんど朦朧の中の一日だったので、今朝になっても空腹感はさほどでもなかった。
が、自身の健在を確かめる気持ちで、とりあえずおにぎりを掴んで、ほおばってみた。
しそがまぶしてあってうまかった。漬物も。
しかし味噌汁は一体どうやってすすれというのかね。
(私には身内の介助者はいない。ここには箸もスプーンも持込んでないから、使えるのは片手だけだ)
体を動かすと痛いので起き上がれないし、横向きに寝たまま片手でできることは限られる。
結局、味噌汁はあきらめるしかなかった。

朝食の後、看護婦さんが、
「食事どうでしたー。食べれました〜?」
と、チェックにくる。うまかったけど、味噌汁だけは困ったことを話した。

・・・・

その後、特に問題がないようなので自室に移動を開始する。
今度はベッドに「横向きに」寝たまま、回復室から廊下、エレベータ等々、「壁の流れ」をグルグル目にしつつ、
ガタゴトと、昨朝の逆コースでようやく自室に帰ってきた。

昼すぎ、
東京の息子から携帯メールがきた。
就職活動の真っ最中で、某社の2次試験を受けてきたという。
有名会社の2次まで残れたとは、まずまず健闘している。
「こちらは無事生還したぞ」と返信する。

・・・・

今WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の真っ最中だ。
昨日は手術中につき観戦できなかったが、どうも昨日の韓国戦はボロ負けしたらしい。
病室に戻った今は、もう時間だけは自由だ。
苦労してTVのスイッチを入れて、「対キューバ戦」を観戦する。
「勝ったー!」
「5−0」の完封だ。次の試合に期待がつながる。


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第5日(術後2日)

たけなわのWBCは日本時間で平日の真っ昼間だが、今の私は生中継観戦三昧だ。
腰の痛みさえガマンすれば、唯一の幸運!

よ〜うし、今日の試合も「6−2」で韓国チームを下した。
(しかし、WBC韓国戦って、これで何回見たろう?)

・・・・

夕食時、始めて介助がついた。
毎回の窮状に特別に配慮してくれたのだろうと思う。
でも、多少上体を起こせるようになった(ベッド角度30度)とはいえ、
まだ頭を垂直にできない状態では、スプーンで味噌汁を出されても、なかなか難しい。
実際は味わうどころじゃなかったが、気持ちは「ありがとうございました」の感謝。


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第6日(術後3日)
3月21日(土)

上体が少し起こせるようになったので、携帯で朝食を撮る。

朝食
 
おにぎり。格好はともかく、一応うまかった

・・・・

朝食の後、やっと今日、おしっこの管を抜いてくれた。
ようやく(時々の抗生物質を点滴する以外は)、紐付き状態から開放された。
今日から「座る、立つ」は許されたが、まだ歩行は禁止だとのこと。

午前10時ごろ回診。
当番の先生に、どうですか、と聞かれたので、
右足の痺れがまだ引かないのが気になることを伝えた。
「すぐに引く人、徐々に直る人、さまざまなので、ゆっくり効いてくるでしょう」
というので少し安心。

回診後少し経ってから、主治医のM先生が見える。手術日以来だ。
「どうですか」
と、にこやかに聞かれたので、
「右足の痺れはともかく、全体的には順調に行ってると感じてます」
と答えた。
「そうですか。今度は腰骨の湾曲も矯正したし、右方向の圧迫もちゃんと
処置しておきましたから、徐々に直っていきますよ。大丈夫です。
今度の手術は、少し時間がかかりましたが、大変うまくいきましたから。
明日から歩行リハビリになりますから、ドンドン歩いてくださいね。期待してください」
と、先生は終始にこやかで自信ありげだった。
私は大いに安心感と期待感を得た。

・・・・

午後。
鼻を軽くチンとかんでも、腰がズンと痛む。
でも、主治医M先生の言葉に気をよくし、それでは“予行演習”ということにして、、、
と言い訳をまず先に考えてから、勝手に少し室外に出てみることに。
階下にある自販機までそろ〜りそろりと歩いてゆき、テレビカードを首尾よく入手した。
ところが、そろ〜りそろりの帰りの道すがら、
エレベータを待っているところで担当の看護婦さんに見つかってしまった。
「今日は立つまで。まだ歩くのはダメですっ!」
と、しっかりお咎めをいただいた。


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第7日(術後4日)

今日から抗生物質の点滴が内服薬に変わる。
とうとう「管」から開放される。

いよいよ歩行器を使っての歩行が許可になる。

一旦立ち上がってしまえば、まあなんとかなるのだが、
その前に、ベッドから起き上がって、
床に立ち上がるまでがなかなかしんどい。

しかしさすが「歩行器」だ。
上体に両手の支えが加わると俄然楽になるし、
安心感も加わる。


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第8日(術後5日)

昨日からあれこれ何種類もの内服薬が渡された。
ところが、多種の薬を決められたスケジュール通りに忘れず服用しなければならないのに、
これがついついうっかり守れないものなのだ。
そんな事態に備えて今回も、前回入院時に入手した秘密兵器、「お薬カレンダー」を持参した。
これが看護婦さんたちの目にもとまるようになる。

「お薬カレンダー」
福井県薬剤師会謹製 
実用新案登録3094377


一週間分の薬を、
朝昼晩、就寝前の服用スケジュール通りに、
区分けして並べることができる。

午後、今日から始まるリハビリテーションのため、担当療法士Mさんが迎えにきた。
お薬カレンダーを目にしたMさんは、
「あらら、何これ、すご〜い。一週間分全部わかるんだ。日付は入れ替えるのね」
と感心しきり。

「うん、これはビジュアルだから自分で飲み忘れを防げるし、
もし忘れても、他の人が気づいてくれたりするから、すごく実用的なんです。
時には病院の薬出しのミスもわかったりしますよ」
などと自慢しつつ立ち上がろうとしたら、、、
「あれ、これなに? 今日の昼の分、飲み忘れてない、これ!」
と鋭いご指摘。
「あ、ほんとだ。すぐ飲まなくちゃ!」

4時間遅れだったが飲まないよりはいいだろう。
と、ことのほどかように、まことに便利なツールなのである。

でも、 前の病院でもそうだったが、この「お薬カレンダー」の認知度は意外と低いようだ。
(私自身は、千葉で看護婦をしている姪から聞きかじって、福井から直接入手した)

・・・・

ちなみに、この日最初のリハビリ指導は、寝た状態から「起きる、立つ、座る、寝る」という、
基本動作の練習だった。


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第9日(術後6日)

午後。
昨日のWBCでサムライジャパンはアメリカにも勝って、
とうとう今日(2009.3.24)は韓国相手の決勝戦となった。

緒戦で韓国に先制を許したものの、その後逆転し、
追いつ追われつ、3−2で9回裏を迎えた。
ここをダルビッシュが抑えきれば、世界一が決まる。
ところが、この土壇場でダルが打たれ、試合は振り出しに戻ってしまった。

さて延長10回の表、ツーアウト、2,3塁、バッターはイチロー。
舞台は最高潮だ。
とはいえイチローはこれまで、WBCではあまりいい見せ場がなかった。
それは日本の期待に反するばかりか、韓国選手からまで侮られるような有様だった。



この回のイチローは、ファウルファウルで粘りに粘っていた。
そしてとうとう「打ったー!
イチローが打ったその球に、私はTV画面の前で一瞬のけぞった。
パコーンと打たれた球が、画面の中でこっちに向かって真っ直ぐぶっ飛んできたからだ。
この一振りで、二人が帰り、「5−3」と勝ち越した。
「ヤッター!」

と、ちょうどその時にコンコンとノック音がして、
「こんにちわー」
と、リハビリ担当のMさんが病室に入ってきた。
「あら、いちばんいいところに来ちゃったかな。あれっ、5点も取ってたっけ!」
Mさんは他の病室を回る道すがら、断片的にWBCを見てきたらしい。

「5点目はたった今取ったばかりだよ。ほんとに一番いいところに来たね」
私は、リハビリどころじゃないよと背中で示す。
「じゃ、わたしもここで見ていこうかな」
そうそう、そうなさいと、しばらく二人でTV観戦していたが、
Mさんは予定が詰まっているらしく、私を後回しにして、試合途中で出て行ってしまった。

試合はこの回の裏をダルが0点に押さえきって、ついにWBC優勝となった。
日本野球は前回の「王ジャパン」に続いて、なんと「世界一」二連覇だ!

◇◇◇◇

明治の前期、
正岡子規がまだ東大予備門の学生だったころ、
海の向こうから(どうやってか?)入ってきたばかりの「Base Ball」を学友たちと楽しんでいたという。
(随筆集「筆まかせ」には、子規catcher、菊池謙二郎pitcherで試合を楽しんでいたことが書かれている)
野球という名がまだないそのころ、子規が、
自分の名「升」をもじって、「のぼる→野ボール→野球」と命名したとの一説は(真偽はともかく)有名だ。

それから120年余り、
今回も野球発祥の地・アメリカを封じたわけで、
快挙!!としか言いようが無い。


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第10日(術後7日)

今日は手術からちょうど一週間目、「抜鉤」の日だ。
“ばっこう”とは何じゃらほい?と思ったら、従来の抜糸のことだった。
私の手術痕は「糸で縫った」のではなく、「ホッチキスで留めた」のだそうだ。!

午前11時。
回診当番の先生がやってくれる。
「ちょっとチクチクするかもしれませんよー」
と、“ばっこう”が始まる。

一発目、確かに「チクッ」ときた。体が一瞬ピクリと反応する。
ちょっと太目の注射針が刺さるような感じだ。
次もまたチクッ。そしてまたチクッ、チクッ。
最初は何のこれしきと思っていたが、それが何度も何度も繰り返されると、さすがに辛くなってくる。
一体いつ終わるかが気になって、つい合間に、
「あと何本ぐらいありますかね?」
と聞いた。すると、
「全部で26本です。もうちょっとガマンしてくださいね」
だって。
どうやら道半ばらしい。少し歯を食いしばる。

「はい、終わりましたー」
やっと終わってホッとしたとき先生に、
「ホッチキス、ホッチキスっておっしゃってますが、正式名称は何というんですか?」
と質問したら、先生は、
「正式名は何だったかな?。でもみんないつもホッチキスって言ってますよ」
とのこと。そんなものらしい。

抜き終わったあと、
看護婦さんも私の性向を
心得たもので、
「見ますか?」
という。
「あ、ぜひ見せて頂戴」
と、抜いた鉤を
見せてもらった。
全部「3の字」形になっている。
きっと元は「Cの字」形で
傷口を留めていたのだろう。

会社で日常的に使ってる、
書類用ホッチキス針を、
専用道具を使って抜いた残骸と
よく似たような格好だ。

手術の傷口がくっ付いたころに縫った糸を抜くのがいわゆる「抜糸」だが、
近ごろは、切り口を「糸で縫う」のではなく、「ホッチキスでクリップする」のだそうな。
糸ではなく、ホッチキスの針=鉤(はり、かぎ。コウ)だから、抜糸でなく「抜鉤」というわけだ。

昔、目の手術を受けたとき、
「縫った糸は自然に溶けてしまうので、抜糸は必要ありません」
と言われたことはあった。
また、手術の傷口を「接着剤で貼り合せる」という方法も聞いたことはある。
ホッチキスは初耳だったが、「痛くない抜鉤」の研究が待たれる。

・・・・

午後2時半。
抜鉤したところで、早速腰骨のMRIとレントゲンを撮る。

まずMRI室へ、車椅子で丁寧に運搬いただく。
検査台を前に検査技師さんが、
「はい、ここに仰向けに寝てくださいね」
という。
内心「ええーッ」と思う。
そのMRIの俎板には一応薄いマットが敷かれていたが、
私は今でも病室のベッドの布団の上ですら、短時間しか仰向けには寝られない。
そ〜っと台の上に寝てみると、果たして「痛〜い!」のだ。
手術部がモロに圧迫されるのだからあたりまえだ。
技師さんが、
「クッション、もう一枚入れましょうか?」
と気遣ってくれるが、そういうレベルではなく、とても無理。
技師さんも私も困ったが、
少し考えてから、そこにあったバスタオル2本をくるくると棒状に巻いてもらって、
これを少し間隔を開けて台上に平行に置いてもらった。
この平行な棒状タオルの上で、傷口が俎板に当たらないように腰を置くのだ。
よしよし、これならあまり痛くない。 こうしてMRI撮影を乗り越えることに成功した。

さて、一難去って(凌いで)次はレントゲン室。
別の検査技師さんが迎えてくれたレントゲンのベッドは、透明樹脂版がむき出しのままだった。
「目が点」になっている私を察したか、技師さんは、
「タオルケットを敷きましょうか?」
と言ってくれる。
前のMRI室で仰臥中の数十分に、あれこれと次の段階も想像していたが、
心配していた通りの流れになった。
そこで技師さんが手にしているタオルケットをもらって、
こんなものを作っってみた。



これをレントゲン台上に敷いて、手術部が台に当たらないようにそっと寝る。
これも大成功で、無事レントゲン撮影も乗り切った。

今日の夕刻、これらの画像結果を先生が精査して、現状と退院までの見通しを説明してくれるそうだ。

・・・・

これらの検査のため、今日はリハビリの時間がいつもより遅めになった。
この現在、私自身の体感上は一応順調に回復に向かっているように感じているので、
退院はきっともう間近だろうと思っている。
この病院でのリハビリテーションもあと数日だろうと思ったので、
この日のリハビリ終了後、記念に担当の療法士Mさんにツーショット写真をお願いした。


Mさん、たいへんお世話になり、ありがとうございました。

・・・・

午後7時、ナースステーションに呼ばれた。
今日撮った透視画像についてN先生から結果の説明を受ける。
透視画像はフィルムではなく、ワークステーション(パソコン)のディスプレイ画面で、
パラパラと切り替えて見る方式だった。
術後初めてレントゲン画像を見るわけだが、
ある程度想像はしていたものの、やはりドキッとした。

左側面 正面

2本のチタンロッドと8本のボルトで、腰椎骨3個と仙骨が大胆に固定されていた。
チタンは耐食性が良好で、軽くて強く、体組織との結合性もよい金属材料だという。
「耐震補強工事」の状態は安定していて特に問題が無いようだ。
退院は、私自身の体調やリハビリの進行状況次第ということになる。


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翌日、退院日は2日後の土曜日と決まった。 ・・・というか、決めた。
通算13日間の入院生活が終わる。
退院後は少なくとも一ヶ月の自宅療養だ。そうなると、もうGWに入ってしまう。
連休明けまで会社に私の居場所は残っているだろうか。。。


2010.3.16

・・・・

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