Butubutu-Talk 1999
 
現代葬儀考                    
 1999年12月 3日

 葬式仏教という言葉も最近聞かれない。仏教教団をいまさらそんな風に批判してもしかたないということになってしまったのか。なんだかそれもさみしいことだ。葬式と法事という死者儀礼のみを行う宗教があるとすれば、それは大変いびつなものだ。現代人はそれをなんとも思わなくなってしまったのか。日本人がこのような宗教観を当然だと受け取るようになったもとを辿ると、明治維新政府の宗教政策にまでさかのぼる。

 国家神道を「公」として、キリスト教や仏教は「私」的に行われるべきものであり、仏教は祖霊崇拝と葬儀の執行を主な役割とした。まさにその延長線上に私たちの宗教観が成り立っているのである。誕生、成人、結婚、葬儀などの通過儀礼を行うことは、人生をどのようにとらえ、いかに生きていくべきかを確かめる重要な意味を持つ。それが神様で誕生を祝い、キリスト教で結婚し、仏教で葬儀を行うというようにバラバラになれば、儀式は形骸化し、宗教的意味を失う。

 葬式もまた、華美で形だけのものが出現する。そこでは世間体が先行し、宗教として生の意味を問うこともなく、しみじみとひとの死を悼み、遺族の悲しみに寄り添うことさえおろそかになる。

(赤羽別院報に載せた文を改めたもの)

 
おまいりで話したこと          
 1999年11月11日

 おまいりにいったらこんな話が出た。

「私は困ったことがあるときお念仏をする。こころが休まるしそれなりにうまく行くように願う。」と切り出された。そこで、

「そのように考えるとお念仏が本当に頼りないものに思えませんか」と聞くと、 [そうですね、そう言われれば、」と。

「お念仏と日常の問題をうまくやろうということと同じ次元で考えてはいけないんじゃないでしょうか」と住職。
「???」
「例えば、宇宙飛行士の向井さんが、真っ暗な宇宙空間に飛び出してみて、その闇の中に浮かんでいる地球をみて。人間がそこで生活を営んでいることが、なんと不思議な、愛おしむべきものかと思えてきたといいます。なんと不思議でいとおしいものかという視点からは、うまくいかなくてもうまくいってもその全体がいとおしいものなのです。」

「そいういう視点と念仏と通ずるものがあると?」
「そう、次元が違うということがです。どうでしょう。ふつう考えればうまくいかなきゃ困るということだけが大事なのですが、どちらに転んでもよいという所ですよね。そういうことは人間の日常の考えからは出てこないでしょう。」

「もう少し説明を、」
「今生きていることの尊さを受け取る。うまく行って楽しくとも、悲しかったりしても、そのどちらもいとおしい人生の一こまです。人生そのものを大切に思うところから、傷つけ合ったりしてはいけないし、つまらないことにこだわらないくてよいということも分かるし、ここ一番のがんばりどころも分かってくるのじゃないでしょうか。」

ちょっと一方的に話してしまいましたが・・・。(2)

 
手を合わせる意味                
1999年11月 8日

 仏壇の前で手を合わせたってたいした意味はない。そんな風に思っていないだろうか。そいういうことをはっきりさせないまま、御檀家のお詣りをしてきたことをすごく反省している。人生をどのようなものとして受け取るのか。そこに決定的な意味の転換を促すはたらきがある。

 たとえば、何億円もするダイヤモンドがあっても、猿にはただの石ころにしかみえない。その価値を知るものだけが大切に扱うことができる。人としての生を受けたことも、どれだけの尊さが感じられるかによって、その扱いが変わる。それは目立たないが大転換が起こることになる。しかし私たちは幸せであれば、当たり前に思い。困難が続けば何でこんなに苦しい思いをせねばならないのかと、不平を言う。人としての生活のなかにどっぷり浸かっていると、受けたもののすごさは見えないのではないか。それは、健康であり続けると、その恵みの大きさが見えないように。病気になって歩くことすらままならぬ境遇になって(健康というワクから出たとき)初めて健康のありがたさがみえてくるようなものだ。

 生きていることの本当の尊さは、人の中からは実はよく見えないのだ。だからこそ仏は、理性を越えた深い地点から届けなければならない。それを受けとめる姿こそ手を合わせるという形ではないか。(1)

 
親父の小言                 
 1999年11月 5日

 朝日新聞の日曜に「明日も夕焼け」という連載エッセーがある。あるお坊さんが遺した「親父の小言」から引用して、猪瀬という人が一文を成している。少し前に、「法事はつとめるべし」という小言が引かれていた。「おっ!これは使えるぞ」とちょっとすけべごころもあって読み出した。

 しかし、書いてあったことは、二百万年くらい前の人とも猿とも区別がつきにくい骨を掘っている人々の話。どこからを人とするのか。直立歩行しているから?DNA?それ等を使っても、その境目になると曖昧らしい。学者たちはどこで見極めるか。身近にいたものを葬っている痕跡があるものを人とする確定法があるという。ちょっとおどろきだ。

葬ったのは、亡きひとを大切に思う気持ちからである。法事もその気持ちがあるからこそ勤められる。そしてそれが人間としての大事な要素だと言う。

 命日はもう二度と肉身としての大切な方に会えなくなった日である。その耐え難い悲しみが、いのちのかけがえのなさ、尊さを理屈を越えて教えている。それが人間としての生活を始める基礎となる。尊くもなんともない人生と思って生きれば、荒んだものになる。

 そこでこのエッセーは、現代人は生活のなかで「死」を見えにくくしているから、私たちは人間よりも動物に傾いているのではないかと結んでいる。確かに、お年寄りが病めば病院に運ばれ、亡くなれば会館で葬儀となる。孫達はそこでおじいちゃん、おばあちゃんが亡くなったよといっても、その実感が持てないだろう。死別の衝撃が軽ければ、そのひとのことを思っている時間も短くなる。この論に従えば、そうすると動物に近づくことになる。確かに、いじめや人殺しなどけだもの以下という事件も多い今日このごろだ。

 最近こんな葬儀があった。長く病んでいたおじいちゃんが突然亡くなられたのだ。お詣りにいくと、小学生の孫が泣いている。葬儀のときも泣くのをこらえている。それをみてもらい泣きしそうだった。すごく悲しんで毎晩おばあちゃんと一緒にお勤めをしてくれた。肉身としてのおじいちゃんにはもう会えないけれど、君をいつもかわいがって、元気にねって願っている。苦しいときも励ましてくれるおじいちゃんの心は君と一緒にいるよ。と言うような話も出来た。こういう別れは本当につらいことだけど、おじいちゃんがすごいプレゼントをしていてくれていると思った。君や家族のみんなでおばあちゃんの悲しみを思いやること。そこから本当の人間の家族が始まる。レジャーで遊び回っていくら幸せに見えても、深い思いやりが無ければ人の住む家とは言えない。

 
学校の荒廃               
 1999年11月 3日

 学校の荒廃した様子にびっくりした。いじめ(この場合はいじめというより繰り返される脅しと暴力)の実態を聞いて、ショックで体調がおかしくなってしまうほどだった。それも今始まったことではなく、ずっと続いていたという。世間でこんなに問題にされているのに、よくなるどころか相当悪化して来ている。どういうことなのだろうか。

 もう先生だけではどうしようもなくなっている。先生の指導力や学校の責任を問うことがかえって事態を悪くしてしまう。先生一人で問題を抱え込んで、孤立させてしまうからだ。それでは解決の糸口はつかめない。

 実際は子どものほうが大きく変わっている。自分を抑える訓練がされていない。体はしとなっているが、精神的には幼いというアンバランスさ、そういう面もみえてくる。いじめる者が、相手の苦しみも分からず、さして悪いことをしているという自覚がうすい。だからこわい。ちょっとしたきっかけでどこまでエスカレートするか分からないこわさがある。

 どこから取り組めばよいか分からない状態だが、親側が先ず、学校の荒廃した実態を認識すること。そこからしか学校と連携 して、事態を改善していく道は開けないだろう。

 この問題を契機に我が家のしつけや子へのコミュニケーションの取り方など、省みなければならないことが多いと思わされた。

 
安城ホスピスを考える会に参加して
1999年 3月 15日

 先日、安城の主婦の人々が主催するホスピスを考える会に行った。テーマは臓器移植。臓器移植を説明するビデオを見てから話し合い。

「まあ自分はよく生きてきたので、悔いも無いし、臓器を提供してもよい。しかし我が子であったらどうするかかなー。心臓が動いているうちに承諾出来るかな。(亭主ならいいけど)」とか、「提供するのはいいけど、貰ってまで生きたいとは思わない。」発言内容はなかなか面白かった。

自分も、ドナーになるのはいい。が、貰ってまで生きることはないと思う。

しかしその場になったら、迷うだろうし、そんなにすっきり行かないだろう。きっと今回報道された御家族は大変な決断をされたことと推察する。主体的に決断するためには、自分がドナーとなる場合などいろいろな場面を想定して普段家族で話し合ったり、自分なりに考えておくことが必要だと思った。

 そのためには、医療全体の情報もさることながら、自分なりの哲学、宗教観を持つことが重要になってくるのではないか。医療技術の中には、「出来るのに、もうここまででやめておきましょう」という自律性がないからだ。「もうこれでいい」とどこで言えるかが大切な問題になってくる。

 
ひさびさの小椋桂
1999年 3月 2日(日)

 カーラジオをつけたら、小椋桂の声が聞こえてきた。それは歌番組ではなくトーク番組だった。彼は50才で銀行を退職して、大学で哲学を勉強しているという話をしている。興味を覚えて聞き入っていると、

 「人は、何をしてどのように生きるかということについては、一緒懸命に考え、一つ問題が片づくとまた次にというようにして、一生を終えると言ってもいい。しかし、最初にはっきりしなければならないことを疎かにしていたのではないかと気づいた。それは、<生きている事自体>(今この生を生きていることの不思議さや尊さ)を受け止める。このことを、もう一度じっくり考えてみたいので大学に入り直したのだ」要約するとこんな様なことであった。

これは仏教(キリスト教でも普遍的な意味を持つ宗教ならなんでも共通すると思う)が持つ大切な役割を表していると思う。

 目の前の用事に忙しく走り回るのが我々の日常だ。しかしそれは、この命の尊さに釣り合っているのだろうか。生きていることの尊さを感じていれば、あまりつまらないことには振り回されないでおこうと思い、些末なことに心奪われることから救われる。つまらない事と大切にこころを込めてしなければならないこことがはっきりしてくるはずだ。 このことがはっきりしなければ、どんなに恵まれた環境にあっても、人生を無意味にすごしてしまうことになるのではないだろうか。生きるうえでいつもそこへ立ち戻らねばならない原点ではないか。

 いま日本は平和で、不景気とはいってもひもじい思いをすることはない。大きな恵みを受けているのに、決してその中で生きていることを尊いとは感じられない。それどころか毎日のように、子どもの世界ではいじめや自殺が報じられ、神戸の酒鬼薔薇のようにあっけなく子どもが子どもの命をそこなうという事件まで起こった。「透明な自分」というように、自分の存在する意味が見いだせないと叫び出す子どもが出現する。それは特殊なことではなく、生きる喜びが失われている子どもや大人の世界を象徴的に表している。  現代人は大切なことを見失い、解決の糸口は一向に見いだせないでいる。そういう我々に生きる原点に立ち返れと促すはたらきが宗教なのだと思う。現代人にとって抜け落ちているものに小椋桂のこの短い話が気づかせてくれた。

 

唯法寺 愛知県西尾市順海町12  住職/占部