Butubutu-Talk 2000
 
地獄は一定すみかぞかし              
2000年6月 17日

 いじめや残虐な事件がたて続けに起きている。いったいどうなっているのかと思う。何がそのようなものを生み出すのか。社会のあり方に大きなひずみがある とすれば、その中で育ち、その構成員である私たち自身の価値観や生き方こそが問われなければならない。

 親鸞は自身を「地獄」を生み出す者と知らされた地点から、真実への歩みをはじめる。本当の姿を知らされることがなければ、どのように生き、どのような社会にすべきか分かろうはずもない。 私たちは、いまだかって自らの姿を明らかに観たことがあっただろうか。

           (暁天講座の呼びかけ文に)

 
森首相の「神の国」発言               
 2000年6月 7日

 「戦前の現人神である天皇とその臣民の世に戻せと言っている訳でもなく、戻るわけもない。そんなに突っつくほうがおかしい」と自民党の政治家は言う。国民も「そうかもしれない」と思う。だが、これについてはそんな狭い自分の感覚をだけを頼りにしていては間違いを招く。もう少し長い歴史的視野を持たないと問題は見えてこない。

 日清戦争、日露戦争、両大戦を通して、国民の精神を縛り付けるのに猛威をふるうに至った国家神道政策。この政策の発案当初、当時のインテリたちは馬鹿にしていたという。そんな政策が何の力を持つものかと(現代もまさにそのまんまですね)。自由民権の板垣退助なども、どうぞおやりなさいと全く問題視しなかったという。しかし、施行されて数十年後、こどもの教育への規制はもとより、いざ戦時になれば、思想弾圧、宗教弾圧に絶大な力を発揮するようになる。想像を絶する厳しさで自由な発言を奪い、良心に基づいた行動を封じ込めた。

 国家や国旗、そして神国。荒唐無稽にみえるもの。そのように見えるものだからこそ実は危ないのだと、明治以来の歴史は教えている。明治の政治家自身も深い見識なしに容認してしまったのかもしれない。しかし、それがどんな悲惨な出来事を、後の世を生きる人々に与えたかを考えるべきだ。

 
村上龍の提案                  
 2000年5月 15日

 村上龍が(そのテレビ番組の最後しかみることができなかったのだけれど)若者たちに聞いた。「戦国時代 江戸時代 明治時代 大正時代 昭和初期 戦争中 戦後 現在」(だったか、確かではないが)いろいろな時代をあげて、そのなかでどこに生まれたいか?。すると、結局現在がよいと答えた者が大半であった。

 現代は生きづらく、克服されねばならない問題も重い。しかし、生まれるとしたら、現代。見渡してみればやはり今がよい。いまわたしがいる時代をそのように捉えるところから、これからの十年をよいものとして切り開くことができるのではないかと言う。

 人間関係やいろいろな不安にさいなまれながらも、今をいとおしむ。そいういうこころを基礎にして生きる。そんな提案に、ちょっと新鮮な驚きを感じた。念仏の響きにも似た・・・。

 
ルサンチマン                
 2000年5月 11日

 生まれてきたことを恨む心。ルサンチマン。ニーチェは19世紀の終わり頃、人として生まれてきたことを喜べず、そのことを恨むような心を抱くものは、こう叫び出すだろうと言った。「世界なんかこわれてしまえ!」と。百年ほどまえに哲学の天才が指摘した問題が、今を生きる一般の多くの人々の心を覆っているのではないか。

 オウムに限らず、終末観を強く打ち出す宗教に惹かれるひとびと。この世界が壊れてしまえば、生きることの苦しさから解放される。 そこに終末を望む現代人のうめきのようなものがあるのでは?  17歳の高校生が見ず知らずのひとを刺し殺した。新潟のその事件では、朝日新聞によると、こんな気持ちを抱いていたという。生きることに絶望していたが、自殺できなかったので、人を殺すことで、自分の生活を破壊したいと思ったという。殺してみたかったと言うが、そのうらにニーチェの言うルサンチマンがある。

 なにか遠くの、非現実的に思える事件が、実は現代を重く覆う「気分」を表現している。重い課題をあらわにしている。高校生がこのような事件を起こすと、すぐにとってつけたように文部省がいのちの尊さを教えねばとコメントを出す。しかしその問題は、そういっている大人が克服しなければならない難問なのだ。人として生まれたことを尊いと知って、それに応えるような生き方が出来るのか。人生を浪費しているよな生き方をしてはいないか。

 そいうう問いを、まず自ら持つこと。若いもんに教えてやらなきゃじゃなにも始まらない。

 

唯法寺 愛知県西尾市順海町12  住職/占部