彼女の言葉は、とても抽象的だった。存在そのものが捉えどころのないものであったのに加えて、更に彼女の語る世界というのもまた、捉えどころのない不思議なものだった。僕たちは二人だけで会うことも何度かしてきたし、時間も共有してきていた。それでも僕は彼女がどんな人なのか分からなかったし、どんな過去を経験してきたのかも分からなかった。勿論好意を抱いている相手のことだから、聞きたいことも知りたいことも山ほどある。それらをその時その時に尋ねることもしてみたのだが、分かり易い言葉で返して貰えたことがなく、何だかいつも分かったような分からないような、結局はぐらかされているような、煙に巻かれたような、そんな返事しか貰えなかった。
 不満がなかったわけではない。でもそういった気持ちをぶつけてみても、手応えがない。例えば僕が苛ついた言葉を口にしてみても、彼女は悲しい顔をするでもなく、怒りの感情を現すでもなく、淡々としていた。そんなとき、彼女はとても遠くに感じられた。目の前にいるのに、とても遠くにいる。見えない壁があるとでも言おうか、そしてその壁はいつまで経っても崩れることがないだろうと、次第に僕にも分かってきた。何をそんなに守りたいのか分からなかったけれど、多分彼女が守りたい何かがあって、そこには誰も入って行けないのだろう、ということが、段々に分かってきた。そしてその距離感を、僕も僕以外に彼女に好意を寄せている者も、無理に縮めようとはしなかった。・・・ある程度の年月生きてくると、そういった諦めも身についてくる。そしてその変え難い現実を受け入れることも可能になってくる。そこを無理にこじ開けようとすれば、彼女は手の届かないところに行ってしまう。そんなことが分かってくるから、僕たちは無理に彼女との距離を縮めようとしなくなった。彼女はそういう女性なのだ、と、僕たちは次第に理解していった。

 僕たちはバカをやることもあった。お祭り騒ぎに便乗して、酔っぱらって羽目を外すこともあった。そんな中に彼女も居て、それでも彼女は決して羽目を外すことがなかった。いつも一歩引いたところにいて、やっぱり彼女だけの世界でふわふわと浮かんではいても、弾けてしまうことはなかった。彼女はお酒に強い方ではなかったし、酔うこともあったけれど、だからといって鬱憤を晴らすこともしなければ、姿が変わることもない、少し顔が赤くなって口調がいつもより更にのんびりとしたものになるけれども、言ってることもやってることも大して変わらなかった。「素」が見えてこなかった。酔った勢いで本音を引き出そうと試みるヤツもいたが、そんな企てはいつも失敗していた。

 「何を考えているのかよく分からないんだよな」と僕が彼女に対して呟いたとき、彼女はくすりと笑って「そう?」としか答えなかった。もうそんな遣り取りは山ほど経験していたから、返事も予想通りのものだった。僕自身答えを求めていたわけでもなく、ただ感じたことを伝えただけで、そのことによって僕と彼女の関係に変化が起こることはないということも良く分かっていた。「羽目外さないしな」と付け加えれば、「そうねぇ」と間延びした答えが返ってくる。「ずぅっと見てきてるのに、どんな人なのか分からない」と更に伝えてみても、やはりくすっと彼女は笑って「そうかもねぇ」と言うだけ。彼女は僕の気持ちを知っている。僕の気持ちが伝わっているということは、僕にもちゃんと分かっている。それでも決して返事をくれない彼女を、僕も他のヤツも「冷たい」とか「翻弄されている」とか思わない。そんな不思議な空気を持った人だからだ、彼女という人は。それを知っていて、それでも好きだから、どうしようもないのかもしれない。彼女のそんな姿を受け入れることができる者でなければ、何年もの年月を彼女への想いだけに費やすことなんてできやしない。実際、疲れ切って脱落していく者もいたし、僕たちの世界に新しく飛び込んできて彼女へ惹かれ始めて試行錯誤している者もいた。僕らは、そうやって彼女への想いをそれぞれに表現していくそれぞれの存在を、蹴落とそうともしなかったし、距離感を掴めずに四苦八苦している者に余計なお節介はしなかった。それは自分で見つけていけばいい。彼女自身も距離感を保つから、ひとりひとりがそこから自分なりの距離の保ち方を見つけていけばいい。彼女を自分だけのものにしたいという俗っぽい思いが、こと彼女に関しては、薄められてしまうようだ。彼女自身の姿に、「誰の物にもならない」という距離感が漂っていたからかもしれない。かといって、それは強い拒絶でもなく、本当にふわふわと漂われている感じでしかなかった。「掴まえてみたいなら手を伸ばしてごらん。でも私は誰にも掴まえられないわ」という、少し意地悪めいた、それでも悪意は感じられない、そんな姿が彼女の中には常にあった。

 「ヒトシ、かなりプレッシャーかけてるな」「そう?」「あれは誰の目にも明らかだろうが。早く答えが欲しいって、全身で訴えてるじゃないか?」「そうかしら?」・・・そんなふうにして、僕と彼女は、新たに彼女に惹かれて四苦八苦しているヤツのことを話題にしたりもした。だからといって彼女の態度が変わるわけではない。彼女はあくまで彼女のまま、漂っている。「・・・なんか可哀相に見えるときもある」「うーん・・・どうかしら?」そんな遣り取りが繰り返されるときもある。疲れたヤツが泣きついてくることもある。特に新入りの場合は、よく仕事の後で飲みに行き、愚痴をこぼしたりする。「どう思われているのか分からないんですよ・・・」「そうかもしれないなぁ」「俺に対してだけなんですか、あんなふうに、微妙な距離を取るのって」「・・・そうじゃないけどなぁ」「ダメならダメだとはっきりしてほしいんすよ。そしたら俺も吹っ切れるのに・・・」「まぁ、そう感じるかもしれないなぁ」「・・・って、先輩はどうなんですか?彼女に好きな人がいるかどうか、知ってるんですか?」「いや、それは多分誰も知らないと思う・・・」・・・そうして溜息をついていく。それはもう黙って見ているしかない光景でもある。何度もそんな経験をしてくると、まぁ頑張ってみろと慰めたり諦めろと言い切ったりできなくなってくる。「納得いくまでやってみるしかないかもなぁ」と、何ともいい加減な答えしか出せないこともある。仕方ないじゃないか、それは俺がどうにかできる問題じゃない。彼女とお前とで何とかしろ、或いはお前だけで答えを見つけろ。みんなそうやってきているんだ。決して彼女は彼女のペースを崩さない。そのことを受け入れるようにならなければ、彼女と長い時間を共有することなんて無理だ。
 彼女に食ってかかるヤツもいないわけではなかった。「はっきりしてくれ!」と詰め寄るヤツもいた。でも彼女は曖昧に笑うかそっと距離を置くか、そのいずれかだった。諦めるヤツは諦めたし、尚も食い下がろうとしているヤツも、現にいる。そういった遣り取りを見ながら、僕は彼女と二人で食事したりもしている。端から見たら異様な世界かもしれない。でもそれが僕たちの中では当たり前の世界になってしまっているのも事実だった。僕が「何とか答えを出してやったらどうだ?」と言ったこともあるが、彼女は「それは私と彼との問題よ、あなたに言われることではないわ」とはっきり返してきた。そしてそれは正論だから、僕もそれ以上立ち入ることはできない。しようとも思わなくなってくる。

 彼女がきれいな英語を操ったとき、僕は意外に思った。そしてその驚きは、暫く僕の中に残っていた。彼女と二人で海へ出かけたとき、ふとそのことを言ってみようかと思った。「今までサヤカがあんなにきれいな英語を話せるなんて知らなかったから、びっくりしたよ、あの時。」「ああ、そうかもねぇ・・・私、あまり話さないようにしてきたから・・・」「何で話さないようにしてきたんだろう?」「さぁ?何故かしら?」いつものように笑う彼女。「あれだけスラスラ話せるってことは、前に何処かの国に留学してたのか住んでたことがあったのか?」「どう思う?」「分からないから聞いてるんだけど・・・」「そうよね、分からないと思うわ」・・・。そんなふうにして、要領を得ない会話が続いていく。目の前に広がる海を見つめながら、僕たちはお互いの目をじっと見つめることはしない。それは彼女が好まないやり方だからだ。
 「ねぇ」と彼女が言う。「私、お店の窓から見えるあのチャペルのステンドグラス、好きなの」。キラキラ光る海を見つめながら、彼女は呟くように言う。「あの光、私の中で特別な感じがするの」「特別、かぁ」「そう。・・・そうね、ちょっとした思い出があるから、かしら?」こんなふうにして、彼女が会話の中に微妙に過去を漂わせることは、それまでにも何度かあった。「思い出?」「そう。思い出があるの」「・・・どんな?」「さぁ?どんなものかしら?」ーーーそうやってまたかわされる。彼女は気まぐれに過去に触れ、相手が踏み込んでこようとすると、すっと話を逸らす。僕もその頃にはその距離感に慣れていたから、それ以上は尋ねない。彼女が小出しにしている過去を、自分の中でひっそりと溜めて、繋げていく。でもそれは決してはっきりとした形にならないと、僕にも分かっている。それでも僕は彼女の言葉を繋げている。

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