彼女は決して帰国しなかった。僕たちは年末年始や夏休みに帰国していたりもしていたのだが、彼女が帰国することは一度もなかった。何故そうするのか、僕にも誰にも理由は分からなかった。もしかしたら彼女には帰る場所がないのかもしれない。或いは捨ててしまいたい思い出が詰まっているのかもしれない。そんな悲しげな様子は見て取れなかったのだが。帰国した仲間がお土産を持ってまた戻ってくると、彼女はそれを特に感情を見せることもなく眺めていた。そんなときの彼女は、やっぱりガラスの壁を隔てたところに居て、上手く自分を隠していた。あまりに感情が流れてこないから、触れたくない過去があるのだろうかと思ったこともあったが、詮索するつもりもなかった。そんな彼女だから、滅多に過去を語ることはない。僕たちが子どもの頃の話や家族の話をしていても、彼女はその場に居ても、何も言わずに聞いているだけだった。そしてそれは僕たちの間では「常識」となりつつあったから、誰も敢えて彼女に「思い出話」を求めることはしなかった。
そんなとき、彼女は息をすることに苦痛を感じているようだった。
初めてその様子が僕の中に飛び込んできたとき、異様な感じを覚えた。彼女は実に上手く自分を隠し、掴み所のない姿を確立していたけれど、「呼吸することのしんどさ」なんていう、普通に生活してる人が感じることのない感覚を漂わせているなんて、やっぱりそれは普通じゃないと僕には思えた。だから彼女はあんなにも意識的に自分を操り、決して他人と深い関わりを持とうとしないのかもしれないと、少し腑に落ちた部分もあった。でもそういった感覚や気持ちを拾ってしまう僕の感性というか特質というか、そのことを彼女にはっきりと伝えたことは今までなかったし、彼女も「息をする辛さ」を他人に感じ取られたなんてことは夢にも思っていないだろうから、それを彼女に伝えていいものか、僕も悩んだ。
やがて何度か彼女からその苦しさが伝わってくるようになり、僕もまた少し辛さを感じるようになった。何かを抱えて必死に隠して生きようとしている彼女の姿を、ただ黙って見ているのは、苦しいときがあった。もっと誰かに甘えていいのに、愚痴をこぼしたっていいのに、泣いたっていいのに。そしてそれを受け止めようとしている人間は確実に存在しているのに、それでもたったひとりで踏ん張っていこうとする彼女の姿は、自分で自分をどんどん追い込んでいくようなものにも見えた。かといって、彼女が消えてしまうというイメージはなかった。切迫した状態ではないけれども、何かに対して彼女が大きな苦しみを持ち、それが時々抱えきれずに「空気」として僕に伝わってくる、その状態をこのまま黙って見ていてもいいものか、僕にも正直分からなかった。分からなかったから、数回は黙ってやり過ごした。
それでも何度もそういったものを感じ取ってしまうと、本当に上っ面だけの関わりでいてもいいものか、迷いが生まれてくる。そこは多分彼女が守りたい部分だったのだろう。だからこそ、彼女がそのようにして守りたい何かを抱えていることがもうとっくに分かっていたからこそ、僕もどうしたらいいのか分からなかった。何日かあまり眠れない夜を過ごし、結局僕は触れてみることにした。
「今日、仕事終わったら食事しようか?」と僕はお昼休み、彼女を誘った。彼女は「そうね」と笑った。少し疲れているようだったのは気がかりだったけど、彼女がイエスと言ったのだから、僕はあまりそこを深く考えないようにした。
僕たちにはよく行くワインバーがある。彼女はそこでシャンパンと生牡蠣という、いかにも日本人的なものをよく注文していた。そこは適度に賑やかで、適度にプライベートな空間も持てて、長居もできる店だった。その夜も僕たちはそこへ行き、テーブルに料理とお酒が運ばれてくるまでは、ぼんやりと外を眺めていた。僕たちが働いているモールからそれほど離れている場所でもなく、従って彼女が好む、あの大学のチャペルも見える。夜はライトアップされて、ステンドグラスがまた違った光を反射させている。それをぼんやりと眺めていた彼女に、僕は切り出すことにした。「前、サヤカは俺が勘がいいと言ったことがあったよな?」彼女はゆっくりと視線をこちらに向ける。でも決して目を合わせることはせず、微妙に視線を逸らしている。「・・・そうねぇ、それは時々感じるわ」。彼女はゆっくりとグラスを傾ける。「どう表現していいのか分からないんだけど、確かに俺は勘がいいというか、他人の感情を拾ってしまうことがあるんだ」「・・・そう・・・」僕もグラスを傾けてから、言葉を繋いだ。「サヤカの感情を拾ってしまったことはないんだけど・・・」「・・・?・・・」「何て言うんだろう?時々何か俺の方に届くんだよ」「・・・何かって、何が?」「それは分からないけど、届くんだよ」「・・・ふぅん・・・そう・・・」。彼女はこういった遣り取りを好まない。それを知っていて続けるのは、結構しんどい。彼女も聞きたくないのか触れられたくないのか、すぅっと、彼女の方から距離を保とうとする動きがあった。「・・・クリスマスね、もうすぐ」。それは、「これ以上話さないで」というサインでもあったのだが。
僕は続けた。
「サヤカがこういった話をするのは好きじゃないこと、承知の上でなんだけど・・・気になることがあるんだよ」「・・・好きじゃないと分かってるなら、言わないでほしいわ・・・」彼女はちょっと困ったように笑う。笑いながらガラス越しに通り過ぎていく車のライトを追ったり、クリスマスイルミネーションを眺めたり、その合間に小さな溜息をつく。「・・・お互いの世界を尊重したいっていうのは、俺もよく分かってる。だからずっと黙ってきたけど、・・・でもやっぱり気になるんだ」「・・・自分の好奇心を優先させたということかしら?」彼女が意地悪く笑う。そうやって少し空気を変えたいのかもしれない。「そう言われても仕方ないかもしれないなぁ」「あら、案外あっさりと認めるのね」また彼女が笑う。こういうときの彼女は、意図的に笑う。「それでも言いたいことなの?」「・・・そういうことかもしれない・・・」「そう・・・」。そして彼女が黙る。こちらの出方を窺っている。
「しんどそうにしてるなと感じるときがあるんだよ」「・・・そう・・・」「・・・それを埋めようと思っているわけじゃない。それはサヤカの問題だろうから。ただ・・・」「私の問題だと分かっているなら、そのまま放っておいてほしいわ」少しだけ彼女の声が荒くなる。「私は私、あなたはあなた。それでいいじゃない?私は誰にも助けてほしいとか望んでいないわ」。彼女が姿勢を正す。そうやって彼女は今までも人との距離を保っていた。そうやって彼女は、今までも自分を守ってきた。・・・それはいつまで続くのだろう?いつまで彼女はたった一人で歩いていこうとするのだろう?僕には分からなかった。どうしてそこまで強固に「ひとりで居続けよう」とするのか。
「・・・息してるのが辛そうに感じるんだよ・・・」。僕はストレートに伝えた。彼女は、外を眺めながら「そう・・・でも私は辛くなんてないわ」と返し、「もうやめましょう、こんな話」と打ち切った。
あのとき、僕たちの関係が少し、ほんの少し動いたようだった。