ネタコラム


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“血で血を争えない” “勇将の下に弱肉強食の理?”
“船頭多くして船、タイタニック” “悪貨が良貨を駆逐した先に”
“蝶・猶予っち!” “刻は金なり 法隆寺”
“特異点、崩壊” “疑惑の偽薬”

“血で血を争えない” 07.1/30 メニューへ
 相変わらずの唐突っぷりをいかんなく発揮するのだが、 『血は水よりも濃い』
という言い回しがある。 普通に考えれば水より血が濃いのは当たり前のことである。
だが、この場合の『血』が血縁、特に親子の関係を指しているのはいうまでもない。
今回はそんな感じのお話である。
 これ以外にも『血は〜』という言い回しは枚挙に暇が無い。
例えば子供が親と同じ道を辿ることを「血は争えない」と表現する。
これは、同じ血が流れているから同じ存在たりうる、ということを示唆しているのだ。
だが、この言葉は純粋にそれだけを表しているとは思えない。
逆に同じ道を辿らない=血を争う可能性もまた示唆しているのではないだろうか。
同じ血が流れているからといって、同じ存在であるとは限らない・・・遺伝の法則が発見される19世紀中頃以前より人は観念的にそれを理解していたのだろう。
血=遺伝に関わる言い回しの多さがそれを証明しているといっても過言ではない。
「鳶が鷹を生む」「鷹が鳶を生む」等の本来、遺伝的に有り得ない状態も古来の人が感じた造物主の気まぐれを表しているのかもしれない。
・・・もっとも
ロイエンタール
「女とは愛してもいない男の子を産む事ができ、男とは生まれてきた子を自分の子と信じることで幸せになれる生き物なのです」

ということなのかもしれないが。
 そんな血を表す言葉の中で昔から疑問に思っていた言葉がある。
それは『蛙の子は蛙』である。
『蛙の子は蛙』・・・子供が親と同じ道を辿る時に用いる表現である。
しかし、生物学的にいえば当たり前のことである。
蛙の子が蛙でなくて、何であろうというのだろうか?
ところが、子供の頃の私はこの言葉を聞いた時にこう思ったのだ。
「蛙の子は蛙じゃなくておたまじゃくしだろ?」と。
そう、蛙の子は蛙ではなく、おたまじゃくしなのである。
これは『サルカニ合戦のカニの子供がゾエア幼生やメガロパ幼生でないのはおかしい!』 と抗議するよりは遥かに一般的な見解だと思われる。
だが、ある時スポーツニュースで親と同じ競技でそれなりの結果を残した子供に対して この表現を用いているのを聞いて、その真に意味するところをデンパ受信した。
蛙の子は蛙ではなく、おたまじゃくしという親と似ても似つかない姿をしている。
しかし、やがて成長すると尾がアポトーシスにより消滅し、足や手が生え親と同じ姿・生活手段を得る。
つまり「蛙の子は蛙」とは「子供の頃は本当にその人の子供かと疑ったが、やっぱりその人の子供だった」という 成長に伴う血=遺伝形質の発現による血縁の再確認、早い話が「やはり血は争えない」と同義の言葉だったのである。
 ふと思った。
これらの『血』によって暗喩される言葉、女親と子との関係において用いられる例は男親のものとに比して限りなく少なく思える。
例えば、女子マラソン選手の息子がマラソン選手の道を進んでいたとしても、これらの表現を用いるだろうか?
勿論、これまでの社会進出の頻度の差というものはあるのだろうが、それ以上のものを感じなくも無い。
これらの言葉の根底に流れるのは、自分と同じ遺伝形質の発現によってしか「自分の子供である証明」を得られないということではなかろうか?
そうであれば、我が子の実感を痛みと共に得られる女親よりも、 常に我が子との繋がりに対して疑心暗鬼になりがちな男親の方が「蛙の子は蛙」を実感し救われたいのかもしれない。
つまりこれらの言葉はロイエンタール曰くの「男とは生まれてきた子を自分の子と信じることで幸せになれる生き物」
を全力で証明しているものといえるのだ。
 だが、ふと思った。
「蛙の子は蛙」であるのなら「魔女の子は魔女」なのか?、と。
魔女は『血』で飛ぶのであろうか、と。
そうであるなら、魔女にとっては魔女っ子が飛ぶことで初めて「自分の子供である証明」を得るのかもしれない。

“勇将の下に弱肉強食の理?” 07.2/27 ネタ一覧へ
 プロ野球のオープン戦も始まり、球春到来といった感じの今日この頃。
ひいきのチームの仕上がり具合が気になる人もいるだろう。
例年と比べると新監督の割合が少ないのも『そろそろ結果が出る頃だろう』などと期待を募らせるのだ。
つまりは
実績のある監督が就任すると、どんなに弱いチームでも三年もすればAクラスに入る。
そう思っていた時期が、俺にもありました・・・。

という感じなのだ。
その根拠となっていたのが『勇将の下に弱卒なし』という言葉。
これは『強く勇ましい指揮官の下において、兵はそれに感化されて強くなり、弱い者はいない』という意味である。
確かに森監督時代の西武や仰木監督時代のオリックスのレギュラーを思い起こすと、この諺が真理であると思わざるを得ない。
 だが、本当にそうなのだろうか?
別に横浜時代の森監督がどうとかいうお話ではない・・・わけでもない。
実際、森監督の細かい野球の方針に マシンガン打線という大雑把な野球に馴れた選手達が拒絶反応を示した結果、勇将であったはずの森監督が 結果を出せず退任してしまった感は否めない。
また勇将と呼ばれているかもしれない監督が就任した途端、 バンバン若手を戦力外で解雇、生え抜きにもかかわらず干されて移籍、という例も枚挙に暇が無い。

 このことから『勇将の下に弱卒なし』というのは、必ずしも弱卒が強兵になるわけではなく、 強兵になれない弱卒、または勇将とソリの合わない兵卒が勇将の下を去っていった結果、強兵と成り得る弱卒のみが残った、 という結果論でしかないのではないかということだ。
この場合、勇将とはクラスチェンジできない、または成長率の低い弱卒を切り捨てる非情の指揮官ともいえる。
(副音声:FFTでラファやマラークを速攻で除名したことのある人などはこれに類するかもしれない。)
実際に一兵卒としてそういう指揮官の下につきたいかというと疑問符がつくかもしれないが、 マキャヴェリズム的には正しいのかもしれない。

 そう、この『勇将の下に弱卒なし』とは 弱肉強食の理、ダーウィンの掲げた『自然選択(淘汰)説』を示しているのだ!
(副音声:オエビでいえば、レベルの高い人の割合が増えると低年齢層&雑絵が減るという感じ)

 だが先の例で、勇将と呼ばれる可能性のある人でも、弱卒の中に占める強兵足りえるものの割合が低ければ、 勇将と呼ばれることもなく指揮官としての人生を終える可能性もまた示されている。
この場合、『弱卒の上に勇将なし』という方が適当かもしれない。
・・・ああ、勇将=優勝ってネタですよ、一応。
(副音声:オエビでいえば、低年齢層&雑絵&馴れ合いレスが増えると、レベルの高い人の割合が減るという感じ)

   さて、そうなると『勇将の下に弱卒なし』とは、単純な『弱肉強食の理』ではなく、 勇将によって弱卒が淘汰されるか、弱卒によって勇将の出現が抑制されるか、 という軍事独裁政権と民主共和制の相克を示しているのかもしれない。
・・・そうだね、銀英伝の読みすぎだね。

“船頭多くして船、タイタニック” 07.4/14 ネタ一覧へ
 いつの間にやら新年度。
新年度といえば、新入生や新入社員にとって、慣れない環境の中、 先生や先輩、上司といった様々な先達の仰る有難いアドバイスに右往左往しながら 五月病の袋小路に迷い込む季節といえる・・・かもしれない。
 ・・・まぁ、これは極論としても、皆さんも経験がないだろうか?
ある用件について悩んでいたら、Aさんがアドバイスをしてくれて そのアドバイスに沿って用件を進めていたら、新たな問題点に頭を悩ましていたところ、 Bさんが相談に乗ってくれたものの先のAさんのアドバイスによる方法と 根幹部分から異なる手法を提示され、どうしていいものかと悩んだりとか。

 喩えるなら、アレだ。
包帯グルグル巻きの男から『この世は所詮、弱肉強食』という有難いお言葉を頂き、 それを支えに頑張っていたら、『この世は所詮、弱肉強食』を否定する『不殺』とかいう甘っちょろい信念抱いた頬に十字傷のある浪人に 負けたので『ああ、この世は弱肉強食というのは間違いだったんだなぁ』と思ったら、 『ソイツは各々が自分で判断せぇや』と突っぱねられてかえって混乱したみたいな感じである。

 それはおいておいて。
先のような例の場合、先達たちも好んで後進を悩まそうとしているわけではなく、 むしろ『悩んでいる時が覚え時』という自己の経験則から世話をやいた結果、 皆が様々なアドバイスをして、かえって混乱させてしまうというのが実情なのだろう、多分。

 このように複数の先達の有難いお言葉がかえって後進を混乱させるような現象を古来よりこう言う、
『船頭多くして、船山に登る』と。
“本来、航海のプロであるはずの船頭も、複数集まると折り合いがつかずに船はとんでもない航路を辿る”という諺である。
先の例からもこの言葉の意味するところはよく理解できるのだが、昔からこの言葉を聞く度に釈然としない部分があった。
それは『船山を登る』の部分である。
本来、船は水上を進むだけのもの。それが山を登れるということはとんでもない技術ではなかろうか?
車なのに空を飛ぶデロリアンや機関車なのに宇宙のレールを走る999を彷彿とさせる不条理なまでの技術である。
確かに海や川を渡りたい時に山を登られるのは、利用者としては不本意の極みではあるが、 そういった『ふとした事故で本来の目的と異なる、かえって有益なものが出来上がる』という例が社会の発展に寄与してきたことは、 学生の試料の配分ミスが導電プラスチック発明に繋がった事実からも明らかである。
 ということは、この『船頭多くして、船山に登る』という言葉は 『その道のプロが複数集まると、折り合いがつかず迷走する時もあるが、思いもよらない成功に繋がることもある』 というある種、少数精鋭的なヴェンチャー企業の指針を示しているのかもしれない。

・・・と思ったら『「困難なことでも皆で力を合わせればできる」という解釈は誤り』と先手が打ってあった。
う〜む、となると素直にマイナス要素しかない『船転覆す』や『船沈没す』でよいのではないかと思う。
『船山を登る』という場合によってはプラスに捉えられる極端な例を用いる意味はなんであろうか?
『船が山を登る』がイコール『転覆・沈没』を意味する・・・そうか!
船が山を登ってしまったために沈没した有名な例があるではないか!
そう、氷山に乗り上げたために多くの人々が亡くなった『タイタニック号の悲劇』が!
つまりこの『山』とは『氷山・岩礁』を意味しているんだ!
ということは『船頭多くして、船山に登る』という諺は この『タイタニック号の悲劇』を予言した、アカシックレコードからの警告云々・・・
【ここからの数文は、作者急病としか思えない内容だったので省略します】

 この『山』=『氷山・岩礁』という解釈により、
『船頭多くして、船山に登る』のある側面が見えてくる。
つまり後進が複数の先達の有難いお言葉により迷走した末に沈没する時、その沈没の原因となる事象は 座礁するまでは大して重大なものとして捉えられていない可能性があるということだ。
さて、アナタは大丈夫だろうか?
アナタの気付かないうちに暗礁地帯に追い込まれていたり、
誰かを追い込んでは・・・いないだろうか?

“悪貨が良貨を駆逐した先に” 07.6/17 ネタ一覧へ
漫画雑誌などにおいて、従来であれば突き抜けたりユンボったりする作品が長く続くようになると、
逆に本来ならもう少し続くはずの作品が総枠数の関係上、突き抜けさせられたりする。
 このような状態を指す言葉として
『悪貨が良貨を駆逐する』が古来よりよく用いられる。
グレシャムの法則とも呼ばれるソレは、先の例のように『質の悪いモノが蔓延ると質の良いモノが少なくなる』という理解のされ方をしている。
 だが、正確に表現するならば、
『実質価値の異なるものに同じ額面価値が与えられた場合、実質価値のあるもの(良貨)は貯蓄され、結果的に実質価値の低いモノ(悪貨)が世に出回る』 という意味なのである。
この実質価値とは、金や宝石のように貨幣としてでなくとも一定の価値があるもの。
額面価値とは、政府等によって価値を付加されているもの。
それに則って具体的に例を挙げれば、A:『金3g+銅2g』、B:『金1g+銅4g』が共に1000円の価値のある貨幣である場合、 Aは将来的に金として換金するために蓄えられ、結果Bばかりが売買に使われて、市場にはBが溢れるということである。
理屈としては、もっともである。
だが、私はこの真の意味を知った時、逆に大きな疑問が出来た。
それは『貨幣に含有する貴金属の量は一見して見分けがつくのだろうか?』 ということである。
つまりどういうことかというと、もし流通している同じ額面の貨幣に質の差があると知らされた場合、 良貨と悪貨の区別がつかず、疑心暗鬼に陥ってしまうのではないかと思うのだ。
人によっては、良貨だろうが悪貨だろうが構わず溜め込むか、いっそ気にせず使ってしまうか、 または情報の開示、検査方法の確立を求めて右往左往するかもしれない。
そして、その混乱の結果、その貨幣自体の廃止という結末を迎えるかもしれない。
つまり、悪貨は良貨を駆逐した先に、自らの額面価値すらも駆逐してしまうのではないだろうか?
それこそが、悪貨を良貨と同価値に扱うことの罪なのだとしたら・・・。

煌びやかな宝石・貴金属に埋め尽くされた装飾店。
その中の宝石の一つが、実は紛い物の人工物だと世に知れた時・・・
アナタは、それ以外の宝石は紛い物でない天然モノだと信じることができるだろうか?

“蝶・猶予っち!” 07.8/6 ネタ一覧へ
この間、帰宅途中にセミの幼虫が道路をのそのそ歩いていたのを見つけた。
下手に道路に出てノシイカになってしまうのも忍びなかったので
持ち帰って家の塀に留まらせておいたら、次の日クマゼミになっていた。
少し後にその様子を思い出した際、私の脳裏によぎったのは
「これが蝶からサナギへと姿を変える、というヤツか」というフレーズだった。
 そんなよくわからんフレーズが脳裏によぎるなんてどうかしてるとしか思えないとかいうツッコミはおいておいて、ここに二つ間違いがある。
まずセミは不完全変態なのでサナギにはならない。
こんなことは小学生でも知っている・・・と思う、多分。
だが、それ以上に間違いなのが、サナギと蝶は不可逆変化であって、蝶からサナギにはならないということだ。

・・・という長い脳内自己ボケ&ツッコミの果てに、ふと思った。
「本当に蝶からサナギにはならないのだろうか?」と。
勿論、文字通りの意味ではない。
この場合のそれは、人の成長の暗喩としての「サナギから蝶」に対するアンチテーゼである。
余談ではあるが、ほぼ一年前のネタコラムで 『蝶とスランプと蛹』というネタを取り上げているのも何かの縁かもしれない。

 物語などで少女(稀に少年)が何かしらのきっかけで一皮剥け「サナギから蝶へと姿を変えた」場合、以後蝶の状態を維持しつづける。
あたかも一年もののロボットアニメにおいてこの時期に発生する主役メカの強化改造or後継機のように。
もっともその場合、玩具業界等の策略により蝶へ姿を変えるだけでは敵わない相手が現れ、超蝶へと姿を変えざるをえなかったり、 さらに超蝶2へと姿を変えざるをえなかったりもするが。
(閑話休題)
だが、現実の人間の成長を鑑みた場合、どうであろうか?
長い二軍生活から「一皮剥けたかな?」という感じで一軍スタメン入りしたと思っていたら、 いつの間にか再び二軍生活に戻っていたりという 『蝶からサナギへと姿を変えた』 状態を見ることもままあるのではなかろうか?
というより蝶であり続ける人間はほんの一握りしか存在しない気さえするのである。
 このように人の成長というものは本質的に不安定で、不可逆的である「サナギから蝶への変身」に喩えるのは適切ではないのかもしれないのだ。
しかし、にもかかわらずこの喩えが人の成長を適切に顕すものとして用いられているのは、大空を羽ばたく蝶に対する憧れ、 それと同時にサナギに対するアンチモラトリアム的な姿勢の表れなのかもしれない。
つまりサナギはいずれ蝶になり、一度蝶になったらサナギに戻らないのが当たり前、であるべきということなのだろう。
 だが、本当にそうなのだろうか?
『蝶からサナギへと姿を変える』 ことがそんなにマイナスイメージを持って語られるべきことなのだろうか?
確かに一度蝶になってしまえば、蜜を求めて花々を飛び回ることができる。
だが、大きな羽は雨風にさらされ易くなり、下手をしたら二度と飛べなくなってしまうかもしれない。
逆に考えて『蝶からサナギへと姿を変える』ということは、 サナギに戻れただけマシ。再び時が来て蝶として羽ばたくことが出来るかもしれない、ともいえるのである。
 さて、アナタは蝶として飛び続けられないと感じた時、
二度と飛べなくなろうとも蝶として飛び続けますか?
それとも再び飛べると信じてサナギへと姿を変えますか?
そ れ と も、超蝶へと進化するためにクリ○ンを犠牲にしますか?

“刻は金なり 法隆寺” 07.10/6 ネタ一覧へ
 唐突だが、ある場所に行くために5,000円かかる手段(A)と15,000円かかる手段(B)がある。
アナタはどちらの手段を選ぶだろうか?
多分、Aを選ぶ人が大半であろう。
同じ場所に行けるのにわざわざ10,000円高い方を選ぶ人は、
余程金に不自由していないか、余程の慧眼の持ち主か、単なるヒネクレモノのどれかであろう。

だが、ある場所に行くのにかかる時間がA:3時間、B:1時間である場合、どうであろう?
例えば、仕事の出張やイベントの開始時間の関係上、どうしても移動時間を削りたい場合、
10,000円高くともBを選ぶ人の割合が増えるのではないだろうか?

 2時間の移動時間の差が10,000円の差に直結する・・・
この例はまさに
『時は金なり〜Time is Money〜同情するなら時間くれ!』
を具象化した事例といって過言ではない。
・・・何やら意味不明なサブタイトルがついているがスルーしていただけるとありがたい。

 だが、ふとこの『時は金なり』に反する事例に気付いてしまった。
それは『娯楽』である。
仮にゲームを例にとって説明しよう。
二種類の、どちらも5,000円のゲームがあったとする。
一本は5時間でクリアして放置、もう一本は100時間遊んでもまだ遊べそうである。
この場合、どちらがコストパフォーマンスがよいと判断されるかというと、後者である。
特にゲームは他の娯楽との比較による時間割りした場合の費用対効果を語られる対象になりがちである。
『1時間にすると50円、喫茶店で1時間茶をしばくだけで1,000円と考えると何て安いんだ!』
という感じで。

だが、100時間かけて5,000円かかるゲームと1時間かけて1,000円かかるお茶飲み。
こうして抜き出すとどうだろう?
先の『時は金なり』的観点から見ると、 お茶飲みの方が『貴重な時』を消費せずに済み、かつ1,000円しかかかっていないわけなので コストパフォーマンスが良いように思えてこないだろうか?
・・・そうなると、同じゲームという土俵に話を戻した場合、
100時間のめり込んで貴重な時を消費させたゲームより、
1時間でフライングソーサーもしくは鳥除けと化したゲームの方が
より価値があるということになるのではなかろうか?

・・・って、んなわけあるかぁー!!

まさに比較論マジックである。
まぁ、ク○ゲーを踏んでしまった場合の慰めにはなるかもしれないが。
 つまりこれは最初の例における移動時間と娯楽時間における『時』を 同一視させようという論理展開により起こった錯覚なのだ。
 最初の例のような移動時間というものは基本的には出来るだけ『無い方がよいもの』である。
その『無い方がよいもの』を減らすために発生する費用は必要経費と考えれば至極当然のものだといえる。
 逆に娯楽時間というものは 『使っていい時間』、もしくは『心が必要としている時間』なのである。
であれば、それに伴う時間を多いかつ時間単価が安い方が好まれる傾向にあるのは当然と言えるだろう。
もっとも多分に“歯牙ない錬金術師”で触れた心理的作用も含まれるだろうが。

 こんな風に考えれば、趣味に時間を費やす行為に後ろめたさを感じずに済むのではないかとか思ったり思わなかったり。

“特異点、崩壊” 07.11/11 ネタ一覧へ
『退屈な女より もっと哀れなのは かなしい女です
かなしい女より もっと哀れなのは 不幸な女です
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です
捨てられた女より もっと哀れなのは 寄る辺ない女です
寄る辺ない女より もっと哀れなのは 追われた女です
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です

死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です』

                      ―マリー・ローランサン

これは彫刻家や画家として知られるマリー・ローランサンの詩である・・・らしい。
この一文だけ見かけて調べただけなのでよく知らないが。
 確かに『忘れられる』ことは哀しい。
だが、忘れられるということは、逆説的に一時(いっとき)でも誰かの心に存在していた証ともいえる。
となると、忘れられるよりも哀しいことは、
『最初から存在していなかった』
と認識されることではないだろうか?
 ・・・最初から存在していなかったのに、その『存在していなかったこと』を認識している対象が存在している時点で矛盾しているが。
だが、それを認識できる存在がいたとしたら・・・?
それを人々は『特異点』と呼ぶ!
・・・なんて某電車ラソダーを連想するような話をしているが、実は元ネタは一年半前に書いた簡易ブログだったりする。 以下、その時書かれた内容の引用。

ここ数日某板にアクセスできませんでした。
今日?復旧したようで眺めてみると・・・
アクセス不能になる数日前に投稿されたレスや絵がすっ飛んでました。
ログが一部壊れたとかなのでしょうか?
何というかSF映画やジョジョを見ている気分になりました。
 このすっ飛んだ時間軸に存在していた絵やコメントはネット上の記憶に残らない。
・・・それを見た人々の記憶には残るでしょうけど、もし誰も見ていなかった絵が存在したとしたら・・・。
こう考えるとネットにおいて描かれる絵や文というものは、シュレディンガーの猫同様、観察者によって存在が確定しているに過ぎないということでしょうか?
・・・って最低でも投稿者はその存在を認識しているのかorz
ん?でもこの場合、投稿者=箱の中の猫だから・・・むむむ。
つまりアレか、観察者が訪問しなくなったサイトが現在閉鎖しているのか活動しているのか、そのサイトを再度訪問することで初めて確定し、 訪問するまでは観察者にとって閉鎖していようが活動していようが同じことでしかない、とそういう話にもなるわけですナ?
 ようわからんようになってきたのでこの辺で。
2006/06/30(Fri) 21:23


・・・なんか書こうとしていた内容、ほとんどこのログに書いてあるので割愛。
実は日付から推測がつくかもしれないが、このログ自体は掲示板上では既に存在していない。
ということはこの過去の文章自体は、ここで私自身のログを公開したことにより、私とその当時読まれた人以外の人に初めて認識されたことになる。
 つまり投稿に失敗した絵やタイムリミット等により消えた掲示板でのやりとり等はログをとっていなかった場合、
投稿者や閲覧者という『特異点』にしか認識されておらず、
他の人にとっては『最初から存在していなかった』ことになってしまうのである。
 ということは逆説的に、意図的にログを抹消してしまえば、
『特異点』以外の人にとって、
特定の対象を『最初から存在していなかった』 ことにできてしまうことにならないだろうか?
 しかも、それが依存度の高い字引であればあるほど、
『特異点』とそれ以外の人の認識の差が顕著であり、
『最初から存在していなかった』ことにされた対象のダメージは大きい。

オーナー『そんな画像は存在してません』

“疑惑の偽薬” (07.12/31) ネタ一覧へ
やあ (´・ω・`)
ようこそ、ネタコラムへ。
この○福はサービスだから、まず食べて落ち着いて欲しい。

うん、「書いてるのは2007年ではない」んだ。すまない。
去年を表す文字は『偽』って言うしね、
腹話術で謝って許してもらおうとも思っていない。

でも、この文章を見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない
「大人の事情」みたいなものを感じてくれたと思う。

殺伐としたネット世界の中で、そういう気持ちを忘れないで欲しい
そう思って、この文章を作ったんだ。

じゃあ、本筋に戻ろうか。
(大人の事情=単にメニューのレイアウトを整えるため)
08.1.5 〜Mk Ryhyou〜


 さて、先にも触れたが、2007年を表す文字は『偽』だった。
この文字が示すように、繰り返される公僕の収賄事件、食品の表示偽装、流行語の捏造等、 何がホントで何が嘘か、分からなくさせてしまうのが大好きな一年だったといえる。
ただ今回の騒動の内(特に食品偽装関連)、 『信じていた事実を覆された』というコペルニクス的転回ではなく『気にも留めてなかったら、実は嘘だった』 というパターンがやけに多かった気がしないでもない。
 喩えるならば、昔話などで立ち寄った民家で出された団子を美味い美味い言いながら喰っていたら、 実は狐に化かされていて、食べていたのは泥団子だった、かのようなパターン。
これのポイントは、真実を知らされなければ、いつまでも『泥団子を食べ続けていた』・・・ つまり『泥団子』が『食べ続けることが可能だった』ものかもしれないということである。
事実として何年間も偽装を続けていたわけで、その間致命的な事態が発生していないことは否めない。
(かといって擁護しているわけでも当然ない、あしからず)
にもかかわらず、今回の偽装発覚後、今まで『食い続けられる泥団子』を食べてきたはずなのに、 急に『そんなものを食べてただなんて、信じられないっ!』と嘔吐感を覚える人がいるのである。
となると、実はやはり『食べ続ければ害のある泥団子ならぬ毒団子』だったのであろうか?

 いや、そうとは限らない。この現象を利用した医療手法があるのだ。
その手法の際に用いられるものが『プラシーボ(偽薬)』。
端的にいえば薬用成分を持たない錠剤(ブドウ糖等を固めたもの)である。
「何のこっちゃ?」と思われるかもしれないので、簡単に説明を。
 あなたは「何か身体の調子が悪いなぁ」という場合に薬を飲んだら、すぐに体調がよくなった、ということはないだろうか?
RPGのように、ポー○ョン飲んですぐにライフが100回復した感じで。
(まぁ、リアルポー○ョンはライフ回復するかわりにMPが減少した気がするが。)
だが、実際に薬を飲んで「すぐに」体調がよくなった場合、それは薬の成分のおかげではないのかもしれないのだ。

要するに「病は気から」と言われるように 「薬を飲んだら治る」と思って薬を飲んだために薬用成分が効果を発揮する前に症状が改善された、ということである。
これを利用した、医師から処方された薬用成分のない(=副作用もない)錠剤により症状を改善させる効果をプラシーボ効果といい、 その時用いる錠剤を『プラシーボ(偽薬)』と呼ぶ。
(実は医療手法としては数年前に否定的な研究結果が出たとか何とか新聞で読んだ気が。今もはっきりとは分かってないらしい)
このプラシーボ、どういう場合に用いるかというと、ある症状に対応した新薬の効果を試す場合に、その新薬の対照として用いられる。
つまり薬用成分の入った錠剤と何も入っていない錠剤を同じ症状の患者達に飲ませて、 薬用成分の効果を調べるのに用いているわけだ。
この場合、もしどちらにおいても症状に改善が見られたら、薬用成分自体を疑う必要があるということである。
 この効果は医師による処方など、患者にとって信頼できる対象による投薬であることでより起こり易いらしい。
つまりブランド力のあるメーカーによる商品を同じ内容の他社の商品よりも贔屓目で見てしまうことと同じようなものである。
逆に副作用が危惧される(と対象が認知している)薬で同様の比較実験を行った場合に、偽薬を飲んだ対象に副作用と類似の結果が表れることを『ノセボ効果』というらしい。
となると、今回の食品偽装問題において、それまで美味い美味いと食べていた泥団子に対して嘔吐感すら覚える状態というのは 『メーカーに対する信頼の変化』による『プラシーボ効果からノセボ効果への移行』で説明できるのかもしれない。
 要するに対象に対する盲目的・狭視眼的な信仰というものは、対象への評価を正負ともに狂わせてしまうものだということであろう。

え?今回の内容、既読感がある?
“歯牙ない錬金術師”“悪貨が良貨を駆逐した先に”にそっくり?

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パッケージの貼り直しは常套手段デスヨ?

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