序その1:リスト讃

クラシック音楽愛好家で F.Liszt の名前を知らない人は余りいないと思います。しかし、19世紀中盤の音楽をリードしたこの怪物が認められているかというと、未だに心もとない。”テクニックを誇示する内容のない見せ掛けだけ”などの暴言がピアノ弾きの中からも(いや、非ピアノ弾きはそれさえ言わないか)聞こえてきます。まず手短に反論しておきましょう。リストに見せ掛けだけなんかありません、いわゆるショーピースは見ての通りのショーピースですし、ソナタなら見ての通りのシリアスな曲です。

かくいう私、ピアノ弾きの端くれですが、全然リストな人ではありません。人前で弾いた経験は文字通りゼロ。こっそり弾いたのもごくわずかです。理由は簡単、下手だからです。私の技量だとピアノの音が響かなくなってしまう。当たらないのはまだ諦めがつきますが、鳴らない響かないのはやめろといわれているようなものです。スクリアービンでソナタ4番を二度も人前に出したのに、暗いほのおop73-2をすぐに断念したのと通じる事情があります(スクリアービンの部屋も見てね!)。それでも学生時代に今と同じだけ(=全ピアノ曲!)リストを知っていたら、何か弾こうと画策したかもしれませんが。

作曲家リストはともかく、ピアニストとして天下無敵だったというのは史実として認められています・・・というとすぐ、アルカンは、タールベルクは、ルビンシュタインは、てな異議が出るのは承知の上、彼らは全てリストとの対比でピアニストとしての名を歴史に残しているのです! (ただし作曲家アルカンは独立して興味深い存在ではあります。) 

ホロビッツとコルトーとシュナーベルとバックハウスと(後好きなだけ加えて下さい)を兼ね備えた化け物とリストをみなしてまず問題なかろうと思います。とすると、例えばショパンによるショパン演奏の伝統すら、この超人的存在の前後で変化せずにはいられなかったはず。 ドイツ風、フランス風、、、のピアノ演奏の伝統というのはリスト以後リストが兼ね備えていた美点の色々な形での欠如として生まれたのでは?
−−−ここまでいくと私の想像ですが。

加えて、ピアノ程有名ではないですが、指揮者としても当時有数の評価を得ていたようです。こちらではフルトヴェングラーとワルターとトスカニーニを兼ね備えたとは言わないまでも、彼らに匹敵する存在というくらいかな?

音楽なんて、所詮音にしてなんぼ、です。その音にする過程の方で、ピアノ演奏史に関して全面的な影響を及ぼしているのであり、リストをけなしているピアニストがいるとしても所詮はリストの何代目かの孫弟子かその亜流になってしまうわけで、リストの音楽観から自由ではありえない、それを聞く側の現代の我々にしてもしかり・・・なんてこと考えたことありませんか? 現代のピアニスト全てがリストの影響下にあり、オーケストラの伝統も大いにリストに負っているとなると、それを聴いている我々もほぼリストの手の内にあるようなもの−−−とすら思えます。

と、ここまで音楽家リストを持ち上げておいて、、、

作曲家としてのスタート時点では、他人の作品の編曲の他は見るべきものが少ない、作曲家リストが本領を発揮するのはショパンが死んだころから、それにつけても玉石混交、というのは広く指摘されているところで、大筋において否定しません。

それにしても、何故に受容のされ方においてショパンと比べてここまで大きく差がついてしまうのか。玉石の玉の方も埋もれがちになってしまうのか。

ショパンの場合だと、ピアノ愛好者の全てがショパンの全作品を知らないまでも(私も知らない)、入門者にはノクターン2番、軍隊ポロネーズ等、うんと通好みには舟歌、バラード4番・・・、といった具合に有名曲を層別をしても、異議が余り出てこないと思うのです。そして初めて曲を紹介される際にもこういった層別情報がしばしば伝えられて、曲の理解を助けています。幻想ポロネーズとスケルツォ2番とが一緒に紹介されるとしても、かたや人気と内容のバランスした名曲、かたや独特の世界を築いた名曲、といった調子で、幻想ポロネーズに今すぐ感動できなくてもびっくりしなくていいのよ、とささやかれながらショパンに馴染んでいく道筋がついていると思うのです。

リストの場合だと、かの入魂の大作、ロ短調ソナタでさえ、評価が定まっているとは言い切れません。名曲であるとはされているのですが、どう名曲か、という位置付けがされていないと思います。その結果、幻想ポロネーズに劣らず難物であるリストのソナタと思うのですが、愛の夢3番の次にいきなり「こっちの方こそ名曲なんだ!」と突きつけられかねません。これでは才能と相性に恵まれない限り、ぎょっとするのがおちでしょう。私自身も大体そんなものでした。ノクターン2番が気に入りました、というショパン初体験者にノクターンなら17番の方が遥かにいいのだ、と押し付けるよりずっとずっとひどい。

なぜこうなるかというと、、、残した曲の絶対量でリストの方が断然多い、当然そしてその打率が全然違う。まあ、遺稿ですら佳曲が目白押しであり、ショパン自身が世に問うたからには水準以上であること間違いなし、とさえ言えるショパンは殆ど10割打者であり、比べるのは無理なのですが。その結果としてというか、鶏と卵ですが、知られている曲の量では大きく逆転して、ますますこの化け物作曲家へ近づく道筋が見えにくくなっています。

さらにこの残した作品の量の多さは質の多様さにつながります。ショパンが単調というつもりはありません。ショパンの殆ど全作品が「磨き上げられ」、本来の意味での「クラシカルな美観」=絶対美の存在を信じたスタティックな美観=をたたえている点で共通している、といえば熱烈ショパンファンもあまり異議を唱えないと思います。
リストの場合、その全てをロマンティークと呼ぶわけには行かないにせよ、少なくともクラシカルな美観からは異なった美意識に身をおいています。動的でありしばしば懐疑的です。さらに磨き上げの程度のばらつきの大きさが加わります。・・・という分ったような分からんような文章を書くのもたまには見逃してください・・・

これによる実質的な音楽の質の多様さが、初心者向きから通向きという一次元配置を全く不可能にしています。難物にも種類が多いのです。その一方で「初心者向け」が少ない。初心者向け最好適とされる愛の夢第3番がオリジナルピアノ曲でない(自作歌曲の編曲)というのは暗示的です。

今回の連載で、この魅力的難物たちに近づくためのヒントを出せたらいいな、と思い上がっています。ちょうど幻想ポロネーズなら周囲情報をヒントに何時の間にか近づくことができるのと同じような具合に。

それにしても、リストが自作を発表していた時代になぜ、「初心者向け」が少なくて済んだのか? リスト音楽の紹介者がリスト自身だったからに違いありません。どういう種類の難物であろうと、リストの手にかかれば容易に理解しえたのではなかったのでしょうか。音盤があふれ返る現代より、リストの生でしかリストを聴けなかった当時の人々の方が幸せだったかもしれません。リストの音楽は本来超人リストその人の表現力(それは何よりもまずそれを可能にする超人的技術を前提とする)を前提として書かれていると思った方がいいでしょう。

ショパンだって下手に弾いてもらいたくはありませんが、なまじっかなリスト演奏は確実にリストに対する偏見を育てます。リスト音楽のダイナミックな起伏の大きさ(むら気ともいう)についていけなければ、「豊かな感情」となるべきところが「見せかけ」に落ちてしまう。リストを弾くピアニストには自分だけでなく聴衆をもリストの世界に引き込むことが要求されるのです。

聴衆側も「リストなんてぇ」などという色眼鏡をかけたままだと、それなりの演奏からもなにも得られなくなるかもしれません。色眼鏡はあらかじめはずして下さい、出来るだけ。

TOPへ リストの部屋へ