ドン・カルロ :改訂を繰り返した超大作

「仮面舞踏会」のCD、「リゴレット」「イル・トロヴァトーレ」「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」のLD/DVD、の次に買ったカラヤン盤の「ドン・カルロ」で初めてヴェルディに対して目覚めた私です。永竹由幸さんの「痛快!オペラ学」(集英社)、「ヴェルディのオペラ」(音楽之友社)を読んで、「ドン・カルロ」「オテロ」「ファルスタッフ」を聴かねばなるまいという気になっていたのでした。

考えてみるに、その頃の私は、近代オペラの基準をヤナーチェクに置くことになっていましたから、後期ヴェルディのほうが断然ヤナーチェクに近い、という受け入れ方をしたようです。「ドン・カルロ」も形としては完全な番号オペラで、エボリ公女の凄いアリアがあったりするのですが、その歌もやはり「語り」に近いものになっています。中期前半の「アリアらしいアリア」に馴染んでから後期ヴェルディに触れた人と、ヤナーチェクから先に馴染んだ人間とでは受け止め方は全然違うと思うのです。そしてこの触れた順番というのは不可逆かつ永続する影響をそれぞれの人に残していくように思うのです。

「ドン・カルロ(1867初演)」が中期の最後、「アイーダ(1871初演)」「オテロ(1887初演)」「ファルスタッフ(1893初演)」が後期、とするのが一般的であるようですが、永竹さんは「ヴェルディのオペラ」で、”これ(ドン・カルロ)は中期の傑作でなく、<オテッロ>寸前の後期の名作なのだ”としています。初演から17年後のスカラ座での上演の際(=オテロ初演の3年前)に全体の半分を作り直しており、大改訂というより良い所だけ残して作曲し直したというべきなのだそうです。初演されたのはパリ・オペラ座でフランス語版5幕仕立てですが、実験的な舞台を除いては殆ど全ての上演が大改訂を踏まえたものになっています。にもかかわらず、少し古い録音解説だと「フランス語5幕版の原典版」などの表現が散見されますが、これは大抵誤りです。

大改訂の際にも台本はまずフランス語で用意されているので、改訂後でも当然フランス語台本がありますし、スカラ座での上演の後、モデナでの上演でカットした第1幕=フォンテーンブローの場面=を復活させた形態をヴェルディ自身が承認しており、このフォンテーンブローの場はオリジナルのままでフランス語台本も当然ある、これらをくっつけてフランス語で上演すれば「フランス語5幕版」になるのですが、原典版(初稿あるいは初演稿=この2つが既に相違しています)とは大幅に異なるそうです。

では4幕版にフォンテーンブローの場を付け加えれれば5幕版になるかというと、実際は遥かに複雑で、大改訂の他にも上演の機会毎にヴェルディがカットや復活の指示を幾つもしており、フォンテーンブローの場はその中の大きな一つに過ぎない、というべきもののようです。その上に作曲者の指示に依らない慣用的なカットも加わり、しかもどの楽譜に対してもフランス語台本とイタリア語台本が選択可能になっています。

永竹さんの「ヴェルディのオペラ」には、改訂が施された箇所が詳しく説明してあるのですが、改訂されていない箇所といえども大改訂の際にも良しとされただけあって穴は全くありません。初稿であっても、これまた私の大好きな「運命の力」初稿よりは後の作曲ですから全然不思議ではないのですが。

主要登場人物は、ポーザ侯爵ロドリーゴ以外は実在の人物ですが、歴史上の真実からはかけ離れているそうで、ドン・カルロとエリザベッタとの恋愛沙汰は無いし、エリザベッタと国王との仲は良かったらしいです。ドン・カルロが獄死し、それと同時期にエリザベッタが死亡したことは確かだけれど、この2つに関連があるとは考えられてはおらず、それ以外は全て構成の文学者達の創作によるものです。直接オペラの原作となったのはシラーの戯曲です。

粗筋はこちらになります。ヴェルディのほかのオペラと比べても、登場人物も多いし、筋も込み入っています。全てに作曲した初稿では実質で4時間、後年の改訂とカットによる「4幕版」でも3時間かかるのは、親子の不和、嫉妬、宗教対立を盛り込んだ筋立てがそれだけの規模を要求しているのです。ドン・カルロ、エリザベッタ、フィリッポ2世、ロドリーゴ、エボリ公女に加え、少なくとも宗教裁判長(大審問官)の6人、できれば修道士(カルロ皇帝の亡霊)まで加えた7人の主役級の歌手で揃えて欲しくなります。それが出来るのはかつてのカラヤン、或いはメトロポリタンオペラくらいのものでしょう。そういうオペラです。

ロドリーゴが目指したフランドルの解放は、ドン・カルロの思慮を欠いた行動の数々により頓挫してしまうのですが、これを、「ドン・カルロのようなダメ男に期待をかけた挙句に全てを失ってしまったロドリーゴには人を見る目が無かった」と見てしまっては、オペラにはなりません。ロドリーゴは高潔な人であるという共通理解の上でオペラは成立しているのです。「後で後悔する位ならエボリは讒言などしなければいいのに」と見てはいけないのも同じこと、嫉妬に狂うエボリと後悔するエボリとの両方を作曲者と演奏者とが全力で描いているのを観客はそのまま鑑賞すればいいのです。

自分自身の失恋の痛手を政治問題でごまかそうとしてそれもできない結局ダメ男のドン・カルロ、そのダメ息子と宗教裁判長と自分の嫉妬心とで気持ちの休まる間の無いフィリッポ2世、ドン・カルロをやや持て余しつつも世の空しさを嘆くエリザベッタ、複雑ではないですがとにかく強烈な性格の宗教裁判長、全て惚れ惚れするほど描き抜かれています。

こちらが下手な感情移入をする暇がないまま圧倒されて、そのままヴェルディオペラに目覚めるに至った私の体験が、ヤナーチェク体験を持たない方にもあてはまるかどうか分かりませんが、意外と初めてに近い人にも向くのではないでしょうか。この曲が余りにも長い分、「オテロ」の方を優先してお勧めした方がいいとは思いますが。

 

手持ち音源

カラヤン指揮ベルリンフィル盤 

いわゆる4幕版です。これがどの程度1884年スカラ座改訂版に忠実なのかは存じません。ザルツブルグ祝祭大劇場での演奏ですが、この劇場の大きさが実に丁度よいように思います。グラインドボーンは小さすぎる、メトロポリタンは大きすぎる。そしてカラヤン自身による演出は何の変哲も無い正攻法というか月並み調ですが、しかしその月並み調が、舞台を現実世界から切り離す額縁となるからいいのです。装置も衣装も存分に金をかけて、しかも趣味良くできています。自己主張は全然ありませんが、繰り返しオペラを楽しむには飽きが来なくて結局一番いいと思います。指揮は重厚調でこのオペラには全体としてよく合います。長い曲ですから、重すぎると思うところもあれば丁度良いと思うところもありで、間違っても悪いという評価にはならないでしょう。

カレーラスのドン・カルロは声質も太すぎず細すぎず丁度いい上に舞台姿がよく似合っています。神経の細いヤサ男を地のままに近いところで演じている感じです。バルツァのエボリ公女は独特の筋肉質な響きが生きています。ライナーノートでは「ケルビーノ(フィガロの結婚)がお似合いの・・」と片付けられていますが、1980年来日時に歌ったケルビーノよりは、このエボリ公女の方が向いていると思います。確かにダミーコとの声質差はやや小さいですが、ドン・カルロに怒るところなど「歌唱力」(演歌歌手用語ですが)が素晴らしい。そのダミーコのエリザベッタは姿(役柄によくあった半泣き顔はメークのせいか?)・声とも素晴らしい。前半は歌も演技も少しお人形さん的ですが、最後の幕のアリアは最高にいいと思います。

カプッチッリのロドリーゴは年齢からして盛りは過ぎているはずなのですが迫力は流石です。フルラネット(国王)、サルミネン(宗教裁判長)、グランディス(修道士)のバス陣も、録音もうまいのでしょうが、よく響いています。バス2重唱の組み合わせは、このフルラネット/サルミネンが声も演技も断然いいです。

 

レヴァイン指揮メトロポリタンオペラ

カットの無い版である、とライナーノートには書いてあります。ヴェルディが書き直した箇所は全て書き直しを尊重し、カットされた場所は全て拾った、と書いてあるのですが、何故か初演版にはあったはずのバレエシーンはありません。書いてあることと違うような気がしますが、「シチリアの晩鐘」の長いバレエシーンのことを思うと、切られたままにしてくれた方が私としては嬉しい。いわゆる5幕版のはずなのですが、またややこしいことに3幕仕立てで、ファンテーンブローの場と4幕版の第1幕を合わせて「第1幕」、4幕版の第2幕がそのまま第2幕、残り二つをまとめて第3幕と称しています。

フォンテーンブローの場があった方がいいかどうかは微妙です。ドン・カルロとエリザベッタの出番が増えるのは存在感のバランスを回復するのでプラス、フランドルならぬフランス人民の嘆きから始まるはどうかと思いますが、二人の出会いの事情を見せるのは無駄ではないので、話の繋がりという評価ではイーブン、長くなってしまうし音楽のレベルがやや落ちるのがマイナス、トータルでイーブンでしょうか。4幕版だと最初と最後が同じサンジュスト僧院の場になって修道士が出て来るのも捨てがたいし、開幕の音楽としてはこちらの方が雰囲気が出ますが、「運命の力」第1幕と同じような「前振りの場」があっても良いわけで、やはりなんとも微妙です。

フォンテーンブローの場の有り無しだけの違いかと思ったら大間違い、カラヤン盤を聞き込んでからこちらを聞くと、一々数え上げられないほどに聞き覚えの無いフレーズが挟まります。「ベールの歌」は2番まであるのが本当でしょう。最後の場のエリザベッタのアリアの中間部や、その後の2重唱の中のカット部分は、音楽的にはともかく台本的には無い方が自然かもしれません。しかし全体を通じ、カラヤン盤で聞いたことのなかったどの箇所も邪魔とは思いませんでした。

無難な演出はカラヤン盤と同じような感じです。レヴァイン指揮のメトロポリタンオペラはいつもと同じく、大きすぎる歌劇場に向けて潤いを欠きかねない大きな音を発していますが、テンポ感はカラヤンやバレンボイムの独墺系よりはアバドやムーティのイタリア系にはっきり近く、カラヤンより軽快でいいと思ったり、軽すぎて物足りないと思ったり、でこれも引き分けでしょう。

ドミンゴのドン・カルロは、普段よりも重い声を控えた、カレーラスに近い声質でダメ息子を上手く表現しています。地に近いところで歌ったカレーラスに対して、役を作り上げたドミンゴ、でしょうか。フレーニのエリザベッタも似たところがあります。ヴェルディのヒロインを歌うにはやや軽い声で、「シモン・ボッカネグラ」のアメーリアが正に丁度よく、エリザベッタやデズデモナまではまずまずカバーできるのかと勝手に想像していました。確かにダミーコより軽い声できつい響きにもなるのですが、低い声が響く点と表現力ではダミーコより上です。絶世の美人でもないのですが、この人は年を取ってもお嬢様ないし若奥様を自然に演じられる容姿に恵まれています。

バンフリーのエボリは、メゾでもコントラルトに近いドスの効いた声で、バルツァとは随分印象が違いますが、どちらも素晴らしいと逃げておくしかないでしょう。キリコのロドリーゴが若々しい声で、迫力ではカプッチッリに負けますが、声としては勝っていますし、ロドリーゴはこの位には若く見えたほうがいい。

高い声から4人は、ハイレベルの比較ながらレヴァイン盤がいいと思いますが、バス3人はカラヤン盤の方がいい。ギャウロフの国王とフルラネットの宗教裁判長は逆の方が良かったと思います。録音当時の芸歴からすると、ギャウロフが国王を譲るわけには行かなかったのでしょうが、明らかにフルラネットの方が高い声向きです。ギャウロフの国王自体は立派ですが、フルラネットの宗教裁判長は不気味さも強さも不足しています。修道士は録音のせいもあるのでしょうが、さらに迫力がありません。

カラヤン盤は前半の1枚がやや退屈で、後半の1枚からバス2重唱→エボリのアリア→4幕全部とつまみ食いで聞く機会が多かったのですが、レヴァイン盤の方が前半でも飽きません。しかしつまみ食いコースならカラヤン盤の方がやはり楽しめます。トータルではフレーニの貫禄でレヴァイン盤の僅差勝ち、と一旦書いておきますが、ヴェルディへの目を開かせてくれたカラヤン盤への感謝の気持ちもまた揺るぎません。 ('03.10.25)

 

 

パッパーノ指揮パリ・シャトレ座

日本語解説を読むとむしろ分からなくなったのですが、パリ初演に近い状態のフランス語上演、という予備知識が大体正しいのでしょう。この版に対して思うところは色々ありすぎてまとまっていないので、後日書き直すつもりですが、一文だけ、「このオペラは(世界の首都である)パリでの勝利を狙ったヴェルディの戦略作であり、パリで最高の評価を得ていたマイヤベーアの作風に意図的に近づけて作成された、ように思いました。」

これも気に入った盤であることは表明して、後は歌手の印象だけ書いておきます。
アラーニャのカルロス王子には、カレーラス程には品の良さがありませんが、これもまた一つの王子像として文句なし、声がよく出ていて、この盤の中では一番の出来と思います。マッティラのエリザベート(エリザベッタ)は、さらに品の良ろしくなく、見た目にかなり抵抗がありますが、声の力ではダミーコよりもフレーニよりもあります。なのに何故か、最終幕のアリアは今ひとつ心に残りませんでした。これと正反対なのがマイヤーのエボリで、本来のメゾの音域が響かないので、アンサンブルではかなり不満ですが、見た目の美しさは文句なし、そしてあまり期待しないで聞いた「呪わしき美貌」がかなり良い。メゾのアリアとしては音域が高いのが丁度良かったのでしょうか。ロドリーグ(ロドリーゴ)はハンプソンには少し音域が低すぎるのかな、と思いました。ファン=ダムの国王はかなりいいと思いますが、個人的にはフルラネットの方がさらに好きです。

・・本来主役であるべきカルロスとエリザベートが、実際に主役に聞こえた陣容、と思いました。(07.04.01)

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