愛知県碧南市 最南端の海水浴場は大賑わいだった 「玉津浦海水浴場」の話

碧南市 失われた海を探して

玉津浦海水浴場(たまつうらかいすいよくじょう)

あの夏はもう来ない 残された「ヴィーナス像」が淋しく往時を物語っていた

松林のなかに立つヴィーナス像

<大正4年(1915)7月15日、大浜熊野大神社の西海岸一帯に「玉津浦海水浴場」が開かれる。綺麗な海岸として盛況を極めた玉津浦海水浴場も、今は裸身のヴィーナス像が残るのみ> 碧南市宮町の大浜熊野大神社に着いた。鬱蒼とした松林のなかに裸身のヴィーナス像が東を向いて立っている。 僅かに微笑みを見せるヴィーナス像は、碧南市出身の彫刻家・加藤潮光の作。ヴィーナス像は高さ2メートルほどの台座の上に載っており、下部には7メートルほどの円形を成した造作。 「あの角から水が落ちて、ここでみんな足を洗ったりした」と、夫婦で散策を楽しむ男性が私に話しかける。 よく見れば、ヴィーナス像の台座には角に穴がある。「私は新川のものだけど、綺麗な玉津浦の海が好きで、よく来てた。だけど今はこのヴィーナス像しか、面影はないね」と男性は話す。 大正4年(1915)7月15日、大浜熊野大神社西の海岸一帯に海水浴場が開かれた。「玉津浦海水浴場」である。 ”玉津浦”の名は当時の大濱町長「近藤又左衛門」が、からかさ松のある権現岬と江戸時代の歌「一に権現、二に玉津浦、三に下がり松、四に塩釜」からヒントを得て命名した。

海岸跡を向いて立つ鳥居

<大正10年(1921)に「日赤大浜児童保養所」が開設され、愛知県下から集まった子供達は夏の間だけ、玉津浦海水浴場で過ごす。かつては見渡せた海も今は臨海工業地帯へと変わり、工場へと急ぐトラックの音> 大浜熊野大神社の西鳥居を見上げる。昭和9年(1934)7月に建立され、海水浴場であった当時を知るものの一つだ。 この西鳥居の先には桟橋が造られて、夜には雪洞が灯されたという。 玉津浦海水浴場は、風光明媚な場所として県内でも知られていたようで、大正10年(1921)8月1日から「日赤大浜児童保養所」を開設した。 愛知県内の虚弱児童を対象に、体質の改善を図る目的で日本赤十字社愛知支部が新しい事業として夏期限定で始めたもの。 昭和39年(1964)まで続けられ、合計7925人の子供達が訪れた。親元を離れ、子供達で集団生活を送った夏の思い出として、今も玉津浦海水浴場を懐かしむ人もいる。 海は西鳥居のすぐ前に広がっていた。知多の山まで見渡せた風景も臨海の工場群へと変わり、波音はトラックの通過音となった。

ヘボト自画像ヘボトの「潮の香りは記憶を呼び覚ます」

綺麗な砂が現れた

「地中の砂浜」

私の先祖が現在の場所に家を構えて、100年は経つだろうか。往昔、海岸線であり、打ち寄せる波が堆積させた砂丘の上に形成された集落に私の家はある。 ある年、納屋を壊して新たに駐車場としたときの話。土地のど真ん中に、野生の「ハマユリ」が花を咲かせていた。 私の先祖が当地に居着く前、まだ海のあった時代から存在したという。いくつもの株が重なり、葉を含めれば直径1.5メートルにもなる。 私は父親よりも年上の「ハマユリ」を切ってしまうには心が痛んだが、どうにも場所が悪く、切ることにした。地上面だけを切除しても、また生えてくるので、地中深く掘り下げる。 するとどうだろう、60センチあたりまで掘り下げた時に、今までとは違う地層が現れた。まるで三温糖の様な砂、かつての砂浜が現れたのだ。 ビニールゴミなどの不純物は一切含まない砂。掘り進めても同じように綺麗な砂が出てくる。遠い南の島でしか望めなかった砂がここにある。 まるで地中から宝石を見つけた嬉しい気分。かつて私達の先祖が見た砂浜は消えてしまったわけではなかった。 地中に静かに眠っているだけなのである。

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