愛知県碧南市 玉津浦海水浴場に存在した「海の家・休憩所」跡を探して歩く

碧南市 失われた海を探して

玉津浦・海の家(たまつうら・うみのいえ)

海の家や露店が並んだ場所を歩く 海岸線に灯される雪洞に集まる人々

海の家が軒を連ねた通り

<「人気のヨットは順番待ち…」など、夏の間は人でごった返した玉津浦海水浴場。夜には雪洞が灯され、夜遅くまで潮風を楽しんだ。露店・海の家が軒を連ねた場所を訪れる。面影はあるのか? 賑わいの跡を探し、昔を偲ぶ> 玉津浦海水浴場は、綺麗な砂浜に透き通った海という条件に恵まれ、市内にある海水浴場の中でも一、二を競い合う程に人気があった。 海岸線に並ぶように露店・海の家が軒をかさね、人でごった返した。 夜には雪洞に明かりが灯され、夜遅くまで人は途絶えなかったという。 昭和35年(1960)の住宅地図を見てみると、横一列に「江戸子すし・○屋・花見屋・小茶屋・杉徳・鈴屋」(○は解読出来ず)が記されている。 現在の大浜熊野大神社・西大鳥居から「碧南市福祉作業所」までの間にあった。玉津浦海水浴場の賑わいを伝えた写真を見ると「杉徳」と書かれたボートがよく写っている。 貸しボートは、とても人気で順番待ちをするのに随分待たされたと聞く。 またその写真には、店が軒を重ねる背後に2階建て、7面の窓を持つ白亜の建物が写っている。 海の家として繁盛した「玉津浦」である。今はどこも店を閉じてしまっているが、土台などの跡は少なからず残っており、昔を偲んで訪れてみるのも面白い。

堤防が取り払われた頃の梅の木

<子供の頃の思い出。海岸線であった堤防を歩くと見つける一軒の店。辺鄙な場所にと、呟く友人を笑う私。これほど旨い「ぎょうざ」を知らぬとは…。 玉津浦海水浴場跡で育まれた味。多くの人に「梅の木・ぎょうざ」の美味しさを知ってもらいたい> 私は子供の頃には、権現岬が大好きでよく遊びに行った。眩しい白の灯台が、どこか遠くの観光地に行った気分にさせるからだ。 私達の子供時代は、共働きの家がほとんどで、休日は休息に当てられ、家族旅行なんて贅沢の極みだった。 子供達だけで堤防を歩いていくと、「ぎょうざ」と書かれた一軒の店が目に入る。「こんな離れた場所でやっていけるのかな」と連れの友達が呟く。 私は含み笑いをした。確かに町から離れた場所、それも入り口前を堤防に遮られるような立地である。商売的に見れば、好条件とはとても言えない。 だが、ここで店を開けられているには訳があった。売りの「ぎょうざ」がとても美味しいのだ。 私は、大浜称名寺前・小進庵「海老天丼」と同じぐらい好きだ。店の名は「梅の木」。 玉津浦海水浴場時代からあったらしい。海水浴場が見込めなくなった後の苦労が偲ばれる。 近年、その「梅の木」が大浜北部の中松町1丁目に店を開いた。 この玉津浦海水浴場跡地で育まれた「梅の木」の”ぎょうざ”が、多くの人の喜びとなることは実に嬉しい。

ヘボト自画像ヘボトの「潮の香りは記憶を呼び覚ます」

ボロボロになった堤防の階段

「残された階段」

私の子供時分には、今の「築山町」交差点から権現岬先まで、南北2.2キロに及ぶ防波堤があった。 もちろん海は既に埋め立てられ、海岸線は遙か西の方へと追いやられていたが、海の痕跡を残す防波堤に「海はここから先にあったぞ」という事実を教えられてきた。 長らく防波堤も、西暦2000年を越えた辺りから変化する。 大浜熊野大神社のある「権現の森」前から権現岬までの区間、跡形もなく堤防が無くなった。 玉津浦海水浴場時代からある堤防は、残り300メートルのみ。「福祉作業所」前の堤防には、横幅6メートルほどの階段が設けられている。 素地が見える程に表面はボロボロで、いずれかは朽ちていくだろう。海の家などの休憩所から、砂浜へ向かう人々が上り下りした階段である。 在りし夏の思い出がここにきっとある。出来るならば「玉津浦海水浴場の賑わい」の遺構として保存してもらいたい。

< text • photo by heboto >


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