愛知県碧南市 大正3年(1914)7月夏に開かれた歴史 「新須磨海水浴場」の話

碧南市 失われた海を探して

新須磨海水浴場 (しんすまかいすいよくじょう)

碧南市域の海岸で最初に出来た海水浴場 加藤潮光のヴィーナス裸像

天王の森残る海岸跡

<須磨海岸に似ていることから名が付けられた「新須磨海水浴場」。大正3年7月に開かれた。三河鉄道が近くに駅を設置し、海水浴客の誘致に努めたことにより大きく発展。旅館や飲食店、遊技場が林立、県内でも有数の避暑地となる> 「白砂青松にして風光の絶佳は眞に須磨の浦の面影があるから新須磨と名づく」とは、昭和4年(1929)に発行された「大浜町誌」のある一節。 大浜上の熊野神社西から産業道路の碧インターへ至る陸橋まで辺り、天王の森と呼ばれた一帯の海岸に「新須磨海水浴場」が開かれた。大正3年(1914)7月のことである。碧南市域の西海岸で最初に出来た海水浴場であり、一番賑わった海水浴場である。 もとは鶴ヶ崎の鈴木徳松が林間に仮小屋を建て、夏期の避暑地として利用していたが、後に一般に開放するようになったのが始まり。 大正3年(1914)2月5日に刈谷新~大浜港間の鉄道が開通すると、三河鉄道は海水浴場としての将来性を見出し、夏期のみ営業の臨時停車場と設けた。 三河鉄道が大きく宣伝したことで、県内でも知られる海水浴場として発展した。ちなみに当時の臨時停車場とは、後の常設駅となる「新須磨駅」のことである。 交通の便も良く、遠浅の静かな海であったため人気を呼ぶ。近隣には海水浴客を当て込んだ宿泊・飲食施設も軒を連ね、賑わいを見せた。

公園にあるヴィーナス像

<新須磨海水浴場にもヴィーナス像が存在。作者は新川出身の彫刻家「加藤潮光」。海へとのびる桟橋と共に新須磨海水浴場の象徴的な存在だったヴィーナス裸像。きっと覚えている人も多いはず。現在は旧マンモスプールの庭園一角にひっそりと。玉津浦海水浴場のヴィーナス像と見比べてみよう> 新須磨海水浴場には、純白のヴィーナス裸像が立っていた。 場所は新須磨海水浴場のちょうど中心、市役所前からの道が旧海岸線に突き当たる場所で、かつてあった桟橋の近くである。ヴィーナス裸像は海の方を向いていた。 このヴィーナス裸像の作者は碧南市を代表する彫刻家「加藤潮光」である。 加藤潮光は大正5年(1916)に新川町の米穀商の家に生まれ、本名は理一(りいち)といった。 昭和27年(1952)、日展に初入選して以後、数々の優れた作品を創作し活躍。また昭和49年(1974)には碧南市文化協会の会長を務め、碧南市の文化発展にも深く寄与した人物。 新須磨海水浴場にあったヴィーナス像は現在、旧マンモスプールの庭園片隅で見ることが出来る。 高さ約240センチの台座に載ったヴィーナス像は、ほぼ等身大の大きさで東を向いている。 右足を前に出し、上体を少し左に捻ったポーズ。右手は自らの鎖骨をさわり、左手には鳩を持つ。 玉津浦海水浴場にあったヴィーナス像も加藤潮光の作。一見同じような作品だが、それぞれに異なった魅力がある。 ぜひとも見比べてみよう。<※注意:平成21年の臨海公園整備により旧新須磨海水浴場ヴィーナス裸像は移転。市内宮町の「宮町公園(さかな公園)」にあるという話です。 後日改めて現地確認します。>

ヘボト自画像ヘボトの「潮の香りは記憶を呼び覚ます」

碧インター橋脚下あたりに

「新須磨塩水プール」

昭和25年(1950)6月30日、新須磨海水浴場内に「新須磨塩水プール」が出来る。 長さ50メートル、8コースの規模で日本水泳連盟長水路公認プールとして競技が数多く行われた。 誕生した当初は東洋一と称えられたそうだ。 昭和37年(1962)の防潮堤建設により新須磨海水浴場が消滅し、昭和40年(1965)には新須磨塩水プールも閉鎖される。 同じ年の7月10日に大浜小学校のプールが完成し、その後も各学校にプールが作られたことから役目を終えたのだろう。 わずか15年の歴史であった新須磨塩水プールだが、当時の子供達には良き夏の思い出であり、今も懐かしい話として話題にのぼる。 新須磨塩水プールがあった場所は、碧インター陸橋の南あたりにある松林周辺。 当時はプール本体の他に諸施設の建物が存在したが、今は一切、面影あるものを見つけることは出来ない。

< text • photo by heboto >


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