愛知県碧南市 大正時代、鶴ヶ崎の「山神社」裏に誕生した海水浴場を訪ね歩く

碧南市 失われた海を探して

新明石海水浴場 (しんあかしかいすいよくじょう)

あちらが「新須磨」ならば こちらは「新明石」 神社裏に海水浴場が誕生

堤防跡には学生の書いた絵

<新須磨海水浴場の成功に触発された男の行動が鶴ヶ崎区民の心を動かし、「新明石海水浴場」が誕生する。命名の由来に見え隠れする期待の心。山神社裏には遊園を造るなど海水浴客の誘致活動に努め、新明石海水浴場は風光明媚な避暑地として人気に。今は面影さえ無し> 新川の発展に多大なる貢献をしながらも、悲運の運命を辿った岡本八右衛門。 その岡本八右衛門の蔵が建ち並んだ場所は、いつしか「カネ八の森」と呼ばれ、人も立ち入らない鬱蒼とした森となった。 大正3年(1914)、新須磨海水浴場の盛況ぶりを見て、鶴ヶ崎の「加藤志奈松」が海岸沿いの林間に無料休憩所を開設した。 やがて鶴ヶ崎区民全体の賛同を得ることになり、鶴ヶ崎主導のもとに山神社裏の海岸線を新たに整備し、海水浴場としての形をつくる。 大正10年(1921)、区役員らが正式に「新明石海水浴場」と命名し、宣伝活動に努めた。 新須磨海水浴場が「須磨海岸」(兵庫県神戸市)にちなんだのに対し、新明石海水浴場は「明石海岸」(兵庫県明石市)から名付けられた。 新須磨海水浴場への対抗心と共に、鶴ヶ崎区民の新明石海水浴場に寄せる期待の大きさが伺える。 大正末期には「新明石遊園」という子供向けの遊園を併設し、巨大なブランコなど人気を集めていた。 しかし、昭和30年代後半から始まる臨海埋め立て造成により、新明石海水浴場は閉鎖を余儀なくされる。 かつての海岸線である堤防跡には学生達の描いた絵。人々の良き思い出として記憶に残る海水浴場も、いまやどこも面影は望めない。

「太神宮」の石塔

<浅間神社境内にある「太神宮」と刻まれた石塔を寄進したのは、三河国江戸積の酒屋仲間だった。弘化4年(1847)のことである。大正時代、浅間神社裏の海岸に「鶴ヶ崎遊園海水浴場」が開かれた。また神社の東には高級旅館「鶴州楼」があり、新川を訪れる名士が宿泊した> 民話の「朝えまし」で有名な新川・浅間神社。 夏の祇園祭には、子供相撲が催され、多くの参加者で賑わいを見せる。 浅間神社には不思議な石塔があるのをご存じだろうか。 拝殿南の「太神宮」と刻まれて、小山にある社殿の屋根に迫らんとする程の高さがある。 「太神宮」と刻まれる石柱部分の側面には「三河国江戸積 酒家中」とあり、弘化4年(1847)9月に建立されたと示す。 美しい帆を持つ船が浅間神社裏の海を行き交う情景を想像させる。石塔は一度、大正9年(1920)5月に再建されている。 その当時、浅間神社境内には「鶴ヶ崎遊園」という庭園があり、庭園に続く海岸を「鶴ヶ崎遊園海水浴場」として、小さいながらも賑わいを見せていたと聞く。 浅間神社の東には、「鶴州楼」という新川を代表する高級旅館が存在していた。 対岸の亀崎にある高級旅館「望州楼」に相対して名が付けられたことは有名。 創業安政2年(1855)の望州楼は、古き良き佇まいが人気の高級料亭として健在だが、こちらの鶴州楼はいつしか姿を消してしまった。 鶴州楼には、訪れる各界の名士が宿泊し、眼前に広がる風光明媚な衣ヶ浦の情景を楽しんだという。

ヘボト自画像ヘボトの「潮の香りは記憶を呼び覚ます」

臨海公園にある新川灯台

「新川港の灯台は今」

奇想な催しで人気を集める碧南海洋水族館。その入口広場に白い灯台がある。 元は新川港にあった灯台で、名称を「新川港西堤防灯台」といった。 文字通り新川港西堤防の突端にあった。この場所に灯台が造られたのが昭和15年(1940)4月1日の月曜日。 当時は木造の灯台だったという。昭和26年(1951)に鉄筋コンクリートの改修され、今日知られる八角形の白い姿となった。 高さ9.18メートル、緑色光が3秒光り、3秒消えるのサイクルで点灯、光が到達する距離は約21.3キロメートルという性能を誇っていた。 衣浦湾一帯が埋め立てにより、周辺地域の環境が一変した後も平成6年(1994)10月まで現役の灯台として活躍する。 引退後の平成9年(1997)7月、新川港西堤防灯台は上部のみを海浜水族館広場に移動され余生を送る。 夜になると現役時代と同じように緑色光を放っていた時もあるが、今は点灯しない。

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