愛知県碧南市 旅館の窓から見えた風景は思い出に 海の消えた「衣浦温泉街」

碧南市 失われた海を探して

衣浦温泉から見えた海

旅館の窓が西を望む構造なのは? 黄昏時の海に浮かぶ知多半島の稜線

衣浦温泉歓楽街の入口だったゲート

<鷲塚の洋々医館別荘地「沖見園」が大正時代に存在し、崖下の海岸は「沖見園海水浴場」と呼ばれた。第二次世界大戦中、明治飛行場将校のために特殊飲食店街「衣浦荘」が出来る。戦後も賑わいを見せるが、法律により存続の危機。起死回生のボーリングで「衣浦温泉」が誕生する> 現在の山神町は南は「沖見平」、北は「常磐浦」という字名だった。 大正時代、鷲塚の洋々医館が所有する別荘「沖見園」が崖上に存在し、接する海岸は「沖見園海水浴場」と呼ばれ、小規模ながらも海水浴を楽しむ人々がいた。 第二次世界大戦中、明治飛行場(現在の安城市東端)に来る将校の慰安所を建設する計画が立つ。候補地として「沖見平」が選ばれ、昭和19年(1944)に特殊飲食店街「衣浦荘」が発足した。 特殊飲食店とは、いわゆる「遊郭」のことである。戦後も特殊飲食店に加え、パチンコや射的・麻雀・軽食などの店が軒を連ね、歓楽街として大いに繁盛していた。 しかし、昭和29年(1954)頃から風俗に関する法律が厳しくなる時勢により、特殊飲食店は転業を強いられる。 起死回生の策として行ったボーリング調査で温泉湧出の可能性が認められ、各業者は次々に温泉旅館を開業して危機を脱した。これが「衣浦温泉」の始まりである。

夕日が差す旅館跡

<衣浦温泉を懐かしみ、訪れる人。遠い昔、旅館の窓からは桟橋の雪洞、対岸知多半島にある街の明かりが暗闇の海に光を与え、幻想的な夜景が望めたという。衣浦温泉街を訪れ、海を偲ぶ。風光明媚の跡形もなく> 奇妙な3人連れを目にした。大きな旅行鞄を手に持ち、衣浦温泉街の路地を右往左往と歩く彼ら。 年の頃、60代半ばといった男性2人、女性1人。律儀さを漂わせる身なりで一見して三河の人ではない雰囲気。 「ああ、ここだここ! 面影ある。ほんと懐かしい」と感嘆の声をあげ、老舗の旅館へと入っていく。 「そうか!あの人達にとっては、かけがいのない思い出の地なんだ」と気付いた。 旅館業を営む建物の多くは、西に面して客室が並んでいる。これは何を意味するのか?  海が広がる素晴らしい景観をお客様に提供するためにである。崖上にある衣浦温泉からは、桟橋の雪洞に加え、対岸の知多半島の明かりが広がり、本当に美しい夜景が望めたという。 それが今はどうだろう。昭和38年(1963)から行われる臨海工業地帯の造成により、海岸線は遙か400メートルも西へ移動してしまった。 工場の建ち並ぶ景観に対岸の知多半島を見ることも難しい。 ぜひ一度、衣浦温泉を訪れてみて欲しい。西を向いて「もし、眼前に広がる海があるならば」と想像してみる。 いかに衣浦温泉が風光明媚な地であったかを理解できると思う。

ヘボト自画像ヘボトの「潮の香りは記憶を呼び覚ます」

明石インター橋脚に描かれる絵

「明石インター橋脚に海を偲ぶ壁画」

産業道路と併走し、碧南市を南北に縦断するサイクリングロードが明石インターと交差する地点、陸橋の橋脚一面にある絵画が描かれ、道行く人の足を留めている。 その壁画の題名は「なつかしい新明石海岸」。 平成14年(2002)2月に、碧南市の著名な画家が中心となって完成させた。 全体の構図は新明石海岸を描き、所々に懐かしき新川の情景を登場させた構成。 懐かしい新川の内訳は、「鶴ヶ崎山車・新川町駅・臨港線・衣浦湾・衣浦温泉・松江渡し・北新川」である。 モノクロで描かれる衣浦温泉をよく覚えて欲しい。そして南の方向に少し歩き、東を見てみれば驚くはず。 海があった当時と同じように建物が残っている衣浦温泉は、ノスタルジックな想いを胸に散策する楽しみがある。ぜひ訪れよう。

< text • photo by heboto >


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