愛知県碧南市 東海道本線と大浜街道の関係を探る 御堂を覗いてみれば

旅する大浜街道

第27回 東海道線をジグザグ

竜頭蛇尾か? 大浜街道はJRの東海道本線を右往左往するのだが…

大木下の御堂、横を電車が走る

<大浜街道が往時そのままに残る東海道線西、前池付近。大木の下、フェンスに囲まれた御堂を覗き見れば、ニヤリと笑みを称えた石仏に驚く> 県道50号を北進、岡崎信用金庫の大府支店が見えた辺り、西南向かいに照明・電装関係の店舗がある。 そこに東海道本線へ向かう道の入口を発見。速度制限「30」の標識が立つ。 緑残る小道、先の東海道本線あたりまで徐々に標高を上げていく。踏切を越え、線路西側、「大日本紙業」横の狭い道を行く。 数本の大木が見えた。フェンスに囲まれた御堂の存在を確認。外に観音様の姿、薄暗く埃にまみれた御堂の中を覗くと、ギョッとする。 坐像のお地蔵様が笑っていた。この御堂の名・由来は不明。この辺りに昔は「前池」という池があった。 この道は、天保12年(1841)の大府絵地図にも「往還」として記載されており、解説にも”大浜街道の元道”と説明されている。 区画整理・橋脚工事が進みつつあり、大浜街道の往時を伝えるこの風景も、あと僅か。

鞍流瀬川に架かる共和橋

<道幅を広げられて区画整理の中を行く大浜街道。何とか残る道筋を辿りながら進む。鞍流瀬川を越えた先で大浜街道の痕跡は消失。昭和8年(1933)に出来た「共和駅」南辺りで再び東海道本線の右へ出なくては…> 東海道本線脇の御堂を後にし、大浜街道を北進。追分の集落から来る道が東海道本線の踏切を越え合流してくる。 家並みが途絶えた辺りで道は左方向へ。鞍流瀬川を渡る「共和橋」に着く。この鞍流瀬川の名は「桶狭間の戦い」に由来している。 敗走する今川軍が川を渡る時に、馬の背にあった鞍が増水した川に流されたという。 大浜街道は、この鞍流瀬川を渡った辺りから、残念にも痕跡がない。刈谷市郷土資料館蔵の地図によると、共和駅南で鞍流瀬川と共に東海道本線の右側に出る事になっているが、 現在、共和駅周辺は区画整理されてしまっていて、道筋を推理する事すら出来ない。 仕方なく共和駅ロータリーへと通じる歩道橋を渡り、駅前の道を北へ進む。

ヘボト自画像ヘボトの”ここもぜひ見ておきましょう”コーナー

「三ツ屋」店の看板 「○○屋という名称と溜池」 大府・追分周辺には「一ツ屋・三ツ屋・五ツ屋・八ツ屋」という数字に屋を合わせた名称で呼ばれていた集落があります。 現在でも交差点名に残るものも。”何故に2・4・6・7が抜けているのか?”と疑問に思うのですが、だがこれは現代のように”何丁目”といった意味合いではなく、 数字は家の軒数を示したものだというが判明しました。主要道(大浜街道を含む)を通りがかる時、「あそこに3軒、家が見えるから、あの集落は三ツ屋」と。 また大府市には至る所に溜池が存在しています。ほとんどが新田開発時に造られた人工的なもの。 大府市の土地が、いかに水不足に悩まされたかを物語っています。

次回予告です、お楽しみに!

共和インター

第28回 「大高・新幹線に塞がれた入口」

通称「三ツ屋」と呼ばれる共栄町、その西を走る大浜街道。現代の辻とも云える県道50号・国道23号・伊勢湾岸自動車道が交差する「共和インター」へと差し掛かる。忙しく往来する自動車に気が焦る。 江戸時代には、この辺りに旅人が一息と休憩する「茶店」が立ち並んでいたという。その伝統を受け継ぐのか、今も共和インター界隈には、喫茶店などが軒を連ねるドライブイン的な雰囲気が漂う。 さて大浜街道は戦国時代の戦場が点在する大高へと入るわけだが…。 ■ 第28回 「大高・新幹線に塞がれた入口」 へ

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