愛知県碧南市 鳴海へ向かう街道だけではなかった! 各地へ向かう道を探る

旅する大浜街道

第36回 他にもあった!大浜への道

東海道の「大浜茶屋」へ向かう道 岡崎の「矢作橋西」に至る道があった

辻に立つお地蔵さま

<東海道に残る大浜茶屋の名。塩の道もここか?大浜の港で陸揚げされた海産物は、この街道を通って信州などの内陸部へと運ばれる> 現在の安城市浜屋町にあったとされる大浜茶屋。旧東海道を旅する人の休憩の場として発展した。 大浜の名を冠する通り、大浜から大浜茶屋に至る道が大浜街道である。大浜からは、高浜を経由するルートと西端から行くルートがある。 古い集落を通り抜けるため、比較的昔のままの姿を臨めるが、安城市街に入ると道筋は全く不明となる。 大浜街道は大浜茶屋に到着した後、挙母街道へと繋がり、信州奥地へと向かう。そば切りが名物だった大浜茶屋、安城市歴史博物館には、当時の姿のそば屋が再現されているので、 見てみるのも面白い。

「美矢井橋」近くの楠

<大浜から鷲塚・米津と行き、鹿乗川沿いに藤井・野寺を通る。東海道、岡崎の矢作川橋西が到着地。大浜から岡崎へ向かうという事は…> 岡崎の矢作橋西へ出る大浜街道。道筋は随分違えど、現在の県道44号が今に役目を負う。この大浜街道は、いつ頃から存在したか定かではないが、鷲塚・野寺という区間は、三河一向一揆の時代、 共に徳川勢と闘った寺と寺を結ぶ区間。当時、活発な往来があったと聞く。 徳川家康は、何度か大浜に来ている。その時は、この大浜街道を使ったかも知れない。 矢作川に架かる美矢井橋の南に、寄り添うように2本のクスノキがある。大浜街道を行く人々はこのクスノキを目印にしたのだろう。

ヘボト自画像ヘボトの”ここもぜひ見ておきましょう”コーナー

西端の辻に立つお地蔵さま 「西端・お地蔵さん前で」 西端の「札木」交差点から300メートル程、西へ進んだ辺りに一軒の畳屋さんがあります。 近くの屋敷角には一体のお地蔵さんがあり、聞けばこの地点は各地へと向かう辻の役割を担っていたと聞きました。 東西には高浜と西尾を結ぶ「高浜道」、北へは知立へ向かう道、南を行けば「荒居」方面に出ることができたそうです。 「荒居町」とは、歴史ある西端の出郷で15世紀初期に近江の国から武士の杉浦一族がやって来て、高取村との境に水田を形成して定住したと伝わります。 集落には塩を運んだ街道が存在し、裕福なる水田が狙われて高取の村民が越境し争いの歴史が続いたといいます。 西端に杉浦姓が多いのも、この移り住んだ武士達の子孫たちが今も土地を守っているからです。蓮如上人の弟子「如光」も杉浦一族出身という説があります。

旅する大浜街道は終わりを告げる

大浜・日限地蔵の案内

次回予告? 「大浜への道はまだ…」

「旅する大浜街道」は、終わる。かつて私達の御先祖様たちが見た風景を自分も見たくて出発した旅、様々な人の温かさや親切に触れ、「待っていたぞ」と優しく迎え入れてくれる神様、仏様。 淋しく大浜「湊橋」を発った私だが、道中に心細さを感じなかったのは、どこか御先祖様達が一緒にいてくれたのかも知れない。 「自分は成長した」と自負する思い、街道を行くというのは単なる移動ではなく、また一歩自分を前進させる修験なのか。 大浜からの道、大浜へ至る道は、まだまだある。例えば、碧南の民話「日限地蔵」の母子が美濃より来た道。同じく碧南の民話「陣屋の狐」より、駿河の峠道へ。 いつの日か私はまた大浜より旅立つ時が来るのだろう。「いつか来た道」 私は遠い未来の子孫のため、ここに記す。

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