愛知県碧南市 スーパーの裏で「33体の観音様」が人々の願いを聞く

碧南市中央東部へようこそ!

中山の観音さん

中山の風景と一体となる33体の観音様 ズラリと一列に並ぶ姿は壮観

ズラリ並ぶ観音さん

<33体の観音様が鎮座する御堂、一体ずつキチンと季節折々の供花が手向けられる。真ん中のお地蔵さんには天保14年(1843)の文字。買い物帰りの人々がそっと手を合わせていく> 『イクタフード本店』裏にある一本道、店の壁に隣接して御堂がある。 長細い御堂で中に33体の観音様が並ぶ。右に16体、左に17体の観音様という構成で、真ん中には右手に木製の錫杖、左手に宝珠を持つ立像のお地蔵さんが場を取り仕切っている。 お地蔵さんの台座には「天保十四年卯七月吉日 先祖代々」と刻まれている。天保14年(1843)当時、中山は大浜の枝郷であり、3年後の天保16年(1846)の中山の戸数は19戸という規模であった。 この御堂は昔、「善行堂」と呼ばれていた。昭和19年(1944)の東南海地震で御堂が倒壊し、現在地へ再建した。 観音様は全て異なり、光背の部分に歌らしき文字がある像も。

自転車で立ち漕ぎする程の急坂

<「子供返しの坂」とでも呼びたくなる急な坂。下りきった場所に畑広がるのどかな場所。旧字名は「百渡」(どうど)といい、遠い昔は対岸の中畑への渡船があった> 中山の観音さんから東へ向かう。旧家の黒塀を右に見、歩を進めるといきなり視界が開けた。 ガッガッガッと下の方から音がする。「あ~あ、やっぱりダメだ!」と子供の声。 坂の途中で危なげに自転車から降り、ハンドルを押してくる子供達。 坂の北東にはかつて「百々の渡し」と呼ばれる、対岸の中畑(西尾市)との渡船があった。”百々”の名の由来には2説ある。渡船場は深くなっていて、矢作川の水が、”どうどう”と音をたて流れ込む様子からきた説。 一日に100回も渡し船が出た事の由来する説。寛文6年(1666)に百渡が埋め立てられるまで渡し船は存在した。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

等身大とも言える大きなお地蔵さん

「中山大地蔵」

中山の観音さん前の道を東へ進むと、正面に御堂が見えてくる。中を覗き込むと、台座部分も合わせて180センチを超えるという巨大な坐像のお地蔵さんが鎮座していた。 ここに御堂が出来たのは、宝永6年(1709)である。この場所は道場山から中畑への渡しへ向かう道と棚尾から城山へ向かう道とが交差する「中山辻」である。 中山の集落は寛文年間(1661~1673)に山を開墾して人が住んだのが始まり。 地蔵様の膝上に10センチ足らずの仏像が20体ある。近所の人が奉納したものだろう。 松林続く小山に過ぎなかった中山の地が、約300年の時を経て住宅が建ち並ぶ街へと発展した。 この中山大地蔵は、中山の人々の苦難に満ちた努力、「生きる姿」をずっと見守り続けてきたお地蔵様である。

< text • photo by heboto >


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