愛知県碧南市 大浜と前浜を平和に結ぶ 夕景綺麗な蜆川に架かる「二ツ橋」

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二ツ橋 (ふたつばし)

大浜と前浜を結ぶ2つの橋の存在 名の由来とともに蜆川の風景を愉しむ

二ツ橋の中央から蜆川下流を望む

<この橋を渡れば前浜へ。昔、中州により、川が二手に分かれていたことで「二ツ橋」と名が付けられた。明治の時代には橋のそばで前浜名産「甘藷」を舟へと積み、全国へ出荷。橋の中央より望める蜆川漁港。黄昏時は本当に美しい> 大浜小学校の東門から続く道がやがて上り坂に差しかかると、ひとつの橋に出合う。川を隔てた向こう側は、文政10年(1827)に完成した前浜新田。 大浜と前浜を結ぶこの橋の名を「二ツ橋」という。昔、この橋の辺りに中州が存在し、川が二手に分かれていたことが名の由来。いつの時代の架橋であるかは不明。 明治43年(1910)の写真では、川面ぎりぎりに粗末な板が並べられ、欄干標柱もない、二ツ橋が写っていた。明治時代頃には大八車がやっと通れる程の狭い橋であったようだ。 現代の二ツ橋はというと、タイル敷きの歩道が整備され、欄干にはヨットの飾りが30も添えられ、3車線は出来そうな車道には贅沢に一車線分を使って花の咲くポッドが置かれる。 太鼓橋の体を成す二ツ橋の中央から下流を望めば、連なる小舟に絶景を見る。前浜の漁業を担う「蜆川漁港」だ。 陸上輸送が困難であった時代、二ツ橋の脇では、前浜の代表的農作物である「甘藷」を舟に積み込み、遠くは北海道まで運んだという。

モダンな外見が素敵な一ツ橋

<二ツ橋の下流には「一ツ橋」がある。ともに大浜と前浜を結ぶ橋だが、この一ツ橋は耕作者往来の目的を持って架橋される。モダンにデザインされた一ツ橋を「枯葉マーク」を付けた軽トラックが越えていく。のどかなこの雰囲気もいずれ消えてしまうだろう> 上流が二ツ橋ならば、下流は「一ツ橋」である。名の由来は同じく中州によるものかは不明。だが、歴史はこちらの方が古いという説もある。 架橋の目的は、大浜の耕作者が前浜新田の農地へと向かうためとされる。確かに近年は大浜側の宅地化が進んだとはいえ、見渡す限り畑の地に存在する、淋しい橋であった。 平成の時代に入り、新しく整備された一ツ橋は、見違えるようにモダンな外見を持つ橋となる。まるで胞子を表したかのような外灯が4つ。 橋の欄干には、”うねり”ある鉄板が水色に着色される。これは波のゆるやかな動きを表現した作品か。さらに標柱は前衛的芸術を思わせる金属剥き出しの板に「HITOTSUBASHI」の英語表記。 畑地の多い地に存在し、架橋された初期の目的を未だ果たす一ツ橋。西にある産業道路と結ばれる日も近いと聞く。「枯葉マーク」を付けた軽トラが、トコトコと行き来する一ツ橋。この静かな橋上もいつしか騒がしく変わり果ててゆくのか。

二宮金次郎さんの陰歴史に関するミニ知識

蜆川(しじみがわ) 大浜と前浜新田を隔てる川。もとは正保元年(1644)に入り江であった北浦が閉じられ、油ヶ渕となったとき、悪水抜きとして開削された堀川が起源。 伏見屋新田や平七、伏見屋外新田が完成するにしたがって河口は徐々に南下。堀川という名は、時代を経て古堀川、八村川と呼ばれた。 初期の悪水抜きの名残である上橋・下橋(鷲塚)は、鷲塚一丁目交差点にある「思多橋の地蔵」として現在もその名を留めている。 文政10年(1827)に前浜新田が完成する。もとの河口であった場所に逆流防止の措置として「伏見屋水門」を設けた。 以降、水門の上流を「八村川」とし、下流を「蜆川」と呼ぶようになった。この蜆川の名の由来は詳しく分かっていない。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

「三河鉄道大浜臨港線」

平成16年(2004)3月31日に名古屋鉄道の三河線、碧南駅~吉良吉田駅間が廃線となり、「玉津浦駅」も役目を終えた。 玉津浦海水浴場が賑わいを見せた時代、この玉津浦駅から一ツ橋南まで海水浴客を乗せた「お伽列車」が夏季の間だけ運行されていた。 三河鉄道の貨物輸送線として昭和4年(1929)11月に敷設されるが、昭和21年(1946)には貨物取り扱いが廃止となる。 支線の有効利用として「お伽列車」が走ることとなった。現在の一ツ橋の近くにあるポンプ場(大浜側)南にあった停車場。 前浜で収穫された「さつまいも」「落花生」は一ツ橋を渡り、全国に出荷されていったのである。

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