愛知県碧南市 「清見潟又市」の生誕地・前浜の氏神様 前浜稲荷神社

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前浜稲荷神社 (まえはまいなりじんじゃ)

氏神様を慕って南へと拡大する歴史 春の祭に馬追いかける氏子達

広がりをみせる屋根を持つ拝殿

<前浜集落の氏神様「前浜稲荷神社」。元来、新田であるが故に一様に平坦な地となるが、この前浜稲荷神社の敷地は他より一段高い。前浜に人が住みだしたのはこの神社近辺から> 「前浜ふれあい通り」を堤防方面に歩けば、左手に見えてくる神社の趣。前浜集落の氏神様「前浜稲荷神社」である。 創建は文政年間(1818~1830)とされ、詳しい由緒は分かっていない。、前浜新田の完成と共に勧請されたものと推測する。 敷地は他より75センチ高い場所にあり、水害に悩まされ続けてきた前浜の歴史を垣間見た気がした。 この前浜稲荷神社のある辺りは、前浜新田においてもっとも古い居住地である。 文化10年(1813)5月に海とを隔てる外堤が完成し、最初の住民となる入植者達が移り住んできた。 大浜4軒、棚尾5軒、東浦2軒、後に荒子から1軒と合計12軒の集落として始まる。 そして時代を経るとともに新たな居住者が加わり、この前浜稲荷神社から南へと集落は拡大していったのである。

馬に掴みかかろうとする青年

<前浜の祭は春。「おまんと祭」は前浜稲荷神社でも開催される。他にはない前浜稲荷神社だけの特徴とは? 有名な力士「清見潟又市」を生み出した前浜、氏子達も勇敢だ!> 前浜稲荷神社は春の匂い。碧南市内にある神社の多くが秋に祭礼を催すのにたいして、前浜では春の4月下旬に祭を行う。 いつもは静かな境内に丸い囲みの柵が出来、人々の集い。鈴の音が行ったり来たりと、若人の罵声。 これはこの地方で盛んな「おまんと祭」ではないか。隣の高浜市が盛んで、碧南市では他に大浜大熊の神社、平七の霞浦神社で行われている。 木材で囲まれた馬場と呼ばれる円内で、馬を放ち、若い氏子達が馬に掴み寄って走りまわるという祭。 普段、馬に接していない現代人は大概、馬に引きずられて哀れもない姿となる。 さて、前浜の氏子達はどうかと人垣を行けば、「ええっ!」と驚きの声をあげてしまった。囲まれた馬場がなんとも小さいのだ。 直径20メートルないかも知れない。これで馬は上手く回転してくれるのか?と心配してしまう。 だが、さすが名力士「清見潟又市」(きよみがたまたいち)を育てた前浜の地である。 氏子達は果敢に挑み、場内を沸かせていた。

二宮金次郎さんの陰歴史に関するミニ知識

清見潟又市(きよみがたまたいち) 天保9年(1838)に前浜新田村に生まれ、本名は「榊原幸吉」。安政5年、20歳の時に江戸に出て、3代目・清見潟又市の門人となる。 突っ張りと押しを得意とし、明治3年(1870)に5代目として清見潟又市を襲名。明治15年(1882)には前頭筆頭となる。 明治18年(1885)、47歳で現役を引退し、明治24年(1891)から清見潟部屋を受け継ぐ。 西三河地方に多くの弟子を残し、明治33年(1900)6月17日、62歳で没。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

ふれあい通りに置かれた耕耘機

「前浜・石碑になった人々」

前浜の通りを歩けば、なぜか石碑が多い事に気づく。それだけ優秀な人材を輩出した歴史があり、また「人を讃える」気風が前浜にはあったという事だろう。 前浜稲荷神社の東に建つ「繁遊翁頌徳碑」は昭和9年(1934)に建立された「鈴木繁右衛門」の碑。 鈴木繁右衛門は「正直は一生の財産、堪忍は一生の相続、慈悲は一生の祈祷」という西方寺・清澤満之の書を掲げて、前浜の人々にその教えを生涯説いた人物。 前浜の中心にある通りには「高松和次郎」の碑がある。高松和次郎は前浜新田の土壌に適する作物を研究し、さらに「碧南かんしょ落花生販売組合」を結成し、前浜の農業発展に多大なる貢献をした人物。 河方町にある斉藤倭助の碑と並んで「油谷又三郎翁碑」がある。油谷又三郎は、度重なる水害により、幾度となく決壊した堤防を率先して修繕し、また資金調達のために奔走した人物。 まだまだ隠れた石碑があるのかも知れない。前浜を訪れる際は、通りにある石碑に注目してみよう。

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