愛知県碧南市 新川開削に尽力した「三宅又兵衛」に由来する「稲荷神社」

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稲荷神社と浜尾橋

「三宅又兵衛」が勧請した稲荷神社 平成14年(2002)に開通した浜尾橋

<新川開削を請願した「三宅又兵衛」が工事に携わる人々の安全と新川完成の無事を祈って勧請した稲荷神社。赤煉瓦の台座を持つ高さ60センチの狐像2体。美しい垂木の並びを持つ唐破風が見事な社殿。新川完成後、三宅又兵衛は静かにこの地を去り、稲荷神社だけが残った> 元禄14年(1701)、油ヶ淵の悪水を抜く為、三宅又兵衛(3代目)は幕府に新川掘削の願いを申し出た。 先代から受け継いだ伏見屋新田が度重なる水害により荒れ果て、油ヶ淵の新たな排水路の必要に迫られていたからである。 その三宅又兵衛が人夫の安全と新川の竣工を願って勧請したのが、旧字・稲荷山、現在の堀方町1丁目にある「稲荷神社」である。 瓦工場の煙突を横に「正一位稲荷大明神」の幟4本が見えた。鬱蒼と茂る杉林の中、真っ赤な鳥居に導かれ、11段の石段を登る。 境内は薄暗く、妖しい昔話の雰囲気。慶応2年(1866)の水鉢が草むらに。唐破風が見事な社殿に詣る。 開墾した伏見屋の新田も売り払い、新川の開削に奔走した三宅又兵衛の痕跡を唯一伝える場所である。

浜尾橋から堀方橋を見る

<平成14年(2002)12月24日に開通した浜尾橋。新川に架かる橋では8番目となる。黄昏時、鼬橋・堀方橋の重なりが眼下に広がり、素晴らしい夕景を目にする事が出来る> 県道碧南・高浜環状線の一部として架橋され、平成14年(2002)12月24日というクリスマスイブの日に開通した浜尾橋。 宝永2年(1705)に油ヶ淵の排水路として新川が開削されて、297年後に新川8番目の橋として誕生した。欄干には「鬼瓦」が埋め込まれ、 近辺は瓦生産が盛んな地帯である事を示す。この浜尾橋は、堀方町と住吉町に架かる橋である。 橋の浜尾という名は、かつてこの一帯集落を「浜尾」と呼んでいたことに由来する。浜尾には寛文5年(1665)頃から人が住み始めた。 その浜尾の地名は、大浜の端にある故、棚尾村の飛び地で大浜出身者が多く住んでいた事による。 新川に架かるどの橋よりも標高の高い場所に位置する浜尾橋。橋から臨める風景、特に下流の堀方橋と鼬橋の重なり合う景観は本当に美しい。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

「権江橋(ごんえばし)」

碧南辻から鷲塚へと至る県道にある権江橋。付近には瓦工場が並ぶ。 往時は”権右橋”と呼ばれ、さらに昔は”権右衛門橋”とも言った。権右とは、橋の右岸に”権右山”と呼ばれる墓があった事に由来する。 新川を開削する際に犠牲になった「権右衛門」を弔った墓である。権右衛門は江戸の出身で、三宅又兵衛の連れてきた人夫頭の太左衛門の下で働く若者であった。 新川の完成間近、注水作業中に起きた事故により亡くなったと伝えられる。新川開削は万事、計画通り進んだ工事ではなく、川幅が足らず、幕府に一度やり直しを命じられている。 新川竣工年に諸説あるのはその理由によるものだ。権江橋は、新川開削工事の犠牲者となった権右衛門の死を悼んだ当時の人々の思いを伝える橋なのである。

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