愛知県碧南市 瓦生産工場が建ち並ぶ地帯を歩く 「かわらのまち」を訪ねて

新川東部へようこそ!

かわらのまち

新川両岸に並ぶ瓦・陶器製造の工場群 水門を巡る歴史に興味を持つ

新川の川岸にたつ土置き場

<心緩やかに川岸を歩けば、突如現れるブルドーザー。新川上流の両岸には瓦・陶器製造の工場が集まる。今は使われなくなった赤煉瓦の煙突、日干しされた瓦の並ぶ光景を楽しむ> 権江橋より川岸の道を上流へと歩く。車の行き違い困難な道幅により、交通量も少なく静かな新川の川面と共にとても心和む雰囲気。 道はどこからか来る粒により黄色みを帯び、あたりからはスッと鼻の奥を湿らす匂い。 突然「ゴゴゴォー」と地響きと共に道幅いっぱいのブルドーザーが現れ、焦る。 幸にもブルドーザーはすぐに左へと折れ姿を消す。何事もなかったかのように静寂が戻る。 川岸にはまるで巨大な神殿のような建物。入口からは山の重なりが見える。 全て瓦・陶器の原料となる土の山だ。この新川上流の両岸には、碧南市の代表的産業である瓦・陶器製造の工場が集まる。 一歩奥の道を行けば、焼かれる前の瓦が日干しされる光景。頭にタオルを巻き、職人が真剣に働く姿。 道を歩くだけで社会見学気分。

<宝永2年(1705)の新川開削から昭和10年(1935)の高浜川開削まで対立が続いた新川水門の歴史。大浜村と油ヶ渕周辺の村々との争いは遂に数百人規模の暴動へと発展する> 新川には2つの水門がある。1つは最下流にある新川水門、もう1つは権江橋と曳舟橋の間にあるかつて「油ヶ淵閘門」と呼ばれた水門である。 この場所に最初に水門が造られたのは明治16年(1883)。以後、数回の改修を経て現在に至る。 現在の水門は、油ヶ渕河川災害関連工事として昭和37年(1962)12月9日に竣工したもの。 先代の水門は煉瓦造の美しい外観を従ったもので、現在、右岸には当時の「油ヶ淵閘門・明治42年4月改修」の記念プレート(幅340センチ)が埋め込まれている。 現在でこそ平穏な新川の水門。だが歴史の上では長らく争いの元となった。 宝永2年(1705)に新川が開削されて以来、水門の位置は元文5年(1740)・宝暦8年(1758)・明和2年(1765)・嘉永6年(1853)と何度も移動している。 ちなみに現在の「水門橋」は、水門の存在に由来する名。水門移動を度重ねた原因は何か?それは大浜村と油ヶ渕周辺村々との対立である。 文久元年(1861)に大浜村の暴徒数百人が建設中の水門を襲い、材料を新川へと流してしまう事件に。 明治23年(1890)8月2日には油が渕周辺村人1200人が川口洲添えと称して杭を切断し、船主を殴打する暴力事件が起こる。 対立は油が渕の新たな排水路として、昭和10年(1935)高浜川が開削されるされるまで解決しなかった。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

「碧南市の瓦」

新川上流の金山町・新道町・踏分町・住吉町にいたる一帯は瓦製造工場が建ちならび、碧南市における瓦製造産業の一大集積地。 道路には原料に使う土の流出により黄味を帯び、忙しく荷積みするホークリフトの轟音が響く。 碧南市における瓦製造の歴史は、天明8年(1788)2月に京都の優れた瓦製造技術を会得した永坂杢兵衛が棚尾ではじめたことによる。 現在、碧南市図書館・中部分館に展示される海徳寺・鬼瓦は嘉永3年(1850)に永坂杢兵衛が制作したもの。 伊勢湾台風で損傷した際に降ろされたが、高さ2.23メートルの巨大な鬼瓦を再び作製出来る瓦業者がいなかったという逸話が残る。 新川上流域に瓦製造業者が集まりだしたのは、明治の時代、稲荷山近辺に4、5軒の瓦業者が事業を始めた頃からだという。 昔は新川を使って船により瓦を各地へと出荷していた。

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