愛知県碧南市 相生町にある神明社で彫刻家「加藤潮光」先生の作品に出合う

碧南市新川西部地区へようこそ!

相生の神明社 (あいおいのしんめいしゃ)

彫刻家「加藤潮光」の制作した「龍」 相生町に存在した「松江代官所」

手水舎の龍

<寛文7年(1667)に「山本新八郎」が伊勢より勧請し、三河代官「鳥山牛之助」が旧字「前屋敷」に創建した歴史。祭礼時に見られる不思議な社の形は必見。手水舎には新川出身の彫刻家「加藤潮光」制作の「龍」は実にユーモラスな姿をしていた> かつては鶴ヶ崎・西光寺門前より東山を経て一文渡し、西端へと通じる街道と、松江渡しより碧南辻、鷲塚を経て西尾へと向かう街道が交差する地点に神明社がある。 東松江区民館を併設することからも分かるように、東松江の氏神である。 寛文7年(1667)、山本新八郎が伊勢より勧請し、当時、三河代官(衣城主)に就任して二年目であった鳥山牛之助が当地へ創建したことを始まりとするが、 社殿が造営されたのは宝永2年(1705)5月である。現在の社殿は昭和40年代建造のものだが、これが少し変わっている。 祭礼時には、社殿の壁にある扉全てが開き、柱のみの素通しの状態となる。社殿後ろに本殿がある訳でもなく実に不思議な光景だ。 また境内東にある手水舎は新川出身の彫刻家である「加藤潮光」先生の作品である龍が鎮座。 欄間にある一枚鉄板の龍も含めてどこかファンタジーな雰囲気を醸し出している。

神明社北の通り

<延宝2年(1674)、「鳥山牛之助・精元」が松江に代官所を設ける。その規模、2022坪。新川の発展は松江から始まり、当時は材木商・回船商等が賑やかに軒を連ねた。相生町において代官所を示す遺構は現在、皆無に近いが、個人所有の稲荷社がかつて代官所の屋敷神跡と推測される> 新川の政治・経済は鶴ヶ崎を中心に発展したと思われがちだが、それは明治以降のことである。 新川地区で最初に発展を遂げたのは、松江である。大浜村の枝郷であった松江は「松江新田」とも呼ばれた。 松江が発展するきっかけになったのは、延宝2年(1674)に鳥山牛之助が代官所を設けたことに始まる。 現在の相生町は旧字・相生といい、この地名は明治19年(1886)の地租改正の際に古名「屋敷尻・御屋敷八代・御屋敷」を統合し新たに名付けたもの。 神明社の旧字名・前屋敷が示す通り、松江代官所は神明社の北一帯、2022坪の規模で存在していた。 千石船を寄港させる松江湊があり、東を辿れば西尾街道、北東には挙母へと向かう山街道が位置するという好条件が松江にはあった。 明和5年(1768)に水野忠友の「大浜藩」が出来るまで松江代官所は存続した。松江代官所の遺構には裏門が大浜「常行院」に現存している。 また相生町3丁目に存在する個人所有の稲荷社は、鳥山牛之助が信州より勧請した屋敷神の稲荷社(1862年に国松十兵衛によって西松江に移る)跡地ではないかといわれているが真相は謎である。

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鳥山牛之助・精元(とりやまうしのすけ・きよもと) 元和3年(1617)に先代・精明(きよあきら)の長男として、吉良の東条に生まれる。先代・精明は寛永12年(1635)に大浜、鷲塚を含む「三河五ヶ所湊」を制定し管理した人物。 精元は寛文6年(1666)に三河代官として衣城主(挙母代官所)となり、積極的に治水事業を行い、名代官として讃えられた。延宝2年(1674)に松江の代官所に移る。 宝永4年(1707)に91歳で没。松江の代官所は明和5年(1768)まで存在した。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

鎮座するお地蔵さんがのぞく

「地蔵堂」

神明社の南にある「再青会ゲートボール場」からは声が聞こえて賑やか。 その向かいには、北を向いて地蔵堂が建っている。由緒等はは不明だが、毎年8月の地蔵盆は盛大に行われ、地元の人々に親しまれる存在であることが伺える。 普段は物静かな地蔵堂、中を覗けば、板間にゴザが敷かれて天上からは裸電球が1つ。エイジングされた柱には梅の絵が施され、趣宜しい。 正面台の棚には多種類の経典があり、座像のお地蔵さんを中心に数多くの仏像が鎮座し、実にバラエティに富んだ堂内である。壁際には9重の座布団があるが、どう考えてもこの地蔵堂のキャパシティは3人まで。 歴史的な魅力はないが、高さ27センチ、奥行き73センチの縁側がとても良い座り心地でつい長居してしまう。

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