愛知県碧南市 初めて牛を見たのはここか? 牧場の思い出はいつか消えていく

思い出半ズボン

牧場跡 (ぼくじょうあと)

確かに「のどかな時代」があった 南部市民プラザ東に牧場があった記憶

牧場時代に使用されたのだろうか、鉄の器

<碧南市にも牧場があったことをご存じか? 牛の姿に一喜一憂した子供時代の思い出。牧場跡には世界的自動車メーカーの寮が建ち並ぶ。年々、交通量を増す国道247号線の喧噪からは想像出来ない、のどかな時間が存在していた。唯一残ったのは、牧場脇にあった小道のみ> 海底トンネルから西へ走る国道247号交差点、「権田町」(旧名・六兵衛)の北東には現在、世界を代表する自動車メーカーの寮が建ち並んでいる。 近代の風潮にならい、デザインに趣をおく洒落た外観で、自動車メーカーの好調な経営を表しているとも言える。 この自動車メーカーの寮が建ち並ぶ区画は以前、牧場だった。 まだ矢作川大橋もなく、国道247号となる敷地が広大な空き地だった時代に、この牧場へ牛の姿を見に行ったものだった。 子供がじっと見ていると、牛は気を利かしてか、有刺鉄線の側まで来てくれる。 「モゥー」と鳴き声を聞こうものなら、その日一日はご機嫌。身近な動物といえば、犬・猫しか見たことがなかったから、ちょっとした動物園気分を味わえた。 私が成長するにつれて、いつしか牛の姿も消え、永らく有刺鉄線だけが残っていた。 牧場跡を含め、付近一帯は近年、大きく様変わりする。現在、南部市民プラザ前の交差点から斜めに走る自動車立ち入り禁止の小道が唯一、牧場があった時代から変わらない。 「権田町」交差点には北から来る「県道・碧南高浜線」が接続される予定で、朝夕のラッシュ激しいこの辺りが、ますます賑やかなこととなる。 牛が鳴き、のどかな雰囲気に包まれていた時代も人の記憶から忘れ去られることだろう。発展することは嬉しいことだが、どこか淋しい。

誰もいない夜の玉津浦駅

<これからは人々の記憶の中に生きる玉津浦駅。近年は僅かな乗降客数に名鉄のお荷物的な存在で廃線の要因のひとつでもあった。「玉津浦海水浴場」が存在した時代、多くの観光客で賑わいを見せた歴史。なんとここから海水浴場へ向かう「お伽電車」なるものが出発していた> 今はもう無い玉津浦駅。平成16年(2004)3月31日、午後10時21分の吉良吉田行き最終LEカーを見送った後、玉津浦駅は役目を終えた。 大正15年(1926)9月1日(水曜日)に開業した玉津浦駅。大正3年(1914)に開けた「玉津浦海水浴場」の最寄り駅として、多くの観光客が利用した。 玉津浦海水浴場は大正10年(1921)から昭和39年(1964)まで日本赤十字社愛知支部が「日赤大浜児童保養所」を開設しており、親元を離れた子供達はこの玉津浦駅へとやって来た。 今や大人となった当時の子供達には、思い出深い駅なのである。「戦時中は軍事物資を運んでいた」と孫を連れた男性が教えてくれた。 玉津浦駅から南の方角、一ツ橋付近まで貨物線が存在していた時代がある。戦時中は下山に軍のガソリン貯蔵施設があり、軍事物資を運んでいた。 戦後は玉津浦海水浴場に訪れる観光客の足として夏期限定の「お伽の国電車」が走った。玉津浦海水浴場と共に生きてきた玉津浦駅も、海水浴場の閉鎖と共に退廃の一途をたどる。 2005年現在、未だにプラットホームは存在しているが、その行く末は不明のまま。 多くの人々に「夏の思い出」を残した玉津浦駅である。このまま跡形もなく消えていくのは惜しい。

ヘボト自画像ヘボトの「胡馬北風(こばほくふう)」

今はない伊勢湾台風水位高の看板

「伊勢湾台風の話」

自動車メーカーの寮が建つ以前、牧場跡の北角に「伊勢湾台風水位高」と手書きの文字の看板があった。 雑草に埋もれ、その存在は忘れ去られたよう。伊勢湾台風は昭和34年(1959)9月26日(土曜日)に、この地方を来襲した超大型台風で碧南市の海を一変させた要因にもなった。玉津浦駅のプラットホームで待つ私に、ある男性が話し掛けてきた。 「伊勢湾台風の時にあの建物の屋根に上って一晩、救援を待った」と、北東の古い家屋を指す。 「伊勢湾台風水位高」の看板が示していた水位は、私の腰より少し高いくらい。 当時の被害状況を伝える写真のなかに、玉津浦駅付近の様子を写したものがある。 ようやく水が退き、姿を現した線路の脇で立つ僧侶。足下にはムシロらしきものを被せられた遺体。 被災後の混乱で亡くなった方を収容する安置所さえままならず、線路脇で読経を行い、霊を弔った。

< text • photo by heboto >


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