慶応3年11月15日午後8時過ぎ…。
 
 龍馬は前日まで、近江屋井口家の離れの土蔵2階にいたが、寒さや用便に大儀であ
ると言って、母屋2階の奥座敷8畳間へ移っていた。この日は特に寒いので、真綿の胴
着を着、その上に舶来絹の綿入れをかさね、さらに黒羽二重(くろはぶたえ)の羽織を
着ていた。

 床の間を背に、火鉢と行灯(あんどん)を前にして中岡慎太郎と対座。峰吉が薩摩藩
の手紙をもたらしたときには、土佐藩小監察の岡本健三郎も加わって3人が浮世話をし
ていた。峰吉少年のさし出す手紙を中岡が読み終わると、龍馬は言った。
「腹が減った。峰、軍鶏(しゃも)買うて来てくれないか」
 中岡も、
「わしも腹が減っちょる。健三、貴様も一緒に食ってゆけ」
と声をかけると、
「わたしはまだ欲しうない、ちょっと野暮用もあるきに、峰と一緒にゆこうぜよ」
と、岡本は腰を浮かしかけた。すると中岡は、岡本に、
「またお主は、例の亀田へ行くのであろう」
 と揶揄して言った。亀田とは、河原町四条下ル所にある「六神丸(ろくしんまる)」とい
う売薬の店である。そこにお高という美人の娘がいて、諸藩の若者は、用もない薬まで
買いにゆく者が多かった。亀田の家の前をわき目もふらず素通りできる奴は、真の豪傑
だとはやしたほどであるが、いつしかこの岡本とお高は、わりなき仲となっていたのであ
る。
 岡本は、
「決して左様ではありません」
と言い訳しつつ、峰吉を促してはしご段を下りた。下りかけた時、表入口8畳で内職の
楊枝(ようじ)削りをしていた角力(すもう)とり上がりの藤吉が答えて岡本とともなって出
た。
 峰吉は四条小橋の「鳥新」に行き、軍鶏をつぶす間、2、30分待たされて近江屋へ
引き返したのは、午後9時頃であった。惨劇はこの間におきていた。

 近江屋の表で案内を乞うものがあったので、僕(しもべ)の藤吉が出迎えると、
「拙者(せっしゃ)は十津川郷士(とつがわごうし)の何某で、坂本先生御在宿ならお目
にかかりたい」
と名札をさし出した。大和十津川郷士なら、坂本も中岡も知人が多いので、藤吉は別に
怪しまずに、名札を持って上がってきた。龍馬へ取り次ぎ、やがて引っ返してくると、尾
行してきた刺客の1人が、声もかけずに斬りつけた。藤吉の顛倒(てんとう)する物音に、
龍馬は、
「ほたえな!」
 と大喝した。騒ぐな、という土佐言葉である。その声をめざして刺客は、奥の8畳間へ
躍りこんで、
「こなくそ!」
と叫び、1人は座敷の入口に座っていた中岡の後頭部へ斬りかけ、他の1人は対座し
ていた龍馬の前額部を横にないだ。
 中岡は貼り交ぜ屏風の後ろに佩刀(はいとう)を置いてあったから、とっさの場合で取
る隙がなく、信国(のぶくに)在銘の短刀の鞘(さや)をはらって、敵の懐に飛びこもうと
焦った。敵もさるもの、中岡の脚をなぎ払って寄せつけない。初太刀の痛手に、さらに
数創を受けてついに昏倒した。中岡の短刀は、後でささらのようになっていた。
 龍馬も、最初の一太刀で深く前額部を傷つけられたが屈せず、床に立てかけてあっ
た土佐吉行(よしゆき)2尺2寸(約66.6cm)の愛刀を取ろうとしたところを、右肩先から
左背骨への二の太刀を受け、ふりかかる三の太刀は立ち上がりざま、鞘のまま受け止め
たが、そのこじりは低い天井を突き破った。
 刺客の凶刃は太刀打ちのところから6寸(18cm)ばかり鞘を割り、さらに3寸(9cm)ば
かり刀身を削る。その余勢は、再び龍馬の前額を横になぎ払ったので、脳漿(のうしょう)
が白く噴き出した。
「刀はないか、刀はないか」
と龍馬は中岡に呼びかけながら、人事を喪(うしな)って倒れた。2人の倒れたのを見す
ました刺客は、念のため刀を振るって中岡の腰のあたりを2度まで叩いた。
 そして、
「もうよい、もうよい」
と言い残して立ち去った。中岡は2刀を腰に刺された痛みで蘇生したが、身動きせず刺
客を見送った。
 龍馬もやがてよみがえって刀を杖つき灯火の前ににじり寄り、刀を抜き火花に深傷の
顔を照らし見て、
「残念、残念」
と言った。中岡を顧み
「慎太、慎太どうした、手が利くか」
 と問い、
「手は利かん」
と中岡が答えるのを聞き流した龍馬は、行灯を提げて次の6畳間にはってゆき、手すり
のところで
「新助、医者を呼べ」
と言った。しかし、甚だしい流血にもはや虚脱したものの如く、かすかな声で、
「慎太、僕は脳をやられたから、とても駄目だ、もういかん」
 そのかすかな声を最後に座敷にうつ伏し、こと切れた。血は流れて欄干から下の座敷
へしたたり落ちた。龍馬、33歳を迎えた夜。

 中岡は11創を蒙(こうむ)りながら2日間生き、一時は焼き飯を所望したが、脳髄の傷
が深く、ついに17日夕、不帰の客となった。僕の山田藤吉25歳も16日絶命した。

龍馬暗殺