弘法大師空海
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碧南市の無我苑にて、毎月「梅原猛の本を読む会」に出席している。
平成十二年七月は私の担当として「空海の思想について」をまとめる機会を得たので、ここに紹介します。

 

偉大なる矛盾の人 空海
弘法大師空海は理論人と実際人との二つの面を備えた天才的人間である。
東寺と高野山 社会性と孤独性
遺言のことば「止みね止みね、人間の味を用いず」
空海はまことに多くの著作を残し、わが国の宗教家としては比類ない存在である。
著書も宗教書のみならず実用書など多岐にわたる。その量および質、一人の人間の著作としてほとんど想像に絶する。
真言密教は言葉に、実在の現われを見る仏教で言葉を大切にする宗教である。
宗教家は己の存在を著作の中に閉じ込めようという意思を持たない。この言葉を超えたものをどのように人々に伝えるか、それには著作とともに儀式が必要であろう。
空海は密教の経典を貸してくれという最澄の頼みに、密教は書物だけの知識ではだめで、行を師資伝達することが必要だといって断った。そのように著作のみでなく、行、すなわち事相によって密教が伝えられている。

812年 最澄は高雄山に空海をたずね、空海から灌頂を受けた。当代随一の名僧最澄が、空海に弟子の労を取ったのである。空海の名声をこれ以上高らしめるものはない。翌年、空海は最澄の「理趣釈経」の借用申し込みに対して、ことわりの手紙を書いている。
最澄批判「この人は生命を知らない。人間の生の深い深い秘密をこの人は知らない。この人は、本の中にのみ真理があると思っている。けれど、本より人間を、文字より心を見よ。この生命の大いなる生の楽しみに背を向けて、本の中にのみ真理を求め、小さき真理を大切にしている人よ。おまえには何かが欠けている。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

弘法大師 空海
あまりにも有名な弘法大師空海。しかし、彼の本当の思想を理解する人は極めて少ない。
この「空海の思想について」は、著者梅原猛が空海の著作を通して、空海の思想を解き明かそうと試みたものである。その思想はあまりに深く、容易には理解しがたいが、著者の空海に対する情熱は十分に伝わってくる。以下、私が印象深く残ったものを三項目にまとめてみた。


空海の思想について

梅原猛

一、空海の真言密教

密教の密 「どんなに科学が進み知恵が進んでも、生はやはり解きがたい謎を含んでいる。その謎を密教では、密というのであろう。私はこの密に対して、大いなる畏敬を払う必要があると思う。あまりに小さな知恵に安住し、生の深い謎に対して、大きな畏敬の心を持つ人は少なくなった。私はこのような生の謎に対する畏敬の心なしに、いかなる科学も、いかなる芸術も、いかなる宗教もありえないと思う。
世界というものはすばらしい。それは無限の宝を宿している。人はまだよくこの無限の宝を見つけることができない。無限の宝というものは、何よりも、おまえ自身の中にある。汝自身の中にある、世界の無限の宝を開拓せよ。
私が真言密教に強く惹かれているのは、そういう思想である。

加持祈祷 密教はふつう加持祈祷の宗教、呪術的宗教であり、それゆえに、それは迷信といわれるが、加持というのは、本来はただの祈祷、呪術を意味しているのではない。それは、仏と衆生が感応するのを加持というのである。この仏と衆生との感応を仏のほうからといい、衆生のほうからというのである。


加持の本義は仏と衆生との感応であるが密教ではその感応による即身成仏を強調する。
(小さい自己の分別を捨てて、大宇宙の生命と一体となるそのとき、宇宙の生命が己に加わり、おのれもまた宇宙の生命を保持している。それが加持の本当の意味である。日常的とらわれから、われらの生命を離し、本来の生命と一致した姿に返す、それが密教でいう加持の行であろう。このような加持の行によって、われわれの心身は、永遠、絶対の世界に開放され、われらの知性と肉体はともに、ほとんど信じがたいほどの偉大な力を発揮する。それが加持祈祷の意味である。

二、声字実相義

「能(よ)く迷ひ亦(また)能く悟る」この世界は愚者にとって迷いである。しかし、その同じ世界が、智者にとってはむしろ楽しみなのである。
智者が同一を見るところにおいて、愚者は差別を見る。そして、差別にとらわれて、さまざまな迷いを生じ恐れを生じ、さまざまな苦を受けている。すべての恐るべきものも、自らの心が生んだ妄想にすぎないのである。例えば、自ら般若の面の絵を書いて、その絵のあまりにもの恐ろしさのあまり、自ら驚愕しているのと同様である。


この世界は、このように二面性を持っている。この世界をよく悟り、その世界によく遊べ、それが密教の教える生の哲学である。


三、吽(うん)字義

言葉の神秘主義を説いたもの。
真言密教では陀羅尼というものを重視する。それはサンスクリットの呪文である。世界の全存在をその内面に含んでいる言葉である。
サンスクリットの初めの文字が阿字で、その終わりが吽字である。
「阿字観」 一切のものがそこから生まれ、そして、一切のものがそこに帰する根源的存在を観想することによって、小さなことにとらわれて、悩み苦しんでいるわれわれの心の執着を断ち、われわれの心をそういう根源的なものと一体にさせようとする観行である。自己の生命がそういう根本的なものと一体となることによって、人間は限りなく自由になり、そして限りなく楽しくなる。空海の語ったことも、所詮、そのような単純なことに過ぎないように思われる。


確かに真言密教の教説は深くて、凡夫には容易に理解しがたい。しかし、それが理解しがたいのは、凡夫が妄想にとらわれているためであって、仏そのものが隠そうとしているわけではない。「いはゆる甚深秘蔵とは、衆生、自らこれを秘すのみ、仏の隠す有るには非ず。

存在(真理)というものは自ら開示という性格とともに、自ら隠蔽という性格を持っているものであろう。存在は自らを隠そうとする。なぜなら、存在は開示さるべき人を待って、はじめて、開示されることを好むからである。

存在は自らを開示しているとともに、自らを隠蔽している。それゆえに、存在の真義は深く隠れている。その意味で、それは密なるものである。

(はたして、その開示さるべき人とはだれか。私にはそれが密教研究以後、梅原日本学を開拓した著者自身のことをいっているかのように思える。)

 

仏教の宗派は、多く、我に対して否定的である。固定的我れを否定し、否定の中に、世界の真相を見ようとする。しかし、いつまでも否定の中にとどまらないのが、密教の思想である。

 

日常的世界は遮情、絶言によって否定され、人間は絶対的なものと直接対面することができるのである。人間は、沈黙において、神と触れ合うのである。

ところが、この沈黙の世界が再び言葉を発するのである。世界は、否定の深淵から、再び肯定の頂上に達するのである。
この否定と沈黙のかなたに回復された、肯定の世界、言葉の世界が、密教の世界、大日如来の世界である。

密教では無我をいわない。無我のかわりに大我をいう。無欲を説かず、無欲のかわりに大欲を説く。ここが、密教と禅と違っているところである。禅では否定の契機が強いのに対し、密教では肯定の契機が強い。一切の存在するもの、誰が、我がなく、欲がないことがあろうか。人間は無我無欲になれるか。無我になれ、無欲になれとは、人間に死を命じることでないとしたら、いたずらに、人間のエネルギーを枯渇せしめることになりはしないか。(欲望を否定することは生そのものを否定することではないか。欲望を否定することではなく、清浄にすることが必要である。長い間、死を見つづけた仏教の眼が、死の目を離れて、生に対する大いなる肯定の言葉を発したのである。それが密教の思想である。そしてその思想は、仏教のもっとも後の発生段階に生じる。

密教はニーチェ哲学に似ている。
ニーチェは生の本質を戦いに見た。闘争が生の原理である。密教は和合をその思想の原理にしている。この点がヨーロッパ哲学との最大の違いである。曼荼羅の世界は、和合の原理によって構成された世界である。人間中心の哲学と自然中心の哲学。

密教は、自然の中にわれわれの中と同じ仏を見る思想である。釈迦から大日への仏の移動、そこに、実は人間崇拝から自然崇拝への思想の変化があったのである。そして密教が、わが国において、最初に、普遍的に受け入れられた仏教であることは、この自然崇拝が、わが国の固有信仰と一致したためではないかと思われる。密教は、はじめて神仏統合を可能にした宗教であった。密教の和合性と同時に、密教が自然崇拝という点において、神道と共通であったことによるものであろう。


密教は、何よりも、強烈な生命力を説く仏教である。
自ら生きることは楽しい。
他人を利することもまた、楽しい。
何とよい言葉ではないか。私はこの笑い声の愛好者としての空海を心から愛するものである。

終わり

参考(角川文庫ソフィア 梅原猛著 生命の海 空海 )

   (講談社学術文庫 梅原猛著 空海の思想について)


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