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  東海道 その1

ここでは安城市との境から知立の松並木までのご案内をします。

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陸海軍大演習の記念碑
(錦旗千載駐餘光)
御 鍬 神 社 3・10 元 禄 の 道 標
 一 里 塚 さ む ら い 塚 今 崎 城 址
 赤穂浪士の墓
(吉田忠左衛門夫妻の墓)
三鈷の松 西 教 寺
10 見返弘法道道しるべ 11
牛 田 城 址 12  


1  陸海軍大演習の碑
     「錦旗千載駐餘光」の碑

 明治23年(1890)の陸海軍大演習に明治天皇が御観戦された地、来迎寺町の猿渡川北岸の丘に建立されている。戦争にまつわる記念碑という意味では問題がないわけではないが、明治天皇はじめ山縣内閣総理大臣、西郷海軍大臣等明治政府の重鎮たち及び各国の公使や武官がこの地に立たれたという意味では、記念すべき場所の一つである。今日では、春の桜の美しい来迎寺公園となって近隣の人々の憩いの場でもある。(※休憩は当時知立古城跡にあった明治用水事務所で行われた。)

 ※大正2年(1913)の陸軍大演習の際には、大正天皇が御観戦小憩された谷田町神明社には、「六龍臨幸昭千秋」の碑と御観戦された場所に「御野立玉跡」の石碑が建立されている。


2  御 鍬 神 社   

          本 殿(伊勢神宮外宮の1/2の大きさ)         鳥居(伊勢鳥居)

 祭 神 豊受比賣命(とようけひめのみこと)
 由 緒 江戸時代に来迎寺村をはじめ、近村の牛田、八橋、駒場、花園、里、今、大濱茶屋の八ヶ村が連合して、伊勢より御鍬神を勧請し、各村輪番にて御鍬祭を奉仕し、豊作を祈願してきたが、明和年間(1764〜71)にこの輪番が来迎寺村で終わる事になったことから、社殿を造営し、以後来迎寺村の氏神様として仰ぎ祀ったと言われている。明治5年(1872)、村社に列格となり、明治6年(1873)、現在の拝殿が造営された。
 本殿は大正3年(1914)に神明造りを忠実に守って屋根は切妻造の杉皮葺、平入り素木造、一重の繁垂木そりなし、棟に千木、かつお木(五本)を置く神殿で、丁度伊勢神宮(外宮)の1/2の大きさに造営された。



3・10  元禄の道標

 元禄9年(1696)に建てられた「無量寿寺への道標」で、Bの場所には2基、Iの場所には1基[建立は元禄12年(1699)]、大正初期には2基あったと伝えられている。Bの道標には「従是四丁半北業平作観音在」、また、Iの道標には「従是五丁北八橋業平作観音在」とある。特にIの道標は、寛政9年(1797)に刊行された「東海道名所図絵」に「ちりふより八丁ばかり東、牛田村の松原に道しるべあり・・・・・」と記されている。
 江戸時代、東海道を往来する旅人たちの道しるべ(案内標識)であり、名のある多くの文化人たちが、業平公の遺訓を偲び無量寿寺に立ち寄ったのだろう。そのうちの一人に、方巌和尚がいたり、また、紀伊大納言徳川治宝侯がいあたのではないだろうか。

※1丁は約109m              

地図Bの場所にある道標
右側の道標

                     

4  一 里 塚(江戸から84里・県指定文化財)   

 慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手した。家康は大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道、東山道、北陸道など主要街道を修理させた。この時一里(約4Km)ごとに里程標を一里塚・一里山などと称した。
 こうした一里塚は、通行者の便宜上、後年になって脇道にもつくられるようになった。 
 塚の上の樹木は、主として榎が植えられたが、この塚は代々松といわれている。この塚の大きさは、直径約11m、高さ約3mに土を盛り、街道の両側に造られている。
 この来迎寺の一里塚のように両塚とも完全に遺されているのは大へん珍しいと言われている。県下では、岡崎市の大平の一里塚と豊明市の阿野の一里塚などがある。(知立市教育委員会)
 
※1 一里塚上の樹木は榎が過半数で、松は1/4強、杉が一割弱、 その他の木として数は少ないが栗・桜・檜・樫等がある。
※2 大平の一里塚(80里・国指定)は片側しか残っていない。
※3 阿野の一里塚(86里・国指定)は両側あるが形が整っていない。
道路北側の一里塚

 江戸時代のままの原形がほぼ残されている。道路との間に公民館があるため少し見にくいのが残念。
道路南側の一里塚

 南側の塚は、昭和の始めに庭園に改造されていたのを再び昔の形に戻した。

                        

5  さむらい塚と 6 今崎城址(市指定文化財)

来迎寺の境内にある石碑              来迎寺さんの東約30mの畑の中にある

一里塚のあるところから、細い道を北へ進むと来迎寺というお寺に突き当たる。その寺の境内に左の写真「今崎城址」の碑がひっそりとある。来迎寺の門前の細い道を30mほど東に進むと北側に右の写真のような小高い塚が畑の中に現れてくる。
 この地には、その昔「今崎城」と呼ばれる城があったと伝えられている。来迎寺付近には、現在も「古城」「足軽」など城に関係する地名が残っている。この塚は、永禄3年(1560)、今崎城が今川勢に攻められ落城した際城を守り戦死した織田勢の武士を埋葬するために築かれたものと伝えられ、現在も地元の人たちによって大切に守られている。
 明治の中ごろ、この付近から中国の唐・宋代の古銭三十余貫(約120kg)が出土。昭和元年(1926)にも三十六貫(約140Kg)ほど出土した。(知立市教育委員会)
 ※知立市内には、五つの城があったとされている。ここ来迎寺の今崎城の他に、八橋町の葦香城、牛田町の牛田城、上重原の重原城、西町西の知立城。

 
        

7  赤穂浪士の墓(市指定文化財)
(吉田忠左衛門夫妻の墓)

吉田忠左衛門は兼亮は、元禄15年(1702)、吉良邸討ち入りのとき、北門の大将補佐役を務めた赤穂四十七士の一人である。その妻りんは、宝永7年(1710)刈谷に移った。夫亡き後、身を寄せていた娘婿の主君が刈谷に転封されたためでる。りんは当寺(泉蔵寺)で化導を受け、後生を夫の冥福を祈る事に捧げたが、半年後に病没した。
 生別の折、形見に貰った夫の生歯と共に、宝永7年(1710)11月2日ここに合葬された。


※ 化導を受けるとは、仏の道に導かれるの意味。


8  牽 馬 山  西 教 寺
牛田町西屋敷


 真宗大谷派、牽馬山東漸院(ひくまさんとうぜんいん)という。ご本尊は阿弥陀如来。真盛上人を開基とし、比叡山東坂本西教寺の別院であった。寛政2年(1461)真宗に改宗。
 文明16年(1484)佐々木上宮寺の如光上人の知遇を得、三河巡錫中の本願寺八世蓮如上人の教化に導かれた、江州(滋賀県)の武士三井美濃守の子、三井四郎左衛門宣好が得度して祐可と名乗って中興したと伝えられている。

 江戸時代の文書には「三河上宮寺末西教寺」と記されている。
 このことは、中世室町時代以来勢力を伸ばしてきた三河3カ寺(矢作の佐々木上宮寺・桜井の野寺本証寺・岡崎の針崎勝鬘寺)では、それぞれ末寺100カ寺を擁するほどの大きな真宗教団になり、その中山としての格式をもっていたことによる。

 

9  三鈷の松(さんこのまつ) 

 牛田町公民館の玄関前の築山に「三鈷の松」が植えられている。大変小ぶりでやや元気のなさそうな感じがする。三鈷の松って何なんだろうと思ってインターネットで検索してみると次のように出てくる。

 いまを去ること1200年前の大同元年(806)、弘法大師空海は日本に帰るため中国・明州の港にいました。師の恵果和尚から密教のすべてを授けられ、後継者として20年の留学期間を大幅に短縮しての帰国でした。その胸には燃えるような情熱が秘められていたことでしょう。
 空海は師から授かった密教法具の三鈷杵(さんこしょ)を取り出すと、「密教を広めるのにふさわしい地に導きますように」との願いを込めて東の空に力一杯投げました三鈷杵は流星のごとく飛んで行きました。
 それから10年後の816年(弘仁7年)、空海は高野山「三鈷の松」にこの三鈷杵がかかっているのを発見したといいます。彼は三鈷杵が導いたこの地高野山に真言密教の道場を開いたのです。

 三鈷の松は、見た目には普通の松と同じですが、松葉が3本(普通の松は2本、五葉松は5本)あります。注意深く松葉をちぎらないよう見てください。根元に落ちている枯れた松葉で確認するのがいいでしょう。こんな不思議な松がどうしてここのあるのでしょうか。どなたかいわれを教えてください。


10  見返弘法道の道標

道標の建立された年号は分からないが「見返弘法大師」そして、別の面に「御室御所御直末重原村遍照院」とある。
 その当時は、この道標から左へ遍照院(へんじょういん)まで通じる街道があったのだろうか。昭和30年代のはじめまで(まだ現在の国道1号線が開通する前まで)は、現在のアピタのすぐ北の道路に通じる道があったという。その道をさらに進むと知立消防署の所に出る。そこで、中町交差点から来る弘法道と合流する。
 現在の知立の町(中町交差点)からの弘法道は今もなお弘法さんの月毎の命日には、賑わいを見せている。

 ※1「見返弘法大師」・・・遍照院にある弘法大師の像が別れを惜しんでやや右を向いて振り返っておられるお姿から「見返弘法大師」と呼ばれている。
 ※2「見送弘法大師」・・・西福寺(刈谷市一ツ木町)にある弘法大師像がこう呼ばれている。
 ※3「流涕弘法大師」・・・密蔵院(刈谷市一里山町)にある弘法大師像は、涙を流しておられる姿で「流涕大師」と呼ばれている。この3体とも弘法大師自らが彫ったものとされている。

 


11  牛田城址
南陽二丁目213番地付近 

牛田城は、戦国時代の天文年間(1532〜1555)に、牛田玄蕃頭政興(うしだげんばのかみまさおき)が主君刈谷城主水野忠政の命を受けて築城した城である。今川氏が西三河に勢力を伸ばしていた当時水野氏にとって、城の南側を流れる猿渡川は自分の領土を守るための生命線であり、今川・松平氏に対する備えとして、この城を置いたのであった。
 城は永禄3年(1560)の今川義元上洛の際に落城したとも、義元の死後廃城になったとも伝えられているが、この今川氏との攻防の際牛田正興の活躍は見事であったという。なお、牛田町の西教寺には正興の位牌が今も祀られている。(知立市教育委員会)


※ この牛田城址は、東海道からはかなり離れたところにある。(名鉄本線の南側)
         

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