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背水の陣(はいすいのじん)

意味:逆境に追い込まれて覚悟を決め、全力をあげて勝負すること。逃げようのない位置に自分をおき、決死の覚悟で戦うこと。

秦の始皇帝が天下統一を果たしてわずか15年、2世皇帝胡亥の代に、秦はあっさり滅んでしまう。代わって台頭してきたのが、楚王項羽と漢王劉邦である。この二者が互いに覇権を争っていた時の話である。劉邦配下の韓信が漢の勢力拡大のため趙の討伐に向かった。

韓信(かんしん)と張耳(ちょうじ)は数万の兵を率いて、井陘(せいけい)を突破し趙を攻めようとした。趙王、成安君陳余(ちんよ)は漢軍が趙に攻めてくると聞き、井陘に兵力を集め、二十万の軍と称した。広武君李左車(りさしゃ)が成安君に献策した。

「漢の将軍韓信は西河(黄河)を渡り、魏王、夏説(かえつ)を捕らえ、新たに閼与(あつよ)を血で洗い、今度は張耳を補佐とし、趙を奪う策を練っていると聞きます。まさに勝ちに乗じて遠征する状況にあり、その鋒は食い止めることができません。しかし、千里にも渡って食料を送れば、兵士は飢え、その場で食料を調達をするようでは、軍中は常に腹を満たすことができない、とわたくしは聞いております。今、井陘の道は二両の戦車が並んで進むことはできませんし、騎兵も隊列を組んで進むことができず、その長さは数百里にもなりましょう。そうなると、兵糧は必ずはるか後方に取り残されます。どうか、わたくしに奇兵三万をお貸しください。間道を伝って、その輜重を断ち切りましょう。あなたは堀を深くほり、土塁を高くして陣営を守り、戦ってはなりません。彼らは進もうにも戦えず、退こうにも退けず、我が奇兵がその退路を断てば、彼らは荒野では何も手に入れることができません。十日もたたぬうちに両将軍の首を旗下にお届けいたしましょう。どうか、わたくしの策をおとりあげください。さもなくば、必ず奴らに捕らえられることになりましょう」

成安君は儒者をもって任じていた。常日頃から正義の兵と称し、詐謀奇計を用いなかった。

「兵法に、兵力が十倍ならば敵を包囲し、二倍なら戦え、とあると聞く。今、韓信の兵は数万と称しているが、その実、数千に過ぎぬ。千里もの道を歩き、我が軍を襲おうとしているが、すでにその疲労は極みに達している。今、このように避けて戦わず、後に強大な後続部隊が来たときには、どうするつもりだ。諸侯はわしを臆病者と思い、あなどり、伐ちに来るであろう」

そう言って、広武君の策を用いなかった。

韓信は事前に間者を放って探らせていた。広武君の策が用いられなかったことを知った間者が戻って報告すると、韓信は大いに喜び、迷わず兵を率いて井陘に入った。井陘の手前三十里で宿営した。夜半に出陣命令が出された。軽装騎兵二千名を選び、それぞれに赤いのぼりを持たせ、間道を通り、山陰に隠れて、趙軍の動静をうかがわせた。そして、よく言い含めた。

「趙軍は我々が退却するのを見れば、必ず砦を空にして追ってくる。おまえたちはすぐさま趙の砦に侵入し、趙ののぼりを抜いて、漢の赤いのぼりを立てよ」

また、副将に食事を取らせるよう命令を出すと、

「今日、趙を破って、宴をしようではないか」

と、言った。将校たちは誰も信じていなかったが、

「承知しました」

と、心にない返事をした。韓信は軍吏に言った。

「趙軍はすでに有利な地形を選んで砦を築いている。また、こちらの大将の旗鼓を見ないうちは、あえて我々の先頭部隊を討つことはない。我々が難所に阻まれて、引き返すことを恐れているからだ」

韓信はまず、一万の兵を先行させ、河水を背に布陣させた。趙軍はこれを見てあざ笑った。明け方、韓信は大将の旗鼓を押し立て、太鼓を打ち鳴らして、井陘口へ押し寄せた。趙軍も砦を開いて漢軍を攻撃した。しばらく激戦が続いた。

そこで、韓信・張耳はわざと旗鼓を棄て、河水の自陣に逃げ込んだ。河水ほとりの軍では、門を開いて韓信たちを入れると、再び、激戦を繰り広げた。案の定、趙軍は砦を空にして、漢の旗鼓に群がり、韓信・張耳を追った。しかし、韓信・張耳はすでに河水ほとりの陣に逃げ込んでいる。漢軍はみな必死になって戦ったので、なかなか敗れない。

韓信が送った奇兵二千騎は、趙軍が砦を空にして戦利品に殺到するのを見て、素早く趙の砦に入り、趙軍ののぼりをすべて抜いて、漢軍の赤いのぼり二千本に立て替えてしまった。趙軍は勝つことができず、韓信らを捕らえることもできないので、砦に帰ろうとしたところ、砦にはみな漢ののぼりが立っている。驚きのあまり、漢はすでに趙の将軍をみな捕らえてしまったと思い込んだ。そこで、兵たちは大混乱に陥り、次々と逃げ出した。趙の将校が逃走する者を斬っても、止めることができない。そこを漢軍が挟み撃ちにして、趙軍を破り、降伏させた。成安君を泜水(ていすい)のほとりで斬り、趙王を生け捕りにした。

韓信は、全軍に命令を出していた。

「広武君を殺すな。生け捕りにしたものには、千金を与える」

すると、広武君を縛って本陣に届けた者があった。韓信は自ら広武君の縄を解くと、東に向かって座らせ、自分は西に向かうと、師弟の礼をとった。

将校たちが首級や捕虜の検分を済ますと、皆が集まり祝賀が始まった。そこで、将校たちが韓信に質問した。

「兵法には、山を右か背にし、水を前か左にせよ、とあります。ところが、将軍は我々に水を背にして布陣させ、趙を破って宴にしようとおっしゃいました。我々は信じていなかったのですが、結果は勝利に終わりました。これはどのような戦術なのですか」

韓信はこう答えた。

「これは兵法にもある。諸君が気づいていないだけだ。兵法には“死地に陥れて後に生き、これを亡地に置きて後に存す”とあるではないか。しかも、わしは将兵の心を掌握しきっていなかった。これはいわゆる、街中の人を駆り立てて戦わせるようなもので、このような状況下では、死地に置いて、自ら戦わなければならないようにしむけないと、仮に生地を与えたらば、みな逃げ出してしまうだろう。これではどうして、彼らを使って勝つことができようか」

将校たちはみな敬服して言った。

「お見事です、とても我々の及ぶところではありません」

【史記・淮陰侯列伝】


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