浄瑠璃義太夫節     

  義太夫節のことを、大阪や京都では浄瑠璃とよぶ。なぜなら、大阪や京都の人々にとって
 現代まで残っている浄瑠璃は義太夫節だけなので、浄瑠璃と言えば義太夫節に他ならないのである。
 ところが関東の人にとっては少々事情が違う。一口に言っても一中節もあれば河東節もある。
 常磐津節、新内節、清元節と、どれもこれも浄瑠璃である。したがって義太夫節は、
 二つの名称が存在することになった。 
 そのような事情から義太夫は、新内や常磐津などと同じ浄瑠璃の一派である。
  
  これに関した文献があったのでここに掲載する。

 義太夫節の創始 語りものの発達(文楽入門)山田庄一著より

  古くからある声楽をその本質的特性から大別すると「歌謡」と「語り物」の二つに分けられる。
  「歌謡」はメロディー、リズム、テンポに重点をおく・・・朗詠、催馬楽、地唄、長唄、端唄、小唄
  「語り物」は歌詞の内容の伝達を最優先する・・・・・・平曲、浄瑠璃、説経、祭文、浪曲
  演奏についても前者は”唄う”後者は”語る”と呼んで区別されている。
   語り物は呼称の通り、物語に節を付けて語って聞かせるもので、芸能としての祖先は平曲
  (平家琵琶)だとされている。
  平曲は当時(平安中期〜鎌倉時代以後)の人達、特に上流階級にもてはやされ流行した、
  それにともなって演奏家の格式や資格が生まれて、そこからはみ出した琵琶法師たちは
  庶民を対象に流れ出た。と同時に曲目の拡大も要求されて平家物語以外のものも手がける
  ようになった。その中で圧倒的に人気を集めたのが「浄瑠璃」であった。
  浄瑠璃の発生はだいたい室町中期(15世紀)と考えられる。浄瑠璃の名称は語って聞かせた
  物語 「浄瑠璃姫十二段草子」から出たもので語りの節回しが新しく工夫され、それが大いに
  歓迎されたとみえ、浄瑠璃姫の物語以外の内容を語るようになってもその節回しを浄瑠璃節と
  呼ぶようになった。
  浄瑠璃節はもともと平曲の流れを引くものだから伴奏には琵琶を使っていたが、(16世紀中頃)
  永禄年間に琉球から三弦が伝来しそれを改良して三味線が出来ると、これを伴奏楽器として用い
  るようになり浄瑠璃節は音楽として大きく飛躍した。
  三弦楽器は元来中国のもので南中国から琉球へ伝わったが、今日の琉球三味線のように蛇の
  古浄瑠璃時代
 皮を張ったものであったが、わが国には大きな蛇はいないから変わりに猫の皮を使うことを考えた。
 三味線を最初に演奏したのはやはり琵琶法師たちで、これを浄瑠璃に用いるようになったのは
 慶長頃らしく沢住検校がはじめだといわれる。琵琶に準じて撥を使ったため細かい技法が可能に
 なって演奏術が長足の進歩をとげた。
 どんな芸能でも人気が高まるときには名人、上手が沢山でる。あるいは名人、上手が多くいて
 互いに芸を競うからいよいよ人気が集まるものだといえるだろう。浄瑠璃の場合も例外でない。
 江戸時代に入ると多くの名手が排出して、それぞれ一派を立て人気を争った。それらの中で特に
 人気があり技芸も優れていた一人に大阪の井上播磨掾がいた。播磨掾は御簾を作る職人でしたが
 浄瑠璃が好きで工夫を凝らし、江戸で盛んであった金平節(武勇に憂いを込め節回しも巧みで
 文句がはっきりわかるようにつとめた)という豪快な曲風を取入れて一派を立てた。
  この播磨掾の高弟に清水理兵衛という大阪の南端にある安居天神付近の料亭の主人がいた。
 ある日、天王寺村に住む五郎兵衛という農夫をみいだし、浄瑠璃語りになることをすすめた。
 五郎兵衛は理兵衛の弟子になり上達し、播磨風の浄瑠璃を自分のものとなるまでになった。
 その頃井上播磨掾に対し、京都で名人と呼ばれた宇治加賀掾(細かい節回しで優艶な語りを得意)
 に清水理太夫となのって加賀掾の一座に加わり硬軟両様の浄瑠璃を身につけた。
  加賀掾の芝居の資本主でもある竹尾庄兵衛に引き抜かれて新しい一座を作ったが、加賀掾には
 まだまだ及ばず失敗し理太夫は竹尾とともに西国の旅をした。
  数年後、安芸の宮島に来たとき厳島神社に参詣して芸道成就の祈願を込めお篭もりをした理太夫
 は、夢のうちに神の教えを受け新しい浄瑠璃への道を悟ったという。
  芸に開眼した理太夫は大阪に帰り名を竹本義太夫と改め道頓堀の播磨嬢の芝居小屋の後に
 竹本座の櫓を上げた。竹本の竹は、恩人でもある竹尾庄兵衛の竹をとり義太夫の義は仁、義、礼、知、
 信の五常を守る心を表わしている。
  時に貞享元年(1684)のことである・・翌2年2月の説もある。
 義太夫がはじめた新しい浄瑠璃はもちろん播磨嬢の語り口を基本とし、そこへ加賀掾はもとより、
 他派の色々な長所を取り入れ、さらに、平曲、幸若、謡曲、説経、祭文から流行唄まで幅広くふくめたもので、
 従来の浄瑠璃に比べて表現が多彩であった。
  義太夫は自らの浄瑠璃を「当流」と名づけた。
 これ以後は在来の各派浄瑠璃は目立って衰退し、単に浄瑠璃といえば「当流」すなわち義太夫節を意味する
 ほどになった。浄瑠璃史上に記念すべき貞享3年(1686)竹本座の出世景C上演を境にして、
 それ以前の各派浄瑠璃を古浄瑠璃と呼んでいる。

HPトップへ      このページのトップへ