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診察室で患者さんから「先生はクール・ビズ、やらないの?」と声をかけられました。わたしは、いつもネクタイをしめて仕事をしていますから、国会議員のセンセイたちにならって、軽装にしてみたらどうかというご提案みたいです。その患者さんには、「ネクタイなしで、シャツを上手に着こなせるほど、お洒落じゃないですから」とお答えしておきましたが、「省エネ・ルック」の二の舞になるだろうと、バカにしていたクール・ビズのキャンペーンも、だんだん無視できなくなってきたかも。
改めてながめてみると、「クール・ビズ」という言葉の、「クール」は涼しいという意味だろうが、「ビズ」がわからん。キャンペーンの旗振りをしている環境省のホームページをみると、"COOL BIZ"とつづるらしい。辞書で"biz"をひいてみると、「職業、商売を意味する俗語、businessの短縮形」とあり、用例として"show biz"があげられていました。なーんだ、特殊なファッション業界の用語だと思っていたら、bizというのはbusinessをキザに縮めただけのことだったのか。
それにしても、テレビで閣僚や議員さんたちのクール・ビズ・スタイルを拝見すると、「検診でレントゲン撮影の順番を待っているときのお父さん」か、「拘置所に護送されるときの容疑者」みたいなシャツ姿ばかりが目について、ホント泣きたくなりますね。わが国で最もダンディな紳士であった白洲次郎は、新婚当初の夕食時に、テーブルに座ると、「ネクタイをせずに失礼」と言ったと、妻の正子は語っています(「白洲正子自伝」・新潮社)。白洲次郎は大正8年に17歳で、英国ケンブリッジ大学クレアーカレッジに留学していますが、その寮生活において、ネクタイなしで食事に臨むのは、裸で食卓を囲むのに等しいと教えられたそうです。白洲次郎が生きていて、クール・ビズ姿の議員たちのファッションを目にしたら、「プリンシプルに反する」と言って激怒するんじゃないかしら。
哀れなシャツ姿の日本人とは対照的に、イタリアの洒落ものたちは、「センツァ・クラバッタ(Senza
Cravatte )」と呼ばれる、タイなしでスーツとシャツを着るファッションを編み出しました。「センツァ」は「〜なし」、「クラバッタ」は「ネクタイ」という意味のイタリア語ですから、そのまんまなんですが、ただのノーネクタイではなくて、様々な決まりごとがあるようです。すなわち、上着はVゾーンが狭くてシャツの露出が少ないタイプを選ぶ、シャツは襟元が開きすぎないように襟が高いものを選ぶなど、センツァ・クラバッタには着こなしのコツがいるというわけ。イタリアの伊達男たちを見習いたいけれど、ジャパニーズには少々ハードルが高いね。六本木ヒルズの若きIT長者や、テレビのワイドショーに出てくるコメンテーター諸氏には、このスタイルが多いのですが、かっこよくきまっている男性は、ほとんどいませんもの。
わたしが仕事するときに、必ずネクタイをしめているのは、医師としての修業時代に、服装について厳しく仕込まれたからです。研修医として就職した聖路加国際病院では、1年次、2年次の研修医は、半袖のケーシー(ベン・ケーシーが着ていたような、丸首の短い白衣のこと)に、白の長ズボンの制服を着ることが義務づけられていました。3年目になると、やっと長い白衣の着用が許されるのですが、ネクタイなしのだらしないスタイルは、絶対に認められません。その後に勤務した藤田保健衛生大学病院血液・化学療法科でも、聖路加と同じように、きちんとした身だしなみで診療するという医局の気風があったので、ネクタイなしで仕事することはありませんでした。医者の服装は、料理人や大工さんなんかと同じで、どこで修行したか、どんな先輩を見て育ったか、というところで決まるものです。もしも、うす汚れたヨレヨレの白衣を着た医者に出会ったら、その先生はあまり一流のところでは修行してこなかったものと思って間違いありません。
「neatであることが基本。清潔でこざっぱりした服装を心がける。男性の場合はサイズのあったワイシャツを身につけて、ネクタイを結ぶ。ネクタイの結び目を整えることも忘れてはいけない。履き物にも注意する。サンダルは履かない。女性の場合、アクセサリーは最小限とし、化粧も控えめにする。」(「内科外来診療マニュアル第3版」・医学書院 p2より引用)
上の文章は、聖路加時代に指導医としてわたしたちを日夜鍛えてくださった、吉岡成人先生(現・北海道大学医学部第二内科助教授)が書かれた外来診療マニュアルの冒頭で、「医師のマナー・服装」について言及されている部分を抜き書きしたものです。"neat"とは、「こざっぱりした」とか、「身だしなみのよい」という意味の英語ですが、患者さんを前にしたときに、どんな服装をすれば良いかが、実に明快に述べられているでしょ。わたしは駆けだしのころから、このような教育を受けてきたので、いくらクール・ビズだと言われても、そう簡単にはネクタイを外して仕事をすることはできないのです。白洲次郎にならって言えば、それはわたしの「プリンシプル(原理・原則)」に反する行為ですから。

いつもの診察スタイル(左)と、クール・ビズ?(右)のVゾーンを比較してみた
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クール・ビズといったって、単にタイをはずしてみただけだけど
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なんだか予備校で化学教えてる先生みたいな格好に・・・
センツァ・クラバッタはむずかしい
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タイトルの「サムシング・クール」は
ジューン・クリスティのCOOLなレコードへのオマージュ
6月8日の夜、愛知県勤労会館で行われた、東京スカパラダイスオーケストラ(略してスカパラ)のライブへ。
オープニングの1曲目から客は総立ち。スタンディングのコンサートなんて、何年ぶりかしら。バンドも客も最初からパワー全開で、飛び跳ねておりますよ。広いホールの客席が、ライブハウスのフロアみたいになっちゃいました。これじゃ、みんなで踊らないわけにはいかないでしょ。
スカパラは「スカ」と呼ばれるジャンルの音楽を中心に演奏するバンドで、ホーンセクション(トランペット、トロンボーン、3本のサックス)とリズムセクションを合わせて総勢10名の男たちで編成されております。スカパラなんて知らないよというひとたちでも、キリン缶チューハイ「氷結果汁」のCM音楽などで、きっと彼らの曲を何度も耳にしているはず。結成15周年をむかえてさらに迫力や凄味が増したみたいで、メンバー全員がステージいっぱいに暴れまわってのパフォーマンス、ホント圧倒されました。
スカパラがまだインディーズとして活動していた時分に、小泉今日子嬢(KYON KYON、もうすぐ40歳だってねェ・・・)の名盤「Ballad Classics 2」(1989年)のなかで、彼女の歌のバックで演奏していた彼らと初めて遭遇。「な、なんだこのバンドは?!」とびっくりして、それから熱心なファンとなりました。今日までわりと忠実に彼らのCDや映像作品を追っかけてきましたが、ライブの演奏となると、メジャー・デビュー直後の1990年ごろに今池のボトムライン(それが名古屋初見参か?)で聴いて以来です。産まれたときからスカパラの音楽を子守歌がわりにして育った息子が、最近になってトランペットの練習を始めたこともあって、「ぜひスカパラのライブが観たいのですが」とリクエストしてきたものですから、電子チケットぴあでTICKETをゲットし、今回は父子ふたりのコンビを組み、勇んで会場に乗りこんだわけなの。
「スカ Ska」とは、レゲエに先がけて、1950年代後半ごろジャマイカで誕生した大衆音楽(ポピュラー・ミュージック)のこと。スカの特徴は跳ね上がるようなリズムにあり、メインの拍子と拍子の間に、独特なアクセントがついています。このいわゆる「裏打ち」のスタイルが特徴で、そのリズムが「スキャッ、スキャッ」と聞こえることから、スカと呼ばれるようになったとの説もあるみたい。その後、スカはジャマイカだけでなく、ロンドンをはじめとして、世界各地に広がっていきました。スカパラは自分たちの音楽を「トーキョー・スカ」と呼んでいますが、日本でこの種の音楽を広めた最大の功績者といってもよいでしょう。
ステージはニューアルバム「Answer」からのナンバーを中心にして、ハイテンションを維持したまんまで、2時間みっちり休みなし。お客はなぜだか若い女性2〜3名のグループが多いのですが、かなりマニアックな愛好家の雰囲気を漂わせているのが、アイドル系やロック系のコンサートとのちがいでしょうか。スカパラのライブに集まるヤングたちは、みなさん大変お行儀よくハジけていらっしゃいましたので、となりで踊っている内気なオジさんとその息子約1名も、安心して心地のよいグルーヴに身をまかせることができました。速いスカのビートにのって踊りながら思ったこと。これはかなりの運動になり、持続的に心拍数も上がるので、りっぱな有酸素運動になって、余分な脂肪が燃焼するぞ。こぶしをステージに向かって突き上げると、日々の診療でのストレスが消えてゆき、メンタルヘルスにも良い影響があるみたい。これからは、「ライブで健康づくり」だ(←オヤジくさいコメントね)。お恥ずかしいことに、興奮さめやらぬ会場を後にしたとたん、足腰がふらついて歩道でコケそうになり、自分の年齢に思いをはせることになった院長でした。でも、楽しかった。また行って踊るぞ!

宮崎医院のガーデンでは、
ただいま「あじさい」が花盛り
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あじさいの花言葉は、
「移り気」なんだって・・・
福祉・介護関係の現場では、「老人ボケ」や「痴呆」にとって変わって、「認知症」なる新たな病名がすっかりと定着してしまった様子ですね。認知症にかかると、脳のなかにある分厚い「記憶の日記帳」のページが、ところどころ抜け落ちていく、それも自分の意図とは無関係に、勝手気ままにポロポロと抜け落ちていってしまう。そんな、認知症の患者さんが感じる戸惑いや恐怖を、小説のかたちで、せつなく描き出した本をご紹介しましょう。全国の書店で働く店員さんたちが、「自分の店で売りたい」と思った本を投票して選ぶ「本屋大賞」をご存じですか。2005年の「本屋大賞」第2位(&第18回山本周五郎賞受賞)に輝いた、萩原浩氏の「明日の記憶」がその本です。本屋大賞事務局から配信されている、書店の店員さん「お手製」の紹介文を引用すると・・・
★平凡な幸せを突然奪った衝撃の告知「若年性アルツハイマー」。しだいに失われてゆく記憶と人格。家族、仕事、全ての環境を巻きこんで進行する症状・・・ 理不尽な発症に憤りを覚えながらも、あたり前の日常と欠けがえのない愛の素晴らしさに改めて気づかせてくれる一冊。
★明日はわが身かもしれない”忘れゆく日常”。広告マンとして毎日仕事に追われている佐伯は物忘れが酷くなっている自分に不安を感じ病院へ検査に行く。診断は若年性アルツハイマー。仕事がある、妻がいる、そして自分は間もなく祖父になる。まだ大丈夫だという自分とは反対に零れ落ちる記憶。「治らない」病気と、どう向き合っていくのか、この作品の結末は美しい。例えばもし、自分だったら、どう感じるだろう、考えさせられる一冊。
「明日の記憶」は50歳になるヤリ手の広告代理店営業部長が、「若年性アルツハイマー」による認知症と診断されてからの出来事を、一人称で書きつづった手記のかたちで構成されているフィクションです。最初はただの「もの忘れ」と思っていた症状が、しだいに深刻になってゆき、仕事や家庭で支障をきたす様子が、患者さん本人の視点でリアルに語られているのが新鮮であると思いました。病状が進行した小説の後半になると、漢字を忘れてひらがなばかりが目立つ文章に変わってしまう。この手法はダニエル・キースのカルトSF「アルジャーノンに花束を」でも効果的に使われていましたが、この小説においても読む側は身につまされる思いを強く感じます。
「明日の記憶」と相前後して、「認知症になるとなぜ『不可解な行動』をとるのか」(加藤伸司・著、河出書房新社・刊)という本も読みました。こちらは小説ではなく、臨床心理士として、多数の認知症患者さんのケアにかかわった著者が、患者さんの「心理」に焦点を当てて、健常な人が「不可解」と感じる様々な行動が、なぜ起こり、何を意味するのかを、一般の読者を対象としてわかりやすく解説した興味深い内容となっております。たとえば認知症のお年寄りがもの忘れは激しいのに、巧みな「つくり話」をするのはなぜか?本書で例示されているケースでは、台所の戸棚に隠しておいたみかんがなくなっているので、お嫁さんが認知症で過食気味のおじいちゃんに、「お父さん、ここにあったみかん知りませんか」と尋ねると、おじいちゃんは全部自分で食べてしまったのに、「みかん?ああ、お隣の孫が回覧板を持ってきてくれてなあ。その子にあげたんだよ」と答える。さて、どうしてこんな現象がおきるのか、著者による解説を読んでみましょう。
<私たちは、情報が少なかったり、情報が断片的にしかないと、「たぶんこうではないか」「きっとこうだろう」という具合に、想像でつなげたり補ったりすることがあります。認知症の方も、断片的にしかない情報をつなぎ合わせるために、想像で補うことはあるのですが、記憶の欠落を埋める作業をした結果、「たぶんこうだろう」ではなく、「こうなのだ」と確信してしまうようです。それは想像であるという認識がないばかりか、話をつくっているという自覚もなく、ご本人にとっては「真実」になってしまうわけです。このようなつくり話は真実味を帯びていて、事実を知らない人が聞くと本当のことと感じてしまうことが多く、また、たいていはご本人にとって有利な内容のつくり話になっています。このケースでいうと、「みかんがないと嫁が言う。誰かが食べたに違いない」と思うことはあっても、「自分が全部食べたかもしれない」という方向には気持ちは向かっていかないのです。>
本書はこのような「不可解な行動」が20の事例にまとめられており、それぞれ詳細に分析されています。わたしも日常の診療のなかで、日頃から疑問に感じていた、認知症の患者さんの不可解な行動・言動の謎が解けて、目からウロコがボロボロと落ちました。「お年寄りが無垢な子どもに返る」などといった誤ったイメージを抱いて、「大きな幼児」に接するような態度で、認知症のケアをすることが、どんなに患者さんのこころを傷つけることになるのかが、わたしにもようやくわかってきたのです。この本と「明日の記憶」を併行して読むと、小説の作者は認知症の患者さんの心理について、大変よく勉強されてから作品の執筆に取り組まれたことが良くわかります。認知症の末期になると、長年つれそった自分の配偶者のことさえも、誰であるかわからなくなってしまいますが、「言葉や理解を超えて、安心できる相手だということはわかる」そうです。このあたりの心理を重要なモチーフにして、「明日の記憶」のラスト・シーンは印象的に描かれていますので、ぜひご一読ください。
おたがいに「明日はわが身」の認知症ですが、自分にとってかけがえのない美しい記憶(メモリー)がランダムに消えてゆくのは、じつに悲しいことではありませんか。
"In my heart you will remain: My stardust melody, the memory of love's refrain"
(この星屑のメロディが、恋の調べの思い出が、ぼくの心の中にいつまでもこだましている)
これは恋の思い出を星屑(ほしくず)に託した、名曲「スターダスト」の最後のフレーズ。「星屑のメロディ」や「恋の調べの思い出」なんぞは、できれば最期まで消えてほしくない記憶の筆頭なんだけど、わたしが認知症になったあかつきには、そんなキレイな思い出はすぐに消滅しちまって、いつまでも解けない数学のテストや、心細かった研修医のころの当直の記憶なんてものばかりが、「ぼくの心の中にいつもリフレインしている」ような事態になりそうですな。

POP王が製作した「明日の記憶」のPOP
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「POP(ポップ)」とは・・・
本屋さんの平積み台にぴょこんと飛び出ている札のこと
簡単な宣伝文句と本の情報が記載されています
「身体表現性障害」という病気をご存じですか。なに全然知らない? いえいえ、ご安心ください。医者であるわたしでさえ、ついこの間まで聞いたこともなかった病名なのですから。しかし、この病気は奇病でも何でもありません。みなさんのまわりにも、患者さんはたくさんいるはず。ここ宮崎医院の外来にだって、この病気の患者さんたちは毎日のように来院されているのです。
わたしが「身体表現性障害 somatoform disorder」という病名にはじめて出会ったのは、まだ開業して間もない、およそ2年前のこと。両足が棒のようにだるい、歩くとふらつく、頭が何となく重い、胃のあたりがムカムカするといった、多彩な症状を訴える患者さんが来院されました。しかし、様々な診察や検査を行っても、それらの症状を引きおこすような臓器の異常を見つけることができません。そこで、うつ病による身体症状を疑って抗うつ剤を処方しても、いっこうに症状の改善がありません。ほとほと困り果てて、何とか患者さんを説得して、近くの病院の精神科外来を受診してもらいました。そのときの紹介状の返事に記されていた病名が「身体表現性障害」だったのです。
わたしが学生時代に受講した精神科の講義では、こんな病気のことは教わりませんでした。しかし、最新の精神医学のテキストブックを開いてみると、確かに身体表現性障害という項目が載っているではありませんか。教科書の記載を読んでみると、1980年にアメリカ精神医学会が刊行した精神障害の分類と診断の手引き(DSM-V)で、新しく使用されるようになった用語であることがわかりました。その最新版であるDSM-Wでは、身体表現性障害のなかに含まれる病気として、「身体化障害」、「転換性障害」、「疼痛性障害」、「心気症」などがリストアップされています。しかし、精神科の医者でないものにとっては、なじみのない専門用語がならんだ教科書の記述を、正確に理解するのは困難でした。その当時のわたしの理解のしかたは、「一般的な身体医学では全く説明のつかないからだの症状が、長期間にわたり頑固に存在するが、その症状の原因がうつ病や不安障害といった他の精神疾患によるものではない場合を、身体表現性障害と呼ぶのだな」というぐらいのものでした。そのように理解しても、この病気のイメージについては、何となく釈然としない感じが残ったので、身体表現性障害は常に気になる存在として、わたしの頭の一角をその後も占拠しつづけたのです。
開業医になって、いちばん面食らったことは、さきほどの患者さんのように、医学的には説明が困難な身体の症状を訴える患者さんが、いっぱい来院されるということでした。わたしを含めた日本の臨床医たちは、このタイプの患者さんに出会うと、「不定愁訴症候群」、「自律神経失調症」、ご婦人であれば「更年期障害」といった病名を安易に付けてきました。病名は付けても、その症状はちっとも良くならないし、診察時間だけは非常に長くとられてしまうので、どちらかといえば、診療を敬遠してきた歴史があります。一方、欧米ではこのような現象を「身体化 somatization」と呼んでさかんに研究されており、「患者さんの背景に隠れている心理的、社会的問題が、からだの症状に置き換えられたもの」と考えられています。アメリカやヨーロッパには、「自律神経失調症」なんて病名はないのです。身体化が生じる病気としては、いわゆる心身症をはじめとして、うつ病、不安障害、適応障害、そして件の身体表現性障害などが知られているわけです。このうちで、うつ病には抗うつ剤が、不安障害には抗不安剤が、非常によく効くので、適切に治療を行えば患者さんの訴えるからだの症状はきれいに消えてゆきます。しかし、たくさんの患者さんたちを治療していくうちに、抗うつ剤や抗不安剤をのんでも、ほとんど症状が良くならない患者さんたちが存在することに気がつきました。おそらく、このグループの患者さんたちこそ、「身体表現性障害」の範疇に属するケースだろうということが、経験を重ねていくうちに、わたしにもだんだんとわかってきたのです。
最近になって偶然の機会から、この病気についてのくわしい解説が書かれている一冊の本を発見しました。意外なことに、その本は医学の専門書ではなく、一般の読者を対象にした新書版(PHP新書)です。本のタイトルは<体にあらわれる心の病気: 「原因不明の身体症状」との付き合い方>。著者はわたしと同じ愛知県内で精神科のクリニックを開業していらっしゃる磯部潮(いそべ・うしお)先生です。磯部先生は大同病院(名古屋市南区)精神科に勤務されていたときに、説明困難な身体症状で苦しんでいるたくさんの患者さんを診療されたご経験をもとに、「無床総合病院精神科における身体表現性障害の研究」という論文を執筆されました。この論文が日本総合病院精神医学会により、平成11年度最優秀論文として選出されて、「金子賞」という賞を受けられたのです。この論文をもとにして、身体表現性障害という病気のことを、一般の読者にもわかるような、やさしい言葉で書きなおされたものが、新書版の<体にあらわれる心の病気>なのです。身体表現性障害という病気を、まるごと一冊分の紙面を使って、真正面からとりあげたという意味では、日本で初めての本ではないでしょうか。
一般の読者むけの本とはいっても全く手抜きはなく、「説明困難な身体症状」を訴える患者さんに対して、各科の医者が勝手に付けてきた、様々な病名の歴史的な変遷からはじまって、「身体表現性障害」という概念の有用性と問題点に至るまで、実に詳細に論じられております。わたしはこの本を読んでから、本当に積年にわたる蒙(もう)が啓かれました。わたしが、宮崎医院で毎日診察している、抗うつ剤や抗不安剤があまり効かない、「説明困難な身体症状」を訴える患者さんたちは、「鑑別不能型身体表現性障害」という診断で良いのだという確信が持てるようにもなりました。この本のなかの記述で、いちばん驚いたのは、<日本の精神科では、「身体表現性障害」という病名は現在、ほとんど用いられることがありません。DSM-Wの診断基準は頻繁に用いられるにもかかわらず、その大項目である「身体表現性障害」はほとんど使用されないのです。>というところでした。なるほど、内科の医者であるわたしが、ねじりハチマキで汗水たらして、日本の精神医学の教科書を読んでみても、いまひとつピンとこなかったのは、そういう理由があったからなんだ。自分が使ったことのない道具の使用法を、他人に上手に説明することなんて、とてもできませんからね。
この新書を読み終えた後から、さらにくわしく勉強したくなり、磯部先生にメールでコンタクトをとって、金子賞の論文そのものを読みたいのですが、どこで入手したら良いのでしょうかとお尋ねしたところ、すぐに論文の別刷が郵送されてきました。まったく面識もない田舎の開業医からの、あつかましい問い合わせメールに対して、迅速に対応していただき本当に感激です。それと前後して送られてきた「日本医師会雑誌」5月号の表紙をみて、またびっくり。なんと「身体表現性障害」の特集が組まれているではありませんか。この雑誌は、日本医師会の機関紙であり、読者は一般の開業医たちです。磯部先生をはじめとする、先駆者の啓蒙活動により、この病気にもいよいよスポットライトが当たってきたのでしょうか。偶然とは思えない、シンクロニシティーに驚きつつ、その特集ももちろん精読しました。
身体表現性障害の患者さんは、最初から精神科のクリニックを訪れることはありません。まず、わたしたちのような内科の診療所を受診されることが多いと思います。したがって、内科の開業医ならば、この病気をよく理解して、患者さんを上手にマネージメントする力が必要でしょう。うつ病や不安障害とちがって、薬物が効きにくい病気ですから、長年にわたって主治医と患者さんの間に「良き治療同盟」というべき関係を結んでゆくことが大切なようです。それには、距離的にも心理的にも身近な開業医の外来がいちばんですよね。治りにくい病気と聞くと、やたらはりきるタイプの医者であるわたしにとって、「身体表現性障害」をめぐる冒険は、今やっとはじまったばかりです。

送っていただいた「金子賞」論文の別刷と、
開業医必読 「体にあらわれる心の病気」(PHP新書)
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磯部先生、ありがとうございました!
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先生のその他のご著書
「人格障害障害しれない」(光文社新書)
「発達障害かもしれない」(光文社新書)
どちらも、おすすめですよ
みなさま、ゴールデンウィークのお休みはいかかがお過ごしでしたでしょうか。わたしは自宅で連休用に貯めこんであった本、雑誌、CD、DVDを相手にして遊んでおりました。唯一の行楽は、まったくの近場である名古屋市内。以前から気になっていた「文化のみち二葉館(旧・川上貞奴邸)」の見学に出かけました。この建物は日本の女優第1号である「マダム貞奴(さだやっこ)」こと川上貞奴と、福沢諭吉の婿養子で「電力王」と称された福沢桃介が、大正から昭和のはじめにかけて名古屋で暮らしていた邸宅です。むかし国営放送が「春の波涛」という大河ドラマを放映したのをご記憶でしょうか。松坂慶子が貞奴を、風間杜夫が桃介を演じておりました。この建物、もともとは東区東二葉町(現・白壁三丁目)に建っていたので「二葉御殿」と呼ばれていましたが、寄贈を受けた名古屋市が「文化のみち」の拠点施設にするため、東区橦木町の現在地に移築・復元したもので、「文化のみち二葉館」として今年の2月にめでたくオープンとなりました。
栄(さかえ)でひろったタクシーが繁華街の喧騒を離れて、名古屋城にほど近い静かなお屋敷街のなかをすすむと、きれいなオレンジ色の瓦屋根が忽然と姿をあらわしました。そこが二葉館です。玄関でくつをぬいでスリッパにはきかえ、入場料200円也を払って建物の中へと進みます。万博の影響か、連休中のためか、思ったよりもたくさんの見学者がいました。二葉館は大正9年ごろに建設されたものですが、ステンドグラスがはまった大広間を有する洋館部分と、伝統的な和室が混在する、和洋折衷の間取りになっています。設計・施工にあたったのは、日本で最初の洋風住宅供給会社として建築史に名高い「あめりか屋」であり、ステンドグラスをデザインしたのは、わが国におけるグラフィックデザインの創始者である杉浦非水。うーん、建築探偵としてはたまりませんね。
さすがに「電力王」と呼ばれたひとの住まいらしく、当時としては画期的なオール電化になっており、電気でわかすお風呂や、使用人を呼ぶための電気ブザーなんてものまで各部屋についております。館内では貞奴や桃介に関する展示が見られるだけでなく、郷土ゆかりの文人たちを紹介するコーナーもあり、名古屋の近代文学館としての機能も兼ねそなえた施設です。マダム貞奴が川上音二郎一座の役者として、パリで公演した時にまとったという着物が展示されておりましたが、今日の感覚ではハデというよりも「ケバい」と評したい色と柄でして、カタカナで表記した「キモノ」という感じのコスチュームでありました。「その姿に若き日のピカソが魅了された」なんて説明してありましたが、ホントかしら・・・
二葉館が建っている白壁エリアは、名古屋城の東側にあたり、江戸時代には尾張藩の中・下級武士の屋敷が連なっていた土地で、明治から昭和のはじめになると、近代産業の起業家たちが屋敷をかまえるようになりました。二葉館の見学を終えて、「文化のみち」のガイドマップを頼りに、周辺の主税町あたりを散歩してみましたが、江戸時代から昭和に至る様々な年代に建てられたとおぼしき建築物が点在していました。本当の意味でのcelebrity(セレブリティ)が住んでいた街だったんですね。しかし、このエリアも時代の流れと高額な相続税には勝てないようで、建築探偵の好奇心を刺激する邸宅は次々とつぶされて、無粋なデザインの高級マンションへと姿を変えおり、セレブに憧れる新しい富裕層の流入がすすんでいる様子。そんな新しい住民たちを、東京白金エリアに棲息する「シロガネーゼ」にならって、名古屋では「シロカベーゼ」と呼ぶんだって。初めて「シロカベーゼ」という言葉を耳にしたとき、顔をお化粧でまっしろに塗りかためたひと(ガングロの反対ね)、たとえば鈴木その子さんのような女性のことかと思いましたよ。名古屋市内には「シロカベーゼ」のほかに、「ヤゴトジェンヌ」という生き物もいるらしいからご注意ください。今回の散歩の途中で、シロカベーゼ御用達のお屋敷レストランというのも発見できました。しかし、ここらに集う「名古屋嬢」とその母親たちの出で立ちを、二葉館の主である貞奴や桃介が見たら何と言うでしょうかね。
わたしは亡くなった祖母があやつる優雅な名古屋弁を愛していました。そのおっとりとした口跡は、さかのぼると尾張藩の武士階級の家庭で使われていた言葉だそうですから、この白壁エリアにルーツがあります。祖母がこの世を去ったいまは、もうその優雅な名古屋弁を耳にすることができなくなってしまったように、この静謐なお屋敷街も、いずれは消えゆく運命なのかもしれません。「みそかつ」や「ひつまぶし」だけではない、ほんとうに上質な名古屋の文化もぜひ遺しておいてもらいたいと願ってやみません。万博観光のために遠方より愛知県にお越しのみなさま、徳川美術館と蓬左文庫を擁する「徳川園」も隣接していることですし、ぜひ「文化のみち二葉館」にも足を運ばれはいかがでしょうか。ひと味ちがった名古屋を楽しむことができます。

愛・地球博の「サツキとメイの家」ではございません!
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文化のみち二葉館(旧・川上貞奴邸)の正面と側面
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オレンジ色の屋根が素敵です
2005年5月2日 「おかえりなさいアン・サリー」
アン・サリーさま
おかえりなさい。3年ぶりの日本はいかかがですか? あなたの帰国に合わせてリリースされた新しいアルバム「Brand-New Orleans」が、つい先日わたしのもとに届きました。前作「Day Dream」と「Moon Dance」(わたしのホームページでも紹介させていただきました!)を飽くことなく愛聴しながら、新作を久しく待ち望んでいただけに、砂漠で「おいしい水」に出会った旅人のように、あなたの新しい音楽をゴクゴクと体内に吸収しております。
あなたが心臓病の研究のために留学された土地がアメリカのニューオリンズであると知ったとき、これは偶然ではなく音楽の神様であるミューズの采配であると確信しました。循環器内科医とシンガーという、金色に輝く二足の草鞋(わらじ)をはくあなたが、ジャズの発祥の地ニューオリンズに旅装を解いてから3年。昼間は留学生として医学の研究をすすめるかたわら、夜になるとジャズ・クラブで地元のミュージシャンとセッションするという生活をおくり(というのはあくまでわたしの想像ですが・・・)、帰国を前にして現地のスタジオで録音されたのが今度のアルバムですから、その内容がアン・サリーとニューオリーンズの音楽家たちのコラボレーションであるというのは、まったく当然のことでしょうね。
「アジアからやってきた私と、ニューオリンズで生まれ育った彼らとの、音楽という媒体を通した言語を介さない親密なコミュニケーションに、驚き心躍った。それは、私という人間がどこから来たかとか、話す言葉の種類、目の色ではなく、お互いの魂がどこに向かっているか、それだけをキーワードとした心の奥深い部分での会話だった。」 CDに耳を傾ければ、あなたがライナーノートに書いた言葉通りの「会話」を聴くことができます。グループでの演奏だけでなく、ピアノやベースとのデュオもおさめられているので、ふたりだけのパフォーマンスになると、「会話」はより親密な感じが強くなり、聴くものを魅了します。古いジャズソングを歌うときには、良質なノスタルジーを絶妙にしのばせた空気がスピーカーから流れてくるのです。手垢のついたスタンダートも、あなたの手にかかると、まさに"Brand-New"
な印象となる。アン・サリーにはかないません。
日本語で歌われるカバー曲は、あなたのアルバムを聴くときの最大の楽しみ。今回も西岡恭蔵&KUROの「アフリカの月」と、服部良一&サトウハチローの「胸の振子」の二曲が入っていますね。いつもながら、奇抜なようにみえて、実にピッタリとはまってしまう選曲です。「アフリカの月」を選んだのは、細野晴臣や西岡恭蔵たちが憧れた「大衆音楽(ポピュラー・ミュージック)の聖地としてのニューオリンズ」に対するオマージュでしょうか。一方「胸の振子」では、服部良一の書いたメロディを、ニューオリンズのピアニストが弾き、あなたが歌うとき、昭和のはじめのモダンな植民地、そう上海あたりにある古い酒場の情景が浮かんでくるから不思議です。「胸の振子」→「心臓」→「循環器内科」という、ニューオリンズで研究してきた、もうひとつの専門分野を示す謎も隠されているのかしら。
日本に帰ってくると、臨床にしろ研究にしろ、医師としての生活は多忙です。そして、本当にばかばかしい雑用も多くって、音楽活動と両立されるのは大変なことでしょうね。しかし、あなたならこれまでと同様、リラックスした姿勢で医業と音楽の活動を楽しみながらこなしてしまうことでしょう。ご活躍をお祈りしております。わがままなファンの願いは、あなたの育ったホームタウンでもあるここ名古屋で、はやくライブを聴きたいということ。ブルーノートあたりで、そろそろいかかがでしょうか?

同業の内科医であるオジサンとしては
安(アン)先生が患者さんを診察している姿を
こっそり覗いてみたい気がします
★
きっと、その歌声と同じで
凛(りん)とした診療スタイルだろうな・・・

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