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 Orange life


不思議の国トルコ

 2008. 6.21〜 6.29



今回のトルコ旅行には、ドバイの半日観光が含まれていた。そのためトルコ国内の旅は実質6日間の行程であった。
“不思議の国トルコ”というのは旅行会社のキャッチフレーズだが、このトルコの旅は次の3つに 分けて書いてみようと思う。もちろん明確に区分けできるわけではないが、いろいろな要素をもった国・トルコなので あえてそうしてみようと思ったわけである。

 (1)民族と歴史、そしてイスラムの文化
 (2)カッパドキアやパムッカレに代表される自然景観
 (3)トロイやエフェソスなどの古い遺跡
旅行日程

 1日目 セントレア〔機中泊〕→UAE・ドバイ
 2日目 ドバイ半日観光→トルコ・イスタンブール〔泊〕
 3日目 イスタンブール市内観光、ボスフォラス海峡クルーズ→チャナッカレ〔泊〕
 4日目 トロイ遺跡観光→ベルガマ農村の古い集落散策→イズミール〔泊〕
 5日目 エフェソス遺跡観光→パムッカレの石灰棚、ヒエラポリス観光→パムッカレ〔泊〕
 6日目 エイギルディル湖畔散策→コンヤ・メブラーナ博物館観光→アクサライ・隊商宿→カイマクル〔泊〕
 7日目 カイマクル地下都市観光→カッパドキア観光→塩湖→アンカラ〔泊〕
 8日目 イスタンブール市内観光→UAE・ドバイ
 9日目 ドバイ〔機中泊〕→セントレア
トルコ旅行地図



≪トルコの民族と歴史、そしてイスラムの文化≫

ボスフォラス海峡をはさんでヨーロッパ大陸とアジア大陸が接する国、シルクロードがとおり、昔から東西文化の接点でも あるトルコ。 この国は西洋なのか東洋なのか、その民族の歴史と文化に興味がかきたてられる。
そのほかトルコならではな奇観・カッパドキアやパムッカレもあり、さらに古代の遺跡も存在するという不思議の国 を訪ねた。
以下、現地でガイドをしてくれたLevent(レヴェント)さんが教えてくれたトルコの興味ある話をおりまぜて述べることに する。
彼はアンカラ大学日本語学科出身で、流暢な日本語を話すとともに、トルコの地理、歴史、文化や、日本のことも についても実によく知っている方であった。弁護士をしている婚約者がいる39歳のトルコ人である。

トルコはトロイの遺跡やエフェソス、ベルガマの遺跡が残るように紀元前から都市国家が栄えた。
その後、帝政ローマとビザンチン帝国(1〜14世紀)、オスマン・トルコ(15〜19世紀)の時代を経て、1923年、 ムスタファ・ケマル・アタチュルクの革命によってトルコ共和国となり今日にいたっている。
この間、ビザンチン帝国時代はキリスト教が公認されていたが、オスマン・トルコ時代にイスラム教支配となり現在も98% 以上の人たちがイスラム教徒である。ただ、アタチュルクの改革よって政教分離となり、他のイスラム国家とちがい 金曜日休みではなく日曜日が休日となっている。さらに礼拝や女性のスカーフ着用、日々のイスラムの勤めも 個人の自由が許されていることから、われわれのような外国人も気軽に入っていける国といえよう。

どこまでも広がる畑 ベルガマの村
10年前までは食料自給率100%だったトルコには麦などの畑が広がりオリーブもいたるところに栽培されている(左)
古い農村住宅が残るベルガマの村では人懐っこいこどもたちにたくさん出会う

イズミール郊外の住宅団地 イスタンブールの住宅地
人口が急拡大するイズミールでは郊外の山を切り開いて住宅団地が建築されている(左)
密集して建つイスタンブールの住宅地。トルコでは全国いたるところにモスクがある(右)

トルコは10年くらい前までは食料自給率100%を超える完全な農業国だったという。
それが今は産業構造の大変革をめざして自動車関連産業などによる工業化をはかっている。現にメルセデスベンツ(ダイムラー) やトヨタ、ホンダ、現代などの大工場が進出していた。ヨーロッパ向けの自動車輸出を目的にしているという。 イスタンブール郊外のトヨタの工場は実に大きく立派な工場だった。
それにともない地方の農村から大都市へ豊かな生活を求める人たちの移動が顕著で、イスタンブール1400万人、 アンカラ650万人、イズミール400万人など急拡大をつづけているそうだ。

そうした中でのひずみもあるようで物価は年率10%くらいのインフレ、トルコリラは外貨に対して日々連続的に 下落しているという。そのため今回の旅でも千円札を多めに持っていき、必要に応じてこまめにトルコリラに 両替するのがいいといわれていた。
日本からヨーロッパなどのツアー代金が毎年高くなっているのに対してトルコの旅行費用が比較的安く、変わらないのは そんなところに要因があるのだろう。われわれにとってはありがたいことだが・・・・。

今回の旅行では西トルコを周遊し、都会も田舎も見てきた。もちろん表面的に見てきただけだが、素朴な田舎の暮らし、 大都会のけん騒の両方を感じてきたわけだ。
らんぼうな話かもしれないが、ひとことでいうなら、『トルコは、アジアの心をもった人たちが、いっしょうけんめい 西洋風の豊かな文化と暮らしを求めて、積極的に活動している活気のある国』だと思う。 1週間の旅では本質をついているかどうかわからないが、わたしが肌で感じた感想である。
ただ、世界的に食糧が高騰している昨今、せっかく備えている農業資産をないがしろにして工業化のみに注力すると いうのはどうかと思うし、もったいない話である。異なる2つの方向を追うのはむずかしいかもしれないが、 地球規模的視野で農業政策も進めるべきではなかろうか。



イスタンブール歴史地区
イスタンブールは西洋と東洋の接点の街だけあって、歴史、文化、宗教、経済すべてに満ちたところである。
ビザンチン時代のキリスト教の大聖堂として建てられたアヤ・ソフィア。オスマン・トルコの時代には、堂内に描かれた モザイク画をしっくいで塗りつぶし、偶像崇拝を禁ずるイスラム教のモスクになったという経緯を持つ。
ブルーモスク(スルタン・アフメト・ジャミィ)はオスマン・トルコ建築の極みといわれるイスラムの大モスクであり、 15世紀にイスタンブールを征服したメフメット2世が建築したトプカプ宮殿もある。

イスタンブール歴史地区の観光はガラタ橋から始まった。橋からの眺めはなかなか良い。 また、橋の上から釣りをしている人が多いのには驚いた。釣った魚を見せてもらうと15cmほどの小魚であったが気持ちよく 釣りを楽しめる場所のようである。
橋の右側にスレイマニエジャミィ(モスク)の美しい姿が見える。左には真っ青なボスフォラス海峡の向こうに アジア側が望まれる。 ガラタ橋を渡り切ったところにはイエニジャミィという大きなモスクがあり、振り返ると橋の北側にガラタ塔が見えている。 このあたりは歴史的建物を見渡す人気の観光スポットなのだ。
ガラタ橋 オベリスク
ガラタ橋の上で釣りをする人の先にイエニジャミィが見える(左)と、エジプトから持ってきて建てられたというオベリスク

ガラタ橋の南からふたたびバスに乗ってブルーモスクへと向かった。ブルーモスクには6本のミナレット(minaret、光の塔、尖塔) が立っている。そのブルーモスクの前にはエジプトから持ってきて建てられたという2つのオベリスク(obelisk、方尖塔)がある。
ここはむかしヒポドローム(競馬場)だったところだそうだ。オベリスクの土台部分に競馬場のロイヤルボックスの 様子がレリーフとして飾られている。 競馬見物はローマ時代・ビザンチン時代を通じて市民の一番の楽しみだったという。 しかし、現在は街路樹や建物などがあるため、そういわれなければ競馬場だったとはわからないようだ。


ブルーモスクの外壁沿いに水道の蛇口がたくさん並んだところがあった。その前に男性が一人腰かけている。ガイドの レヴェントさんに聞くとお祈りの前に身を清めるところだという。日本の神社でもお参りの前に手水で 手と口をすすぐが、イスラム教でも顔や手足を清めるのだそうだ。
ブルーモスク ブルーのタイル
写真に写っていないが6本のミナレットがある大きく美しいブルーモスクの外観と、内部の壁面装飾に 使われている青いタイル

モスクの入口の前で靴をビニール袋に入れ、手に持って堂内に入る。外観も堂々としているが内部も荘厳である。 ドームの高さは43m。壁面装飾に使われている青いタイルが清潔で美しい。正式にはスルタン・アフメト・ジャミィという このモスクがブルーモスクと呼ばれるゆえんである。
祭壇に向かって礼拝をしている一人の男性がいた。たとえば朝一番・4時の礼拝を何らかの理由で できなかった人は、いつでもここにきて礼拝することによって補うことができるのだそうだ。彼も敬虔な信者なのであろう。 ただ、男性はこの1階の広い場所で礼拝できるのだが、女性は別で2階につくられた場所で礼拝することになる。 イスラム教は男尊女卑がまだ残っている。


アヤソフィア(聖ソフィア大聖堂)はツアー最終日に訪ねた。
ローマ時代・ビザンチン帝国時代にはキリスト教の大聖堂であったこの建物は、庭園をはさんでブルーモスクの並びに 建てられている。したがって庭園からはこの2つの建物をきれいに見ることができる。
あらためて見るブルーモスクの全容は立派で素晴らしい。アヤソフィアの方はブルーモスクに勝る大きさだがその 外観はやや地味な感じがする。 とはいえ、現在のアヤソフィアが建てられたのは563年、巨大な方形の上に大ドームを載せたもので、この時代では ピラミッドを除き世界一の建築物であったという。 ドームの高さは約55m。外観の質素さに比べて華麗というか重厚なまでの内部であった。
アヤソフィア アヤソフィア内部
ブルーモスクに比べると質素だが直径33mの大ドームが載るアヤソフィアの外観と、華麗であり重厚な感じのアヤソフィアの堂内

もう一つ、アヤソフィアの誇りはビザンチン帝国時代のモザイク画である。
オスマントルコ時代に塗りつぶされたしっくいがはがされ、実に繊細で美しいキリストなどのモザイク画が復元されている。
この5月に受講した考古学教室で講師をされた愛知教育大・浅野和生教授の『イスタンブールの大聖堂――モザイク画が語る ビザンティン帝国』という本を事前に読んでいた。そのため特にアヤソフィアとモザイク画については、興味深かった。
また偶然のことだが、中部空港からドバイへの飛行機でギリシャのモザイク工房で仕事をしているという若い女性と隣り 合わせになったのだ。彼女の話では、モザイク画はアヤソフィアのものが最高のものだと教えてくれた。そんなわけで これらの繊細なモザイク画をじっくり見たかったのだが、時間の関係で次へまわらなければならず非常に残念であった。
アヤソフィアのモザイク画 アヤソフィア内部のモザイク画
繊細に描かれたデシス・モザイク(中央がキリスト)と、南西入口にあるモザイク画
(右の人物:皇帝コンスタンティノス、 中央:聖母子、左の人物:皇帝ユスティニアノス)



アヤソフィアの次は歩いてトプカプ宮殿に向かう。
城壁のような高い塀に囲まれた宮殿がトプカプ宮殿である。オスマン帝国の君主スルタン・メフメットが13年間を費やして 1478年に完成させたという。
アヤソフィア側にある第1の門が『皇帝の門』で最も重要な門だそうだ。第1の庭園をすぎ第2の門を入ると右奥に 煙突が林立する厨房がある。かなりの面積を占めているが、ここで宮殿に暮らす人たち全員の食事が作られた ということだ。今は陶磁器類やキッチン用品・設備が展示されている。特に中国製の青磁などが美しい。
皇帝の門 宝物館
アヤソフィア側にあるトプカプ宮殿第1の門『皇帝の門』と、数々の豪華な宝物が展示されている『宝物館』

一方左奥にあるのが有名なハレムであるが時間と予約の関係でパスせざるを得なかった。
何といってもトプカプの 見どころは宝物館である。宝物館は第3の門『幸福の門』を入った右奥だ。トルコへの旅行を計画していたので 昨冬(07/12〜08/2)名古屋で開かれた“トプカプ宮殿の至宝展”はあえて見に行かなかった。しかし、今回現実に その豪華な宝物を堪能させてもらった。
玉座 トプカプの短剣 儀式用兜
左から、インド様式の宝石使いの玉座(18世紀)、トプカプの財宝のシンボルといわれる“トプカプの短剣”、儀式用のカブト

ボウルa ボウルb スプーンダイア 矢筒
左から、宝石で飾られたガラスのボール2点、86カラットのスプーンダイヤ、装飾布で作られた矢筒

スプーンダイヤとして知られる86カラットのダイヤモンド。玉座、宝冠、宝剣などなど、いずれも宝石がちりばめられ 金で装飾されている。きらびやかな宝物を文章で表現するのは無理というものだろう。 当時の絶対的権力と、巨万の富を誇示しているようだった。

そのほか、謁見の間、割礼の間、宗教遺産の間、時計の間、武器展示室など駆け足で見て回った。しかし、なにせ1時間余り の自由見学時間では見学しつくせない展示物の多さである。
トプカプ宮殿の最も奥は海に面したテラスになっている。ここからのボスフォラス海峡の眺めがすばらしかった。



イスタンブール歴史地区最後の観光はグランドバザールである。
イスタンブール最大のマーケットで、ここも世界遺産に指定されている。屋根に覆われた巨大市場で、 網の目のような通路に4000を超えるともいわれる店が並んでいる。 あまり奥の方まで入って行って迷いこまないようにと注意された。
場所によって家賃が違うのだろうか、メインの通りには貴金属など高級品を売る店が多いようだ。それにしても 革製品、じゅうたん、日用品などいろんなものが売られている。今ではみやげ物市場であり、トルコ人はほとんどここに 買い物にはこないそうだ。 その分いろいろな国の人が押し掛け、店員の呼びかける声も加わって喧騒と活気にあふれたところである。
グランドバザールのメイン通り グランドバザールの店
いろいろな国の人たちが押し掛けるグランドバザールと、鮮やかな彩色陶器類を売るお店

ガイドのレヴェントさんによると、日本人か中国人か、あるいは韓国人かその他の東南アジアの人なのか 見ただけで区別ができるという。 たぶん毎日見慣れているグランドバザールの店員もどこの国の人かすぐわかるのだろう。私を見るとすぐ 「こんにちは、元気?」と日本語で話しかけてくる。
ある店の前で、「あなた日本人、こちら中国人。私日本人・中国人大好き。みんな友達」といいながら握手し、 その中国人とも握手させられてしまった。 こういうところでは、どこの国の人かというのは関係ないという感じだ。
以前、関口知宏さんがここグランドバザールにやってきて、「いろんな人々が渦巻いているようなここでは、 自分が死んでいなくなっても、そんなこととは無関係に明日も、明後日も同じ光景がくりかえされるのだろう」 というようなことをテレビでいっていたのが思い出された。

いずれにしても紀元前から続く東西文化の接点であるこのイスタンブール歴史地区は簡単に見つくすことは不可能である。
今回のツアーで触れることができなかった歴史遺産もまだまだたくさんある。もし将来機会が得られるならば、風光明媚でもある この地はもういちどじっくり訪れたいところである。


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≪トルコの自然と景観≫

カッパドキア
世界遺産に登録されているトルコの自然景観の代表といえばカッパドキアとパムッカレである。
そのうちキノコ形に代表される奇岩が大地からにょきにょきと生えたようなところがカッパドキアだ。
火山灰や溶岩が岩となり、長い年月の間に軟らかい火山灰層だけが浸食されてこの奇妙な大地ができあがった。
カッパドキアと一口にいってもかなり広い範囲にわたっているようだ。キノコ形、タケノコ形にそのまま残っているところ、 1つの大きな山に穴をうがち住居にしたり教会にしてしまったところ、中には1枚岩で形成された城塞や地下都市まである。

そもそも世界遺産というのは、人類の文化や地球の自然を大切な人類共通の宝として保護し未来へ引く継いでいくために 制定されたものである。
しかしながら、このカッパドキアは自然の浸食作用によってできたものだけに、いまもなお浸食活動によってその形を 変え続けているのだ。現在の奇形がくずれ、あらたな景観が将来生まれているのかもしれないということである。
ゼルベの谷のキノコ形奇岩群 ウチヒサール城
ゼルベの谷のキノコ形奇岩群と、一枚岩で形成されたウチヒサール城

教会 壁画
発見されたものだけで800もあるというキリスト教会の1つと、内部に描かれた壁画

いずれにしても世界にここだけしかない実に不思議な光景である。
ギョレメの谷とゼルベには4世紀ころからキリスト教徒が住みはじめ、岩の中に洞窟教会を造って信仰を守り続けたという。 発見されているものだけで800の教会があるそうだ。
中にはきれいな壁画残されているものもあり、信仰の深さに感心する。

風の谷では現在も洞窟を住まいとしているアリーフェさん・タヒールさん夫妻の家を訪ねる機会を得た。
暑い日だったが洞窟の家の中は涼しく、天然のエコ住宅である。
洞窟の部屋に取り付けられた窓やベランダからはカッパドキアの奇景・絶景が一望できる。毎日世界遺産を楽しめるという ことだ。タヒールさんに聞くと、ここに住まうことに関して何の問題もないといっていた。
アリーフェさん宅の居室 窓からの眺め
清潔感あふれるアリーフェさん宅の居室と、カッパドキアの奇景が一望できる窓



パムッカレ
パムッカレとは「綿の城」という意味だそうだ。 石灰成分を含んだ温泉水が山を流れ下り無数の石灰棚をつくりだしている。
トルコ人のガイドがいっていた。「みなさんがパンフレットなどで見る写真の姿は20年前のものです」。
白い半月形の石灰棚の中に青く透き通って見える水をたたえた写真を見てきたわけだが、目の前にした光景はちょっと残念な ものであった。すべての棚が青い水で満たされているわけではない。
温泉水をたたえた石灰棚 枯れて真っ白になっている石灰棚
温泉水をたたえた石灰棚と、流れ込む水がなく枯れて真っ白になっている石灰棚

近年観光開発が進み温泉付きのホテルがたくさんできて源泉からお湯を引いているため、パムッカレの石灰棚に流れ込む 温泉水の量がへってしまったのだそうだ。
温泉付きホテルの建設よりもパムッカレの景観を守るほうが優先されるべきだと思うのだが、この国の考え方は違う のだろうか。少なくとも日本なら景観保護を選択するだろう。

このパムッカレでは、はだしになって石灰棚の中に入っていくことが許されている。
靴と靴下を脱ぎ、ズボンをひざ下までまくりあげて石灰棚に入る。石灰分をふくんだ温泉水だが特に暖かくはない。 「すべることがあるので、気をつけてください」とガイドが注意していた。石灰のひだができていて足裏が少し痛い ところもあるが慎重に歩を進めれば大丈夫だ。ところが、私の前を歩いていた欧米人の男性がとつぜんひっくり返った。 ズボンはびしょぬれである。いっしょにいた女性が心配して声をかけたが、本人はてれくさそうに「大丈夫、大丈夫」 といっていた。
温泉水をたたえた石灰棚 枯れて真っ白になっている石灰棚
すべらないように気をつけて入って行く石灰棚と、プールのような自然の造形・石灰棚

この台地にも太陽はさんさんと照りつける。気温は30℃をゆうに超えているだろう。 白色の石灰に反射してまぶしいことこの上ない。うっかりサングラスをバスの中に置き忘れてきたことをくやんだ。
この世界遺産・パムッカレの石灰棚に人が踏み込んでいいのかと心配した。しかし、石灰岩の表面は固く、人が歩いても ほとんど影響はないようだ。
それでも人を入れるよりも禁止したほうがいいのは確かだが、それよりも流れ込む温泉水の枯渇の方が心配になる。 世界遺産を保護するという点から観光開発のホテルの温泉プールを制限してでも温泉水で満たされたパムッカレの 景観を維持することが大事だと考えさせられた。


イスタンブールのボスフォラス海峡
自然景観といえばイスタンブールのマルマラ海と黒海を結ぶボスフォラス海峡がすばらしい。
海峡の西側はヨーロッパ、東側はアジア。西安を発したシルクロードのアジア大陸における終点であり、東西文化の 接点がボスフォラス海峡だといえる。

このボスフォラス海峡クルーズが行程に含まれていた。
ヨーロッパ側のドルマバフチェ・ジャミィ近くから出航する。第1ボスフォラス大橋をくぐり、ルメリ城の北にある 第2ボスフォラス大橋まで行く。ここでUターンして帰りはアジア側の沿岸を南に下ってくる行程である。
ドルマバフチェ・ジャミィ ドルマバフチェ宮殿
ドルマバフチェ・ジャミィと、ヨーロッパ・バロック様式のドルマバフチェ宮殿

船は朝のさわやかな空気の中を進む。帆布を張った屋根の下に入ると肌寒い感じである。
ヨーロッパ側には、幅が数百メートルもあるというドルマバフチェ宮殿、オスマントルコ時代の宮殿を再建したチュラーン・パラス ホテル、オルタキョイ・ジャミィ、ルメリ城、そして緑の丘に立つ高級住宅を眺望する。 そして、出されたチャイ(トルコ風紅茶)を飲みながらクルーズは進む。
ルメリ城を過ぎると第2ボスフォラス大橋が迫ってくる。 長さ1090mというこの橋は石川島播磨重工業が中心になって作ったものだそうだ。 そしていまこの海峡の下に2009年の開通をめざして、大成建設が13.7kmにおよぶ海底トンネル工事を行っているという。 アジアとヨーロッパのかけ橋づくりに日本の企業がかかわっているというのはうれしいことだと思う。
ルメリ城 第2ボスフォラス大橋
ルメリ城と、石川島播磨重工業が中心になって作った長さ1090mの第2ボスフォラス大橋

船は第2ボスフォラス大橋を過ぎたところでUターンし、帰りはアジア側の沿岸沿いにクルージングを続ける。
アジア側にもアナドル城や木造の別荘などが見えてくる。このあたりは古いものもあるが新しい別荘や邸宅もある 高級住宅地だそうだ。
アジア側の高級住宅 ブルーモスク、アヤソフィア、トプカプ
アジア側の高級住宅と、海から望むブルーモスク、アヤソフィア、トプカプ宮殿

第1ボスフォラス大橋近くまでくると、そのたもとにベイレルベイ宮殿を見る。
そしてクルーズが終わりに近づくころヨーロッパ側にはトプカプ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスクなどイスタンブール 歴史地区の古い建築物が見えてくる。やや距離はあるが海から眺めるのもなかなかいいものだ。
1時間ほどだったが、朝日に輝く海、歴史ある建物や城塞を眺めながらのボスフォラス海峡クルーズを満喫することができた。 今回の旅行で特に印象に残った景観のひとつである。



旅行日程

 1日目 セントレア〔機中泊〕→UAE・ドバイ
 2日目 ドバイ半日観光→トルコ・イスタンブール〔泊〕
 3日目 イスタンブール市内観光、ボスフォラス海峡クルーズ→チャナッカレ〔泊〕
 4日目 トロイ遺跡観光→ベルガマ農村の古い集落散策→イズミール〔泊〕
 5日目 エフェソス遺跡観光→パムッカレの石灰棚、ヒエラポリス観光→パムッカレ〔泊〕
 6日目 エイギルディル湖畔散策→コンヤ・メブラーナ博物館観光→アクサライ・隊商宿→カイマクル〔泊〕
 7日目 カイマクル地下都市観光→カッパドキア観光→塩湖→アンカラ〔泊〕
 8日目 イスタンブール市内観光→UAE・ドバイ
 9日目 ドバイ〔機中泊〕→セントレア


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≪トルコの遺跡≫


トルコは遺跡が多い国である。
エーゲ海、地中海沿岸地域を中心に、ギリシャ時代、そしてローマ時代に形成された都市国家・ポリスの遺跡が点在 している。
今回のツアーでは、トロイの遺跡、エフェソスの遺跡、そしてベルガモン遺跡とヒエラポリス遺跡の一部を訪ねた。


トロイの遺跡
マルマラ海とエーゲ海をつなぎ、ヨーロッパとアジアを隔てるダーダネルス海峡。チャナッカレはそのアジア側に位置している。
6月24日朝、チャナッカレのホテルを出たバスがトロイ遺跡に向かう。トロイまでは30分ほどの行程だが、道の両側には オリーブ畑が続き、時折り太陽に顔を向けたヒマワリ畑に出会う。
オリーブ畑 ヒマワリ畑
道の両側に続くオリーブ畑と、ときどき出会う満開のヒマワリ畑

トロイはホメロスの叙事詩にある「トロイ戦争」の舞台として名高い。
10年も続いたギリシャ軍とトロイ軍の戦争。ギリシャ軍は最後の作戦として巨大な木馬をつくり、その中に多数の兵士を 隠れさせる。
ギリシャ軍は引き上げたふりをしてトロイ軍を油断させる。そしてトロイ軍が寝静まった夜中に木馬内の軍隊が一気に攻め込んで トロイ軍を一掃、勝利したという話である。
ということで遺跡の入口には大きな木馬が設置されている。階段を登って木馬の中に入ることができるが、もちろん 想像でつくられた観光用のモニュメントである。

そもそもトロイ遺跡は、ホメロスの伝説を信じたドイツ人、ハインリッヒ・シュリーマンの発掘によって明らかになった ものだという。
ただし、ガイドのレヴェントさんによると、シュリーマンの本当の目的は遺跡に埋められているという財宝を掘り当てる ことだったそうだ。そのため、かなり荒っぽい発掘の仕方だったようだ。結果的に、何層にもなっているこの遺跡が 発掘によって荒らされてしまったところも多く、シュリーマンの発掘の功罪が問われるともいう。
しかしながら、彼の執念なくしてこの遺跡発掘がなかったことも事実である。
トロイの木馬 城壁の石積み
トロイの木馬と、年代が異なる石積み(右の城壁は古く、正面の城壁は年代が新しい)

見学路はY市の東の塔と城壁・城門から始まる。
この石の城壁もよく見ると年代が異なることがわかる。古い時代のものはそれぞれの石の辺が丸いのに対して、新しい 年代のものは道具の発達もあって石の辺が鋭角になっているのだ。

この遺跡には見学通路がつくられている。城門を入って右に登るとアテナ神殿([市)があり、遠くに海が見えている。大昔は このすぐ下まで入江だったそうだ。
次は日干しレンガの城壁だが、ここは最も古いBC3000年ころのT市である。石積みと違って風化に弱い日干しレンガ の壁は復元したものである。
アテナ神殿跡の遠くに海が見える 日干しレンガの城壁
遠くに海が見えるアテナ神殿跡と、日干しレンガの城壁(下部が当時の日干しレンガ)

次はシュリーマンが黄金の首飾りなど財宝を発見した場所。そしてU市の正面門に通じるという傾斜路を通り、神殿や いけにえの獣などを捧げた台座があるところに出る。ここはBC2000年以降のZ市から\市の聖域だと見られて いるそうだ。
傾斜路 聖域
シュリーマンが黄金の首飾りなど財宝を発見したといわれる場所と、いけにえの獣などを捧げた台座がある聖域

最後は最も新しい\市の野外劇場を見て木馬のところにもどる。

紀元前のポリスは大都市ではなかったそうで、このトロイもそれほど広い遺跡ではない。しかし、ここが世界遺産に 指定されているのは、古い年代から9つの市が積み重なって構成されている珍しい遺跡だからであろう。


ベルガマ(ペルガモン)の遺跡
トロイからベルガマ(ペルガモン)に向かう。
右手には波おだやかなエーゲ海が見え隠れする。バスの皆が「エーゲ海だ!」と歓声を上げるので、海岸で5分間休憩 をとってくれた。はだしになってエーゲ海に入って行くおばさんもいる。エーゲ海は名前の響きのように美しい海だった。
エーゲ海 ベルガマ遺跡
名前の響きのように美しい海・エーゲ海と、小高い山の上に広がるベルガマ遺跡

幹線道路沿いの「Salam(サーラム)」というレストランで昼食をとった。その店の前から北方の丘の上に ベルガマ遺跡の「アクロポリス」が見えていた。
もともとベルガマ遺跡は今回の観光コースに入っていなかった。ただ、ガイドのレヴェントさんが、「ベルガマ遺跡の下に 昔ながらの建物が並んでいるところがあるので、少し立ち寄ってみましょう」ということで近くまで行ってみることに なった。

ベルガマ遺跡は紀元前3世紀のこの地に築かれたペルガモン王国だったという。
当時は20万冊もの蔵書を備えた図書館もあったというように、文化、芸術が進んだところだったらしい。
アクロポリスは小高い丘になっている。その中に上市、中市、下市の3つの地域で構成されていたという。 われわれは、その中市の少し下にある古い町並みの散策を楽しんだ。ここは遺跡の中といっていいところで、古い民家の間 からアクロポリスを見ることができた。
ベルガマ遺跡の中にある古い町並み クルズ・アウル
ベルガマ遺跡の中にある感じの古い町並みと、赤い館と呼ばれる大きな建物のクズル・アウル

散策の最後のところに「クルズ・アウル」があった。クズル・アウルは赤い館と呼ばれる大きな建物である。 ローマ時代の2世紀にエジプトのセラピス神とイシス女神を祀る神殿として建てられたものだという。
壁は分厚く、タテ・ヨコが×26m×60m。高さ60mという巨大な赤レンガ積みで、圧倒されるような 感じであった。



エフェソスの遺跡
エフェソスはトルコ第3の大都市イズミールから南へバスで約1時間ほどのところにある。
6月25日、エーゲ海に程近いこの遺跡には、朝からさんさんと輝く太陽が照りつけていた。
エフェソスはギリシャ時代、小アジア最大の都市だったといわれるだけあってその規模はかなり大きい。
繁栄したエフェソスだったが、メンデレス川が運んでくる土砂が港一帯を埋めつくした結果、2世紀以降衰退して しまったという。
それでもここは、大きな建物などが比較的きれいに保存されている立派な遺跡であった。
北と南に出入口がある。われわれは南から入って北口へ出るコースをたどった。
遺跡に入るとオディオン(屋根付き小劇場)が目に入る。その左は市庁舎だったそうで、政治的機能の施設がこのあたり に集まっていたらしい。 その前の通りの両側には先が折れた柱列が続いている。往時は感じだったのだろうか。
坂を少し下った左手に大きなアーチがある。ここはポリオの泉と呼ばれるところだそうだが、この建物と周りの広場は エフェソスの商業センターだったという。

ヘラクレスの門を過ぎるとクレテス通りという立派な石畳の道がゆるやかに下がっていく。
オディオン(屋根付き小劇場) ハドリアヌス神殿
オディオン(屋根付き小劇場)と、女神メドゥーサなどのレリーフが美しいハドリアヌス神殿

クレテス通りの左側は高級住宅跡だったそうで、そのテラスにはきれいな模様に描かれたモザイクがある。 一方通りの右側にはトラヤヌスの泉、浴場、ハドリアヌス神殿、共同トイレ、娼館などが続いて現れる。
ハドリアヌス神殿は女神メドゥーサなどのレリーフが美しい。また、囲いもなくずらっと並ぶベンチ式の共同トイレ は奇妙な光景だ。

共同トイレ クレステ通り
囲いもなく並ぶベンチ式の共同トイレと、往時も今と同じような人通りがあったのではないかと思われるクレテス通り

クレテス通りの先にはエフェソスの代表的建物といっていいケルスス図書館を見る。2世紀、アジア州総督ケルススのために 息子が建てたもので、正面には女性像4体が設置されている。120万冊もの蔵書を備えていたというからすごい。

振り返ると現時点でも多数の観光客が歩いているわけだが、往時も同じではなかっただろうか。 着ているものは違うが、たくさんの住民がクレテス通りを行き来し、喧騒にあふれていた様子が思い浮かぶ。
ケルスス図書館 ケルスス図書館の女性像
120万冊もの蔵書を備えていたというケルスス図書館と、ケルスス図書館の女性像

ケルスス図書館前を折れてマーブル通りを北へ行く。
この通りの左手(西側)一帯には大きな商業施設があったといい、当時の繁栄がわかるようだ。
少し歩くとピオンの丘の斜面に築かれた大きな野外劇場に出会う。小アジア一のスケールだったいうだけあって 観客席は見上げるばかりである。今でもここでコンサートが開かれているそうだ。
大野外劇場から西の方に向けて、これまた立派な幅の広いアルカディアーネ通りが走っている。両側に宙列が並ぶ この道は古代の港に通じていたそうだ。港湾都市として交易によって反映していた証拠でもある。 旅行案内書によれば、夜は列柱に灯りがともされ、クレオパトラも歩いた道だとのことであった。
大野外劇場 アルカディアーネ通り
大野外劇場と、夜は列柱に灯りがともされ、クレオパトラも歩いたというアルカディアーネ通り

いずれにしても紀元前のギリシャ時代から2世紀前半まで、この遺跡にみるような大規模な都市国家があったことに あらためて驚かされた。
こんな立派な遺跡が世界遺産に認定されていないというのが不思議な感じがした。



アルテミス神殿
アルテミス神殿
エフェソス遺跡の近くにあるアルテミス神殿にも立ち寄ることになった。
ここは古代世界の七不思議に数えられた神殿だそうだ。しかし、今はくぼ地にたった一本の円柱だけが立っている だけだ。
古代エジプトでは科学技術や建築学への関心が深かったため、「驚異的な建築物」として選ばれたのが古代世界の 七不思議のはじまりなのだそうだ。バビロンの空中庭園、ゼウス神像、エフ工ソスのアルテミス神殿、ハリカルナッソス の霊廟(れいびょう)、ロドス島のコロッサス、フアロス島の灯台、エジプトのピラミッドの7つである。

アルテミス神殿は、BC356年の火災のあと再建されたが、3世紀にコート人の侵入で破壊されてしまったという。 円柱の破片などが散乱する光景は無残である。 アテネのパルテノン神殿よりも大きかったというが、この場に立って当時の姿を想像するのはむずかしい感じだ。
円柱の上に巣をつくって住むコウノトリに昔を思う気持ちはないだろう。



旅行日程

 1日目 セントレア〔機中泊〕→UAE・ドバイ
 2日目 ドバイ半日観光→トルコ・イスタンブール〔泊〕
 3日目 イスタンブール市内観光、ボスフォラス海峡クルーズ→チャナッカレ〔泊〕
 4日目 トロイ遺跡観光→ベルガマ農村の古い集落散策→イズミール〔泊〕
 5日目 エフェソス遺跡観光→パムッカレの石灰棚、ヒエラポリス観光→パムッカレ〔泊〕
 6日目 エイギルディル湖畔散策→コンヤ・メブラーナ博物館観光→アクサライ・隊商宿→カイマクル〔泊〕
 7日目 カイマクル地下都市観光→カッパドキア観光→塩湖→アンカラ〔泊〕
 8日目 イスタンブール市内観光→UAE・ドバイ
 9日目 ドバイ〔機中泊〕→セントレア


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≪トルコの旅をふりかえる≫


今回のトルコ旅行は、いい旅だったと思う。
まずは旅行中すべて快晴に恵まれたこと。イズミールやエフェソスなど海沿いの地方はやや暑かったが、イスタンブールや カッパドキアなどは湿度が低いので気温は高くてもさわやかな感じだった。
そして、カッパドキアやパムッカレに代表される自然景観、トロイやエフェソスなどの古い遺跡、民族と歴史 やイスラムの文化などに接することができた。 特にイスラムの文化は初めての体験だった。


トルコの国土と治安
トルコの国土面積は、77.9平方キロメートルで日本の約2倍、人口は約7300万人で日本の約60%である。
トルコでも経済発展にともなって都市への人口集積が進み、イスタンブールは約1200万人、首都アンカラは400万人、 イズミールも約250万人と日本の大都市をもしのぐ勢いである。
トルコに行くというと「大丈夫?」と、心配してくれる人がいる。確かにクルドとの関係からトルコ東部の国境地域で 紛争があったり、イスタンブールでテロではないかという爆発騒ぎがあったりするが、一般的にはトルコの治安は 安定しているいってよい。
テロではないが日本でも通り魔やら、秋葉原の無差別殺傷事件なども起きるし、いつでもどこでも危険はある。むしろそういう 点ではトルコの方が安全なのかもしれない。もちろん海外なので注意することにこしたことはないが、風聞にまどわされる 必要はないであろう。トルコ人ガイドのレヴェントさんもそういっていた。
荒涼とした山野 イスタンブールの市街地
荒涼とした山野と、イスタンブールの市街地

トルコの旅行者
旅行者 トルコを訪れる日本人旅行者は、年間約16万人だそうだ。
近年、旅行会社が企画するトルコのツアーが増え、実際にトルコへ旅行する人も毎年増加しているという。
しかし、ドイツ75万人、フランス70万人、イタリア30万人などに比べるとまだ少ない。 もちろんトルコの観光先で日本人旅行者にも出会うが、陸続きのヨーロッパ人旅行者が圧倒的に多かったようだ。
ガイドのレヴェントさんは、日本人にもっとトルコを訪ねてほしいといっていた。


ことば
トルコ語で覚えたのは、次の言葉くらいのものである。
 「メルハバ」―――こんにちは
 「ギュナイドゥン」―――おはよう
 「テシェッキュルエデリム」―――ありがとうございました
 「サオルン」―――ありがとう(くだけて)

一般にどこの国でも「ありがとう」というのは比較的簡単な言葉が多いと思う。しかし、トルコ語では「テシェッキュルエデリム」 とやたらと長く、かついいずらい言葉だった。とっさの時になかなか出てこなくて困ったものだ。
ガイドのレヴェントさんの日本語はたいへん流暢だった。さすがアンカラ大学日本語学科卒だけのことはある。
聞くと、トルコ語も日本語も言葉の並びは同じだから覚えやすいといっていた。 すなわち、欧米語のように〔主語+述語+目的語〕という並びではなく、トルコ語も日本語と同様〔主語+目的語+述語〕 なのでわかりやすいという。それでも語学音痴の私には難しそうだ。
現地ガイドのレヴェントさん グランドバザール近くの店
現地ガイドのレヴェントさんと、日本人には日本語で話しかけてくれるグランドバザール近くの店

シルクロード
もう一つ印象に残ったのはシルクロードである。
どこまでもまっすぐに続く砂漠の中の1本の道。東は中国西安に発したシルクロードはトルコの国土を縦断し、 アジアの西端イスタンブールに達する。そこからボスフォラス海峡をヨーロッパ大陸側のイスタンブールに渡るのである。
シルクロード沿いにある隊商宿を観光した。シルクロードの旅にはラクダが不可欠であり、人が泊まる建物よりも ラクダが寝る建物の方が大きくて立派だったのには驚いた。しかし、それだけラクダが大事にされていたという ことを聞けば納得だ。
どこまでもまっすぐに延びるシルクロード 隊商宿の人が泊まるところ 隊商宿のラクダの部屋
どこまでもまっすぐに延びるシルクロード(左)、 隊商宿の人が泊まるところ(中)と、より大きいラクダの部屋(右)


トルコの食べ物
トルコの食べ物はおいしかった。
主な料理は誰でも知っている「ケバブ」である。 ケバブはすなわちトルコ風の焼肉であり、いろいろな種類がある。 今回の旅行で出されたケバブは、次の4種類だった。
 「シシ・ケバブ」
 「ナスのケバブ」
 「つぼ焼きケバブ」
 「ドネル・ケバブ」

そのほか、ベルガマの田舎料理、イスタンブールの野菜と牛肉の煮込みなどもおいしかった。

食事時の飲み物では、アイラン(Ayran)という飲むヨーグルトが気に入った。少し酸味があり、ケバブなどに よく合うように感じた。
トルコ独特のお酒としては、水で割って飲むラク(Raki)がある。アルコール度数は45度くらい。無色透明なのだが 水を加えると白く濁るので“ライオンのミルク”と呼ばれるそうだ。
このラクは見た目はいいのだが、ちょっと匂いがあって、あまりおいしいとはいえないお酒だった。
イスラムではお酒は禁止なのだが、トルコではそれほど厳しくないようだ。ビールもあちこちで売っていて、 各地のビールはそれぞれおいしかった。
シシ・ケバブ ラク
シシ・ケバブと、水で割ると白く濁るトルコ独特のお酒「ラク」

そして、トルコのお菓子として有名なのは「ロクム」で、お土産の定番となっている。
ゼリーというか、お餅とういろうを合わせたような食感のものに砂糖をまぶしたもので、サイコロのような形をしたトルコの 伝統的な菓子である。中にピスタチオ、ヘーゼルナッツ、アーモンドなどが入っているものなど、いろいろな種類のものが 売られていた。
食感はなかなかいいと思うが、ちょっと甘すぎるかなという感じもした。


最後に

トルコはアジアとヨーロッパの接点に位置し、文化も経済もそのはざまにある感じの国だ。そしてトルコ国民は 何とかヨーロッパに追いつこうと努力している。EUへの加盟が当面の目標ということだろう。
まだ発展途上の国だが、勤勉な民族である。きっと近い将来、先進国の仲間入りをすると思う。
その前提条件として、イスラムに固執するような方向に向かってほしくない。せっかくムスタファ・ケマル・アタチュルクが 改革し定着した政教分離の体制が無に帰してしまっては、先進国入りするための力をそぐことになるからだ。
また、同じアジアの血を引く民族として、将来にわたって日本との友好関係を継続してもらいたいとも思う。

この旅行に当たり、さまざまなことを教えてくれた現地ガイドのレヴェントさん、6日間4200qを一人でバスを運転し、 こまごました面倒を見てくれたギュルブスさんには、心から感謝している。
彼ら二人からは、次のようなメッセージをいただいた。

“Please say“HELLO”to Japan from us.”――レヴェントさんより
“We hope you liked our country. Please come again and stay longer.”――ギュルブスさんより

できることならもう一度訪ねてみたい国「トルコ」である。



旅行日程

 1日目 セントレア〔機中泊〕→UAE・ドバイ
 2日目 ドバイ半日観光→トルコ・イスタンブール〔泊〕
 3日目 イスタンブール市内観光、ボスフォラス海峡クルーズ→チャナッカレ〔泊〕
 4日目 トロイ遺跡観光→ベルガマ農村の古い集落散策→イズミール〔泊〕
 5日目 エフェソス遺跡観光→パムッカレの石灰棚、ヒエラポリス観光→パムッカレ〔泊〕
 6日目 エイギルディル湖畔散策→コンヤ・メブラーナ博物館観光→アクサライ・隊商宿→カイマクル〔泊〕
 7日目 カイマクル地下都市観光→カッパドキア観光→塩湖→アンカラ〔泊〕
 8日目 イスタンブール市内観光→UAE・ドバイ
 9日目 ドバイ〔機中泊〕→セントレア



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