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 Orange life


魅惑のフランス紀行

2005. 6.17〜 6.22



東海地方が梅雨に入って一週間。雲間から薄日がもれる朝、碧南からの空港バスを利用して 中部国際空港に向かった。
今回のツアー一行は37名プラス添乗員さんだった。驚いたのは大半が女性。男性は私も含めて 夫婦づれの4名だけであった。あとで聞いたらフランスは特に女性に人気があるのだそうだ。

空港は、午前中が出発ラッシュだそうで、チェックインに手間取り、搭乗までの時間的な 余裕はあまりなかった。
しかし、それからが長い空の旅であった。 TVモニターに飛行の現在位置が表示されているが、なかなか進まない。パリ直行便とはいえ 12時間はいいかげんあきてしまう。

シャルルドゴール空港に近づくにつれてフランスの大地が眼下にみえてきた。 そこはどこまでも続く緑の大地である。空港はパリの都心から20km くらいしか離れていないのに大きな建物は全く見えない。これがフランスの真の姿なのだという ことを予見させてくれるようであった。



《ルーアン》


フランスへの入国カードを書かなければならないが、添乗員さんいわく、「そういっては何ですが、 入国審査の係員は全くカードを見ませんから、何でもローマ字が並んでいれば結構です。少し 記入を間違えても気にしないでください」と。
実際そのとおりで、パスポートを出しても見向きもせず、すぐつき返してよこす。アメリカや カナダではしっかりチェックされるのとは対照的だった。

1日目はノルマンディ地方のルーアンまで行く。ここはパリから100kmくらい北西にあたる。 夕方であるが、夏時間もあって明るい畑がつづく高速道路を走り、セーヌ川の下流域にある町に着いた。

ボンネットバス 物売り
モネがたくさんの絵を描いたというルーアンの大聖堂と、長針がとれてしまって、短針だけが時刻を示している大時計

2日目の朝は快晴だった。8時にはホテルを出発してルーアンの中心に建つ「ノートルダム 大聖堂」へ。尖塔の高さ150m、クロード・モネが30枚以上も描いたというルーアンの 大聖堂である。前の広場に建って見上げると圧倒されるような感じだった。
大聖堂の中は荘厳である。外から見ると灰色にしか見えないステンドグラスが、美しい光を 堂内に投げかけていた。

大聖堂から西側の旧市場広場をつなぐ通りが大時計通りで、16世紀に作られた大時計が今も 時を刻んでいる。ただ、長針がとれてしまって、短針だけが時刻を示していた。
この近辺の道の両側には木骨組み壁(ハーフティンバー)の家が立ち並んでいる。 上階に行くに従って外側にはみ出すように作られた木造の家も目についた。その先が旧市場広場である。
ドイツなどにもあるようだが、私はこの木骨組み壁の家が好きだ。石造りの古い建物も 歴史を感じさせていいものだが、暖かな感じがする木の家とその街並は何ともいえまない。 伝統的な建物として残されているのであろう。
木骨組み壁の建物 マルシェ
木骨組み壁(ハーフティンバー)の家と、花の苗や野菜、果物などを売っている市場「マルシェ」

ルーアンを語る上ではジャンヌダルクも見逃せない。 彼女はフランスを開放した後にこの地に幽閉され、ここ旧市場広場で1431年に火刑にされたのだ そうだ。そこには十字架が建ち、ユニークな形のジャンヌダルク教会もあった。

そしてこのあたりは市場「マルシェ」になっている。花の苗や野菜、果物などを売っている テント張りの店なども並んでいた。 変った色形の瓜(すいかかもしれない)、りんご、さくらんぼ、などなど。あまりつややかな 色をしていたのでイチゴを1パック買ってしまった。5ユーロだったと思う。 ホテルで夕食のあとに食べようということである。
私たちが買ったのはパック入りだったが、ほとんど量り売りをしている。値段の表示も 1kg いくらと書いてあった。こちらの店員さんはお客さんが買うために並んでいても 一向にあわてない。一人のお客さんがすんでから、おもむろに次のお客さんの相手を してくれる。フランス人はそれが当たり前だと心得ていて、じっと待つのだそうである。 せっかちな日本人とは違うようだ。

フランス観光は、すばらしい天気の朝からスタートした。なかなかしゃれた街ルーアン を観光したあと、一路モンサンミッシェルへと向かう。モンサンミッシェルとその湾は 世界遺産に指定されている。 どんなところなのか、期待をもって出発した。



《モンサンミッシェル》


ノートルダム大聖堂、木骨組み壁のしゃれた街並、そしてジャンヌダルク終焉の地でもある ルーアンの街は大変気に入った。
そのルーアンをあとに約200km、世界遺産のモンサンミッシェルへと向かう。 バスはルーアンの町を出るとすぐ畑と牧草地、牧場が延々と続く高速道路を走る。この風景は パリからルーアンにくる途中で見た風景と全くかわらない。フランスはどこまで行っても 大田舎なのだろうか。

走ること3時間あまり、牧草地の向うにようやく特徴のあるモンサンミッシェルの姿が見えて きた。このあたりでは羊をたくさん飼っているのだそうだ。緑の牧場と羊の群れの奥に モンサンミッシェルがそびえている。
「あまり近くまで行くとモンサンミッシェル全体が写真に入らなくなる」ということで、手前の 道路脇にバスを止めてくれた。5分間の写真タイムということである。 旅行のパンフレットでよく見かける美しい姿を、ようやく生で見ることができた。
モンサンミッシェル全景 ラ・メール・プラール
モンサンミッシェル全景と、有名なオムレツの店「ラ・メール・プラール」

モンサンミッシェルは8世紀に、ノルマンディ司教オーベールが大天使ミカエルのお告げを受け、 ここに礼拝堂を建てた。以来、時代を追って増改築され、11世紀にはロマネスク様式の大聖堂と 修道院が、13世紀にはゴシック様式の回廊と食堂がつくられたのだそうである。

モンサンミッシェルには城門のような石造りの門をくぐっていく。入ったすぐのところに 「ラ・メール・プラール」というレストランがあるが、これがこの地で有名なオムレツの店 である。何でも19世紀末にホテル兼レストランを営んでいたプラールおばさんがつくって評判に なったというオムレツを、今でも同じレシピでつくって食べさせてくれるという レストランだそうである。
私たちもこのレストランではないが、もう少し奥に入ったところのにある店で名物の オムレツの昼食をいただいた。出てきたオムレツは、フワフワした感じのもので、 まずくはないが、特においしいというものではなかった。

ここからはみやげもの屋さんやレストランの建物が両側にびっしりと並ぶ、グランド・リューという 坂道を登っていく。 ときどき人の流れに渋滞がおきる。昔の巡礼者たちもこの細い道を登っていったのであろう。 坂道を登るにつれて視界が開け、きれいな海も目に入ってくる。
グランドリュ 屋上テラス
みやげもの屋やレストランが両側にびっしりと並ぶグランドリューと、屋上テラスからの眺望

途中団体の入場券売場で少し待たされた。専任のガイドさんと一緒に入らないといけないのだそうだ。
入場口から最上階のテラスまではすぐだった。ここからは下の駐車場やその先の牧草地が きれいに見える。修道院の尖塔はさらに上の方に突き出ていた。
西のテラスというところに出るとさらに視界は広がる。この時は干潮だったので、広くて 白い砂浜の先にきれいな海を見わたすことができた。

屋上庭園 テラスから一旦教会の中を通り、ちょっと下がると回廊に囲まれた屋上庭園に出る。 屋上にきれいな花が植えられた庭園があるとは知らなかった。その回りはわずかにずれながら 二列に組まれた小円柱でつくられた回廊「列柱廊」がある。この回廊の屋根もそうだが、 このあとに見学した大きな食堂の屋根も木造である。壁や柱は石造だが、屋根は軽くしようと 考えたつくりになっているのだ。

このあと、沈黙のうちに食事をとったという広い食堂、迎賓の間、礼拝堂など順路にしたがって 見てまわった。一ついえることは、内部はほとんどがらんどうで、イスや机もない。 そして、建物内のところどころに岩が露出している。これはモンサンミッシェル修道院が岩の上に 建てられていることを示している。
こういうところを訪ねるといつも思うのだが、現代のように建設重機もない時代によくこんな 大きな石の建物をつくったものだと感心してしまう。数世紀にわたる長い年月と多くの人力を 集めてつくらせたものは彼らが心から信ずる宗教の力だったのかもしれない。
下まで降りて見上げると教会の尖塔がのしかかるように見えていた。

さてこの日はロアール地方のブロアという町まで行くことになっている。 再びバスに乗り込むと、ひたすら畑と牧場・牧草地の中を走る。
牧場
ヨーロッパを旅行馴れしている人は心得ているのだろうが、われわれのように初めての人は 気をつけておかなければならないことが2つある。それは水とトイレである。
このところフランスは暑い日が続いていて、この日も30℃を超えたそうだ。乾燥して いるため、日本の夏のような暑さは感じないが水分補給はどうしても必要である。 そこでミネラルウォーターを常に確保しておかなくてはならない。幸い、バスの運転手さんが クーラーボックスにたくさん入れて持っていて、一本1ユーロで売ってくれるのでいいのだが、 普通は準備しておくことが必要である。
もう一つはトイレ。レストランでは無料で利用できるので、必ず使用しておくこと。 高速道路では日本のようにサービスエリアやパーキングエリアがほとんどない。 モンサンミッシェルからブロアまでの間に一ヵ所だけサービスエリアがあり、 利用することができた。長時間移動のときは気をつけた方がいい。

ロアール地方に向かう途中にあるルマンでレースが開催されて道路が渋滞する 可能性があるというので少し遠回りをし、3時間少しかかって今日の宿泊地ブロアのホテルへ 着いた。 夕食はホテル内のレストランである。ロゼワインも付いて、おいしくいただくことができた。
今日は暑い中を合計450kmくらいバスで移動したことになる。やはり少し疲れた。 明日はこのロワール地方の古城めぐりを中心に観光し、パリまで戻ることになっている。



《ロワールとシャルトル》

今日も朝から快晴である。すかすがしい空気の中、バスは8時に出発し、まずはシャンボール城に 向かった。
ロアール地方の畑の中の道を走り約50分、シャンボール城は広い森の中にある。
四隅に円形の塔が配置されていて実に優美ではあるが、お城の上部には小さな塔がいくつも いくつも突き出ているため、ごちゃごちゃした感も否めない。
ここで狩猟を好んだフランソワ1世によって1519年から建造され、その後アンリ2世が1539年に 手を加えたそうである。さらに17世紀にはルイ14世の命で大改修が行われ、400以上の部屋、70の階段、 365の煙突を有するロワール地方で最も大きいお城になったということである。
中には入れなかったが、広大な前庭の奥に建つ姿はやはり世界遺産である。 シャンボール城全景

シャンボール城を後に次のシュノンソー城へ向かう。
途中は、またまた畑がどこまでも続く道である。時々ロワール地方ののんびりした村を通り、 いくつかの城を車窓から眺めながらバスは走って行く。
後で行ったにぎやかな華の都パリもいいが、どちらかといえば、このロワール地方の 静かなたたずまいの田舎町や古城の風景の方が心に残ったように思う。

一時間ほどでシュノンソー城に到着。例によってまずはトイレということになる。
大体そうだが、お城への入口にあるこの公衆トイレは40セントで、取っ手の脇のところに コインを入れるとドアが開けられる仕組みになっている。しかし、ドアを一旦閉めてしまわ なければそのまま次ぎの人が入れる。最初に入った人だけは40セント必要だが、並んで待って いる人たちは、ドアを閉めないで次ぎ次ぎ入るのでみんなタダということになる。 すなわち団体様ご一行40セントということであった。ちなみに、男性用トイレもブースになって いるので同じである。
ちょっとみみっちい話になったが、お城は立派である。まずはアプローチの並木道。何の木か わからないが数100メートル続く広い道いっぱい木陰をつくってくれていた。
その並木を抜けると大きな庭園が左右に広がり、その先の川をまたぐようにきれいなお城が 建っている。これがシュノンソー城で、きれいな水が流れる川はロアール川の支流のシュール川 だそうだ。

シュノンソー城全景

このシュノンソー城は16世紀に財政出納官ボイエの妻が築いて以来、6人の女性が城主として 君臨してきたため「6人の奥方たちの城」とも呼ばれているそうである。 女の城だけあって、正妻と愛人など女同士の確執が残されているようだ。
女性の戦いの歴史はなかなか覚えきれないが、お城の中には立派な礼拝堂やギャラリーのほかに 居室としてのたくさんの部屋がある。 部屋には当時の暖炉や家具類のほか、多数の絵画が掲げられていて美術館のような感じになって いた。
お城にも生活の臭いは残っていた。地下にはキッチンや奉公人の食堂もある。大きな調理 器具、無数のナベ類、食材をきざんだ大きな俎板(まないた)は中央部が大きくへこんでいた。 そのほか食用動物を調理したと思われる大きな包丁などもあって驚かされた。
こうしたお城での生活ができる人たちの権力と財力はいかばかりだったのだろうか。きっと 庶民の生活とは大きくかけ離れたものだったと思う。

ロアール地方にはたくさんのお城・シャトーがあるが、その性質は大きく二つに分けられる のだそうだ。
一つは城砦と呼ばれる、11〜15世紀にかけて建てられた軍事・防衛目的の城。
もう一つはルネッサンス期に入って築城された王侯貴族の住居としての優美な城館で、当時は その規模や装飾の豪華さが、そこに暮らす一族の地位、財力、文化レベルを象徴すると考えられ ていたそうである。 私たちが訪れたシャンボール城やシュノンソー城は後者である。実際にお城を見て、この解説に 納得がいった。

ブロアの町のレストランで昼食の後、シャルトルへ向かった。
ブロアからシャルトルまで100数十キロメートル、約2時間バスが飛ばす。 この間、またまた広大な畑と牧草地の中の道を走る。5分ぐらい走るごとに小さな村があり、 村には必ず尖塔を持つ教会が建っている。この限りなく続く風景はもう食傷気味といった 感じである。
そうとう疲れたころにめざす『シャルトルの大聖堂』の姿がようやく目に入ってきた。 もうじきバスから降りられると思うとホッとする。

シャルトルの大聖堂『ノートルダム大聖堂』も世界遺産である。
シャルトルの大聖堂 シャルトルブルーのステンドグラス
シャルトルの大聖堂と、シャルトルブルーのステンドグラス「美しき絵ガラスの聖母」

4世紀に建造された教会で、再建と焼失を繰り返し現存の建物は大半が12〜13世紀に 建てられたもので、南の鐘楼(右)は12世紀ロマネスク様式、北の尖塔(左)は16世紀ゴシック 建築になっている。

大聖堂の入口には動物や聖者のレリーフがあるが、これはキリストの物語になっていて、 文字が読めない人でも信者にはキリストの話しがわかるのだそうだ。私にはとてもわからなかった が・・・・・・。
中に入ると目が慣れるまでは真っ暗である。その薄暗さがいっそう荘厳な感じにしている。 どの壁面もステンドグラスがはめこまれている。「美しき絵ガラスの聖母」 は深い色調のステンドグラスで「シャルトルブルー」といわれる。

シャルトルの観光を終え今日の宿泊地パリへと向かう。シャルトルから1時間半、さすがに 大都会パリである。道路は錯綜し渋滞していた。しかし、フランスに着いて2日半、ほとんど 畑の景色しか見てこなかったので、こうした街に入るとようやく日常が返ってきた感じがする。 どこかホッとするというのは異常なのだろうか。
街中のレストランで夕食をとりホテルへ着いたのは夕方7時半ころであった。でも、ここは北国、 夏時間で太陽はまだこうこうと輝いていたが、今日も長距離移動で疲れていたので 早めに寝ることにした。
明日は華のパリの市内観光である。


《パリ》


4日目も朝から快晴である。きょうもきっと暑い日になることであろう。
8時30分にホテルを出発しパリの街中をバスで走って行く。建物は石造りが多く、 どこを見ても古いものばかり。聞いてはいたが、改装していいのは内部だけで、外観はその ままに残さないといけないのだ。 コンクリートミキサー車から長いホースを建物の中に引きこんでリフォーム工事をしている ところを見かけた。
通りがかったシャンゼリゼ大通に面したルイビトンの本店も大改装中で、こちらは 建物を覆うテントのかわりに、実におおきなビトンのバッグで目隠しをしていた。 費用はかかるだろうが、さすがブランドものの王者ルイビトンだと感心した。

以前は観光バスを駐車してパリの市内の名所見学をすることができたそうであるが、今は交通の 妨げになるというのでほとんどバスから下ろしてくれない。車窓観光ということで残念な 気がする。
したがって、下車観光できたのはシャイヨー宮とルーブル美術館だけであった。
シャイヨー宮からのパリ市街の眺望はいいのだが、逆光のためいい写真をなかなか撮ることが できなかった。

改装中のルイビトン本店 オペラ座
改装中のルイビトン本店と、オペラ座。交通の妨げになるということで下車観光はできず車窓観光

ルーブル美術館は入館待ちでの人たちであふれている。 団体客は時間指定の予約で入場させているようだが、それでもだいぶ待ち時間があった。
待ち時間を利用してトイレタイムがとられた。ルーブルのトイレは50セントである。 シュノンソー城ではトイレのドアを閉めずに次の人が入れたので40セントで全員が用足しを することができた。しかし、ルーブルでは係員がついているため並んで入った女性トイレ でも全員40セントが必要だったそうである。当然のことではあるが・・・。

ルーブル美術館の展示はすばらしいと思った。
大きな絵画が壁面いっぱいに展示されているし、日本の美術館や展覧会とは違ってすぐ目の前の 手でさわれそうな位置から観ることができる。 写真撮影もフラッシュをたかなければ自由というのもおおらかでいい。 ただ、先日の報道では、「モナリザ」の絵などの前で見学者の大渋滞が起きるため、撮影禁止にした とのことである。
残念ながらこの広い美術館をくまなく見て回ることはできない。まして団体ツアーでは仕方の ないことである。
民衆を導く自由の女神 ミロのビーナス
「民衆を導く自由の女神」と、ミロのビーナス

そんな中で最も私の印象に残ったのは「ナポレオン一世の戴冠」の絵であった。この絵は8m×6mと いう大きな絵で圧倒される。3つほど異なる点があるというが、同じ絵がヴェルサイユ宮殿 の方にも展示されている。翌日そちらの絵も見ることができた。
そのほか、ドラクロアの大作「民衆を導く自由の女神」などの絵画や、「ミロのビーナス」、 ミケランジェロの「瀕死の奴隷」、「サモトラケのニケ」など有名な美術に接することができて よかったと思う。

この日は午後からゴッホ終焉の地である、オーベルシュルオワーズへ行くことになっている。
そこにはゴッホが拳銃自殺するまで住んでいた家やお墓がある。 また、死までの短期間に描いた絵のモデルとなった教会などの建物や広大な畑の風景が あるところだ。
今日は美術鑑賞の一日ということである。


《オーベルシュルオワーズ》


パリ郊外のオーベルシュルオワーズへ行くオプショナルツアーが、急に催行されることになった。 日本出発時には人数が集まらず、中止だと聞かされていたのだが、2名追加参加があったのだそうだ。
オーベルシュルオワーズは、後期印象派の画家ゴッホ終焉の地である。精神を病んでいたゴッホが この地で療養していたある日、下宿していたレストランの2階で自分の胸に拳銃を発射して自殺 したのである。
自殺するまでの2ヵ月間に、この地で70点あまりの作品を残したそうである。

オーベルシュルオワーズへは、凱旋門近くのレストランで昼食後バスで出発した。 このバスはパリ郊外に延々と続く畑の中を行く。
パリから25kmくらいだと聞いていたのだが、いつまでたっても目的地に到着しない。 あとになってわかったことだが、この畑や牧草地が続く田舎の風景を見せるのも この観光の一部だったようである。
でもわれわれはこれまでの3日間、いやというほどこうした風景を見てきたので、単に 退屈するだけであった。
1時間半くらいかかり、ようやく小さな街オーベルシュルオワーズに到着。バスを 降りた目の前がゴッホが自殺をはかった下宿であった。そういわれなければただ普通の家である。
ここはゴッホ終焉の地が売りものの街なので、ゴッホの風景画が、それを描いた建物や風景の 前に展示してあった。
こうしてくれると、私のような素人にもわかりやすくていいと思う。
ゴッホが描いた教会 ゴッホが描いた教会の絵
《ゴッホが描いたオーヴェルの教会とその絵》

晩年の傑作といわれる『オーヴェルの教会』の絵となった教会(上の写真)から坂道を登って 5分くらい行ったところにゴッホのお墓がある。 塀で囲まれた100m四方くらいの共同墓地で、ゴッホのお墓はその最も北につくられて いた。
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853 - 1890)のお墓は、絵が売れなかった時代の彼を経済的に支えた、 弟のテオ・ゴッホ(1857 - 1891)のお墓と並んでつくられている。そして写真のようにひまわりが 供えられていたのが印象的であった。

さて、このゴッホの街の観光はよかったのだが、ここで問題が起きた。トイレがないのである。
フランスのトイレ事情は前にも述べましたが、この街には全然トイレがみつけられない。 レストランのトイレを借りようとしたが、午後のこの時間は店が閉まっているのである。 それではということで駅にも行ってみたがトイレはなかった。
パリからここまで来るのに時間が相当かかっているので、帰りも同じくらい時間がかかることを 考えると皆が不安にかられる。バスに乗ったまましばらく探した後、やっと1軒の喫茶店 が見つかった。添乗員さんと運転手さんがコーヒーを注文することで、われわれ皆がトイレを 借りられることになったのだ。
観光地なのに公衆トイレがないという、日本の常識とはちがうお国柄をよく認識させられた。

もう一つ、夕方7時からセーヌ川クルーズの観光が予定されていて、その時間に間に合うのか ということも心配になっていた。 パリからオーベルシュルオワーズまで1時間半もかかっているので、これから戻っても 間に合わないかも知れないという不安である。
ところがどっこい、トイレを借りた喫茶店から5分も走らないうちに、バスが高速道路に入る ではないか。最初にもふれたように、高速道路を使えばパリの中心部まで40分 ほどで行くことができるのだった。
心配は無用。そういうことだったのかと、一同あきれるやら納得するやらで笑ってしまった。 おかげさまでゆうゆうとセーヌ川クルーズの時間に間に合ったということである。

パリに戻り、今日最後の観光はセーヌ川クルーズである。
甲板が客席になった大きな船で約1時間、セーヌ川の両岸に広がる歴史ある建物などを見ながらの ゆったりとした観光であった。
クルーズ船とオルセー美術館 ノートルダム寺院
クルーズ船から見るオルセー美術館と、ノートルダム寺院

夕方7時出発のクルーズだった。夏時間でもあり、当然のことながらまだまだ昼間。 それでも真昼の暑さではなく、川風に吹かれながらの気持のよい観光であった。
ただ、観光案内はルーブル美術館の説明だったと思いますが日本語はたった1回だけ。 あとはすべてフランス語、英語、中国語だったため、聞いていてもさっぱりわかりません。 もらったパンフレットと見比べながら、あれがノートルダム寺院だとか、パリの市役所だ とか確かめるのがたいへんだった。
エッフェル塔 シャンゼリーゼ通り
クルーズ船から見たエッフェル塔と、夕暮れ時のシャンゼリーゼ通り

もっと日本語の案内があればと思ったが、船に乗っている日本人はわれわれのツアーの メンバーだけ。あとはみんな外国人(?)なので仕方ないのかなあ、とあきらめの気持でも あった。
フランス、イタリアなどは日本人観光客もたくさんでかけるようだ。しかし、まわりを 見わたすと陸続きのヨーロッパ系の観光客が圧倒的に多いようで、遠いだけにアジア系の 人たちの割合はまだ少ないということかもしれない。

この後は街中のレストランで遅い夕食をとって終りである。
今日も暑い一日でだったが、ルーブル美術館でモナリザ、ナポレン1世の戴冠、メデュース号の筏 などの絵画やミロのビーナス、サモトラケノニケなどの彫刻、さらにオーベルシュルオワーズで のゴッホの絵など、充実した美術鑑賞の一日を過ごすことができたすばらしい一日となった。
明日はフランス旅行最後の日、ベルサイユ宮殿行きが予定されている。



《ベルサイユ》


フランス旅行の最後はベルサイユである。
今日も朝から青空。昨日に続いてガイドはクリスチャンさんである。
パリに入るまでは女性添乗員の松川さんが、すべて案内・説明をしてくれていた。 この松川さんはよく勉強されているようで、観光案内はもちろんフランス人の性格や 生活についてもよくご存知なのには感心した。
それでも全部一人で案内するのも大変なことだと思っていた。聞いてみると、 田舎のほうでは日本語を話す現地のガイドさんが少ないので、添乗員自ら案内もしな ければならないのだそうだ。さすがにパリまでくるとクリスチャンさんのようなガイドさん がたくさんいるようである。
ちなみにクリスチャンさんは40歳代の男性で、名古屋に5年くらい留学していたそうである。 山崎川のお花見だとか、きしめんやエビフライがどうのこうのといって、みんなを 笑わせていた。

ベルサイユはパリ市内から17kmというからそれほど遠くはなかった。 バスを降りるとすごい観光客が集まってきているのに驚いた。それにもまして、きらびやかな 門扉からはじまって宮殿建築物壮大さには圧倒された。

ベルサイユは宮殿と庭園で構成されている。 団体客は宮殿に入場する時間が予約されていて、それまで少し時間があるというので先に 大庭園を見に行くことにした。
1人3ユーロの入園券を買って入ると広大な庭園が広がっていた。花壇や池、噴水、彫刻 が点在し、長大な運河まで配されている。
ラトナの泉水 彫像とベルサイユ宮殿
広大な庭園にあるラトナの泉水と、彫像とベルサイユ宮殿

限られた時間で庭園全体を見て回ることは不可能である。宮殿正面にある大きな池、ラトナの 泉水、その先の花壇を散策。西側に広がる幾何学模様の庭園をぐるっと一巡りしてきた。 それでもほんの一部分を見てきたに過ぎない。

集合の時間にあわせて宮殿見学の入場口に戻ったが、ここでしばらく待たされることになった。 団体さんの見学客が多く、なかなかわれわれの順番が回ってこない。20分くらい遅れて ようやく宮殿に入場できた。

宮殿内は聞きしに勝る豪華絢爛な装飾や絵画には圧倒される。フランス絶対王政、ルイ14世 が巨額の費用と歳月を費やし、フランスを代表する芸術家を招いてつくらせただけのことは ある。
この贅沢と宮廷の浪費を考えるとその後の民衆の反発、フランス革命にいたる道筋は当然の 帰結のように思われた。
アポロンの間の天井絵 鏡の間
アポロンの間の天井絵と、まばゆいほど豪華な鏡の間

宮殿の中は、礼拝室、豊饒の間、メルクリウスの間、アポロンの間、などを見て有名な鏡の間 に入る。このときは鏡の間の半分が改修中だったが、それでも、まばゆいほどの豪華さを 感じた。
左側が鏡、右側が窓になっていて、先ほど行ってきた大庭園をみわたせるようになっているのだ。 この宮殿の住人はこの景色をわが物として楽しみ、暮らしていたのだろう。

鏡の間から平和の間、王妃の寝室、衛兵の間を過ぎると戴冠の間に入る。ここに ルーブル美術館に展示されていたものと基本的に同じダヴィッド作『ナポレオン1世の戴冠』 の絵が掲げられていた。
横9.8m、縦6.2mという大きな絵であるがすごい人でなかなか近づいて見ることが できなかった。

ベルサイユのナポレオン1世の戴冠 ルーブルのナポレオン1世の戴冠
《ベルサイユのナポレオン1世の戴冠》と《ルーブルのナポレオン1世の戴冠》

圧倒されたベルサイユ宮殿見学を終えたころはもうお昼時になっていた。 宮殿の近くにあるカフェまでみんなで歩いて行って昼食をとることになった。 パリではカフェに入る機会はなかったが、ここベルサイユの街でカフェを体験 できることになったわけである。
カフェは道路側に開かれた形式であるが私たちは店の中の方へ入った席を確保した。 実はあとで気が付いたのだが、若い人たちはみんな通りに張り出されたテントや オーニングの方に席を取っていた。そのほうがカフェでは自然な感じがする。 こんなところのも年齢の差がでるようである。
カフェ ミシン屋さん
昼食をとったカフェと、町のミシン屋さん

昼食後出発予定時間までベルサイユの街を散策した。
この街も歴史があるのだろう。石造りの街並が続いている。1684年に建てられたという ノートルダム教会もあった。そして、花屋さん、本屋さん、ミシン屋さんなどなど。 会社勤めのころミシンの担当をしていたこともあった。つい昔の商売っ気がでて ミシン屋さんの写真も撮ってしまった。

このベルサイユの観光で今回のフランス旅行もおしまいである。かねて一度は 行ってみたいと思っていたヨーロッパへの旅が実現できた。
今回の旅を振りかえってみて、パリでは古くローマ帝国時代の遺跡も見られた。ジャンヌ ダルク終焉の地ルーアン、ルイ王朝のベルサイユにも行き、そしてフランス革命をへて現在の フランスの姿をみることができた。つまらない表現だがヨーロッパは古い歴史を持つところだ なあということが実感できた旅であった。

蛇足をいえば、フランスでは食事は結構おいしかった。フルコースなどはなかった。 一般にフランス人が日ごろみんなフルコースのフランス料理を食べてはいないであろう。
昼食も夕食も、前菜が出て、チキンなどのメインディッシュ、それに毎回いいろいろだったが デザートがつくというのものであった。
以前カナダに行ったときはおいしい食事にありつけなかったが、フランスの食事は 合格点であった。確かパリでの昼食だったが、エスカルゴはおいしかった。 ここでは丸い直径20cmくらいのたこ焼き器のような食器に丸い穴が10個ほどあいていて その中にエスカルゴが1つづつ入れてあった。これが今回の食事のベスト1である。

それにしても飛行時間12時間。パリとセントレア直行便とはいえ長くて遠い。 ヨーロッパへまた行こうとすると一大決心がいるようである。



今回の旅行行程
 〔1日目〕中部国際空港→シャルルドゴール空港→ルーアン〔泊〕
 〔2日目〕ルーアン市内観光→モンサンミッシェル観光→ロアール地方・ブロア〔泊〕
 〔3日目〕ロアール地方の古城・シャンボール城、シュノンソー城観光→シャルトル大聖堂→パリ〔泊〕
 〔4日目〕パリ市内観光→ゴッホ終焉の地・オーベルシュルオワーズ観光→セーヌ川クルーズ→パリ〔泊〕
 〔5日目〕ヴェルサイユ宮殿観光→シャルルドゴール空港→
 〔6日目〕→中部国際空港


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