榎狸

今から、約三百五十年の昔、慶長九年(1604)に今治城を築いた藤堂高虎侯が、家来を召し連れて、今治城下をあちこち視察してまわりましたが、ある時、今の榎町のあたりへ来た時、この地の人たちに、「築城記念に余(余は自分の意味)の木を植えよ。」と命じました。
 村人たちは、『余の木』と言うことを十分理解することが出来ず、早合点して、『エノキ』(榎)を植えました。

 榎は年とともに成長し、数百年の樹齢を数える頃には、大人三人でかかえかねるくらいの大老木になりました。そして、いつのころからかこの大老木に、一匹のはげ頭の大きな狸が住むようになりました。だれいうとなしに、この狸を榎狸とよびました。

 この界わいには、妙なものに化けて人をだましたりする意地の悪い狸がいましたが、榎狸に限ってそんなうわさもなく、近くの鴨部神社(東禅寺だという説もあります。)の使い走りをよくしていました。

 ところで、ある夏の暑い日、清水の八幡さんにお使いを済ませての帰り、暑さと疲れで、榎の近くのなすび畑の日陰でうたたねをしていたところを、蔵敷の住人に見つけられ、棒を手にした数人の者に追いたてられ、逃げ道を失って井戸の中へ転落してしまいました。それを無残にも竹ざおで突きたてられ、あえない最期を遂げました。その晩、狸退治(?)をした人達を中心に、隣近所の人たちが皆で狸じるを作ってにぎわいました。

 ところが、その後、狸退治をやった連中や家族、それに狸じるをよばれた者が、次々と変死したり妙な病気にかかるなど、珍事が続出しました。この地の人たちは、これはてっきり榎狸のたたりだと大いに恐れ、有志の間で相談の上、祈祷をしてもらい、その結果、現在の毘沙門天(蒼社町一丁目)の隣地に新宮を造り、「高砂八幡」としてお祭りしました。その後、従前ほど、災難は起こらなくなりましたが、それでも、まだぼつぼつ変な病気になる人が後を断ちませんでした。

 そこで、鴨部神社の境内に新たに「お狸様」と称する宮社を造り ―蔵敷町の故青野小三郎氏の発起によるもの― 一層てい重にお祭りしたところ、その後、ぷっつりと災難がなくなったということです。

 大正末期にこの地方が台風に襲われた時、老齢に耐えかねた榎は倒れてしまいました。二代目の榎が、その後植えられ、かなり大きく成長していましたが、それも現在は切られてなくなり、榎のあとに商家が建っています。

 特に、第二次世界大戦で、今治が空襲にあい、近くの家が焼失しているにもかかわらず、榎狸を祭った宮社が焼けなかったこと、十数年前、榎の近くで火事にあった際も、榎の近くに住んでいた榎狸の信者の家が、榎にさえぎられて焼けなかったこと等、偶然と思われる面もありますが、このようなことが重なりあったことが「お狸さん」の人気を高めているようです。とりわけ、老人の中に「お狸さん」お参りすれば、『ご狸(り)やく』ならぬ『ご利やく』があるとかで信仰する人が多いそうです。

 榎の木はなくなりましたが、榎町という地名と榎狸の宮社が、榎狸の名ごりをとどめています。

(大沢文夫著 今治地方の伝説 より)

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