明堂さんとお袖狸

 越智郡大西町の大西駅から約2キロの位置にある重茂山の麓の大西町山之内に明堂菩薩をお祭りしたお堂があります。
 このお堂は、南北朝時代の昔 ─詳しくは延元三年(
1338)― この地でなくなられた後醍醐天皇の第六皇子尊重親王の霊を祭るために天正年間(15731592)に河野一族の重茂山城主岡部忠重が創建、仏像を安置したのにはじまると言われます。このあたりの人は、このお堂を明堂さんとか明堂本尊、明堂菩薩と言って尊崇しております。

 この明堂さんは、昭和九、十年頃(19341935)沢山の参詣人でにぎわいました。この明堂さんの端にある大榎(山桃という説もあります。)のほら穴に、松山市の市役所前の堀端の大榎に住んでいたと言われる狸が移り住み、人々の願いをよくかなえたそうです。この狸は、先祖が松山城に住んでいてお袖狸とか八股榎大明神と呼ばれ末永く松山城を守った血統つきの狸族です。難病奇病をよく治しましたが、特に明堂さんの大榎をなで、そこへ灸をすえると、すごく効き目があったそうです。このお袖狸も一年ほどここにいましたが、きれいな」娘さんに化けた松山の仲間数匹に迎えられて、元の松山に帰ってしまったそうです。

 諸病の回復、安産の守護、商売繁昌、金運の恵与等お袖狸の化身と言われる明堂本尊が大活躍した当時は地元の大西町山之内の明堂さんに至る街道筋から今冶市、菊間町の主だった道路筋は、参詣人で長蛇の列が延々と続いていたそうで、昼は言うに及ばず、夜も勤めを終えた人でいっぱいだったということです。当時はタクシーよりも人力車に利用が多かった時代でしたが、人力車にしても自動車にしても利用したのはごく一部の人で、ほとんどの人が歩いて参詣しました。しかも、脇、山之内から明堂さんに至る道路は、道幅が狭かったので、歩く人で一ぱいになり、人力車や自転車で参詣するのはかえって手間どったようです。

 参詣者の範囲も広く、島しょ部は言うに及ばず、中国、近畿、九州をはじめ遠くは関東、東北、北海道地方の人々まで見えました。また、脇、山之内にかけての沿道には、参詣人相手のにわか商売人の露店が並び人並みでごったがえしました。それから大西駅
(当時は大井駅と言いました。)が、人の乗り降りで混雑した ―一日の乗降客がふだん二百名程度であっものが、五千〜六千名と二十五〜三十倍という繁昌ぶりだったと言われています。― ほか、今冶、大西、菊間の浜辺にもあちこちから船がやってきてにぎわったそうです。

 お袖狸が元の古巣の松山へ帰って以来ご利益ならぬご狸益も余りなくなり参詣者もぐっと減りました。しかし、依然として熱心な信者にはご狸益があると今も沢山の提灯が奉納され、県内は言うに及ばず広島県山口県方面の信者の参詣人もいるようです。信者の間では、このようなことは九十年目ごとに訪れてくるとされ、次は平成三十七年頃(2025年頃)にブームが訪れてくると真偽は別として熱心な信者の間で言われています。


(大澤文夫著 今治地方の伝説集より)


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