購入
マイナーチェンジ
8ナンバーへの構造変更
アルミタイヤ購入
リフトアップで地下駐車場に入らない
アルミホイールの規格
トルコンオイル交換
ハブボルトが折れた
ブレーキパッド固定用スプリングが折れた
マフラのテールエンドが折れて無くなった
売却
再会
ランクル60GXを乗り始めて4年後、昭和62年にまたもランクル60を買った。「同じ車に買えてどうすんの。」なんて言われたりもした。もう僕には何をさしおいてもランクルしか目に入らなかった。今度は新車だ。社会人になって羽振りも良くなった性もある。グレードは当時の最高峰VXだ。トルコンでエンジンは12H-Tのターボ付き4200cc。メカニカルウィンチも付けた。また、寒冷地仕様にしたのでラジエターシャッターやフロントシートヒーターも付いている。ラジエターシャッターは手放すまで一度も使わなかったな。でもシートヒーターは随分使った。何しろ冬場はエンジンがまるで暖たまらない。冷却水が多すぎるんじゃないかと思う程だ。そこでシートヒーターは重宝した。お尻がぬくぬくになる。内装もかなり良くちょっとしたラグジュアリーカーだ。なんとサンルーフまである。このサンルーフもほとんど開けなかった。たまに開けるとバキッという音がした。ゴムが貼りついているのだ。これこそ要らないものだと思う。12H-Tエンジンは3Bエンジンとは比べ物にならない程静かで高速もストレスを感じ難くなった。これなら箱根越えも楽勝だ。納車後すぐに、お決まりになったコンポの移植。
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そして、以前のランクルで履いていたアルミ・タイヤの交換。そして、岡崎にある4駆ショップのミラノへ直行。グリルガード、大型のフォグランプ2個、背面スペアタイヤキャリー、ターボタイマー、3インチアップのリーフスプリングにロングシャックル、ショックアブソーバーはランチョをセレクトした。全部で30万円くらいだったかな?
ある日新聞でランクルモデルチェンジの記事を見つけてしまった。6月に買ったばかりなのに、8月にマイナーチェンジしてしまった。外装は丸目のライトから角目に、VXはオーバーフェンダー付きで純正で10.5Rのタイヤを履く。インパネも若干丸みを帯びたものになった。止めときゃいいのに急いでディーラーへTEL。追い金90万円だってさ。誰が変えるか!。いまでこそ認知されているクロカン4駆だが、当時はあまり一般的な車ではなかったからか、たった2ヶ月でも価値は急降下するもんだね。ほんとに聞かなきゃ良かったと思う。
この当時は1ナンバーから8ナンバーへの構造変更はあまり一般的でなかった。本当にキャンパーとして使う人たちだけが8ナンバーを取得していた時代だ。ランクル用キャンパーキットなんて売られているはずも無い。もちろん僕も1ナンバーのままだった。今思えば8ナンバーにしときゃ良かった。維持費も相当違ってただろうに。なにしろこの車を11年も乗ることになるとは思ってもいなかったからな。
その内スタッドレスタイヤを購入した。何を思ったか鉄チンにした。これを履くとなんとも不細工で、幻滅してしまう程だ。大きな後悔をした。マッドデュラーもそろそろ坊主かなって時に実家の近くのトラック会社の社長がアルミタイヤを買わないかって話が合った。社長が乗っている日産サファリでなく子供のハイラックスに履いていたものだそうだ。アルミはなんと僕の履いているものと同じラグナ7J-15。タイヤはBFグッドリッチのマッテレ31-10.5Rだった。1本のリムが少々つぶれているものだったが、タイヤは8分山程度だったので買うことにした。4本で5万円で買った。つぶれたリムは大型ハンマーでぶったたいて補修し、後はバランスが取れれば良しとした。ここでアルミ(ラグナ)が4本余ることになるので、スタッドレスを鉄チンからこのアルミに変えた。この時点で僕はアルミタイヤを9本、鉄チンホイールを4本、車検用のタイヤが4本と、ガレージがタイヤだらけになってしまった。
ある日久しぶりに名古屋へ出かけた。彼女と一緒に。都会はほとんどが地下駐車場だ。どこを見ても高さ制限2m。ノーマル車高が1945mm、リフトアップ100mmだったから、2045mmにもなっている自分のランクルは当然入れない。45mmぐらいどうにかなるかと思ったが、入り口の係員に言われたり、警告灯が付いたりブザーが鳴ったりで、結局どこにも入れなかった。「二度と名古屋に車で行くもんか」とその時は思った。数日後、僕はミラノにTELしていた。「ノーマル車高に戻したいんですけど」ってね。で、半年前に大金は叩いて買ったリーフスプリング、ロングシャックル、ショックアブソーバーを依託販売という形でミラノに預けた。でも結局売れなく、どぶに捨てたも同然になってしまった。あ〜もったいない。でも「これで彼女と車で名古屋に行ける。」でも冷静に考えてみよう。電車で行けばいいんじゃないの。なぜ大金叩いて買ったサスを戻さなくちゃいけなかったのか?そんなこと今の僕にはさっぱりわからない。これもまた、若気の至りか。
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1ナンバーのため毎年車検だが、この度に僕は3連休を取り実家へ帰った。ほとんどの事を自分でやって、コストを抑えるためだ。そのため車検用の鉄チンホイールとタイヤも実家に置かせてもらっていた。いつもは車検に通らないタイヤ履いてたのかって言われそうだが、それも事実である。(ゴメンナサイ。)でもちょっとだけいい訳させて欲しい。
ホイールひとつとっても日本の車両運送法は厳しく定義されている。乗っていたランクルは1ナンバー、つまり普通貨物車に分類される。4ナンバーが小型貨物車、3ナンバーが普通乗用車、5ナンバーが小型乗用車だ。ここで注目すべきは車両が貨物車か乗用車かの違いである。そしてアルミホイールの規格にも幾つかの種類があり、日本で一般的なものにJWL規格と、JWL-T規格がある。違いは強度。末尾にTが付いている方がトラック規格で強度が高い。
さあ、ここで先程の車両区分と、アルミホイールの規格でまとめると、貨物車はトラック規格であるJWL-T規格のホイールを履かなければならない。と、こうなるわけだ。それで、僕が履いていたアルミホイールはJWL規格。つまり、車検に通らない。
さて、ここからが僕のいい訳。
それでは、ここで仮にランクルを構造変更手続きしてキャンピング車(8ナンバー)にしたとしよう。そうするとどうだろう。車両区分は特殊車両になり、ホイールはJWL規格でいいことになっちゃう。車両重量はキャンパーキットの分だけ重くなっているのだから、本当はこっちこそJWL-T規格にしなくちゃいけないと思うんだが...。(もしかして僕の言ってる事あってる?)現に、その辺のモータースなんかの民間車検であれば、何事もなく通っちゃうんだよね。僕も最初は民間車検受けてたし。実家は、車検のための設備が無いんで、陸運局の車検場へ持っていくことになる。ここでは当然NGとなるわけだ。
だからって良い訳じゃないんだろうな。矛盾してても法律なんだから。
#今の車両運送法がどうなっているのか知らない。車検法も大改正したんだからもしかして何か変わってるかもしれない。興味ある方は調査の上、メッセージボードへカキコしてくれるとうれしいな〜。そう言えば、以前履いていたDATUMのアルミをスペアタイヤにはめていたんだけど、それにいたずらしてみた。ブルーメタリックで塗り、1箇所だけ黄色なんて奇抜な色を選択。この黄色が車を走らすとクルクルまわる。結構おもしろい。バカなやつと笑われた。
1995年の車検時には、結構金を使った。走行距離も57,000kmとなり、あちこち気になる所が出てきたからだ。主なものをあげてみる。トルコンオイル交換、ファンベルト3本交換、スペアタイヤキャリアの塗装、アルミホイール磨き、ボディー全体磨き。
この頃一番気にしていたのは、トルコンの変速ショック。それを何とかするためセオリー通りにトルコンオイルの交換を試みた。トルコンオイルの交換は、ディーラーなんかだと、チェンジャーマシンがあって、計量棒のところからオイルの交換ができるが、実家にそんなものは無い。かと言ってディーラーに出すと結構な金額取られる。面倒を覚悟でオイルパン外しに取りかかった。8年落ちのこの車、オイルパンのパッキンは確実に劣化していた。オイルパンを外すと同時にそこら中が切れた。まぁ、こんなものは交換すればいい。金額にして400円だ。親父と二人でオイルパンを下に降ろす。その時、初めてオートマチックトランスミッションの中身を見た。この瞬間鳥肌が立った。なんて言ったらいいんだろう。まさにメカニカルな部品がまぶしいくらいに光っていた。
オイルパンの中には鉄粉を集めておくための磁石があるわけだが、この磁石に目立ったほど鉄粉は付いていなかった。それにオイルは割ときれいだ。内心もっと汚くて、鉄粉が溜まってる事を想像していたが、そんなことは全く無かった。でもまぁ、確認ができてよかったと思う。一応オイルパン全体と磁石を洗浄しておいた。その後新しいパッキンが入荷したので、オイルパンを元に戻し、オイルを充填して終了だ。
この車検が終了し、1995/05/31、実家の静岡県清水市から愛知県安城市に帰ってきた。全工程150kmの内、140kmを過ぎた辺りの愛知県岡崎市内248号線交差点手前の国道一号線を走行中、異音が発生した。タイヤに石が挟まったような音だったので、一時停止、点検するが異常無し。そのまま走行すると、ネッツ岡崎西店のあたりでサイド異音発生。ハンドルが若干ぶれる。轍の関係かなとも思いながらそのまま走行するが、今度は大きくハンドルが振れる。完璧にパンクだと思った。しょうがないから、ドライブイン王将に入る。車を降りて、タイヤをチェックするが4本ともパンクはしていない。どうしたことかと思いながら何気なくホイールを見ると、なんと驚く無かれ、右前のハブボルトが6本中4本無いではないか。一瞬我が目を疑った。
動揺を隠せないでいながらも、JAFにTELする。「ハブボルトが折れちゃいましたので、自走不能です。積載車で来てくださいね。」待つ事一時間。その間に家内にもTELする。JAFにその辺の修理工場へ搬送された後の足を確保するためだ。
JAFが来るまでの間、冷静になって考えてみれば、理由がすぐに見つかった。車検のため実家へは当時4歳ぐらいの子供と2人で行った。家内の腹には第二子がいたので家に置いていった。車検が終わり、常用のアルミホイールに履き替えているとき、この子供が、「お父さん、僕がやる。」と言って、ナットを締め始めた。僕はそのままやらせることにして、他の3本を交換しインパクトレンチで締めた。その後、ファンベルトの交換を始めたため、すっかり子供の締めているナットのことを忘れていた。つまり、点検をしなかったばかりか、4歳の子供の手締めだけで止まっているホイールのまま150km近く走行したって訳だ。あ〜恐ろしい。
そして、4本のボルトが折れた。どうせなら、家に着くまで持ちこたえて欲しかったが、神はそこまで味方してくれなかった。まぁ、無事であったことだけが救われたが。
家内にこの一部始終を話すとかなり驚いていた。そして、翌朝の1995/06/01第二子が生まれた。きっとこのショックで生まれちゃったんだと今でも思ってる。
結局、ボルト、ナット、ブレーキオイル、工賃合わせて\20,270の出費となった。それに、鍵付きのボルトもどっかいってしまったので、これも購入した。何のために、実家まで行って車検を受けてきたかわかんない。皆さん、子供には十分注意するとともに、再点検をお忘れなく。
僕の会社の同僚でやはりランクル60乗りのMacchanは自分のタイヤが自分の車を追い抜いて転がっていった。これ、冗談でなく本当の話し。
グリルのメッキ部分以外が、くすんだ色となり、見た目に汚いことから塗装することにした。どうせならとグリルだけでなく、右側のヘッドライト周り、ワイパーアーム、インパネ周辺も塗装した。色はブルーメタリック。もともとセルシオの紺メタに白を混ぜてさらにメタリックを追加したらこんな色になった。
1997/06/25(水)時々フロントから、カチカチ音がするようになった。どうやらブレーキを踏んだ時にするようだ。特に踏んだ瞬間に「カチン!」とする。間違い無くブレーキ関係である事は推測できた。特にブレーキの効きが甘くなっているわけでもないのでそのままにしておいたが、やはり気になるのでジャッキアップして、フロントタイヤを外してみた。なんと右前のブレーキパッドを固定しているW型のスプリングが折れているではないか。まっ、折れていたところでパッドが取れてしまうわけでもなく、キャリパーの中で踊っているだけのようだ。それにしても音が気になるので、この部品を手に入れるため愛知トヨタへ行って、入手した。たったの\220だった。これを買って帰って早速交換してみる。結果は良好。あ〜よかった。
1997/08/02(土)に、岐阜県荘川村へ出かけた。この道中、東海北陸自動車道を走行中、異音が発生。アクセルを踏んで加速すると音が大きくなる。音は後ろから聞こえてくる。もう少し特定できる要素がないか、家内に聞くも的を得ない。
リアのデファレンシャルギアのような感じもしたので、もしかしてデフが焼きついたのではと思ったりもした。実際、左右サイズこそ同じだが違うパターンのタイヤを履いていたからだ。左はGoodrichマッドテレン、右はダンロップのカントリーマンだ。これが災いしてデフに負担がかかってるのでは思ったからだ。家内に、周りの車の人たちの視線がこっちに向いていないか確認。どうやらその様子はないようだ。いずれにしても、早いうちにパーキングエリアに入って確認しなければ。
ようやくパーキングエリアに着いた。デフから火は出ていないのでまずは安心。そこら中見て回るがこれといって異常は見つからない。リアバンパーに手をかけて下回りをもう一度見ようとしたその時、「あち〜!!」。リアバンパーが焼けるように熱かった。原因はマフラーのテールエンドのパイプが折れて無くなっていて、排気がリアバンパーの内側に直接当たっていたことだ。そしてこの排気音が大きくなって異音として聞こえたようだ。まぁ、いずれにしろこんな事なら、走行に全く支障は無い。そのまま荘川村へ向かい、一泊して帰ってきた。その後もしばらくそのまま乗っていた。
夏休みに入り、実家へ帰る。テールエンドが折れた事を親父に話すと、ちょうどいいのがあるってんで、何かと思えば、イスズ4トントラックのエグゾーストパイプ。この60パイのパイプを電動カッターで必要な長さにぶった切って、自分のサブ太鼓の後ろに当ててみる。なかなか良い感じだ。早速、酸素溶接してみる。これがまた大変だった。この溶接する先のサブ太鼓も結構サビが来てる。そのため、酸素であぶるとそのサビがどんどん燃えてしまって、広がってしまう。そうこうしている内に、今度はサブ太鼓の上側にある(何のためか知らないが付いている)ゴム板に引火してしまった。大慌てで水をかけ、車両火災は免れた。なんとか、溶接する事ができ、耐熱塗料で仕上げた。燃えてしまったゴム板はみっともないので、はさみでちょん切った。(笑)
キープスラントという有名な4駆ショップがある。ここの社長さんである保坂さんとひょんなことから知り合う事ができた。というのも、会社の同僚のチカ坊がこれまたバカが付くほどの4駆きちがい。この彼がこのショップに出入りしていた。このころ僕は車を変えるにあたって60を売却することを話ししていた。その話しをこの社長さんにしてくれた。そして、是非実車を見せてくれ。ということになり、僕は会社の帰りにこのショップを訪れた。雑誌で見る顔がそこにはあった。
彼は僕の車を舐めまわすように見た後、「程度が良すぎるな〜。」とつぶやく。最初はショップのデモカーにするつもりでいたようだが、程度がいいので転売する事にしたようだ。最後は価格交渉。相手は30万と言ったが、僕が50万と言うと、間を取って40万ということになった。1998/04/13のことである。
それからと言うもの、大事にしてきた車だけに、愛着もかなりのもので、心なしか未練があった。渡すまでは(今さら遅いが)車内禁煙に決め、洗車ワックスをかけ、車内の掃除機がけもした。
そして、1998/05/16(土)に最後の別れを迎え、キープスラントへ納車に行った。全走行距離72,756kmであった。11年間本当にありがとう。
その後、僕はグランビアに乗り換えたわけだが、実家からの帰り道、東名高速道路の下り走行車線を走行中、ドアミラーに写る1台のランクルを見た。グリルガードや、フォグランプ、グリルの色といい、僕が乗っていたランクルに酷似しているランクルだ。「似たような趣味のやつもいるんだな〜。」と思いながら、追い越し車線を抜いていくランクルの後ろ姿を見た瞬間、「あっ、俺のランクルだ。」思わず声を出して叫んでしまった。まさしく、僕の乗っていたランクルだった。リアバンパーには僕の貼ったステッカーが貼られたままだったし、あのイスズトラックのパイプを溶接したマフラーだった。奈良ナンバーで8ナンバー登録になっていた。リアスペアタイアキャリーは外されていた。「大事に乗ってもらえよ〜。」が、正直な気持ちだった。
この続きは、グランビア購入記へどうぞ。