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依佐美送信所、依佐美無線鉄塔のまつわる話題


                       
(1) 「ラジオライフ」が受信実験

月刊「ラジオライフ」(三才ブックス)が「米軍依佐美送信所の秘密」1984年7月号から12月号まで(10月号休載)5回のシリーズを組み「依佐美送信所」を紹介しています。

記事の内容は当時として目新しいものではなかったですが、「朝日新聞」と組み「受信実験」をしていました。
「受信実験」については「朝日新聞」の記事(1984年6月20日)のほうが詳しく掲載されていました。
「朝日新聞」の記事は「不沈空母列島」にあります、記事を一部引用しますと『編集長(ラジオライフ)の福場さんは「一つ、方法があります」と「高調波」の存在を教えてくれた。
ある周波数の電波がでると、付随的にその倍、倍・・・・の周波数で同じ電波が、微弱ながら発生するという。
計算してみると、556.8`ヘルツ、1113.6`ヘルツになる。
「福場アイディアで傍受を試みよう」と勇み立った二人旅だった。それが、「ガーガー」だけとは、二人は落胆した。超長波とはいえ、水深20b
にもなると電波の力は大気中に比べて大幅に弱まってしまう。(中略)あまりの大出力の近くでさしもの最新鋭機も完敗だったらしい。』

記事の内容から推察すると、とアンテナ直下で実験したようです。
当時のゼネカバ受信機の最低周波数はたいてい、下記ソニー(CRF-1)を除き100kHz〜200kHzくらいあったと記憶していますが、なぜ「556.8kHz」で受信実験したか疑問が残りますが。
送信所本館 その後「朝日新聞」では名古屋市の「ラジオライフ」の読者宅で 受信成功、「ラジオライフ」では千葉市の読者宅で受信成功、とありました。

いずれも受信機はソニー「CRF-1」を使用し、同機は10kHz〜30MHz をカバーしており17.44kHzは受信できたようです。

ただし暗号によるFSK送信であり解読は不可能という結論になっていました。
(米海軍接収時代の依佐美送信所本館)


(2) オーディオアンプで受信ができた

 そんな大そうなことをしなくても簡単に受信できるのにと、「ラジオライフ」の上記記事を読んだときの感想です。

信じられないことですが、ある条件下で簡単に受信ができました。

受信方法は簡単で、オーディオアンプを発振させればいいのです、原理は定か
ではありませんが、多分超再生受信機で受信する場合とよく似た現象が起こり受信できたのではないかと推測されます。

またインターフェアーで偶然受信できたとも考えられます。

この現象は送信所からわずか約1.5kmしか離れていない、我がシャックだけという特殊事情ではなく、約20km離れた豊田市内でも確認できています。
出力250kW(500kWの性能があったが、米軍接収後250kWで運用されていた)の大出力ですから納得できるところです。

ただし、オーディオアンプの発振を止めるのが普通で、故意に発振させる人はまれこの現象を体験した人はわずかでしょう。

当時は数字の羅列で多分暗号だったと思います。
1969〜1970年にA1(モールス)からFSK(テレタイプ)に変更されていたため、ピロピロ音でした。




(3) 短波送信所があった

短波アンテナ 同送信所に「短波送信所」があったことは、意外に知られていません。

短波送信は昭和3年に日本海軍製(5kW)1台を設置、昭和4年に超長波(回転機は現用と予備)、短波送信機各1台で運用を開始しました。

その後通信量が増大したため昭和11年に短波専用局舎を「超長波送信所」南1kmに建設しました。

昭和20年には、20kW6台、10kW3台、55kW1台、1kW8台、500W1台、合計19台になっていました。

送信相手局は、当初「ワルソー(ポーランド)」「ベルリン」でしたがその後パリ、ロンドン、ジュネーブ、ローマ でした。

昭和12年から上海、天津、ボンベイ、ベイルート向けに、その他10局向けに送信されました。

太平洋戦争中は海軍が短波機3台と超長波機1台(回転機は現用と予備)、合計4台、海軍専用として使用していました。
短波送信機
アンテナは85m鉄塔5基(上部写真)、75m鉄塔5基、その他含め、合計43個ありましたが、昭和29年までにすべて撤去されました。下部写真は短波送信機。


                     参考文献:「国際無線電信株式会社社史」1949.9



(4) デモ隊がやってきた

 依佐美送信所は水面下まで電波が届くという、超長波の特徴を利用して潜水艦への送信用として戦前から使われていました。

戦後「米海軍」に接収され、潜水艦への送信に使われてきました、その後アメリカの核つき巡航ミサイル「トマホーク」を搭載した、潜水艦へ送信している施設である可能性が高いと推測されました。

当時は東西冷戦時代であり、相手国から軍事施設とみなされミサイル攻撃を受ける危険性が考えられ、核施設反対市民運動家によるデモ隊がやってきました。

この地方にアメリカ軍基地はなく、1万人規模のデモは珍かった記憶があります1984年(昭和59年)のことです。



(5) 依佐美送信所記念館はエコです

米海軍開始式と椅子
                          (写真1)

(写真1)は1952年「米海軍依佐美送信所開局式」の写真です、ここで使われた椅子が記念館内「ビデオ観賞コーナ」で現在も活躍しています(写真左上)。


(6) 解体中タワーが倒れた

 解体工事中にタワーが倒れたというニュースで知り早速現場へ駆けつけました平成8年8月のことでした。

昭和の初めに建設されその間、昭和19年に起こった「三河地震:マグネチュード7.1」や昭和34年に来襲した「伊勢湾台風」にも耐えた250mのタワーが工事中とは言え、あっけなく倒れのはショックでした。


鉄塔倒壊
エレクタ工法
合計8本の鉄塔を撤去するにあたり、4本ずつ2つの工法でおこないました。

1つは「 エレクター工法」と呼ばれているオーソドックスな方法です。

上部の一部をユニットごとカットしてそのユニットを地上に降ろします、その繰り返しをしておこないます。

左写真がエレクター工法です。
ジャッキダウン工法
2つ目は「ジャッキダウン工法」と呼ばれる工法です。


この工法はいわゆる「だるま落し」式です、すなわち下部の一部を「抱き抱え」「抱き抱え」た一部をカットしカットした後、鉄塔全体を下げる工法です。

この工法が倒壊しました、左写真が「ジャッキダウン工法」です。


結局「ジャッキダウン工法」の1本目で倒壊したた め「ジャッキダウン工法」での工事は中止して残りの7本は「 エレクター工法」でおこないました。




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