< 旅順大連探訪記 >


今から100年あまり前、日露戦争(1904-5年)の激戦地となった旧満州「旅順」。
(現・中国遼寧省遼東半島の南西端 大連市旅順口区)

筆者の母(故)は、日露戦争勝利から15年後の大正9年(1920)に、この地、旅順で生まれ育った。
そして太平洋戦争終結後、父(故)、長男と共に、追われるようにこの地を離れた。
満州引き揚げ回想記に記載)

「旅順鳥瞰図」吉田初三郎(ジャパン・ツーリスト・ビューロー 昭和4年)
 (昭和2年6月 旅順要塞司令部許可済。クリックで拡大)

戦後旅順は軍港地として“原則”外国人立入り禁止だったが、昨年(2009)から自由化されたという。
母は生前、いつか旅順を"自由に"歩ける日が来ることを心待ちにしていたが、
残念ながら一昨年他界してしまった。
そんな中、今回、旅順出身者を主体とする日中友好団体より旅順ツアーへの案内をいただいた。
そこで、両親の思い出の地、旅順へ、
自分のルーツを探るような気持ちで、散策に参加してみることにした。

・・・・

6月中旬、中部国際空港を昼過ぎに発った。
中国南方航空の"空中客車"(Airbus)機は、2時間余りで中国の大連空港に着いた。
外国とはいえ、あっという間の近さだ。
ここ大連は、20年ほど前にも一度訪れた地だが、
昔のような赤茶けた周辺風景や木造ターミナルの記憶から一変し、ごく普通の空港になっていた。
ここで一時間余り待って、成田から到着したツアー本隊に合流する。


大連機場(空港)

中国は、文化大革命以来、漢字の略字化(簡体字)が進んだという。
だから、この大連国際机場名も簡体字表記であちこちあふれているのだが、
ここ空港ビルの看板文字だけは「大連機場」と繁体字だった。

さて、ここ大連から西へ30km、「旅順」へツアー開始だ。



旅 順


バスで1時間余り、大連から旅大道路(南路)を西に走って午後6時過ぎ、
白銀山トンネルをくぐり抜けた。



「トンネルを抜けるとそこは旅順の街だった」
となるはずだったが、あいにくこの日は霧が深くて、眼下の遠景は一切なにも見えなかった。



旅 順 駅


霧の中の旅順駅 (2010.6.13)

太平洋戦争の終結後、両親たちがこの町から追われるように後にした駅。
その旅順駅が、そこに昔のままあった。
この駅舎は日露戦争前にロシアが作った木造建築物だそうだ。
それが100年の時代を越えて、今もほぼ原形のまま使われているという。




表忠塔
(現・白玉山塔)

.
旧日本橋(現解放橋)のたもとからかつての「表忠塔」を望む

渤海湾に突き出た遼東半島先端のこの地は、この日も霧が濃かった。
旅順港を眼下に見下ろす白玉山にそびえるこの塔は、66mもある大きな塔だ。
それは日露戦争勝利を記念するとともに、
数多の戦死者のために建立した慰霊塔「表忠塔」そのものだった。

正面の白い建物の右側(ちょうど欄干の陰)のあたりに旅順駅がある。



旧 表忠塔(明治42年11月竣工)

説明員のおじさんを囲むツアーメンバ

「コノカタガ、トーゴーヘーハチローデスネ」
と、日露戦争から表忠塔までの来歴を、
流暢な日本語で語ってくれた。

入場料は10元(約140円)。
塔の中は展望台まで螺旋階段が続く。

展望台は薄霧の中だったが、
南側の湾口には老虎尾半島がかすかに見えていた。

西側は眼下に龍河が横たわる。
左方には解放橋(旧日本橋)、
対岸の通りは母が生まれ育った旧金比羅町だ。

展望台の欄干。
赤星印が欠け落ちてその下に現れていた形は、
なんやら旭日旗を彷彿と。。。

ふもとの説明板には、原名"表忠塔"や、
東郷平八郎、乃木希典などの名も見える。

明治42年、夏目漱石は、旧友・中村是公(第二代満鉄総裁)の招きで満州を訪れた。
それはたまたま、ちょうどこの塔が完成するころで、そのときの紀行文が新聞に連載されている。

・・・・
旅順に着いた時汽車の窓から首を出したら、つい鼻の先の山の上に、圓柱の樣な高い塔が見えた。
それが餘り高過ぎるので、肩から先を前の方へ突き出して、
窮屈に仰向かなければ頂點
てっぺん迄見上げる譯に行かなかった。
馬車が新市街を通り越して又此塔の真下に出た時に、
これが白玉山で、あの上の高い塔が戦勝紀念碑(※)だと説明して呉れた。
能く見ると高い燈臺の樣な恰好である。二百何尺とかと云う話であった。
・・・・
夏目漱石「満韓ところどころ(二十三)」(東京朝日新聞 1909.11.23)より
※)「戦勝紀念碑」は、後の出版では「表忠塔」に改められている。


爾来、表忠塔(現白玉山塔)は市内のどこからでも見える、旅順のシンボル的な存在になっている。




にれいさん

爾霊山
(二百三高地)

203高地は、日露戦争の旅順攻略戦の決め手となった場所だ。
もしこの高地を占領できれば、ロシアの旅順艦隊が碇泊する旅順港を一望できる。
膨大な犠牲を払いながら、とうとうそれをやった。
(1904.12.5 203高地占領)
占領後は、その頂上から着弾点を観測しながら、後方の砲台をコントロールして、
旅順港内のロシア艦船をことごとく殲滅するに至る。

爾霊山塔 はい、チーズ

ここは旅順市街の西北数キロの場所。
高さ約10mのこの塔は、203高地攻略戦で失われた膨大な命を慰めるために建立したもの。
「爾霊山」(にれいさん)の名は、
大将乃木希典が標高の203mをもじって命名・揮毫したものだという。

・・・・
乃木は庭へおりてからふと志賀のほうへひきかえし、ちょっとはにかみの微笑をうかべつつ、
「志賀さん、あとで見ておいてください」
と、志賀の掌に紙片をにぎらせた。
(中略)

爾霊山嶮なれども豈あにじ難がたからんや
男子功名 艱
かんに克つを期す
鉄血山を覆うて 山形改まる
万人斉
ひとしく仰ぐ 爾霊山

志賀は、この詩に驚嘆した。
・・・・
(司馬遼太郎「坂の上の雲」(二〇三高地)から)


ところで、塔の傍らに目を移すと、すぐ横にあるのが下の看板だ。


慰霊塔の脇にある説明板

右上の大きな説明板は、上から中国語、英語、日本語で書かれている。
文章はこの塔の来歴を簡単に説明したものだが、文末にはこうある。
「今は、この爾霊三(ママ)はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった」

左の白い看板は、
繁体字に戻すと「銘記歴史 勿忘国耻」と書いてあるようだ。
「勿」は"なかれ"、「耻」は"恥"だ。
中国語はわからないが、想像を膨らませて意訳すると、
「過去の歴史をしっかり心に刻め。被った国辱を忘れるな」
というような意味になるのだろうか。

中国から見れば、ロシアと日本の他国同士が勝手に庭先に入り込んで大喧嘩をしていたわけで、
まったくいい面の皮だったろうと思う。



みやげ物売店の前

203高地の中腹の駐車場。売店の看板には「坡上雲」とある。
「坡」の字は日本ではなじみの薄い漢字だが、意味は「坂」を含むらしい。
つまりは司馬遼太郎の「坂の上の雲」にあやかっているのだろう。

この駐車場から頂上までは一般車は乗り入れ禁止だが、
タクシーが上まで往復してくれるという。
頂上まで歩いてもたいした距離ではなさそうなのだが、
年配者の多いグループだし、筆者も腰痛持ちなので、大多数がこれを利用することにした。
タクシーといっても十人乗り前後のワンボックスだ。
これを数台満席にして走り出したら、あれよほんの1,2分で頂上に到着した。
ところがこの料金が、往復で一人100元(約1400円)なのだ。
山道とはいえ、この程度の道のりでこの運賃はねぇ。
いささか足元を見られたような気がして、「雲助」などという江戸時代の言葉まで思い出した。

雲助といい、坡上雲といい、商売はなかなか抜けめがない。




ひがしけいかんざんきたほうるい
東鶏冠山北堡塁

日露戦争の旅順攻防戦で、ロシア陸軍最強の砦だったところ。
203高地からは旅順の街をまたいで東へ数キロ。


日本軍が203高地から送り込んだ28サンチ榴弾で
堡塁に開いた大穴


戦勝記念碑


堡塁の中


「露国コントラデンコ 少将戦死之所」
と彫ってあるはずだが、風化(損傷?)がひどく大変読みにくい。

敵将ステッセルが頼りにした部下、コンドラチェンコ少将が、
日本軍の巨弾に当たって戦死。(1904.12.15)
これを機に、ステッセルはまもなく降伏へと傾いた。

「敵ながら天晴れ」
と称えてやる余裕がこの時代の日本にはあった。

・・・・

因みに、上記の「コントラデンコ」とは当時の呼び名で、
現在は「コンドラチェンコ」と書くようだ。
でも、近くにあった説明板の日本文には、「コトラキンカ少将」とあった。
ナンジャラホイ、だが、
同じ説明板の中国文には「康特拉琴柯少将」とあるので、
これをそのままカタカナにしたのだろう。

−ギョエテとは 俺のことかと ゲーテ言い−
だね。



左の碑と上の戦勝記念碑とは、下のように
南北に前後した近距離にあるのだが、
現在は木が生い茂っていて、
この日は2ショットは撮れなかった。

(昭和初期の写真)

・・・・

28サンチ榴弾

直径11インチ(28cm)
旅順攻防戦で雌雄を決したのがこれだった。
28サンチ榴弾砲

・・・・


この周辺はきれいに公園化されている。
日向ぼっこでうとうとしているネコをみつけ、
話しかけていたら、中国人のお姉さんに
日本語で話しかけられた。
「アー、ネコ、、、ソトノネコネ、ニホンニイマスカ?」
「ああ、野良猫ね。いますよ、いっぱい。あはは」

とまあ、なにげない短い対話だったけど、ほんのり心温まる一瞬だった。
後ろのアロハ姿はツアーガイドの王さん。





すいしえい
水 師 営

とうとう、旅順のロシア将軍ステッセルは白旗をあげた。(1905.1.1)
その4日後に、乃木大将とステッセルの会見が水師営で行われた。

水師営の会見(明治43年 文部省唱歌)
一、 旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の 所はいずこ水師営
二、 庭に一本ひともとなつめの木 弾丸あともいちじるく
くずれ残れる民屋
みんおくに 今ぞ相見る二将軍
(以下省略)
(思い出の愛唱歌集・野ばら社より)

この歌は一番だけなら筆者もそらで歌える。
でも、文部省唱歌とはいえ学校で習ったわけではない。(時代が違う)
筆者が子供のころに、母がよく歌っていた。そのころの刷り込み効果だろう。


水師営「會(会)見所」

当時の会見所民屋は、毛沢東による文化大革命のあおりで解体されてしまったそうだが、
後年、このように元通り復元されたという。


その復元民屋
しかし、同時に復元されたはずだった中庭の記念碑は、今はなかった。


中で説明員のお姉さんが流暢な日本語で
水師営の来歴を説明してくれた。

説明ガイドの節目で、
「乃木大将とステッセルで有名なこの会見記念写真は
この家のどの部屋で撮ったのですか?」
と質問してみた。
答えは意外で、室内ではなく屋外だった。
(「意外」だったのは単なる私の無知から)

それがこのあたり。

会見所のゲートをくぐって、すぐ左側の一角だ。
そこは今、このように囲われていて、
その中に若い"なつめの木"が植わっていた。
あらら、ちょっと違うのでは・・・?
会見写真と棗の木
・・・・


会見所の前庭でツアーの皆さんと

若手もまばらには混じっているが、
「五十、六十は洟垂れ小僧」と言われそうな、矍鑠かくしゃくたる面々のグループなのでした。
後列のサングラスの悪相が弱冠?62の筆者。

・・・・

町は車に混じってこんなのも行き交う。
ほっとしたものを時々感じる、ここはそんな国だ。




高 崎 町

大連・南山麓小学校の教師だった父は、昭和20年(1945)4月、旅順師範・附属小学校へ転勤してきた。
そのときから終戦後までの数ヶ月間を過ごしたところが高崎町だ。
その短い期間に長男正一が生まれている。
下は、元高崎町だった通りに並ぶ家々。

 









父母たちが一時住んでいた高崎町。向こうは旅順港

母の手記には、
「この地区は西港を見下す高台の住宅地のはずれで、・・・」
とある。
港からだらだらした緩い坂を上り歩き、中腹から後ろを振り返ると、
そのとおりの風景があった。







さて、これらの家々の中に、かつての我が家、
「日本式の赤レンガ建ての二戸一棟が旅順高女体操教諭の馬場先生と、旅順師範付属小の、この班最年少のうち」
があるのだろうか。。。
まだ生まれてもいない筆者に「我が家」という資格はないが、
あるのかないのかどれなのか、今はもうそれを教えてくれる人は誰もいなくなってしまった。

・・・・・・・・

その後の話



旅順師範学校・附属小学校(第二小学校)

元・旅順師範学校・附属小学校 (関東州庁時代)

高崎町の坂を下り切って右(西)に折れ、1ブロック進んだあたり。
ここは父が大連から旅順に転勤し、終戦までの数ヶ月間勤務した小学校だ。
この建物は、もとは日露戦争前のロシア時代に建てられた建築物だが、
日本の手に落ち、ここに関東州庁が置かれていた時代もあった。
その関東州庁が大連に移転した後、旅順師範学校と附属小学校(旅順第二小学校)がここに移転してきた。

現在は建物正面に「春光医院」(病院)という表示がある。




旅順第一小学校


元旅順第一小学校

玄関があった南校舎の西側

これは、昭和初期に母が通っていた小学校。
上の二枚は西側の道路から撮ったものだが、玄関など道路側にあった通用口はすべて塞がれていた。


戦前の南校舎(伏見町校舎)

校舎の西には表忠塔が見える
(「遥かなり旅順」旅順第一小学校白玉会・より)

この小学校は、日露戦終戦の翌年明治39年の創立というから、
外地の日本人学校としてはかなり古いほうだったろう。
創立当時はここよりやや北の柳町にできたのだが、大正年代にここ伏見町に移転したようだ。

「見渡す海の彼方には・・・」で始まる校歌は、国文学者「大和田 建樹」の作詞だ。
大和田建樹といえば、かの鉄道唱歌(♪汽笛一声新橋を・・・)の作詞で有名な、当時の売れっ子作家でもあった。
校歌の作曲者は「上じょう真行」で、この人も実は当初鉄道唱歌に曲をつけたコンビだ。
(ただし、今一般に知られている鉄道唱歌は、上の曲ではなく「多おおの梅若」の作曲だが)

分校として発足した前記第二小学校も同じ校歌だったらしい。

母が通ったのは、この伏見校舎である。
当時、校舎の西側に見える表忠塔の、さらに向こう側(金比羅町)から、毎日歩いて通っていたわけだ。
と、そう思って西側を振り返ってみたら、そう簡単には表忠塔は見えなかった。



今はかの表忠塔は、建て込んだ民家の軒の間から、辛うじて望むことができる状態だった。




旅順点描


工科大学(旅順工大)
かつて優秀な人材を輩出した。
今は病院として利用されている。

旅順ヤマトホテル
明治の昔、夏目漱石も旅順を訪れた
ときに泊まった。

その北隣にあったはずの、
母が通った女学校(旅順高女)は、
跡形なく、様変わりしていた。

旅順博物館
母は女学校から帰る道すがら、
館員の手招きで友達と裏口から入り、
ミイラなど何度も見たとか。

旅順監獄
ハルビン駅で伊藤博文を銃撃した
安重根は、ここに送られ処刑された。
(安重根は今も韓国の英雄という)

その駐車場の一角に咲くアカシア。
旅順はこの時期、町のいたるところで
白いアカシアの花が咲き誇っていた。
が、この赤こそこの地の原種だとか。



大 連


大連ヤマトホテル


旧大連ヤマトホテル(現・大連賓館

今夜の宿、大連賓館は、
当時の南満州鉄道が沿線の主要都市に置いた直営ホテルのひとつ。
大正3年の竣工といえば、東京駅とほぼ同じ時代の建築物だ。
重厚なルネサンス様式だが、東京駅と同様、設計は日本人の手によるという。


ロビー

ここは終戦時、火事場泥棒の如く侵略してきたソ連軍に接収され、軍司令部として一時使用された。

終戦とともに旅順の師範附属小(第二小学校)は廃校となり、父は教職を失った。
両親は旅順から大連に移転し、
食い扶持を得るために、父は特技を生かして似顔絵描きのアルバイトを始めた。
すると、父の画才はほどなくロスケ(ルースキー=ロシア人=ソ連兵)の間に広まったらしく、
ある日、ソ連の将校からここ軍司令部に呼ばれた。
恐る恐る出向くと、将校に自分の肖像を描いてくれるよう依頼された。
そのときに描いた肖像画はきっと上出来だったのだろう。料金はちゃんと支払われたという。
これが縁で、その後もレーニンやスターリンの肖像の注文が入ることになった。
まさに「芸は身を助く」だったわけだ。(泥棒にも三顧の礼?(笑))


戦前のヤマトホテル



玄関横にて


ヤマトホテルの対面

ホテルの前は直径200mのロータリー、旧「大広場」(現中山広場)だ。
真向いには旧横浜正金銀行(現中国銀行)が昔のままにある。
博物館明治村ならぬ「博物館大正街」と呼びたくなるような、懐かしさが散見される町だ。





三泊"二日半"の短い旅順旅行を終えた。
帰宅した日の晩、夕刊を開いたら、ふだんはあまり読まない小説欄にふと目が行った。
あれ、最近どこかで見たようなものが・・・


2010.6.16 朝日夕刊
(外国人初の芥川賞作家、楊逸「獅子頭」。絵・佐々木悟郎)

偶然にしては妙だが、それは昨夕、バスの車窓から一瞬眺めた大連駅のイラストだった。
その大連駅は、東京の上野駅がモデルだという。


今の上野駅

それにしても、どちらの駅舎も戦前から長生きなんだなあ、と再認識した。
2010.6.27-11.18



このツアーに同行・取材された映像を含めて製作された、羽田澄子監督の記録映画、
遥かなるふるさと 旅順・大連
が、現在東京・岩波ホールにて公開されている。(2011.7.29まで)
以後、全国各地で公開されるそうだ。
2011.7.3


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