零戦210-118号機
(零戦62型)

太平洋戦争の火蓋を切ることになったハワイの真珠湾攻撃(1941.12.8)で
日本の零戦隊は大戦果を挙げた。
航空戦力が物言う時代への幕開けを世界に向けて実証したのが真珠湾攻撃だった。
ところが、
ここで大活躍を遂げ、その後終戦まで帝国の命運を担わされ、
最後に至っては特攻戦術の悲劇へと突き進まされて行ったのが帝国海軍のその零戦だった。

下の写真は大戦末期に作られた当時の最新モデル零戦62型機だ。
(特攻専用に改造されたものを“最新”と呼ぶには忍びないが、、、)



零式艦上戦闘機 A6M7型 210-118機 (広島・呉市海事歴史科学館=大和ミュージアム)


この機体は昭和53(1978)年に、滋賀県琵琶湖の湖底から引上げられ復元された実機である。
30年以上も水中にあったため、引上げ当時は相当腐食損傷度合いが激しかった。
これを引上げて修復し、展示していた京キの嵐山美術館でかつて見たことがあった。(文末)
あれから24年ぶりの再会だった。

零戦は開発当時、実現不能といわれた海軍の過酷な要求仕様を、極限まで突詰め完成した。
その機体は、60余年を経てもその形、機能美は色褪せていない。

きれいに復元された機体の尾翼には「210-118」とあった。
この「210」とは所属部隊を意味する識別番号だ。
その「第210海軍航空部隊」は通称「ふた・ひと・まる・くう」と呼ばれた、
愛知県碧海郡明治村(当時=現・わが安城市の南部)に急造された「明治航空基地」の部隊だった。
この機体は大戦末期のある日、訓練のため明治基地を飛び立ったが、
琵琶湖上空で何らかの原因でエンジン不調に陥り、不時着水したものだという。

筆者は安城市に住んで18年になるが、
かつてこの地に零戦基地「明治航空基地」があったことなど、最近まで全然知らなかった。
また24年前に京都で見たあの零戦が、戦時どこにいたかなど興味もなかった。

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零戦は「真珠湾攻撃」の主役だった。
そしてこれからの国力は「航空戦力」が主役であることをまざまざと世界に示した。
それを自ら敵国に見せしめた日本軍だったのに、
ところが自身は、戦艦大和・武蔵に象徴される「大艦巨砲主義」を脱し切れなかった。
「浮沈艦」などと呼ばれた大和だったが、
その後急成長した敵の航空戦力にはなすすべもなく、最後は敢なく撃沈された。

その太平洋戦争の幕開けと幕引きを象徴する「零戦」と「戦艦大和(1/10模型)」とが、
今、呉市海事歴史科学館の一堂に展示されている。
当時の技術者の叡智を結集して生れた構造物は、それなりに美しさがある。
しかし、美しければなお、空しさも深みを増す。

繰返すまじ、愚かな時代。

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<参考文献>
「明治基地と海軍航空隊」鈴木丹(1995)
「戦争のなかに生きる」安城市歴史博物館(2004)
「ゼロ戦」碇義朗(光人社2001)


2005.10.6-2006.3.2



<24年前に見た同機>
 
1981.3.1 京キ・嵐山美術館にて (この時は「零戦63型と説明されていた)


<現在飛行可能な零戦