スクリアービン入門講座 by K.Hasida その7:

後期作品各論(2)

 だらだら続けた本講座も今回で最終回です。推薦CDの紹介の意味が無い
のは前回以上ですが、前回と違ってとにかくも自分で弾いてしまった曲が
ありますので、弾く側の立場も交えていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ピアノソナタ第9番作品68”黒ミサ”

 ソナタ4番と共に一番小さなソナタです。さらに誤解を恐れずに言うなら、
後期ソナタでは色々な意味で一番やさしい曲です。
#勿論、私がこの曲を完璧に弾けるということでは決してないことを予め強調
#しておきましょうか。私の旧悪をご存知の方もいるかもしれませんし。

 この曲も6番のように作曲者に恐れられた曲で、黒ミサというタイトルは
作曲者自身による”白ミサ”の対にすべく友人が与えた名前です。ただしCD
の解説等を見ている範囲では、6番の方が強烈に恐れられていたような印象が
残るのですが、本当の所はわかりません。

 私としても弾いてみて初めて気付いたのですが、とにかく短い動機が隅々に
いきわたってます。このことからスクリアービンの後期の和声というのは、実は
対位法的なものに従属するに過ぎないと考えるようなりました。全ての、と言い
切る度胸はないですが、音は、第一義的に前後の音とのつながりで理解される
べきです。まるで”定規とコンパス”で作曲したようです。

 ・・・という文章と、第6ソナタに対して私が書いた文章を合せてみれば、
”スクリアービンが自分で演奏することを考えずに信ずるところに従って作曲を
進めた結果、6番や9番のような怪物ができたのだ”と私が解釈しているように
思われて当然です。私自身そういうことかなと思っていたくらいです。ところが、
絶対にそんなことはない。スクリアービンは間違い無くこの曲を、そして恐らく
6番も、さんざん自分で弾きながら作曲しています。

 その根拠がこの曲の技術的な”やさしさ”にあります。同じ音をシャープで
書くか、フラットで書くか、というレベルの記譜法ではもう精一杯に意地悪く、
道理に適わないものすらあります。この点なにもこの曲が特殊でも何でもなく、
ソナタ6番なんか、何の必要性もないところで上段と下段とで小節数が異なって
いたりしています。
 が、弾く段になると、手の動きが人間工学に適っているのが分かるのです。

 というところで思い切り脱線しますと・・・・
 作曲者に弾けない曲としてはシューベルトの”さすらい人幻想曲”が有名です
が、これは演奏の困難さに見合う効果も上がる曲だからまだましです。人間工学
に適っていない点でもっとひどいのが例えばト長調ソナタのどこかシューマンを
感じさせる終楽章、若きシューマンが憧れ、ついに足下にも及ばなかった、多分
殆ど難しいとは思われていないであろうアレグレットです。これより難しそうに
聞こえるであろうハ短調ソナタの終楽章ともなると、もうどうしようもない。
いくつかあるリヒテルのこの曲の録音は、それだけでリヒテルが一流中の一流で
あることの証拠足り得ます。

 もっと困ってしまうのがヤナーチェクです。”霧の中で”の第1曲で、半音
上げてくれれば何とかなるのに、それをしないばかりに6本目の指がない人間が
難渋してます。まあこの人は無茶な人でして、同じ曲集の第4曲のリズムなんか
誰もちゃんととれてないし(お持ちの方は楽譜をよく、本当によーく見て下さい、
とんでもないリズムを要求しています)、”死者の家から”の導入を連弾編曲
してやった時も(この試みは失敗でした)頂点に達する直前の頭の無い3連符が
重なるところに非常に困ったし、まあピアノ弾きの手の運動に配慮せよといって
通じるお方ではない。ただし御当人はピアノの達人だったらしい。。。?
確かに音に出来てしまえばピアノ曲はピアノの音が素晴らしく美しいのですが、
これをピアニスティックといえるのでしょうか。

 こういった人達に較べれば、ショパンもリストもスクリアービンも、例え
どれほど難しかろうとも人間工学に適った上で難しいのです。ソナタ4番は
精一杯弾き易く書いた上で、ままよ、と、とんでもない音を加えたようなもの
です。
 あと、やたらとうまい奴が故意に人間工学に反する困った曲を書いた例として
プロコフィエフのソナタ3番を挙げましょう。

 ・・・・で、黒ミサに戻りますと、この曲を弾くにあたり、高速に重音を弾く
ところなど、真面目に練習をせねば弾けないとはいうものの、手の動いていった
ところで指を落とすとそれが正解というような、合理的な手の動きで弾ける部分
が普通なのです。こういう弾きやすさが実現されているからには、スクリアービン
がこっそり家でこの曲を弾きつつ作曲していたことに疑問の余地はないのです。
これと”定規とコンパス”が如何にして両立しえたか。さてどうしてでしょう。

 この曲のソナタ形式は、しごく教科書的に始まり、破格に終わります。
提示部はちゃんとした演奏なら2つの主題群というか動機群が容易に聴き取れ、
展開部を期待させる終止が付き、ベートーベンばりの提示部といえるでしょう。
続く展開部もしばらくベートーベンばりがつづくのですが、その間テンポが
上がっていって、いつの間にか、まともな再現部に入れない体になっていきます。

 前にも少し脱線して触れましたが、ソナタ形式で第1主題を散々展開してから
提示部に戻るという過程には元々無理が有ります。で、展開部の騒ぎそのままに
第1主題の再現をやってしまうというのはいくらも例が有り、破格というより
通常の処理なのですが、この曲のようにそのまま高揚して第2主題の再現まで
やってしまうとなると、”還ってくる形式”であるソナタ形式の精神とは全く
異質なものになります。8番は常に還ってくるから余計に異質だった訳ですが。
この両曲においても形だけは複数主題の提示と全主題の再現を守った
スクリアービンのソナタ形式好きは全く不思議としかいいようがありません。

 さて、曲は単純といえば単純、しかしやはりファンとしてはこたえられない
高揚のままコーダに突進して崩壊に至り、最後の最後になって冒頭のけだるさ
に戻り、ぷっつり終わります。これは邯鄲(カンタン)の夢から醒めたところ ですな。

 そう、邯鄲の夢。私がこの曲を最高に好きな曲、のリストから外した理由の
一つは、結局この曲では何も起こらなかったような感触を受けるところにある
かもしれません。少なくともドラマとして明瞭ではありますが単純です。これは
この曲の規模相応なところともいえるので、単に私が大きい曲を好むということ
かもしれません。その他これもこの曲の4拍子に相応なのですが、10番と
較べて、構成している動機が無骨だという印象を受けます。この点では全然
やさしくない。

 この曲も沢山聴きましたが、ホロビッツの2種類とルディ以外をお勧めする気
にはなりません。

 ホロビッツのCBS盤は、最初にアシュケナージで聴いて、訳が分からないと
思っていた私を後期スクリアービンにのめり込ませた、感謝すべき録音です。
1965年のヒストリック・リターンとまで言われた演奏会のライブで、
アシュケナージより古いのですから勿論私がのめり込んだのは演奏会よりずっと
後ですが。叩きこむ力のある、高揚していく切迫感が素晴らしい演奏です。

 と、いう意味ではRCA盤の方がより典型的ですが、少し粗さが目立ちます
ので、控え目に推薦します。おそらく最高速で走った黒ミサで(6分30秒)、
ルディと対照的なところが楽しめます。RCA録音のスクリアービンは、
詰込んだら1枚になった筈なのに、これだけ別になってスタジオ録音の方の
展覧会の絵とくっついてます。

#ルディの6番とこの録音とを手に入れたら、展覧会の絵でも新旧対決できます
#が、こちらではホロビッツですねえ。キエフの大きな門など、ホロビッツ編に
#馴染んでしまうと、オリジナルもラベル編もどうにも退屈です。これは余談。

 対照的にくっきりしっかり重心を下げて弾き切ったルディは最も遅い演奏では
ないでしょうか(8分30秒)。ホロビッツのちゃんとした演奏がありますから
唯一無二とはなりませんが、内容的には6番の演奏に匹敵すると思います。

 ホロビッツもルディも、どちらも好きです。両方聴いて下さい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ピアノソナタ第10番作品70

     全ての草木や小動物たちは、私たちの霊魂の顕現である。
     その姿は私たちの魂の働きに対応している。
     彼らはシンボルなのだ。
     私の第10ソナタは昆虫のソナタである。
     虫たちは太陽から生まれる。
     彼らは太陽の接吻なのである。

 ・・・・教祖様の御言葉です。有難く拝聴して無視しましょう。
 私は勝手にこの曲を天地創造の響きだと思っております。序奏主題が天地
創造前の混沌、第1主題が現れる前の鋭いのトリルが”光あれ”、曲の主部
で天地創造して、一番最後に序奏主題が戻るところは天地創造後の安息日の
つもり。。。

 丁度1年前に開いた演奏会の曲目紹介には以下の文を載せました。
(正確には、相棒が修正する前の原稿です。)

 ”こんな現代音楽を延々やりあがって、とでも言われそうですが、1913年
  に作曲されたこの曲は、ミニスカート発明より断然古いのです。徹底して
  ソナタ形式にこだわり、様々な試みを続けた作曲者は、最高傑作とされる
  この曲で  古風なソナタ形式に帰っています。複雑なリズムも実は3拍子
  に負ぶさりっきりです。確かに和声は完全に調性から離れていますが、
  独自のやり方で組織化されているその響きは不協和音なればこそ、麻薬の
  ごとく魅力的です。作曲者のこの曲についての変なコメントはあえて紹介
  しませんが、私にはこの曲が天地創造の響きのように思われます。”

 スクリアービンの書いた最高の曲でしょう。ただし、集大成というのとは全然
違います。何といっても後期の5つのソナタで一番保守的な曲ですから。
 ソナタ6番の紹介の所で、やりたいことをやり通したのが6、8、9番だと思う、
と私見を述べました。7番は誇大妄想狂がのさばって変な具合になったとすると、
10番は? 私はスクリアービンがこの曲を”いい曲”にしようとしたと思います。
そして、そのとおりいい曲が出来ました。

 この曲のソナタ形式は、その精神において、最後までベートーベンばりです。
モデラート(主に9/16拍子)の序奏はトリルに転じて第1主題(右手9/16、
左手3/8)を導きます。第2主題(3/4)と交互に現れる3/8は第3主題と
呼んでおきましょう。みんな3拍子です。3つの主題全てが明瞭に提示され、
明瞭に再現されます。ここでは主題で分けましたが、動機単位で見直すとなお
面白いでしょう。

 この曲でスクリアービンは、3拍子と3連符が元々持つ推進力と、古典的
ソナタ形式の持つ統一感と、に身を任せています。不思議なソナタ形式2曲と
同時に書いていたこの曲については、普通のソナタ形式で行く、と始めから
決めてかかっていたかも知れません。

 4拍子の黒ミサでは転がらない4拍子の主題(動機)を強烈な意志で転がして
いたようにも思えますが、10番では、スクリアービンがいい意味で気楽に書いて
いるようです。それでも3拍子に乗って曲は自発的に良く転がります。展開部の
ピークを第2主題で作ってさえしまえば再現部に戻るところの問題も無く、ソナタ
形式は非常に有効に曲に変化と統一を与えます。この曲でスクリアービンは
かくのごとく割り切って無理をしなかったと私は想像しております。これが先に
”いい曲”にしようとした、と述べたことなのです。

 勿論3拍子のソナタ形式というのは枠組みに過ぎません。この枠内で作曲者が
最高の仕事をした訳ですが、この”最高”という時の価値観にベートーベンの
ソナタ形式を云々する時の価値観を殆どそのまま持ってきて差し支えない曲です。

 展開部では序奏主題、第1主題が入念に展開されて、第2主題で頂点を迎えます。
スクリアービンの書いた最高の頂点の一つです。しかしながら個人的には第2主題
の再現部分が一番好きです。ソナタ形式の枠を守る曲ですから、6番の対応する
箇所のように異次元まで飛んでは行きません−−−この抑制がこの曲を”いい曲”
たらしめているのです−−−が、トリルに支えられた長い呼吸が素晴らしい。
なかなかルディのようには弾けませんが。

 コーダでは3拍子の乗合バスから降りて変拍子になります。ここについてホロビッツ
のLPで柴田南雄氏が春の祭典第2部になぞらえる解説を書いていたと記憶して
いますが、???です。そしてこの曲でも最後の最後に冒頭音形がそのままの形で
還ってきます。しかし黒ミサより遥かに懐の深いドラマを築いた後ですので、
邯鄲の夢とは聞こえません。

 音の構造としては、やはり横の流れに耳が行きます。楽譜を見て弾こうとすると
横の流ればかりに目が行くような記譜がされていますから、余計そうなります。

 この曲もホロビッツとルディでしょう。両方ともじっくり聴いてほしい。
ホロビッツのは展開部最後が凄すぎて、再現部が余計なものと聞こえかね
ません。ソナタ形式の枠を強く意識した、再現部の美しいルディの方を9番の
場合以上に強く支持するゆえんですが、ホロビッツに聴かれる爆発力を内在
していることも知っておいていただかないと片手落ちのような気がします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ほのおに向かって 作品72

 ソナタ10番でそれまでの行き方を総決算(集大成よりは妥当な言葉か)
したスクリアービンが新しい境地を開いた曲として、極めて高く評価する
向きもあります。私はそこまで持ち上げなくてもいいように思います。
 これは単一主題による黒ミサと思えばよいのではないかと思います。ひたすら
高揚を続ける設計になってます。この曲は夢から醒めることなく終わりますが。

 この曲なら素直にホロビッツの爆発力を支持します。楽譜通りでは音が足り
ませんので、私に限らず、多くの素人がホロビッツのまねして音を足している
はずです。ルディはだまって楽譜通りで出来ることを示していて、これはこれで
立派な仕事ですが。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

暗いほのお 作品73の2

 ピアノソナタ6番作品62以降は、最後の作品74を除いて、偶数番の大作と
奇数番の小品集が交互に並びます。この小品群の中で、学生の時の私が、格好
いいと思って練習を始めたのが、この曲です。すぐ止めました。この曲に限らず、
こういった短い瞬間芸に頼る曲の方が、打鍵の速さ etc. の基本的な技術の高さ
が必要となって、素人には難しいという部分があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

5つの前奏曲 作品74

 スクリアービンが完成させた最後の作品について一言も触れないわけには参り
ませんが、一体これは何なのでしょう。不機嫌なうなり声のように聞こえます。
ルディ以外の演奏も聴いたりして、これでも大分慣れたつもりですが、美しいと
思うにはまだまだです。

 作品73と共に、未完に終わったスクリアービンのライフワークとなるはず
だった”神秘劇”の下書きに当るものだそうです。

 ”スクリアービンの<神秘劇>は、音楽のみならず、色彩、詩、舞踊、芳香、
建築などを盛り込んだ、今でいうならミクスト・メディア的な作品として構想
されたもので、それによってもたれされる法悦(エクスタシー)の体験から、
人々を新しい存在の様態へと導くことを意図していた。”(スヴェトラーノフ
の全集の解説より抜粋)

 ”<神秘劇>については<法悦の詩>の何倍にもおよぶ膨大な長さのテクストを
書きあげ、病の床で音楽のスケッチを進めていたが、その完成を阻んだものは、
唇の腫れものが引き金になった敗血症という、今日では考えがたい原因による
あっけない死であった。”(同上)

 スクリアービンがもっと凄い世界に行こうとしていたのか、誇大妄想が高じて
本当におかしくなったのか、かくして誰にも分からなくなってしまいました。

 この”神秘劇−序幕”の演奏可能編曲版が、このスヴェトラーノフの交響曲
全集についてます。指揮はコンドラシンですが。これも私には???です。

TOPへ スクリアービンの部屋へ 入門講座その       7