愛知県碧南市 西洋帆船を造る 残された写真から読み解く「衣浦造船所」の歴史

碧南市 失われた海を探して

造船所のはなし

大浜上の熊野神社南に衣浦造船所の歴史 「西洋帆船」を建造するドック

造船所のモノクロ写真

<大浜上の熊野神社南にあった造船所を撮った写真。撮影されたのは戦後間もない頃。衣浦造船所の歴史は、明治21年6月に株式会社として発足したことに始まる。巨大な西洋式帆船を建造し、新川の豪商・岡本八右衛門の船もここで修理した。戦後しばらく在った造船所も今はない> 一枚の写真がある。私の祖父は、船大工職人を集めて造船を請け負う仕事をしていた。 穏やかながらも明治生まれの男らしく、筋を通す頑固さがあったと聞く。 そんな祖父の性分を表すように、我が一族の仏壇には、身寄りのなかった職人達の位牌がいくつか収められている。 この写真は、終戦まもなくの頃に大浜上の熊野神社南にあった造船所を撮影したもの。 6隻の木造船を建造中で皆、手を休めてカメラの方を向いている。頬被りをした女性や幼い子供の姿も。 この場所に造船所が開かれたのは、明治21年(1888)6月、亀崎の船主達によって設立された「衣浦造船所」から。 巨大な西洋式帆船を建造し、新川の豪商「岡本八右衛門」所有の貿易船もここで修理をしていたという。 後に亀崎の株主から鶴ヶ崎の米穀商・岡本利助が与一郎と共に会社を引き継ぐが、時代は既に蒸気船へと移り変わり、明治37年(1904)頃には廃業してしまう。 長い間放置されていた造船所も昭和11年(1936)頃から再開され、戦後もしばらく続くが、小型木造船の需要低下や大資本の参入により、造船所は完全に姿を消すこととなった。

豊田丸の記念写真

<「昭和壱拾八年 五月参拾壱日 進水五分 前宴ス」と裏書きされた写真。未完成の船を前に並ぶ総勢60人の男達。造船所の思い出に残る「豊田丸」。海務局の計量船となるはずが、戦争の混乱により行き場を失った。窮地を救ったのは、後に世界的企業となる『トヨタ自動車』だった> 昭和の戦中を生きた世代の人々が、大浜懐かしの海岸物語として語る出来事が2つある。 ひとつは、高級旅館「海月」前に海軍の水上機が次々と飛来し、海岸線が見物人でいっぱいになったこと。 もうひとつは、大浜上の熊野神社南にあった造船所で300トン級の船が進水式を迎えたこと。 先述の造船所を撮った写真の他に、造船所時代の祖父を撮った写真がもう一枚、我が家に残る。この写真は、予科練に志願した息子に宛てて送った手紙に同封されたものである。 総勢60名に及ぶ男達が船の前で記念写真。写真の裏書きに「昭和壱拾八年 五月参拾壱日 進水五分 前宴ス 前烈向カイ右端ニ 海務局計量船」とあった。 だが、この船は計量船として海務局に納入されることはなかった。 敗戦前後の混乱期に乗じて、契約を反故にされたからだ。 建造費用も桁違いに掛かった船が、突如売れなくなるとどうなるか…。 そんな窮地を救ってくれた会社があった。計量船となる船は使用目的を改め、船名を「豊田丸」として無事に進水式を終える。 当時、祖父達を救ってくれた会社は、後に世界的企業となる、あの『トヨタ自動車』である。

ヘボト自画像ヘボトの「潮の香りは記憶を呼び覚ます」

畑の中に残る古い家屋

「幻灯写真にある家は?」

造船所が大浜に在った事を知る人は多いが、正確な場所は皆、覚えていないようだった。 私は造船所を辿るべく、祖父の残した写真を頼りに探すことにした。 造船所が閉鎖されて何十年と経ち、海岸線も埋め立て造成により、面影も偲ぶことも出来ない状態。 困難を極めたが、写真にある特徴的な屋敷に着目し、無事に造船所の場所を探し当てる事が出来た。 特定できた嬉しさも半分に、私にある疑問が浮かんでしまった。手掛かりとなった屋敷に、どこか見覚えがあるのだ。 答えは、往昔の碧南市街並みを撮った写真集にすぐ見つかる。棚尾・光輪寺第10世「高木晃敬」が明治25年(1892)に撮影した「衣浦造船所」の写真である。 幻灯写真特有の丸いフレーム内、帆を下ろした帆船と共に特徴的な屋根を持つ屋敷。 同じ屋敷だろうか? もしそうなら、100年以上の時を経ていることになる。 いまや面影も詳しい資料もない衣浦造船所において、在りし時代を伝える貴重な遺産といえようか。 果たして真相はいかに?<※注意:記事にある「特徴的な屋根の家」は2009年に取り壊されました。>

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