愛知県碧南市 対岸の知多半島への海路 渡船が身近に存在した時代を偲ぶ

碧南市 失われた海を探して

渡し船のはなし

碧南市最後の渡船「大浜渡船場」 鶴ヶ崎の道標は「松江の渡し」を示す

大浜港の北岸壁

<衣浦海底トンネルの完成する4年前の昭和44年3月9日、「大浜渡船場」から最後の船が出発していく。碧南市の海上交通に終わりを告げた瞬間だった。明治8年、浜家の岡田竹次郎が大浜~半田間の渡船を始める。半田側の小型蒸気船「知多丸」と大浜の船が競い合うエピソード> 日本初の沈埋式工法を用いて昭和48年(1973)8月1日の水曜日に「衣浦海底トンネル」が開通する。 昭和30年代後半から始まる自動車の普及に従い、三河と知多を結ぶ新たな幹線の需要に答えてのことだった。 衣浦海底トンネルが出来る以前は、渡船が活躍した時代。平成14年(2002)に竣功した新しい大浜水門近く、堀川河口右岸は「大浜渡船場」だった。 大浜渡船場の歴史は、明治8年(1875)に浜家の岡田竹次郎が大浜~半田間の渡船を運行したことに始まる。 当時の料金は2銭5厘。明治15年(1882)には、渡船業者が50名ほどいたという。 明治20年(1887)に、半田の榊原松次郎が同路線に小型蒸気船「知多丸」を竣功させ、大浜の渡船業者と競争になった。 スピードに勝る小型蒸気船「知多丸」に対し、大浜は船の数で対抗する。速さか、本数かと競い合うが、勝負は小型蒸気船が老朽したことにより、大浜が制した。 こんな逸話ある大浜渡船場も昭和44年(1969)3月9日の日曜日、惜しむ人々の見送りを受けた最後の船が出発し、82年の歴史に幕を閉じることとなる。こうして碧南市に残された唯一の渡船場は終わりを告げた。

明石インターから北を望む風景

<新川・鶴ヶ崎区民館に保存される道標。示す「西 亀崎」は渡船場を表していたのか? 明治15年に半田・乙川への渡船が開業し「松江の渡し」の歴史が始まる。明治19年には、武豊線の駅ある亀崎への路線が就航。昭和31年、衣浦大橋が架橋されたことで、渡船の営業を終える> 新川・鶴ヶ崎区民館にある道標。達筆な文字に戸惑うが、おおよそ「東 鷲塚 西 亀崎 南 鶴ヶ崎」と道案内しているらしい。 高さ90センチ、20センチ角の大きさ、さほど損傷を受けていない。この道標は以前、別の場所にあった。 明石インターから程近い場所、大浜街道の「新川病院北」交差点角に6メートルを超える大きな常夜燈が建っている。 この常夜燈は、文政7年(1824)に松江の廻船問屋をしていた両口屋半助が建立したもの。 当時、この常夜燈ある場所は松江湊を見下ろす高台であった。そしてここに鶴ヶ崎区民館で見た道標が立っていたのである。 道標の”西 亀崎”とは、「新川病院北」から西へ向かう道、おそらく「松江湊」を示していたようだ。 松江湊には、かつて「松江渡船場」があった。明治15年(1882)、半田市の乙川との間で開業する。 明治19年(1886)に武豊線が開通すると、駅のある亀崎との間に、両半酒造が新たな路線を始める。 「子供ん時に乗せてもらった。けっこう船が小さかって、人がよう乗るで怖かったがん」と、通りがかりのお婆さんが教えてくれた。 昭和31年(1956)、半田市と高浜市の間に「衣浦大橋」が架橋されると、松江の渡し船は惜しまれることもなく、静かに役目を終えてしまった。

ヘボト自画像ヘボトの「潮の香りは記憶を呼び覚ます」

百渡と呼ばれた辺り

「百渡(どうど)」

もともと碧南市は海に囲まれ、半島の体を成していた土地である。 故に陸上交通よりも、船を利用した交通が発達した。今となっては新田開発や埋め立て造成が進み、陸地となっている場所も、かつては渡船場だった歴史がある。 昔の地名は、土地の形状や伝承から名付けられることが多い。現在の中山町2丁目あたりは、旧字名「百渡(どうど)」といい、「百渡の渡し」という渡船場から地名は由来していた。 百渡とは諸説あるが、中畑への渡船がここから出ていて、百文も運賃を取られたことがあったから「百渡」と。 また鷲塚や神有へも行く渡船があって、一日に100回も船が出ていたからとの由来もある。 寛文11年(1671)、海表の伏見屋新田がほぼ出来上がる頃、「百渡の渡し」は姿を消したようだ。 今でも中山町1丁目と2丁目には、かなりの高低差があり、往昔の姿を想像できる。「百渡の渡し」以後の中畑への渡船は、「伏見屋の渡し」となり、やがて河原洲ヶ鼻渡船紛争で有名な「流作の渡し」と移っていく。

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