愛知県碧南市 「三河一向一揆」・「鷲塚騒動」と歴史に登場する「池端蓮成寺」

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池端蓮成寺 (いけばたれんじょうじ)

歴史の苦難を乗り越えてきた池端蓮成寺 今に残る「鷲塚騒動」の跡

池端蓮成寺の門

<明治4年(1871)3月9日、池端蓮成寺境内に押し込められた農民達は、打ち鳴らされる鐘を合図に暴徒と化し、開け放たれた門から飛び出し役人達を襲った。墓地にある「南無阿弥陀仏」とだけ刻まれた石碑は、役人「藤岡薫」殺害の免罪を負わされ処刑された「榊原喜代七」の供養碑> 鷲塚の中心に位置する寺院、池端蓮成寺。ここは「鷲塚騒動」の舞台の一つになった場所。 役人と僧侶達の話し合いが交渉決裂した事を知るや、暴動を恐れて池端蓮成寺境内に閉じこめられていた檀家の農民達が、騒乱を起こし役人の一人を殺害。 暴徒と化した農民の勢いは止まらず、大浜陣屋へと侵攻するという大騒動へと発展した。これが「鷲塚騒動」である。 池端蓮成寺には、騒動の犠牲となった役人「藤岡薫」の首級を洗ったとされる”水鉢”が井戸横に残っている。 墓地には「南無阿弥陀仏」とだけ書かれた碑がある。これは「榊原喜代七」の相撲仲間が建立したものという。 「榊原喜代七」とは、鷲塚騒動の際に役人「藤岡薫」を刺殺したとして、罪を負わされた人物。 榊原喜代七は、安城の城ヶ入村に天保6年(1835)に生まれる。身寄りもなく赤貧ではあったが、心優しく信仰心厚い男であったという。 その性格のため、農民達の犯した罪を一身に背負い、西端の刑場にて処刑される。 免罪で命を落とした榊原喜代七を供養するために建てられたのが池端蓮成寺墓地にある石碑である。 罪人として処刑されたため、公には戒名を出せない当時の世情もあり、ただ「南無阿弥陀仏」の文字だけを許された。

池端蓮成寺東の細い道

<「蓮如上人足洗いの池」と「如光の墓」は見つからず。”池端”の由来は、蓮如さんの池からか?それとも一向一揆の時代、焼き討ちにあった跡が池となった事に由来するのか?> 池端蓮成寺の東には、「蓮如上人足洗の池」という蓮の咲く綺麗な池があったという。昭和60年(1985)頃には埋め立てられてしまった。 西端と共に「蓮如」に関係の深い土地柄である鷲塚にとって実に惜しい事である。 池端蓮成寺の”池端”の由来について2つの説がある。一つはこの「蓮如上人足洗いの池」の近くにあったからと言う説。 もう一つは、永禄6年(1563)一向一揆の拠点となった本宗寺(のちの池端蓮成寺)は焼き討ちされ、跡には大きな池が出来た。その池にちなんだ説。 また池端蓮成寺には、油ヶ淵から現れ、蓮如にお供して数々の危機を救ったとされる「如光」の墓があったと伝わっている。

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池端蓮成寺(いけばたれんじょうじ) 応仁2年(1468)創建 本尊は阿弥陀尿来 詳細な由来は不明だが、鷲塚の青木縫右衛門は無量寿寺の門徒で、 蓮如上人が三河の地に来た時、弟子になり、蓮成の法名を賜った。 そして一字を建立し、本宗寺と称した。しかし、永禄6年(1563)、三河の一向一揆が起こり、 この寺が拠点になったため、破壊され、僧侶は追放される。慶長19年(1614)、跡地に一字を再建、 さらに寛永21年(1644)に鷲塚の片山道智により本堂が再建され、池端総道場と呼ばれた。 元禄3年(1690)、寺号を”蓮成寺”とする。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

黒板に年中行事の案内

「池端蓮成寺の長屋門・本堂内陣」

現在はトタンに覆われ、一見して納屋か?と見過ごしてしまう池端蓮成寺の門。 家屋と門を兼ねた「長屋門」という形式の門で、近郷有力者の屋敷門、または武家屋敷の門を移築したものだという話が伝わる。 昔は寺男が住んでいたという。 明治4年(1871)3月9日の小雨降る夜に、我慢の限界に達していた農民達が暴徒化し、この門扉を破って飛び出していったことを思うと、感慨深いものがある。ひょっとしたら、当時の傷が門のどこかにあるかも知れない。 門内の柱には年代を重ねた古い黒板がある。池端蓮成寺で行われる年中行事が書かれ、素朴な鷲塚の風情を伝える。 本堂内の柱にも注目して頂きたい。長い年月を経て艶を失った黒柱が持つ重厚な雰囲気。 内陣とその他では木材に違いがあり、幾度の増改築を経た事を物語る。何かと鷲塚で起こる事件に登場する池端蓮成寺には興味深いものがたくさんある。

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